先日、民放テレビ“そこまで言って委員会”の元官僚 小松正之氏が、「この防潮堤は土木業者しか喜ばない。また、反対意見は誰にも出来るので、自分に何が出来るのかを考えてから言ってほしい」と。
いつも思うのであるが、世の中には“評論家”が多すぎる。小松氏が言っているように、反対意見は誰にでも出来るので建設的な意見を言うことが大切で、その上に立っての行動も重要である。
行動を取らないのであれば、黙って座禅を組めば良いのである。友人にこの座禅を組む人がいる。座禅は、本来の己というものに近づこうとするものらしい。座禅は修業、自己究明のひとつ。修業には荒行である”千日回峰行“というものもあり、テレビでこれを見ていたが、自分にはとても出来るようなものではない。
大峰千日回峰行は、奈良県吉野山にある金峯山寺蔵王堂(354m) から、24㎞先にある山上ヶ岳(1719m)頂上にある大峯山寺本堂まで、 標高差1,355m ある山道を往復48㎞、1,000日間歩き続ける荒行で、これを達成したのは、1300年間で2人だけである。この荒行を達成した塩沼亮潤僧侶は、次のようにいっている。
『心から人を思いやる心が求められる。自分自身が大切だと誰でも思う。でも自分自身が大切なら、まず目の前の人を大切にしてみましょう。人に対する慈しみある言葉や笑顔や行動が、人と人とをつなぎ合わせる。そしてその功徳が廻りまわって自身の心を潤す。争いや対立から心の喜びは決して生まれない。ありとあらゆる修行を体験して今考えているのは、自分に与えられた今の環境のなかで、すべての存在と真摯な姿勢で向き合うこと。そこで絆が生まれ、何か新しいものが生まれていく』と。
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 座禅
坐禅とは、仏教で姿勢を正して坐った状態で精神統一を行う、禅の基本的な修行法。「坐」が正式だが当用漢字から外れたため座禅とも書く。
坐禅の持つ意味や目的の解釈は、禅宗でも思想により流儀が別れる。
公案の解決により見性しようとする臨済宗は、公案の解答を探求しつつ坐る看話禅の立場を採る。これに対し、曹洞宗は何かの目的のための手段として坐るのではなく、坐禅そのものが目的であり、坐ること自体に集中する黙照禅の立場に拠り、日本曹洞宗の祖・道元は、ただひたすら坐ることに打ち込む「只管打座」を唱えた。
座禅の風景、妙心寺
ヨーロッパ臨済禅センターの坐禅
現代の諸宗門の説明する禅の方法は、曹洞宗では面壁し、臨済宗では壁を背にして座るなど、宗門・坐禅儀によって差違がある。概ね調身・調息・調心という3つの段階から成る。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)