生まれてから、物心のつかないうちから
いつも誰かが気にかけてくれて何かと世話を焼いてくれる子供と
それとは逆にほって置かれるような
手を煩わせることのない子供といる。
それって、大人になっても同じままの傾向があるようなきがする。
親からだけでなく、友達や社会に出てからも
同じようにいつも誰かが手助けしてくれている。
見ていると、それだけではなく物事も
手厳しくは与えられていないような傾向があるように感じる。
誰かや何かがいつも手助けしてくれる人生もあれば
ほとんど自力でやるだけの人生もあるような気がする。
よく「〜の星の下に生まれて…」と言った言葉があるのは
まんざらでも無いのかも。
赤ちゃんの時から手がかかって目が離せない子
ほっておいても余り泣いたり手を焼かせないで
つい後回しになってしまうような子といるように
生まれてくる時からそれぞれの役割で来ているのかもしれない。
自分は助けてもらえたり、
手を差し伸べてもらえるような人生では無い場合
どうして私だけ?
あの人ばかりどうして?
と、感じて落ち込んだりする時もあるかもしれないけれど
よく考えると自分でできる事を
スイも甘いも肌身で感じながら人間としての感性を、
五感を使う事を選んだということかも…とも思えるのです。
それなら、一つずつ感じて、考えて対処していくしか無い。
その人間だから感じることのできるものを
全て満喫すれば良い。
甘やかすことも厳しすぎることも無く
そのままの自分を判断して選んだ人生をしっかり見極めて生きること。
そういうことなのかもしれないなあ。
今日また一つ此処での私のキャリアが終わった…
もうすぐ此処で築いてきたキャリアがなくなる。
25年以上続けてきたこと。
これからの事は全く分からないし人生設計もない。
帰りの電車で、ちょっと悲しさと不安と虚しさがよぎった。
そして、これからまた自分次第で新たなスタートだとも…
私よりも何十年も同じ会社、
同じ仕事をしている人が定年退職するときの思いを
少しだけ想像した。
もっともっと、複雑な思いがあるだろうなア。
ましてや、次の日から特に何か忙しくするものがないのなら…
今なら60歳、65歳くらいで定年だとしたら
寿命はまだまだ先で体もまだ十分若い。
新しいチャレンジができる年齢だ。
今までにつながる何かか
全く別の何か。
自分次第だ。
最近日が昇るのが遅いせいか寝起きが悪い。
夜も10時までなんて起きてられない…
でも、今できる事を充実させたいと思う。
今日は天気が良いので朝早くから実家に行って
お布団干しやお掃除、一足早めにワックスがけまでやった。
キッチンはできなかったので日を改めて…
普段からお布団干しや掃除など私がやっている。
母もだんだん重いものを運ぶのも大変だし危ないから
ということもあるし、第一仕事で忙しく疲れてしまう。
何より、私が親には気持ちよく生活してもらいたいと
言う思いからやっている。
時々、どうして他の兄弟はやろうとしないのだろう?
何で私の担当のように思っているのかな?
