アルハンブラ宮殿・・・チョット休憩が長くなりました。
人気の庭園から、次の王宮・ライオンの間の画像を整理していると、いくつかの疑問がわいてきます。
水が豊富なのは、山に雪が降るから・・・冬の季節、アンダルシアに雪が降る?・・・スペインと雪山どうもピンときません、調べてみました。
アルハンブラの南東にあるシエラ・ネバダ山脈は3000m級の山々が連なっていました、富士山より若干標高が高い山々です。
写真補則:山頂以外の白い場所は、大理石や石灰石などの石切り場と思われます。
そして・・・アルハンブラ宮殿の駐車場から・・・曲がりくねった道路を30数キロ(直線で20km弱)山頂に向かって走ると、
40分くらいで山頂近くのレジャー施設に到着するようです。
何と、スペイン アンダルシア地方で・・・冬の季節になると・・・このレジャー施設は、シエラ・ネバダスキー場です。
このゲレンデの案内をジート見ていたら、山麓から高速リフトやケーブルカーが沢山設置された素晴らしいスキー場のようです。、
山頂付近は森林限界を超えているので樹木の成長が難しく、あるのは岩山かブッシュ程度でしょう。
斜面に崖や大岩が無い限り・・・全面スキー場です。
上の写真は、スイス クライネシャイデック
グラナダのシエラ・ネバダ スキー場は、標高2700m位(8合目位)から滑れるようで、朝はアルハンブラ宮殿見学、午後はスキー場、夜はフラメンコ・・・密度の濃い一級の観光地です。
気が付かなかった・・・2017/3/8 世界フリースタイルスキー大会がここで行われ、19歳堀島さんが男子モーグルで初の金メダルを獲得していました。
スペインの北部、フランス国境近くの山脈にスキー場が多数あっても驚かないのですが、アンダルシア地方や首都マドリードの近くにもスキー場があるのには驚きました。
・・・雪解け水が豊富で、ここがグラナダ一帯に豊かな自然環境を造り出す源泉でした。
・・・・・
・・イスラム教徒は、なぜ短期間にかつてのローマ帝国並みにインドの西からスペインまで領土を拡大できたのか。
何か資料が無いかと壁の書棚に目をやると、昔の積読本(捨てようと思っていた)が目に留まり、ライフ・人間世界史が並んでいた。
探していくとEARLY ISLAM (12巻)があった、・・・イスラム教・最も戦闘的な宗教、他国に侵略して殺人までして布教する必要があるのでしょうか?
マホメットの出生や環境・時代背景も学び直して別の機会に・・・考えてみましょう。
アルハンブラ宮殿に関しては、旅名人ブックスのアルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語も目を通してみました。
豊富な水源を水道管で引込み、見事に利用し夏の快適な過ごし方のモデルハウスのようです。
砂漠の旅人・アラブ人の天国は、ナツメヤシに囲まれて泉が湧き出るオアシスだったのでしょう。
・・・振り返って、ここまでの順路を整理してみます
カルロス5世宮殿、従来にないデザインとして四角の中に円形が、円形はイスラム文化では中庭でしょうが、
カトリック教徒、16世紀の発想では古きローマ時代のコロッセオの再現だったのではないでしょうか?
1526年カルロス5世は26歳でポルトガルの王女と結婚し、ここアルハンブラ宮殿に宿泊した際に感動し、この宮殿を取り込んでイスラムを越える新宮殿を建てる・・・と決めたそうです。
・・・さて順路は、右端の庭園から旧宮殿の敷地に入りました。
この庭園の奥(北側の谷を見下ろす)の塔に寝泊まりして、長い間仕事をした人がいました。
ペドロ・マチューカという有名な建築家、国王の依頼でこの新宮殿を設計した人です。
・・・現在、宮殿に勝手口のような所からなぜ入場するのでしょうか?
