十勝の活性化を考える会

     
 勉強会や講演会を開催し十勝の歴史及び現状などを学ぶことを通じて十勝の課題とその解決策を議論しましょう

有訓無訓

2020-07-21 05:00:00 | 投稿

日経ビジネス61日号の「有訓無訓」に、井上寿一 学習院大学 前学長が次のように書いていた。

 

『 歴史は社会科学の「実験室」である。こう考えて、日本政治外交史を学んできました。「目の前の問題」というレンズを通して、過去を見つめ直すことで、有用なデータ(知見)を獲得できるのです。

 

100年前、スペイン風邪が世界にまん延しました。これに人々がどう対処したのかを学べば、新型コロナウイルス感染拡大を収束させるヒントが得られる。1世紀前と大きな違いはありません。当時もマスクや病院の診療券を無料で配っていました。

 

解決すべき「目の前の問題」として重視してきたのは、格差と貧困です。高度成長期以降の日本は、個人がその努力次第で豊かになれる時代でした。

 

しかし、バブルがはじけて以降、個人の努力では挽回できない社会になってしまったようです。就職氷河期の学生は、成績が優秀でも思い通りの就職はかないませんでした。

 

こうした社会格差を是正するすべを歴史から得ることはできないか。そう考えるうちに注目するようになったのが、第1次世界大戦のバブル拡大から敗戦に至る過程です。

 

1次大戦前後から格差が目立つようになりました。戦争景気を糧に成り金が誕生する一方で、葬式代を工面できず、遺体を放置せざるを得ない貧困家庭が存在しました。

 

時代の流れも、国民の目を格差に向かわせました。不平等条約改正のため進めた文明化は、平等や民主など欧米思想を浸透させることになったのです。

 

当時の2大政党である政友会と民政党は国民の要望に沿うべく、医療保険制度の確立、母子の保護や託児所の設置、小作料の減免などの法制化を構想しました。

 

しかし、これらの施策が具体的に実行される前に、政争に明け暮れる政党は国民の信頼を失っていきました。その間隙を突いたのが軍部です。

 

軍部は中国大陸での戦争を進めました。皮肉なことに、格差是正策が実効を上げるのはこの戦争によってでした。いずれも戦時体制に維持・補強にも貢献する政策だったからです。

 

中国との戦争は、前線の兵士たちに銃後とは別の格差を意識させました。彼らは、日本以上の貧困を目にしたのです。布製の粗末な靴を履いている女性労働者を日本の歩哨が検査すると、弁当の中身は干からびた芋だけでした。

 

他方で日本国内は戦争景気に沸いている。「貧しくてもたくましい中国の人々と提携し、堕落した内地を改革しなければ」。前線の現実と銃後のありようは兵士にこう考えさせたのです。

 

実験室でこの逸話を著書で紹介する時には、「侵略を正当化するのか」と誤解されるリスクがありました。それでも世に問うことにしました。

 

「目の前の問題」を解決するには、実験室で得た知見を広める必要があります。残念ながら学術論文の読者は数えるほど。

 

2005年ごろに日本外交史のテキストを執筆した時から分かりやすく読みやすい本を書くよう心がけるようになりました。

 

参考になったのはシャイニングなどを書いたモダンホラーの帝王 .キングの小説作法です。自宅や研究室に何冊も置いて、今もバイブルにしています。

 

格差と貧困の解消は今も重要な社会問題です。引き続き「実験室」で集めた知見をその是正に役立てていきたいと思っています。(談)』

 

これを読んで、次のように思った。

自分は十勝に生まれて十勝に住んでいるが、十勝の歴史をほとんど知らず恥ずかしい思いである。当然、世界の歴史を知る由もないが、物事を判断するにあたっては、歴史に関することを含めて、「知見」は多ければ多いほど良いと思う。

 

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人間の役割

2020-07-20 05:00:00 | 投稿

 

令和2530日、民放テレビ「情熱大陸」で、アイヌ木彫家貝澤徹氏を放映していた。貝澤徹氏は、アイヌ文化を守り続けるために日高管内平取町二風谷で、木を彫り続けている。