そん事を考えることもあるけれど
頼まれたわけでも無い、ただ自分がやりたくてやっていることだ。
何事も動機とそこでの思いが大事であるような気がする。
どうせやるなら周りに考えを押しつけず、
気持ちよくやるたいものだ。
爽やかで綺麗な朝でした。
人はやることに追われた日常で色々と考え事をしていたり
頭を使って考え事をしている。
自分の感情についてもあーでも無いこーでも無いと考えていたりする。
そんな時は比較的下を向いていることが多いような気がする。
それと同時に思考が狭まって考えている。
それが日常的な思考であったり…
何かしら余裕が無ければ難しいことでもあるのかもしれない。
でも、たまにはもっと上を見上げてみることに
気づいてみよう。
全ての感じることが自分の必要なことで
自分が此処にいる意味なのだ。
ブログ
このブログを2010年からはじめて3000日以上たつ。
だらだらと書いたり書かなかったりしながら続けているけれど
読者を増やすなど何も対策もしていないし
ただ、日記のように使って続けているだけ。
それでも、少しは読まれているよなので
何かしら役立つこともあるなら?それはまた嬉しい。
多くの人に読まれるような、
ビジネスとして機能しているものもあり
そのために沢山の対策もしているものもあり
読まれることで収入につながったり
仕事に繋がったりする。
それはそれで、好まれる文を書くことや
目にとまる書き方をしていかないといけないから
内容も気をつけなくてはいけない。
大変なことだ…
私はこれからも思ったこと、
思うことを気ままに書いていくかなぁ〜
分かっていても実行し続ける事は難しい。
一瞬実行しても初心と同じように謙虚に続けられる人は少ない。
仕事や運動など「行う」ことは
まだ目に見えた日常的な実行することとしては続けやすいけれど、
目に見えない心の中の持ちようを保ち続けることは難しい。
考えて行うことと
感情や心の動きからくる行いの違い…
上手くいかなくて気づいて反省して行う…
そして又忘れていたり、傲慢さがニョキっと顔を出してくる。
そんなことの繰り返しなのかもしれない。
何をどの様に行なっていくのか
自分が選択して作っていく…
心の在り方を時々確認させてくれる。
何だか心がスッキリしなくて虚しくなったりする時
たいがい、何かと比べていたりする。
最近、また私も悪い癖が出ていて
自分にもパートナーにも何か無い物ねだりで無いものを探して
それを嘆いたりうんざりしていたりしている気がする。
何も無いものなんて無いはず…
全て完璧に整っている。
いま、見えないものに気持ちが奪われて
1日を無駄にしていないか…
全ては大丈夫。
甘え、言い訳、キャパシティの狭さなど
小〜〜大の物差しがあったとしたら自分はどの位置にいるのか
実際は自覚するのは難しい。
それに、近頃は直ぐに何かしらの病名を付けてくれるし
新しい病名も増えてきて
自分に病名が付けば言い訳もできてしまう。
自分に言い訳することもできるし
どれも自分の個性としてより人生を良くするために
対策、改善など工夫する努力も自分の為に取り入れることもできる。
ある意味、みんな個性があって
苦手なこと得意なこと出来ないことやりたくない事
そんな風に色々な特性があるわけです。
できれば、少しづつ自分への言い訳はやめたい。
努力はしたくないし、
やらなくてはならない事を先延ばしにしたい
けれど、いつかやらなくてはならないのなら
重い腰をどの時点であげるのかということになる。
重い腰をあげるまで、
もしかしたら誰かがやってくれているのかも…
もし、そうなら自分が先延ばしにする事で
誰かが不愉快な思いをしているかもしれない。
家庭や会社など、社会の中で共存するなら
自分のためにもいつまでも言い訳はせず
ちゃんと共存するつもりの努力はしたいものだ。
何だか久しぶりの感情。
何故だか分からないけど湧き上がってくる悲しさ…
今日は本当に悲しくて、自分の全てが否定的に感じた。
前にもあるけれど、今回はどうしてだろう…
考えてみると、変化するような時には
この感情に襲われるのかもしれないなあ。
それとも。誰かの感情…?
世の中が全て本音だけだったら…
もっと、物事が単純でシンプルになる。
「何々のために…」
そんな綺麗事を出さないで、本音を掲げて
それで納得した人が賛同すれば良い。
商品でも対策でも会社でも…
隠して綺麗事を前面に出そうとするから面倒くさい事になる。
オーガニック
何とかNPO法人
言葉を勝手に定義して何だか言葉でごまかせる。
利益のためにこうしてます。
口に入れてはいけない着色料だけれど発色のために使います。
などなど…
それで納得した人が利用する、集まる、買うなど。
相互にとって分かりやすい。
でも、人間関係で本音を出すと大問題だけれど…
まぁ、全て人間が作り出しているわけで
ややこしくしているのも簡単にするのも私たち自身なんだよね。