気になる写真!

このブログはその時々の好奇心で、気になった被写体を切り取り、・・・チョットだけ考えてみようと

南ドイツ ヴィース教会 華美な巡礼教会

2013-11-17 | 旅行記

ドイツ南部 フュッセンから25㎞、ミュンヘンから75㎞、アルプス山麓の農村地帯、・・・村の小さな美術館、そんな感じの白い建物が見えてきた。

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広場の駐車場にバスが止まると、周りに土産物の売店が開いていた。

そう、この静かな村に観光客が年間100万人も押し寄せるらしい・・・横の売店が、ここは観光地と気づかせてくれた。

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では、100m先のこの白い建物・巡礼教会にご案内。

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目の前の建物は、現在の結婚式場のような明るい外観、・・・何か違和感を覚えながら、ルネッサンス以降に建てられた華美な教会の内部に入る。

入口から正面祭壇を・・・明るい・さわやかできれいだ・・・、巡礼者の汗の匂いに困っていた過去の教会の面影は全くない,

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イヤ、祭壇の手前に香炉が釣り下がっている光景は残っていた。

・・・両側の窓から降り注ぐ明るい採光は、白と金を基調とした室内装飾に輝きを与え、曲線縁取り模様に囲まれた柱には素晴らしい彫刻の数々・・・

鈍い光が差し込むステンドグラスに描かれた聖書の物語を、信者に読み解いて聞かせる中世の教会と違って、軽い豪華な世界があった。

・・・写真を合成してみよう、正面祭壇から天井画へ

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そして、天井からファサード側(出口)まで

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虹が逆になるので分かり難いが、(正面祭壇側から天井を追っていくとこの写真の上下が逆になります)その虹の上の人物が、復活されたイエズス(イエス)さまのようです。

その下に、天国への門

・・・しばし、考える。

ヨーロッパ(ローマ帝国)では、キリスト教が国教になり、これらの地で生を受けた人は最寄りの教会で洗礼を受け、毎週礼拝を欠かさず、そんなDNAが・・・千数百年の時間が過ぎた

・・・地球の反対側では、人は生を受けたら無意識のうちに背負う宗教が決まっていた。

その教えは、・・・人は生まれながらに罪を背負い、人生の最後では・・最後の審判・・裁きに会う・・

無宗教の者からは、暗く、一種の脅しをかけらた人生に思える。・・・救いの主を無条件に信じて精進して、最後の審判で地獄に落ちないように・・・・。

・・・キリスト教を国教と定めた為政者からは、一神教で妥協しないキリスト教信者は扱い難い、しかし倫理観をキリスト教が統一してくれれば、多神教と多様な価値観の人々をコントロールするよりは治め易い・・・国教にしてしまえ・・・と考えたのは、仏教で国内を治めようとした日本も同じことですが。

他の宗教を認めず、文字が読めない人々に旧約聖書では認めていない偶像支配をいつの間にか認め、教会の教えと矛盾する自然科学の発達を教会は認めず・・・

印刷機の登場により聖書が大量に印刷されると、聖書を学ぶ人々の中にヴァチカンの商業主義の最たる事件、免罪符の販売(罪を免れると言うのは間違いで、罰を免れると訳される)に異議を唱える人も出てきます・・・宗教改革の嵐がドイツから発生するが・・・しかし、ヴァチカンはこの嵐を乗り切った。

今日、カトリック教が存続し続けたその最大の功労者が、建築・彫刻・絵画・・・であり、芸術家でした。

ヨーロッパの文化に触れると、その背景の宗教にも関心を持たざるを得ない。

そして今日、ヨーロッパでは、キリスト教信者の数が減り続け、ヴァチカンでも深刻な問題になりつつあるようです。減った信者は、南米、アフリカ大陸で増やしているようですが・・・

・・・・・・・・・・・・・

この建物、建築依頼主の修道院から1743年ツィンマーマン58歳に委託される。1754年完成。

時代は、ミケランジェロが、ベルニーニが総力を結集したヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に人々が驚き、世界各地から人々が押し寄せ、そしてルイ・14世の豪華なヴェルサイユ宮殿もヨーロッパ中の評判になっていた。

そして、建築依頼が舞い込んだ1743年は、ルイ15世の時代に変わってきていた。各地の建築、美術工芸の流れをこの教会にも取り入れて、後にロココ調といわれる教会が完成する。

フレスコ天井画は、5歳年上の兄が65歳の頃から描いている。

今日の作業環境でも厳しい高所作業に、冷暖房・空調、照明、何もない時代に、この年齢で取り掛かるとは、心技体・・・若いですね。

委託された本人(弟)も主祭壇を担当しています。

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西洋の四大教父といわれる人々の彫像、この作者はシュトゥルム

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北の祭壇:ベルクミュラー作 と 南の祭壇:マーゲス作

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天使が見える説教壇

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そして正面祭壇、右側廊の先に

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何か、祭壇の上部奥まったアーチの中に髭面の・・・この教会は、この出来事から始まった。

農婦マリア・ロリーが、1738年みすぼらしい「鞭打たれる救い主の像」を譲り受けた。

この像は、1730年に神父と修道士が寄木で作り、関節部は亜麻布で覆い、血と傷・鞭打たれる主を彩色し、自分達の修道院に置かれた。

しかし、あまりの悲惨さのために信者たちの同情を呼び、この寄木の像は1734年には修道院から撤去され、修道院付属の食堂の主人の屋根裏に忘れ去られていた。

4年後、農婦が譲り受け、熱心な崇拝を捧げていた3か月後の6月14日、夕拝中に顔面に涙のように思われた幾つかのしずくを認めた・・・(当教会の案内より)

これが「涙の奇跡」と呼ばれ・・・非常な勢いで広まり、ヴィースにヴィースにと人々が押し寄せてきた・・・

急ぎ農場小礼拝堂と木造の本堂を建てるが、押し寄せる巡礼者を受け入れるには・・・本格的な教会を建てることになった。

そして1743年、建設依頼主は修道院・・・農婦は?


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主祭壇の「鞭打たれる救い主」

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完成したこの巡礼教会は、ロシア、スェーデン、オランダ、デンマーク、ノルウェー、スペイン、フランスと全ヨーロッパから巡礼の波が押し寄せたと1779年ヴィースの巡礼司祭が小冊子に記しているようです。

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当時の様子は、こんな雰囲気でしょうか

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入口の上部に、パイプオルガンが・・・

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周囲は農村地帯、牧草地といわれる。雪が消えると、ヴィース ・・・のどかな放牧が見られるのでしょう。

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