 

今月、白老町にオープンした国立民族象徴空間「ウポポイ」にも、アイヌの入れ墨をした女性を描いた木彫作品が展示されている。その作品が下の写真である。注目してもらいたいのは、放映されたテレビの下部に書かれていたテロップである。

テロップには、「だから僕は僕なりの役割でやっていくし」と書かれている。

人間は誰でも役割を持っているので、その役割を粛々と行なっていけば良いのでないかと思う。人間の役割はおのずから一人一人違っているが、その役割を各人が十二分に果たした時、組織(国)は無限の力を発揮すると思う。

現在、新型コロナ禍で世界中が混乱しているのでこのことが特に言えるし、それがウイルスを撲滅する近道である。

「十勝の活性化を考える会」会長

注) 貝澤 徹

1958年、二風谷に生まれ、工芸家の父(勉)やその仲間の職人に囲まれて育つ。 曾祖父の貝澤ウトレントクは、明治時代に名工といわれた二人のうちの一人。

その曾祖父から引き継ぐ伝統を重視しながら、そこに独自の感性と技術をとけ込ませ、自分らしさやメッセージを表現する独創的なアイヌアートに、精力的に取り組んでいる。

ふと気づいたことを題材に作品を創作。代表作「UKOUKU(ウコウク)/輪唱」は、昔のアイヌ民族の入れ墨をした女性の手の写真から発想し、世代交代しながら文化が受け継がれるというメッセージをこめて創り上げた。北海道アイヌ伝統工芸展北海道知事賞ほか受賞多数。「北の工房 つとむ」店主。

 

(出典:平取町ホームページより)

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緑化プロジェクト

2020-07-19 05:00:00 | 投稿

 

秋田県男鹿半島の砂防林と襟裳岬の緑化プロジェクトの紹介。この二つの緑化プロジェクトは脚注のとおりであるが、20年前、このプロジェクトをテレビ放映で知った。

 

いま、新型コロナ禍で日本中が大変なことになっているが、国土の緑化プロジェクトのことも忘れないでほしい。緑化は、地球温暖化を食い止めることにつながるので重要である。

 

秋田県男鹿半島や襟裳岬にも訪れたことがある。とても綺麗であったのは、このようなプロジェクトが実ったからであろう。一度、林を失うとそれを再生させるのには、少なくとも10年はかかると言われるので、緑を大切にしよう。

 

黄砂が偏西風で日本にやってきて日本をきたなくするが、中国と比べてわが国は緑が多く綺麗な国であると思う。

 

なお「襟裳岬」は、歌手 森進一が歌ってレコード大賞を取ったのは、46年前の1974年である。襟裳岬のあるえりも町の人々は、「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に一時反感を持ったが、襟裳の知名度アップに貢献したということで、後でえりも町から森進一に感謝状が贈られたそうだ。

 

なお余談だが、「襟裳岬」は好きな歌のひとつで、特に最後の寒い友だちが訪ねて来たよ 遠慮はいらないから 暖まってゆきなよの部分が大好きで、若い時、カラオケなどでよく歌った。

「十勝の活性化を考える会」会長

 

1) 秋田県の緑化プロジェクト

 

栗田定之丞は、文化・文政期(1804-1830)に、海岸沿いの田畑や村を飛砂から守る海岸砂防林を完成させた人物である。

 栗田以前に、能代の町人越後屋太郎右衛門(船問屋)や越後屋久右衛門(商人・肝煎)が正徳3年(1713)から子孫の代までに30万本の松を植え、町を飛砂の害から救っている。こうした先人たちの努力によって、今日では幅1km、長さ14km、クロマツ700万本という日本最大級の松原となった。現在では、「風の松原」と呼ばれ日本五大松原の一つに数えられ、さらに「21世紀に残したい日本の自然100選」など5つの自然100選に選ばれている。

(出典:特定非営利活動法人グリーン・ツーリズム推進協議会 ホームページより

 

 

2) 襟裳岬の緑化プロジェクト

 

