“死人に口なし”とは、よく言われる。死人に口なしとは、死んでしまった者は証言も意思表示もできないという諺であるが、私は、“死人に欲なし”だと思う。当たり前であるが、人間の欲は生きているから生ずるのである。
身内などの葬儀に出ていつも思うのであるが、人間は死んでしまうと欲がなくなり、みんな美しくなる。逆に言えば、我欲の強い人は醜くく見えてしまうので“小欲知足”が大切だということだろう。
知人に脳出血を機会に、この我欲を捨てた人がいる。その方はこのブログに、「我欲とは・・・」の題で、以下のように書いている。
『「官僚」になるとほとんどの人は、事務次官を目指します。良い官僚とは、国益より省益を重んじる人です。私は脳出血で倒れて、行政庁でキャリアを積めず退官しましたが、一般企業に移ってから社会人として、何が一番大切かを知ることが出来ました。そして倒れてから、自分が一人で生きて行けないことを痛感し、今の自分があります。
大学や色々なところで講演していますが、「出会い」と「変容」、
即ち新しい自分に成長することで、生きる糧を得ました。名誉欲を捨てた人ほど強いということです。私は「名誉欲」だけでなく、仏教でいう「我欲」を捨てることにより、本当の自分が見えて来ました。
そこから自分がしたいこと、障害があるからこそ果たせる役割を発見出来たと思っております。障害の有無に係らず、自分がしたいことをやれることは幸せなことです。』
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 欲
欲とは、何かを欲しいと思う心。欲望、欲求などともいう。
人間(ヒト)、動物が、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。
仏教などでいう「欲」は、概ね生理的(本能的)なレベルのものを指しており、精神にとって心をよくしていくもの、愛情を育てるもの、抑制するべきものとして説かれている。
仏教では、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根から欲を生ずるとする[4]。また三界(無色界・色界・欲界)といい、このようなさまざまな欲へ執着している者が住む世界として欲界(よくかい)があり、現実世界の人間や天部の一部の神々などがこの欲界に含まれる存在であるとする。
仏教では、欲そのものは人間に本能的に具わっているものとして、諸悪の根源とは捉えないが、無欲を善として推奨し、修行や諸活動を通じて無欲に近づくことを求めており[2]、自制ではなく欲からの解放を求めている。原始仏教では、出家者は少欲知足(しょうよくちそく)といい、わずかな物で満足することを基本とした [5]。南方に伝わった上座部仏教は、この少欲知足を基本とする[5]。
なお唯識仏教では、欲は別境(べつきょう、すべて心の状況に応じて起こすもの)で、そのはたらきに善・悪・無記(善と悪のどちらでもない)という3つの性(三性)を求めるとする。善欲は精進して仏道を求める心であり、悪欲は貪(とん、むさぼり)として根本的に具わっている煩悩の1つとする。
しかし、大乗仏教の思想が発展すると、人間我・自我という欲に対し、如来我・仏性を得るという(つまり成仏すること)という大欲(たいよく)を持つことが重要視されるようになり、煩悩や欲があるからこそ菩提も生まれるという、煩悩即菩提という考えが形成された。したがって大乗仏教の中には欲そのものを全否定せず、一部肯定する考えもある。
(出典: 『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)
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