多分、メスアール宮の南側に大きな建物の正面入口があったのでしょう。
この目立つ豪華な正面と隣のコマレス宮の南側の建物を取り壊して、新宮殿を出来るだけ大きく建てようとしたのでしょうが、
なぜ旧宮殿に平行に新宮殿を建てなかったのか?・・・斜めに解体した建屋に接しているが・・・
新宮殿の中心を多少ずらせば工事も簡単なのに、不思議な配置の新宮殿です。
庭園は、その設計者、マチューカの名前で呼ばれています。いつになっても完成しない・・・そんなに長く住んでいたのでしょうか。
・・・かつて国王に謁見を望む者や嘆願者は、現在の見学コースの様に最初の宮殿メスアール宮(Mexuar)に入ります。
「メスアールの間」の入口の扉のタイルに、「中に入り要求せよ、正義を求めよ、求めることを恐れるなかれ」と書かれていたそうですが今は無いようです。
ここは行政と司法の部屋です。
レコンキスタ後メスアールの間付近の壁が壊され、外側の回廊を含め礼拝堂になり、天井も改造されています。
その後何度も改造され、宮殿に入る本来の入口は今日全く分からなくなっているようです。
現在の縁取り彫刻された入口の扉は後世の物だそうです。
・・・手続きを終えたらメスアールの中庭に入っていきます。
大理石が敷かれた中庭の北側に控室の「黄金の間」があり、ダーロ渓谷や対岸のアルバイシン地区が見渡せます。
王に謁見する人は、ここで待機します。
やがて、嘆願者らは「黄金の間」から中庭の反対側(南側)に進み、宮殿の中心部であるコマレス宮殿のファサード(上の写真・正面)
に入ると回廊があります。四方に小部屋が並んでいます、衛兵の詰め所もあったでしょう。
そして東に進むと中庭(パティオ)に出ます、ここに案内されると・・・水鏡の演出効果にまた感動することになります。
・・・今日では、ここはアラヤネスの中庭と呼ばれています。
・・・アラヤネスとは?
池の両脇の生垣がアラヤネス=薄紅色の天人花(テンジンカ)と各種のガイドブックにありますが、生垣は香りのある白い花「銀梅花」ではないかと思います。
この池の水鏡に感動しながら北側の塔に進むと、塔の手前に控えの部屋(小船の間)があり、ここで待ちます。
この天井は・・・ナニコレ!ツバメの巣?・・・不思議な凹凸です。
調べると、イスラム装飾で伝統の漆喰(シックイ)細工を組み合わせて鍾乳洞のような雰囲気に仕上げています・・・ムカルナス(muqarnas)とあります。
コマレス塔(大使)の間、北側に奥行きのある馬蹄形をした3つの部屋が並んでます。
中央に王の座が置かれていたようで、背後には窓があります。
当時は床には絨毯、窓枠にはカーテン、背後からの光が王の姿を浮かび上がらせて重厚な雰囲気だったでしょう。
この空間は調度品が無く、筆者にはアラブ人の友人もいないので、当時の人々のイメージが浮かんでこない。
・・・タイムライフに掲載されていた素晴らしい絨毯を・・・
この絨毯は、かつて縁のあるハプスブルグ家が所有していたもので、見る角度によって色が変わる世界で最も見事な絨毯の一つ
と折り紙付きの作品です。このような絨毯は(多分シルクでしょう)タピストリー、室内装飾として飾られたと思います。
まだピンとこないので、続いて偶像を・・・人物がいないとどうも雰囲気が・・・これもタイムライフから、
この場面は、アルハンブラ風漫才?でしょうか・・・、 イヤ違うのです。
絵の説明文では、ムスリムの結婚の最終局面、・・・左の男が女の父親に結婚させてくれと頼んでいるところだそうです。
・・・当事者の女性を抜きに双方の母親がさまざまな取り決めを行ってから、上の場面、・・・男が女の父親に会いに行くこととなります。
承諾が得られ、最後に女の年齢、処女性が確認されて、男が女に対して支払う結婚贈与金の額も決められる・・・そして結婚が成立、なかなか大変のようです。
・・・残念ながら、宮殿内で王に謁見しているイメージが見つからず失礼しました。
・・・上の写真の正面の回廊と建物が無かったら・・・・開放的ですね!
