令和2年6月15日、NHK第一放送「今日は何の日」を聞いていたら、その日は“すき焼きソング“で、全米で3週連続1位の日になった記念すべき日であった。
すき焼きソングはご存知のとおり、歌手の坂本九ちゃんが“上を向いて歩こう”の曲のアメリカ版である。
九ちゃんは、今から35年前の8月、群馬県御巣鷹山で起きた日本航空123便の墜落事故で亡くなっている。墜落事故は脚注のとおりであるが、九ちゃんは1941年生まれなので、いま生きていれば79歳になっている。
屈託のない語り口で、テレビ番組の司会者などでも活躍していたので、惜しい人を亡くしたと思う。
九ちゃんは上記のほか、「星は何でも知っている」「見上げてごらん夜の星を」、「明日があるさ」など数多くのヒット曲をだして、世界におけるレコードの売上は1500万枚以上に達しているそうだ。
1961年の「上を向いて歩こう」は、日本や外国でも大ヒットし、作詞家の永六輔、作曲家の中村八大の三人で、”六八九トリオ“と呼ばれた。なお、遺族による御巣鷹山の慰霊登山は、現在も行なわれている。
また、航空機の墜落事故として記憶にあるのは、以下のとおりである。
岩手県雫石で起きた全日空機と自衛隊機の衝突事故(1971年)、羽田沖の日本航空機の墜落事故(1982年)、名古屋空港での中華航空の着陸失敗事故(1994年)などである。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 日本航空123便墜落事故
日本航空123便は東京国際空港(羽田空港)発大阪国際空港(伊丹空港)行きの定期旅客便で、相模湾上空を飛行中に操縦不能に陥り迷走飛行の末、午後6時56分30秒、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(標高1,565メートル、通称御巣鷹の尾根)に墜落した。
乗客乗員524人のうち死亡者数は520人、生存者は4人であった。単独機の航空事故の死亡者数として、2020年(令和2年)4月時点で世界最多である。
夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なったことなどにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えた。
1987年(昭和62年)6月19日、運輸省航空事故調査委員会(以下、事故調)は事故調査報告書を公表した。1978年(昭和53年)6月2日に伊丹空港で起こした「しりもち事故」後の、ボーイングによる圧力隔壁の不適切修理による破損が事故原因と推定されている。
事故原因を巡っては様々な疑問点や異説が提起されていたため、運輸安全委員会は報告書公表から24年後の2011年(平成23年)7月29日、事故調査報告書の解説書を公表した。
しりもち事故
1978年(昭和53年)6月2日、大阪伊丹空港着陸の際に機体尾部を滑走路面に接触させた事故である。修理後から本事故までの飛行時間は16,195時間59分で、飛行回数は12,319回であった。
事故前の不具合
1985年(昭和60年)2月から本事故までの間、JA8119は客室後部の化粧室ドアの不具合が28件発生している。うち20件はグアム便(大阪-グアム)で発生したが、客室後部のコートルームに客室サービス用品を置いていたためとして、コートルーム棚下への搭載禁止徹底により不具合は解消した。しかしながら、しりもち事故によって生じた機体の歪みによって化粧室ドアの不具合が発生した可能性は否定できないとしている。
客室乗務員
チーフパーサーは39歳で、1969年(昭和44年)10月18日に入社。総飛行時間は10,225時間33分であった。他に11人の女性客室乗務員が乗務していた。
緊急事態発生
操縦室音声記録装置 (CVR)には18時24分12秒から18時56分28秒までの32分16秒間の音声が残されてい。2014年、オリジナルに近い音声テープで元同僚パイロット協力のもと解析した結果、不明だった部分のうち16箇所が明らかになった。
墜落
墜落したJA8119型機の残骸
クルーの必死の努力も空しく機体は降下し続け、56分14秒に対地接近警報装置 (GPWS)が作動。17秒頃にはわずかに機首を上げて上昇し始めたが、56分23秒に右主翼と機体後部が尾根の樹木と接触し、衝撃で第4エンジンが脱落した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は340ノット (630 km/h)以上に達していた。