死んだ大地に、ゼロから木を植え、森を作る。半世紀にわたって繰り広げられた、世界でも例のない壮大なプロジェクトがある。北海道襟裳岬の、200ヘクタールに及ぶ砂漠緑化プロジェクトは、襟裳の人々にとって、かけがえのない故郷を蘇らせる闘いでもあった。昭和28年、えりも岬の人々は困窮を極めていた。町の広大な砂漠の砂が海に流出し、生活の糧昆布を死滅させようとしていた。番組では、昆布漁師の飯田さんの家族の半世紀にわたる物語を軸に、壮大な自然の再生のドラマを、再現映像と写真を多用して描く。

 (出典:NHKアーカイブスHPより)

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落語「心眼」に思う

2020-07-18 05:00:00 | 投稿

 

 何が正解なのか。何が真実なのか。何が正義なのか。
 落語の中には、いろんな人物が出てきます。ハッつあん・熊さんや、酔っ払い、与太郎さんまで、中には身体の不自由な人も出てきます。

 落語は健全で、面白おかしいストーリーというイメージがありますが、残酷な一面も持っています。故立川談志師匠には「落語は人間の業である」と名言を残しています。
 ここではその中で「心眼」という落語について話してみたいと思います。
 まずは「心眼」のストーリーからです。明治の時代、主人公は盲人の梅喜という按摩を稼業にしている人で、弟の住む横浜に稼ぎに行くのですが、上手くいかず、弟に、「この厄介者!このめくらが、食いつぶしに来やがって!」と言われ、腹を立てて浅草に戻ります。その様子が、何かおかしいと思い、妻のお竹が問いただすと、「実の弟から目が見えないことを口汚く罵られた」と梅喜は泣き崩れますが、お竹に慰められ、薬師様に願掛けをします。

 やがて満願叶い、目が見えるようになった梅喜は、上総屋の旦那から、「お竹は気立ては良いが、ひどい容姿だ」と言われ、一方で旦那は、芸者の小春が梅喜に惚れているとも告げます。さらに、自分がいい男だと知った梅喜は、お竹と別れ小春と一緒になることを決意します。お竹ともめて首を絞められている最中に、梅喜は目覚めます。
 すべては夢だったのだ。目の前にはいつものやさしいお竹がいて、「目を治すために信心しよう」と言う。梅喜の「信心はやめた」との言葉に、いぶかるお竹。「盲は妙だな」と梅喜。「寝ているうちはよく見える」。

 サゲ(落ち)の前、夢から覚めた梅喜が、お竹に「また一緒に信心して目を治そう」と優しく諭される場面で、梅喜は「信心はやめた。お竹、このままがいい。信心はやめた」と言ってお竹の手をぎゅと握る。「目が見えないほうがうんといいんだ。目は見えなくとも、ちゃんと真実は見えてるんだ」って。あの時もう梅喜は悟ってるんだよね。
 「目が見えている」とは、いったいどういう意味なのだろうか?高座で私がこの噺を終えて頭を下げる。お客さんには、それから家に帰るまで、そのことを一度考えてみてほしい。そういう風に考えるきっかけを差し出すことが、この噺のテーゼかなと思っています。
 目が見えない方だけじゃない。口のきけない方、耳の聞こえない方、身休の不自由な方、”障害”とよばれるものはたくさんあるでしょう。「でも、果たしてそれって本当に”障害”なのかね」とね。「先入観を取り除いて物事に向き合ってみようよ」と。私にだって答えは分からない。だけど、考えてみることは必要だと思うんですよ。
 梅喜にとって「見えることは、どういう意味か?お竹さんの容貌は、実際にはどうなんだろう?考えたところで答えは出ない。でもね百年以上前につくられたネタの謎を解こうと思うのが間違いなんだ。一生掛かったって分からないことだらけだし、絶対に正解だってない。正義とは何か、愛とは何か、現実を真正向に見て、心の赴くままに生きて行こう!

