素敵な庭園・・・、彫刻の森? 野点(のだて)?・・・失礼! これは合成写真でした。バックの緑を探していたら・・・つい合成を、
女性は時代絵巻に登場する姫様、バックはお城の新丸広場・彫刻の小路?です。
石垣は、大阪城ではなくて・・・ 金沢城 石川門横の石垣です。
手前の兼六園の高台から、ブラスバンド、バトンのパレードを迎える。
こちらは、2014年「ミス百万石」知恵里、愛夢、有都咲さん・・・。
日傘付で特別扱いのお嬢様が・・・。沿道から拍手・・・お松の方と呼ばれています、利家公の奥方です。バックは、兼六園・蓮池門通りの木々新緑です。
場所を移って合同庁舎前 、獅子舞行列、とびの行列に続き、白馬での登場は尾山神社の宮司でしょうか。
子供奴行列、珠姫お輿入れ行列もあり、大人奴に続いて「お松の方」行列となりました。
四代、五代藩主行列、数か所の観覧席前で演武があるが、鉄砲隊・・・一般人で特殊技能も訓練もないので・・・空に銃砲を向けて・・・空砲も無し、装束と頭数で勝負です?
加賀八家老行列:騎馬隊が続き、・・・更に大きな歓声が!
二代藩主利長公ら110名強と前田利家公の行列、パレードの主役が登場です。
初代藩主として1583年この地に入場し、礎を築いた、前田利家公です 。白馬に黄金の甲冑(かっちゅう)姿。
そして最後が、派手な赤母衣衆(あかほろしゅう)と呼ばれる一団。
信長(18歳)の時に、14歳の犬千代は近衆(小姓)として仕えます。信長親衛隊には赤・黒の母衣衆(当初は布を風船のように膨らませ後方からの弓矢を防ぐ装束)があり、犬千代(後の前田利家)は赤母衣衆の筆頭でした。
・・・金沢100万石まつり 6月7日(土曜)午後2時20分金沢駅から スタートし金沢城公園まで約3.1Km、百万石行列が練り歩きました。
お松の方行列:お松の方は、女優 菊池麻衣子さん(39)、
前田利家入城行列:前田利家公は、俳優の 原田龍二さん(43)
行列に参加された人々は、小学生も含め約2500名・・・実行委員会の「百万石行列かんたんガイド」より。
関東は大雨の土曜日、ここ金沢は、幸い梅雨の合間の曇天でした。
・・・
さて、ドイツの旅も終わりにしましょう。
ハイデルベルク・・・まず食事をして、この街の魅力を探しましょう。
お勧めメニュー? 忘れてしまった!
確か地元の特産ワインを頂いて、お土産にしたと思ったが・・・。
この街は、・・・街の中央、マルクト広場から・・・案内板を見てみよう。
案内板の上は北、・・・右上東端の駐車場から少し歩いた地点です。拡大して、注釈を入れてみると
そして広場から、南の丘の上にハイデルベルク城が見えます。
ドイツの各都市が歴史に登場するのは、中世の終わり十字軍の遠征の頃からでしょうか。
腐敗したローマカトリックに対し宗教改革が起こると、この街ハイデルベルクはプロテスタント(カルヴァン派)に早くから改宗します。
・・・1622年あのバイエルンのティリー将軍にこの街も占領されます。1618年~1648年の30年戦争当時の話です。
ティリー将軍自身もカトリック教の信者です。・・・カトリック教の普及活動にイエズス会に入ろうか?いや、カトリック教に反対・敵対する者は潰さなければ・・・
武力で潰す軍隊に入り功績をあげていきます。
この街もティリー将軍と同じキリスト教なのに、・・・バチカンを批判して別行動をとるプロテスタント教の住む街を占領しました。
住民はもちろんカトリック教に戻されます。
ところが約10年後、1633年スウェーデン軍によって再び街は攻撃され、プロテスタントに戻ります。
しかし、翌年皇帝軍に奪還されカトリックを信じなさいと。・・・聖霊教会も右往左往・・・
街は復興できずに荒廃し続けます。
・・・その後、1688年~1697年プファルツ継承戦争(オルレアン戦争)。
この地のプファルツ選帝侯カール2世が、世継ぎが無いまま亡くなります。後継者の選考が問題となります。カール2世の妹がルイ14世の弟に嫁いでいました。
後継者の決定に異議あり・・・、当時勢いのあったフランスのあの太陽王ルイ14世が、弟の妃の出身地を理由に、プファルツ領地の相続領有権を主張して攻め込んできました。
1689年プファルツ領地であったこの街も占領され、略奪・破壊行為で無残な現在の姿になったといわれています。
・・・2度の戦争で破壊され、目の前に見える城は廃城です。廃城の状態で解体されずに300年以上も残り続けた理由は何でしょうか?