1354年までは、向こう側に建物が無かったそうです。では、何が・・・散歩をする庭があったそうです。経過は後程。
・・・・・ここで前回、休憩でした、
さて、アルハンブラ宮殿はいつ頃建てられて、なぜ今日でも絶賛されるのでしょうか・・・調べてみましょう。
1085年にトレドの陥落、・・・1236年に当時最先端の文明都市コルドバが陥落し、イスラム教徒、ユダヤ教徒がアンダルシアの各地に逃避します。
分裂していたスペイン南部のイスラム勢力の中で、コルドバ陥落から2年後、1238年にグラナダでムハンマド1世がナスル朝を建国します。
グラナダのを見下ろす尾根の先端に要塞(アルカサバ)が建っていて、その中の塔で住まいながら、やがて隣に王宮を建てます。(その後解体されます)
生活に重要なのは水、ムハンマド2世(息子)が跡を継ぎ60年の歳月を掛け水道を完成させ、この地にアルハンブラ宮殿の基礎を築きます。
・・・この間、1246年には南部にあるイスラムの都セビーリャも、ついに陥落しています。
残るイスラムの都はここグラナダ地区だけです。(下図参照)
半島の西は「ポルトガル王国」、中央に「カスティーリャ王国」、東に「アラゴン王国」、がありますが、・・・イヤー各国の王家は複雑な対立があり、
そこで血縁関係、婚姻関係で表面は友好を装い勢力拡大を図りますが・・・、半島の北には「フランク王国」があり複雑、
・・・グラナダ王国はキリスト教徒側に貢物外交で友好を保っています。
・・・数十年前にコルドバが陥落し、イスラムの図書館にあったアラビア語で書かれた世界最先端の文献は、
キリスト教徒が奪還したトレドの都で彼らの言語・ラテン語への翻訳が盛んにおこなわれます。
そして、最先端のこの情報が暗黒の中世ヨーロッパ、キリスト教国家で革新的な一部の文化人に伝わり、
ギリシャ文明の再発見、哲学・文学・科学・数学・・・と暗黒に光が見え始め、・・・ルネッサンスと続きます。
・・・イスラム国は、税を支払えばユダヤ教徒もキリスト教徒も改宗を強要しませんでした、(住民は改宗すると利点は多いのですが)。
アフリカ北部に逃げ出した人以外は、イスラム教徒はもちろんユダヤ教徒も大半がグラナダに集まってきました。
建築、科学、工芸、数学、文学と優秀な人々は、このグラナダ王国で才能を発揮します。
そして、ユーフス1世(在位1332~54年)の時代に黄金時代を迎え、イスラム文化の集大成の宮殿が完成形に近づいていきます。
・・・ユーノス1世は、先程の池がある写真で
正面の中庭と池、左右の回廊、手前側の小船の間、コマレスの塔、そして、左の回廊の隣に王の浴室を建造したとあります。
・・・次の国王:息子のムハンマド5世(在位1354~59、62~91))が、これから入るライオン宮など他の部分を完成させています。
(アルハンブラ宮殿 南スペイン三都物語より)
その際に、アラヤネスの中庭で反対側に庭があったという所に、夏の日差し対策も兼ねて回廊を造り便利にしたようです。
・・・では隣の宮殿に・・・回廊の中から、ライオン宮の中庭が見えます。
大理石と思われる細い柱が木立の様に立ち並んでいます。
足元から水路が、中庭中央の動物が支える噴水に続いています。床は大理石です。
中庭の左側に1362年までに建物が建てられます。
二姉妹の間と呼ばれています。名前の由来は色々ありますが、割愛。
・・・順路は回廊を右に進み、中庭を周回して最後に二姉妹の間に進むようです。
正面の建物が王の間ですが、中庭の右側にアベンセラヘスの間と呼ばれる建物を先に建てています。
現在は修復中でした。
このアベンセラヘスの間は(1階の広間)は血の海となった場所として、陰惨な物語が伝わっています。
多分、作家ワシントン・アーヴィングが”1829年の春のことである。好奇心に誘われ、スペインに滞在していた筆者は、・・・友人とグラナダ、ロマンスの地として名高いアンダルシアの山岳地帯をこころゆくまでさまよってみよう・・・”