※「心眼」は、初代三遊亭圓朝が実弟の三遊亭圓丸の実体験を基に創作したと言われます。
 八代目桂文楽によって有名になったサゲのセリフですが、差別的表現が使われることから、ここに紹介するのに悩みました。しかし、古典落語を継承していく者としてその作品性を重んじ、あえてそのままにしました。「心眼」の真意をおくみとりいただけたら幸いです。

                                   (筆者談)  
                   (柳谷権太楼・落語家)

私自身つたない人生経験のなかで、神も仏もあるものか
せんない気持ちの時もありました。
そうした試行錯誤を繰り返しながら、今ようやく平安な気持ちに
なってきたということは、本当にありがたいことだと思っております。                            

会員 C

 

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明治の歌人 石川啄木

2020-07-17 05:00:00 | 投稿

 

石川啄木1886年(明治19年)生まれで、歌集『一握の砂』や『悲しき玩具』などを作っているが、啄木の短歌で記憶にあるのは次の二つで、享年27歳で亡くなっている。

 

「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」

「しらじらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」

 

前の句は、啄木が函館山から東へ伸びる大森浜で作ったとされている。その浜の先には、歌手 森昌子が、「立待岬」を歌ってヒットした立待岬がある。

 

啄木が函館にいたのは、小樽に行く前の132日間であったが、友人に向けた手紙の中で「死ぬのなら函館で」と書いていたそうで、啄木にとって波乱万丈の人生の中で、束の間の平穏な時期だったのかも知れない。

 

その後、年齢22歳の啄木は函館から小樽、そして釧路に行き、二つ目の句を読んでいる。その短歌を書いている歌碑は釧路港を見下ろす米町公園にあり、近くに住んでいたこともありたびたび行った。

 

啄木は、料亭で働いていた芸者小奴(こやっこ)と恋に落ちたが、現代流で言えば不倫であった。啄木は釧路新聞社の記者をしながら多くの短歌を残しているが、滞在期間は76日間と短い期間であった。

 

なお、同世代の作曲家 滝廉太郎も1879年(明治12年)に生まれており、啄木と同様に結核を患い満23歳で亡くなっている。ご存知のように滝廉太郎は、文部省唱歌の荒城の月を作曲している。

 

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注) 滝廉太郎

 

廉太郎は、日本音楽家作曲家明治西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人である。 一般的には「滝 廉太郎」と表記されることの方が多い。

 

1879年(明治12年)8月24日、瀧吉弘の長男として東京府芝区南佐久間町2丁目18番地(現:東京都港区西新橋2丁目)に生まれる。瀧家江戸時代に、豊後国日出藩家老職を代々務めた上級武士の家柄である。

1894年(明治27年)4月に同校を卒業し再度上京。同年9東京音楽学校(現:東京芸術大学)に入学し、ピアノを橘糸重遠山甲子に学ぶ。

彼の代表作である「荒城の月」は、「箱根八里」と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。

また、人気の高い曲の一つである「」は1900年(明治33年)8月に作曲された、4曲からなる組曲『四季』の第1曲である。「お正月」、「鳩ぽっぽ」(「」とは別物である)、「雪やこんこん」(文部省唱歌「雪」とは別物である)などは、日本生まれの最も古い童謡作品として知られるが、これらは1900年(明治33年)に編纂された幼稚園唱歌に収められた。

 

1901年(明治34年)4月、日本人の音楽家では3人目となるヨーロッパ留学生として出国し、518日にドイツベルリンに到着。

同地で日本語教師を務めていた文学者の巌谷小波や、ヴァイオリニストの幸田幸、また海軍軍楽隊から派遣されたクラリネット奏者吉本光蔵(後に「君が代行進曲」作曲)などと交友を持ち、共に室内楽を演奏したりした。

文部省外国留学生として入学、ロベルト・タイヒミュラーにピアノを、ザーロモン・ヤーダスゾーンに作曲や音楽理論を学ぶが、わずか5か月後の11月に肺結核を発病し、現地の病院で入院治療するが病状は改善せず、帰国を余儀なくされる。

1902年(明治35年)710日にドイツを発ち、ロンドンを経由して1017日に横浜に着く。その後は父の故郷である大分県で療養していたが、1903年(明治36年)6月29日午後5時に大分市稲荷町339番地(現:府内町)の自宅で死去した。満23歳没(享年25)。

 

(出典:『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)