令和2年6月11日、NHK第一放送「今日は何の日」を聞いていたら、その日は、昭和47年の日本列島改造論発表の日であった。
日本列島改造論は功罪あるものの脚注のとおりで、このラジオを聞いていて、給料が対前年1~2割もアップした当時のことを思い出した。
日本はジャパンアズナンバーワンの期間があり、「ジャパンアズナンバーワン」は、社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書で、 戦後における日本の高度経済成長の要因を分析し、日本的経営(終身雇用、年功序列賃金、企業内組合)を高く評価している。
日本の高度経済成長期 は、1954年(昭和29年)12月から1970年(昭和45年)7月までの約16年間。日本経済は絶頂期にあり、GNP(国民総生産)がドイツをぬいて世界で第2位の54兆円になったのが、今から51年前の昭和44年のことである。
当時、日本のGNPは年間15%前後も伸びていたので、その後、「世界の工場」として急成長を遂げた中国のようであった。この高度成長を支えたものは、日本的経営などによるものだろうか。
日本の高度経済成長の要因には朝鮮戦争特需、人口増加など様々なことが考えられるが、日本的経営に加え、「国民皆保険」にも求められる。
日本では、国民の3分の1が無保険者で社会問題になっていたが、1958年に「国民健康保険法」が制定され、1961年に誰でも保健医療が受けられようになった。
そのために日本は誰でも病院に行くことができ、他人に迷惑をかけてはいけないという国民性等もあって、新型コロナによる死亡者比率が驚異的に低く、世界各国から注目されている。
一方で、少子高齢化により年金・医療費などの社会保障費が多額にのぼり、国債発行残高は国家予算の10倍、GDPの倍額で世界では突出しており、その負担は次世代になることから、少子化のなかで不安は拭えない。
現在のGDP(国内総生産)は約550兆円であるが、人口減少により2030年頃にはインドに追い越される予想もある。
更に、来年度の日本のGDPは下落が予想されており、今般のコロナ対策に加え、税収入の減少などから赤字国債は増えるばかりである。また、日本国債の格付けも引き下げられており、不安が募るばかりである。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 日本列島改造論
日本列島改造論は、田中角栄が自由民主党総裁選挙を翌月に控えた1972年(昭和47年)6月11日に発表した政策綱領、およびそれを著した同名の著書。
田中はこの「工業再配置と交通・情報通信の全国的ネットワークの形成をテコにして、人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進すること」を主旨とした事実上の政権公約を掲げて同年7月の総裁選で勝利し、内閣総理大臣となった。
『日本列島改造論』は、1972年(昭和47年)6月20日に日刊工業新聞社から刊行された。田中が総理の座を射止めたこともあって当初91万部を売り上げ、年間第4位のベストセラーとなった。
[主旨]
『日本列島改造論』には、日本列島を高速道路・新幹線・本州四国連絡橋などの高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密の問題と公害の問題を同時に解決する、などといった田中の持論が、イタリアやアメリカの例を引いて展開されている。
国土のうち、北部を工業地帯に、南部を農業地帯にすべきであるという主張(日本の現状は逆)には、田中の出身地で選挙地盤の新潟県中越地方、特にその中心都市の長岡市が日本の北部にあるという状況に起因すると考えられている。豪雪地帯の貧困の解消は田中の悲願だった。また、電力事業における火力発電から原子力発電への転換についても言及されている。
[田中内閣での施策]
田中内閣が発足すると、田中は首相の私的諮問機関として日本列島改造問題懇談会を設置し、8月7日の第一回を皮切りに会合を重ねた。当初75名だった懇談会の委員は途中で90名に増員された。
これらに触発されて日本列島改造が起き、日本列島改造論で開発の候補地にあげられた地域では投機家によって土地の買い占めが行われて不動産ブームが起き、地価が急激に上昇した。この影響で物価が上昇してインフレーションが発生し、1973年春頃には物価高が社会問題化した。