ケーブルカーで高台に上がると、裏側は(内側)は・・・裏の山からフランス軍に大砲を撃ち込まれ・・・無残何も無い廃虚、ハリボテのセットの状態になってしまった。
見上げているこの広場の周囲三方向をパノラマ合成で・・・
そして広場の右側に、東から西へと旧市街のメインストリートが走ります。
コルンマルクト(穀物市場)のマドンナの像(スイスと同じく、噴水・水道がシンボルです)
マルクト(英語ではマーケット・市場)、水曜と土曜の午前中 朝市開催。
前方の広場がマルクト広場、右が市庁舎:1701年から現役(観光案内所有)、右下・・・ここに案内板があります。
正面は聖霊教会、鐘楼のある裏側(西)が正面ファサードになります。
残念ながら、ステンドグラスで覆われた祭壇がある教会の東壁面が広場に面していますのでこのカットになります。
市庁舎広場とヘラクレスの泉(井戸のようです)
旧市街中心部、
歴史的建造物が並ぶ
この建物は歴史を感じさせます。ルイ14世・フランス軍の焼打ちから耐え、残ったただ一つの建物です。
建物の頂上に、守護神ザンクト・ゲオルグ 騎士の胸像が据えられています。そこで「騎士の家:ツム・リッター」 と言われます。
ツム・リッター:Zum Ritter ロマンチックホテルとして現在使われていて、人気のレストランも営業中。
さて、先程の広場の角にある「聖霊教会」この教会は、1400年前後に建て始め、1544年頃完成のようです。
カトリック⇒プロテスタント⇒カトリック・・・混乱、内部を仕切って両派で運用・・・長い間色々とあったようです。1936年にプロテスタント派が、カトリック派から権利などを買い取り、決着しました。
尚、イエズス会の教会建設が30年戦争で占領したころから始まり、1759年ころ完成、大学の近く(案内板参照)にあります。
広場に面したこの聖霊教会で特筆すべきは、内部に入ると外観から想像できない現代への強烈なメッセージが目に飛び込んできます。
側廊のステンドグラスに驚く・・・何だ! ドイツ語のメッセージだろうが(1~2年かじっていても、さっぱりわからない)聖書の言葉が引用されているとのこと
この教会は、近くにある1386年創立のハイデルベルク大学と関係が深い。
現代の写真技術を組み込んだグラフィックデザインであり、緑、青、黄、更に強烈な赤色、・・・立ち止まり目を凝らしてしまう。
6.8.1945 右下のこの数字は、1945年8月6日を意味しています。
この日は?・・・広島に原爆が投下された日・・・何故こんなに歴史ある教会に?
赤く荒れくれた球体は、強烈に悲惨な状況が浮かびます。黙示録とは関係ないでしょうが。
その右上に E=mc2 ・・・アインシュタイン・・・「物理学の窓」とも言われるそうです。毎週教会で悲惨な出来事に出会うのはいかがなものかとの反対も多かったようです。
ハイデルベルク大学はこの教会と関係が深く、学部を象徴するデザイン・メッセージで窓を飾ろうとされたらしいが、斬新すぎてでしょうか?全体構成は未完のようです。
この教会から直ぐ近くにカール・テオドール橋があります。
アーチが9つ、全長198.5m、幅は約8mで車道もあります。建て替えること9代目、1788年製です。
橋の左横に、サル(顔の部分が空洞で、頭を入れて記念撮影)の置物。
左手には鏡、光っているのは触ると〇△があるといわれているようです。
橋の上から振り返ると、ハイデルベルク城、・・・城をバックに記念撮影の名所です。
この街、旧市街はかつて城壁で囲まれていました。その一部が門となって残っています。その一つがサルがいた橋のところにもあります。
城壁門より目立つ白い対の塔は、・・・高い所・・・見張りに使われていました。
さて、この立て看板 STUDENT PRISON 学生刑務所 とあります。
観光コースに、ドイツで最も古い大学の学生専用刑務所があります。そして内部が見学できます。
学生による自治、秩序、統制を素直に受け入れる者がいる一方、若者は反体制が勲章だったり、秩序は壊したい・・・揺れる年代です。
1712年から1914年までおよそ200年間、学生は軽微な違反者はMin.3日間から、大罪はMax.4週間 牢屋に入れらたそうです。しかし、退学では無いので授業は受けられたようですが、
ここが学生街
1368年 ハイデルベルク大学が創設されました。当初は校舎が無く聖霊教会で講義が行われたとも。
この建物は旧校舎で博物館です。この右側に新校舎が建てられています。校舎は、他にも市内に分散して あります。
ドイツ南部を巡ってみて、どこもルターによる宗教改革の波が大きく、結果、宗教戦争(30年戦争)の戦場になり、戦のあとは・・・破壊された街・・・多くの戦死者・・・働き盛りの人口減で復興もままならず・・・
今日その遺産を見て回る、過去があり、・・・元気な今日がありホッとした。
将来を動かすのは・・・この子供たちです。
そしてハイデルベルクの素敵なお母さん!
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