先日、ある高校教師の葬儀があり参列してきた。死因はガンで、享年82歳だった。新型コロナ禍により年寄りが亡くなるケースも多いが、ガンによる死去だったので、せめてもの救いであったのもしれない。
彼は教育者として、また平和主義者として最後の最後まで生き抜いた方で、遺影にはその人柄があふれていた。どのようにしたら、あのような顔になるのだろう。“自分の顔に責任を持て!”と言われるが、身から出た錆ともいわれるので、自分の顔は自業自得であると思っている。
いつも思うのであるが、ノーベル賞を取った“山中伸弥氏”、“大村智氏”などの顔には、人格や人柄がにじみ出ている。日頃の行ないがそうするのだろう。逆に犯罪者の顔には、その反対の人相がにじみ出ている場合が多い。河合杏里元議員などの顔を見ると、悪いことをする人のように見えてきてしまう。
一方、冤罪者の顔には、冤罪であったように見えてくるのは自分だけであろうか。だから、「袴田事件」の被告である人の顔を見ると、冤罪のようにも見えてくる。人相を根拠に冤罪であるかどうかを決めるのは不可能であるが、印象は人それぞれで必ず間違いが伴うので、真実は神のみぞ知るである。“疑わしきは罰せず”という言葉があるのは、そのためである。
ただ、真実は一つしかないので、濡れ衣を着せられて生きるということは、自分の身に引き替えると想像を絶するもので、世の中への痛恨の問いがあることを心して考える必要がある。
彼の遺影を見ながら、人の為に尽くすということを改めて教えられると共に、故人の天国での幸せを心より祈った。 合掌
「十勝の活性化を考える会」会長
注) 疑わしきは罰せず
「疑わしきは罰せず」とは、刑事裁判において、事実の存否が明確にならないときには被告人にとって有利に扱わなければならないとする法諺である。ラテン語の直訳から「疑わしきは被告人の利益に(疑わしきは被告人の利益に従う)」ともいう。
刑事裁判においては検察側が立証責任を負うため被告人側が自らの無罪を証明する必要性はないが、被告人に不利な内容について被告人側がそれを覆した(合理的な疑いを提示できた)場合には被告人に対して有利に(=検察側にとっては不利に)事実認定をする。
この言葉は事実認定の過程を裁判官の側から表現したものである。これを、当事者側から表現した言葉が推定無罪であり、ふたつの言葉は表裏一体をなしている。
検察官が挙証責任を負う範囲については、構成要件該当事実のほか、違法性・有責性・処罰条件・刑の加重減免・量刑を基礎付ける事実も含むと解される。したがって、例えば、殺人罪の構成要件該当事実については合理的な疑いを超える証明がなされていたとしても、正当防衛の否定に合理的な疑いがある場合は無罪としなければならない。
(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)