これに対して政府は「物価安定七項目」を対策として打ち出して生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急措置に関する法律を制定したり、公定歩合を4度にわたって引き上げたりしたが、十分な効果は上がらなかった。
その一方で列島改造論の柱の一つとなっていた新幹線をめぐっては、建設を開始すべき新幹線鉄道の路線を定める基本計画への路線の追加が検討され、候補にあげられた地域の関係者や国会議員が活発な誘致運動を繰り広げた結果、同年11月15日に運輸省告示で11路線を追加することが決まった。
しかしその最中に勃発した第四次中東戦争をきっかけとして起きたオイルショックは、物価と経済に決定的な打撃を与え、「狂乱物価」と呼ばれる様相を呈すに至った。この影響で、本州四国連絡橋の着工は11月20日に延期が決定した。
そして11月23日に愛知揆一大蔵大臣が急死すると、田中は内閣改造に踏切り、後任には列島改造論を批判する均衡財政論者でもある福田赳夫を起用せざるを得なくなった。福田は総需要抑制策による経済安定化を図ることになり、ここに列島改造論の施策は一定の後退を余儀なくされた。
[首相辞任後の展開]
1974年(昭和49年)12月に、田中は田中金脈問題で内閣総理大臣の座を追われた。急激な積極財政・インフレーション・オイルショックによる経済の混乱などもあり、首相となった福田による緊縮財政を経て交通網の整備は進まなくなった。
1980年(昭和55年)の国鉄再建法によって、日本国有鉄道の在来線建設や既存在来線の高速化などが抑制されて特定地方交通線の廃止が実施され、整備新幹線の着工も長く見送られたものの、高速道路網は再び拡大した。
三木武夫が主導した生涯設計計画・大平正芳が主導した田園都市構想・鈴木善幸が主導した和の政治・竹下登が主導したふるさと創生事業を背景に、道路建設は主にガソリン税の増税などによって徐々に進み、デフレーション下の国や地方自治体は多額の借金を抱えることとなった。
特に田中の影響力の強さから「田中曽根内閣」「角影内閣」さらには「直角内閣」などと揶揄されていた中曽根康弘が主導し、1980年代のバブル景気を引き起こしたとされる東京湾横断道路などのプロジェクトは中曽根版の列島改造論と当時から国会で批判されていた。
日本にとって、首都の過密と地方の過疎は、当時よりも一層深刻な問題になっており、少なくとも田中が日本列島改造論を著したのは、こうした状況への問題提起としての意味を持っていた。交通網の整備で様々な課題が解決するという発想は、「土建業一辺倒だ」という批判もある。
地方から過密地(特に首都・東京)へ向かう交通網の整備は、大都市が持つ資本・技術・人材・娯楽が、地方にも浸透しやすくなったことは事実であるが、同時に地方の住民・人材・企業もまた大都市に流出しやすくことなったことで東京一極集中と地方過疎化をより促進してしまうということが起こった。
地方での駅や道路の建設も同様の事象が起こり、駅ナカ・駅前・郊外へのストロー効果を招き、中心市街地が衰退してしまった。田中が抱いていた理想の未来には不十分で程遠い結果であった。
新幹線や高速道路なども地方と東京を結ぶ路線がほとんどで、地方と地方を結ぶ路線の建設は遅々として進まないのが現状であり、防災と減災のバランス確保による国土強靭化も必要である。こうした道半ばの「均衡ある発展」を背景に、田中が目指した本来の日本列島再生を実現させるべきだという論もある。
こうして田中が提唱した「工業再配置と交通の全国的ネットワークの形成」は幻となったが、「情報通信の全国的ネットワークの形成」は田中による報道機関への懐柔策もあり、日本電信電話公社によって回線が構築された後、1985年(昭和60年)に実施された公社の民営化に伴う通信自由化(電気通信事業法施行)を契機として、民間ネットワーク事業者(日本電信電話株式会社等の回線を利用する事業者を含む)の新電電参入が招来された。続く1990年代の民放テレビ全国四波化やパーソナルコンピュータとインターネットの世界的な普及が、これを確立させるに至ったのである。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
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