で始まる「アルハンブラ物語」を1832年発売し、この荒廃しているが素晴らしい宮殿が世に紹介されました。
この中で様々な伝説や徘徊する亡霊などの話と共に、アベンセラヘス家(ナスル朝の有力な豪族)一族(男子)を中庭に集め、広間に一人づつ連れ込んで噴水の脇で首をはねるよう家臣に命じた。
36人全員の首がはねられた。悲惨な物語が書かれています。
・・・宮廷は権力闘争の場であり、嫉妬心からあるいは陰謀に乗せられて、ライバルを全員抹殺する話が数多く伝わっています。いろんな伝承がありますが・・・
サアド王(グラナダ最後の王の祖父)が、1462年サッラージュ家(当時最大の豪族)が王子の一人を担いで実権を握ろうとしたが、サアド王に発覚し一族がアルハンブラ宮殿で謀殺された。
この事件からアベンセラヘス物語が誕生したのではとの説もあります。
・・・さて、このライオン宮が素晴らしいと評価されるのには、やはり天井の装飾があるでのでしょう。
この天井を支える柱も凝った装飾が施されています。
アーチの裏側にもこのように。
この星型の天井、16個の高窓があります。
ここが、アベンセラスの間、回廊側の天井です。
24時間、定点カメラで撮影してみたい、光の芸術が違った側面を提供してくれるはずです。
この中央部は、何と表現するのがいいのか、・・・絹を生みだす蚕が無数に・・・
人々の生活は、床に絨毯が敷かれ、クッションにもたれて横になる。・・・気がかりなのは、最後の審判・・・そして天国。
庭に出て満天の星空を見上げれば、吸い込まれるような広大な空間。魔力のある夜空を天井に再現したのでしょうか。。
幾何学文様とアラビア文字のデザイン化が非常に発達した時代ですので、イスラム独特の凝った装飾です。
庭の反対側まで進んで振り返ってみましょう。
左がアベンセラヘスの間です。
奥に上部が見えるのが、後に建てられた、カルロス5世新宮殿になります。
・・・この天井は四角形です。
このような木工細工の素晴らしい物もあります。レバノン杉でしょうか、松材?
通路横の修理箇所はガラスで鑑賞できるようにし保護していました。
中庭の中央には、白大理石で造られたライオンが12頭、水盤の周囲に配置されています。
顔の表情・毛並みもさまざまなライオンの口から水がほとばしりでています。
これは二姉妹の間からの写真です。後ろ側が先程のアベンセラヘスの間です。
そして二姉妹の間です。王妃やその家族、女性のための建物のようです。
ここの幾何学文様も見事な仕事です。向こうに見えるのは裏側の庭園です。
天井はステンドグラスです。
ステンドグラスは結構使用されていたようですが、現存するステンドグラスは少なくなったようです。
二姉妹の間から奥に進むと裏側には、リンダラハの中庭と呼ばれる庭園があります。
こちらの杉はレバノン杉?とガイドさんに質問してみました。レバノン杉は無いそうです。
この天井の装飾は、アラビア語ではないですね、「アルハンブラ物語」の作者ワシントン・アービングの間です。
この北側から、アルバイシン地区が見渡せます。
斜面に洞窟を彫り、生活をされていた人々が今日でも残っています。
また博物館や洞窟フラメンコのお店もあります。では外に出ましょう。
右側に・・・この建物は見たことがあるような気がします。
キリスト教の教会、サンタ・マリア教会を北側から見ています。
この一帯は宮殿の外になります。、グラナダ王国時代は、軍隊の駐屯地も、厩舎、モスク、官庁、一般人の住居まで約2000人が城壁の中で暮らす都市でした。
当時の様子は分かりませんが、今日では庭園が整備されています。
これから谷を挟んだ対岸にある、夏の避暑地、ヘネラリフェ・離宮まで、水の都を満喫してきましょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます