昨夜、久しぶりに妙な夢を見た。
夢の中で誰かと霊の話か何かしていた。
それからしばらくして、
自分の腰付近が重いので見ると
小さな子供の霊が私の腰の後ろにしがみ付いていたので
びっくりして慌てて振り払った。
そんな変な夢。
昨日は涼しくてぐっすり眠れていたのに。
びっくりするような夢は久しぶりだった。
昨夜、久しぶりに妙な夢を見た。
夢の中で誰かと霊の話か何かしていた。
それからしばらくして、
自分の腰付近が重いので見ると
小さな子供の霊が私の腰の後ろにしがみ付いていたので
びっくりして慌てて振り払った。
そんな変な夢。
昨日は涼しくてぐっすり眠れていたのに。
びっくりするような夢は久しぶりだった。
人の振り見て…とはよく言ったものです。
仕事でも何でも、ある程度やっている物事に対して
「自分は出来る」
または「知識を持っている」
と言った妙な自信を持ってしまうことが多々ある。
そんな事はないと否定したとしても
自覚がないとしても、ほとんどの人は心の中にある。
その自信は奇妙なプライドとなってしまう。
何故ならその道でのよっぽどのパイオニアか
経験も長い巨匠などのレベルに達するほどにならなければ
上には上がいるわけで、
奇妙な自信を持っていて勢いのある
まだ新人のような人では分からないものを持っているのに
そこから学んだり何かを吸収することを阻害してしまうからだ。
きっと、もう古いとか
今のものを知らないとバカにしてしまうのだろう。
残念なことだ。
完全に古くなっているのか?
何もアップデートをせずに古いままなのか?
そこを見極める必要もある。
新しいものを取り入れているなら
きっと「何か」にも気づいているし
そこから得たその人なりの知識もあるだろう。
そして、面白いことに
大きく宣伝をしていたり、お金を払うものにしか
学ぶ価値を見出さない人も多い。
例え、払う価値がないとしても日本人は肩書き好きなので
肩書きに価値を見出すのかもしれない。
これもまた、奇妙で面白いものだ。
変なプライドを持った時から
学ぶ姿勢にも制限がかかりチャンスも逃すことになる。
そう言う、私も今から思えば生意気だった。
だからこそ言えるのでもある。
肩書きには価値を見出さないけれど…
粋がっている時期を通り越して謙虚にもなれる。
物事においても、人生においても
多いに他者から学び、吸収できるチャンスを活かそう。
そのチャンスは特別な事をしなくても得られるもので
何処で誰から入ってくるかも分からない。
世の中はチャンスに溢れている。
何かの勉強でも、転職などでも
人生の方向転換や新しいことを学ぶのに
世の中では30代がギリギリセーフ、
もしくは既に遅いといったようなイメージがある。
どうしてだろう?
昭和の高度成長期やバブル期、
60歳で定年で安泰だった時代から
その考えは変わっていないような気がする。
前の世の中の常識が今も続いている部分がある。
若い世代の中でも新しい考えがあるのに
古い考えに囚われている部分が当たり前をつくって
バランスが悪くなっているような気がする。
今や寿命も100歳になろうとしている日本で
それも定年だって70、75歳になるのも
時間の問題のような状況で新しい事をするのに
30代で遅いなんて無い。
50代、60代から新しいことを仕事に出来る時代だ。
全ては気持ちがあればの話だけれど…
自分でもう歳だからと老け込んでしまったら
何も新しいことはできない。
ましてや、自分で30代だからこうあるべきと
自分で制限をしたら全てのドアは閉まってしまう。
幾つになってもドアを開けるのは自分自身だ。
私も、これから何か新しいことをするかもしれない。
まだ分からないけれど不安もない。
むしろワクワクしている。
新しいことが出来る状況を持てるなら
可能性が広がっているだけなのだから
ワクワクしないわけがない。
自分の制限をとるのも
可能性のドアを開けるのも
自分次第だ。
個の人生に適した環境、家族などといった条件に
生まれてきているとしたら
家族であってとしても、助けあったとしても
もっと個として自立した見方も必要なのかもしれない。
家族の場合でも、夫婦の場合でも
依存で成り立っていることも多くあるけれど…
難しいことでもあるけれど
環境によっては、それぞれが自分の人生を生きることに
集中することを選択ができる。
望まないのなら、誰かの為にばかり人生を使うのは違う。
自分の為に人生を使うべきだ。
子供は、親が子供の為にすることは当たり前
親は、子供が親の為にすることは当たり前
夫は、妻や家族の為にすることは当たり前
妻は、夫や家族の為にするのは当たり前
当たり前だと思う事を止めるべきだ。
何も当たり前なんてものは無い。
それに、人生を誰かの犠牲になることも無い。
それぞれが選択が出来るという自由意志を持つなら
それは、その人の責任の下にあるわけだ。
選択をしなかったものの責任は?
