十勝の活性化を考える会

     
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落語「心眼」に思う

2020-07-18 05:00:00 | 投稿

 

 何が正解なのか。何が真実なのか。何が正義なのか。
 落語の中には、いろんな人物が出てきます。ハッつあん・熊さんや、酔っ払い、与太郎さんまで、中には身体の不自由な人も出てきます。

 落語は健全で、面白おかしいストーリーというイメージがありますが、残酷な一面も持っています。故立川談志師匠には「落語は人間の業である」と名言を残しています。
 ここではその中で「心眼」という落語について話してみたいと思います。
 まずは「心眼」のストーリーからです。明治の時代、主人公は盲人の梅喜という按摩を稼業にしている人で、弟の住む横浜に稼ぎに行くのですが、上手くいかず、弟に、「この厄介者!このめくらが、食いつぶしに来やがって!」と言われ、腹を立てて浅草に戻ります。その様子が、何かおかしいと思い、妻のお竹が問いただすと、「実の弟から目が見えないことを口汚く罵られた」と梅喜は泣き崩れますが、お竹に慰められ、薬師様に願掛けをします。

 やがて満願叶い、目が見えるようになった梅喜は、上総屋の旦那から、「お竹は気立ては良いが、ひどい容姿だ」と言われ、一方で旦那は、芸者の小春が梅喜に惚れているとも告げます。さらに、自分がいい男だと知った梅喜は、お竹と別れ小春と一緒になることを決意します。お竹ともめて首を絞められている最中に、梅喜は目覚めます。
 すべては夢だったのだ。目の前にはいつものやさしいお竹がいて、「目を治すために信心しよう」と言う。梅喜の「信心はやめた」との言葉に、いぶかるお竹。「盲は妙だな」と梅喜。「寝ているうちはよく見える」。

 サゲ(落ち)の前、夢から覚めた梅喜が、お竹に「また一緒に信心して目を治そう」と優しく諭される場面で、梅喜は「信心はやめた。お竹、このままがいい。信心はやめた」と言ってお竹の手をぎゅと握る。「目が見えないほうがうんといいんだ。目は見えなくとも、ちゃんと真実は見えてるんだ」って。あの時もう梅喜は悟ってるんだよね。
 「目が見えている」とは、いったいどういう意味なのだろうか?高座で私がこの噺を終えて頭を下げる。お客さんには、それから家に帰るまで、そのことを一度考えてみてほしい。そういう風に考えるきっかけを差し出すことが、この噺のテーゼかなと思っています。
 目が見えない方だけじゃない。口のきけない方、耳の聞こえない方、身休の不自由な方、”障害”とよばれるものはたくさんあるでしょう。「でも、果たしてそれって本当に”障害”なのかね」とね。「先入観を取り除いて物事に向き合ってみようよ」と。私にだって答えは分からない。だけど、考えてみることは必要だと思うんですよ。
 梅喜にとって「見えることは、どういう意味か?お竹さんの容貌は、実際にはどうなんだろう?考えたところで答えは出ない。でもね百年以上前につくられたネタの謎を解こうと思うのが間違いなんだ。一生掛かったって分からないことだらけだし、絶対に正解だってない。正義とは何か、愛とは何か、現実を真正向に見て、心の赴くままに生きて行こう!

※「心眼」は、初代三遊亭圓朝が実弟の三遊亭圓丸の実体験を基に創作したと言われます。
 八代目桂文楽によって有名になったサゲのセリフですが、差別的表現が使われることから、ここに紹介するのに悩みました。しかし、古典落語を継承していく者としてその作品性を重んじ、あえてそのままにしました。「心眼」の真意をおくみとりいただけたら幸いです。

                                   (筆者談)  
                   (柳谷権太楼・落語家)

私自身つたない人生経験のなかで、神も仏もあるものか
せんない気持ちの時もありました。
そうした試行錯誤を繰り返しながら、今ようやく平安な気持ちに
なってきたということは、本当にありがたいことだと思っております。                            

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