墜落時の衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほど破壊され、離断した両主翼とともに炎上した。一方、56分28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。
客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。
客室の状況
操縦室音声記録装置 (CVR)や生存者の非番女性客室乗務員の証言によれば、客室内は次のような状況だった。
客室では衝撃音が響いた直後、各座席に酸素マスクが下り、プリレコーデッド・アナウンスが流れた。乗客は客室乗務員の指示に従って酸素マスクとシートベルトの着用と、タバコを消す非常時の対応を行った。
18時26分54秒、チーフパーサーは全客室乗務員に対し、機内アナウンスで酸素ボトルの用意を指示した。
生存者によれば、「『パーン』という音と同時に白い霧のようなものが出たが、酸素マスクを着けて前を見たときには霧は既に無かった。数秒で消えた。爆発音発生直後の機内の乗客はパニックした様子は無く、まだ何とかなるんじゃないか、という雰囲気だった」という。
酸素が切れた頃から、機体の揺れが大きくなり、客室乗務員も立っていられないほどになった。18時47分以降は、緊急着陸(水)に備え救命胴衣着用が指示された。その後、乗客は不時着時の衝撃に備え、前席に両手を重ね合わせて頭部を抱え込むようにし、全身を緊張させる姿勢(不時着時の姿勢)をとった。
客室乗務員は乗客に対し機内アナウンスで、「幼児連れの親に子供の抱き方の指示」「身の回りの確認」「予告無しで着陸する場合もある」「地上と交信できている」等と案内していた。事故現場からは殉職した客室乗務員が書いた「不時着後の乗客への指示を列挙したメモ」も見つかった。
乗客の中には最期を覚悟し、不安定な機体の中で懸命に家族への遺書を書き残した者が複数いた。これらの遺書は、事故現場から発見され、犠牲者の悲痛な思いを伝えている。
航空事故の多くは異常発生から数分程で墜落に至ることが多いが、この事故では18時24分の異常発生から32分間飛び続けることができたため、遺書を書く余裕があったと言える。
また、事故現場からはコンパクトカメラも見つかり、事故発生時の機内の様子を撮影していたことがわかった。写真は警察が刑事事件の証拠資料として保存していたが、公訴時効成立後遺族に返還され、遺族が公開した。
事故発生からちょうど29年にあたる2014年(平成26年)8月12日にフジテレビジョンで放送された特番で、生存した女性(夫、長男、長女、次女と搭乗し本人と長女が生還)が当時の状況を手記にしたため紹介されている。その中にあった新たな証言によると、乗客の幾人かは失神した状態だったという。
墜落事故現場の状況
事故機の残骸
13日午前10時45分、長野県警の機動隊員がスゲノ沢第3支流で尾根を300m滑り落ちた機体後部の残骸の中から生存者を発見した。生存者は4人で、発見の順番に非番の客室乗務員の26歳女性、34歳女性と8歳の女子小学生の母子、12歳の女子中学生であった。
最初に発見された非番の客室乗務員は、残骸に挟まれて胸から上が左にくの字になり、右手だけを出して手を振っていた。二番目の主婦は、客室乗務員の残骸を取り除いているうちに、数メートル上方に空洞があり、そこから見つかった。三番目の女子小学生の娘は、母親のすぐそばで下半身を残骸に挟まれて仰向けになっていた。四番目の女子中学生は、客室乗務員から沢寄り2メートルほどの場所から逆立ちしているような状態で見つかった。
報告書によれば、4名の生存者以外は即死もしくは、それに近い状況だったとしているが、生存者の12歳の女子中学生によれば、目が覚めたとき父と妹は生きていたという。また、非番の客室乗務員によれば、「墜落した直後は周囲から『がんばれ』という励ましや『早く助けに来ないのか』などという話し声が聴こえていたが、次第に静かになっていった」と語っており、救出が早ければ、さらに多くの人命が救えたのではないかという意見もある。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)