その責任の所在は別のところにあるのかもしれない。
責任、依存と言った一見あやふやに見られるものを
しっかり区別し、自分のやるべき事に集中したいものだ。
今朝は赤っぽいピンク色の南国のような空でした。
最近のハワイも気象の変化か涼しくて
時期によっては寒いとハワイの人が言っていたくらい
世界の気象が変わってきているのだろう。
いくらテレビで異常気象だとか言っても
実際、日本で過ごしていて四季があると
ずっと暑いままではないし、
子供の時から夏は汗を垂らして過ごすほどで
制服のシャツもびっしょりだったし
こんなものと思えばこんなものだったような気がするし
テレビであおられれば全く違うような気もするけれど
学校にクーラーもなければ、炎天下の中で水も飲ませてもらえず
体育や部活をしていたのを考えると
いくら気温が上がったとは言えどちらがキツいか分からない。
子供の時から日焼け止めやラッシュガードを着る習慣があると
気持ちも日差しに対して強いものと感じそうだ。
親も日に焼けないように長袖やら日傘やら
今は過敏に反応するので
子供も当たり前に日差しは強いと感じるだろ。
気にも留めていなかったら
日差しに対して何も感じなさそうな気もする。
実際に自分の目で見たり感じたことでないと
本当のことは分からない。
テレビなどでみる光景だって全体の真実かも分からない。
だから、実際に地元の人に聞くと納得することもある。
自然の中の変化の早いものと遅いものを考えると
何か目に見えることもある。
進化が早い部分と遅い部分。
ただ、壊したものを修復するのは
何でも度合いによって大変さが変わる。
自分で築き手に入れたものでないなら
いつだって同じ状態で返さなくてはならないし
共有しているものに過ぎない。
意外と、自分で思っているより
「自分のもの」って少ないのだろう。
人生の中で自分に必要な
ある事に気づき、自分を変える事で
その必要なものを手に入れられる事がある。
でも、まずはその「必要なもの」
に自分自身が気づき自覚しなくてはならない。
はじめからしっかり自覚している人もいれば
アレもこれもと何が大事か気づけないでいる人もいる。
そんな場合は、色んな事を通して気づかせてくれる。
誰もが自分の幸せを得たいと思うから
何か満たされないと感じる事で
自分にとっての幸せを探すようになる。
その中で、必要のないものと必要なものを
自覚していくことができる。
分からないまま、欲望のままに
アレもこれも手に入れようとしても
多くの欲したものを手にしているのにも関わらず
何かいつも足りない、
自分の中に常に空虚感を持ち続けることになる。
それは人間にとっても、
もっと大きなことにとっても
全て同じように、
何度も何度も気づくようにしてくれる。
小さな呼びかけに気付けなければ
だんだん大きな呼びかけをしてくる。
ダメージが大きくなって、
やっと気づくことができるかもしれない。
変えることが必要なことを無視せず
何か必要だと感じているなら
些細な呼びかけに気付けるようになることだ。