昆布が美味い

羅臼の昆布漁を見た時にスタートしたblogです。昆布のダシのように、人生の旅にも味付けをしたい。旅を中心に纏めています。

アーモンド

2007-03-21 | 話題
 昨年よりも1週間早いが今年も咲いているかなあ。水車を見た帰りに、海岸の埋立地に向う。巨大工場群と、高速道路のICがあり車が多い。

 元の陸地と埋立地の間で生まれた海の水路沿いに、アーモンドの逍遥路がある。水草が揺れ、珍しい植物が、小さな運動場の周りに植えられている。


アーモンドは満開であった。次の日曜日(25日)にはアーモンド祭りをすると言う。阪神電車「おおぎ」から南へ1.5kmです。


埋立地との間の水路を越えて行きます。


右手奥に見えている水路は、ボートの浮かぶレガッタ専用の水路で、岸辺にアーモンドの木が並んでいる。


大きな花弁である。桃の花よりも大きい。いい色合いである。


中には、これから咲くものが蕾を膨らませている。
PS:なんかこれアーモンドでないような気がしてきました。同じ木だったのですが・・。


アーモンドは薔薇の仲間である。一般にバラ科の植物は自家受粉では実がならない。他の個体の花粉が必要と言う。


昨年に付いた実が萎びた姿で残っている。


この看板は、ここの近くにある食品会社の庭のものである。
 ここの庭は昔からアーモンドで賑わい、アーモンド祭りは人出が多い。スナック菓子などの店も出る。古木に近いアーモンドは台風で倒れたりする。


アーモンドは漢字で扁桃(へんとう)とか巴旦杏(はたんきょう)とか書く。


スモモの花も満開だ。


この花は見かけないですね。何が何やら不思議な花。アケビの仲間のムベである。 

水車小屋の記憶

2007-03-20 | 歴史・文化遺産
神戸市の背後に聳える六甲山からの急流を利用して、古くから水車小屋が多数あった。
 昭和30年代になってもまだ動いている水車があった。真黄色の粉を挽いており、それが埃となって風に舞い、小屋全体が黄色に染まっていた。

 水源を六甲山頂にもつ住吉川は豊富な水量で88の水車が並んでいたという。挽く材料を運搬する為に、村の富豪が土地を買いきり、水車までの牛車の道を開き、村にその土地を寄贈したと言う。

 すでに水車が無くなって久しい。今も流れる豊富な水路を活用して、土地の歴史としてのモニュメントが出来上がっている。


初代モニュメントは、回転しない枯山水の水車として公園にあったが、すでに水車は軸受けだけになっている。


菜種か、胡麻かで油を絞っている図。これは二連水車である。


住吉川の上流のかなり上まで、設置されていた事がわかる。


現在も流れる山の水を利用して、ここの山田地区の区民会館に水車が復元されていた。


大小二連である。


今となっては回転の動力としては利用していない。ドーデの風車小屋の話と違って、もう誰も当てにしてくれないのである。


急坂を子どもが走る。


マンホールの蓋も「灘目の水車」の図柄である。

安倍晴明その3

2007-03-19 | 歴史・文化遺産
 安倍晴明の生まれた場所が大阪市阿倍野で、今は安倍晴明神社になっている。


大阪天王寺と堺市を結び、半分は路面電車となる鉄道がある。その電車の中の広告に占いの宣伝がある。占いは安倍晴明神社で行われている。現代も陰陽師がいるんだ。


晴明神社は熊野街道沿いにある。熊野街道を歩く会があったりして道しるべなどが整備されている。


小さな境内である。左の2階建ての建物が社務所であり、占いをしているところである。
 手前の自転車の主は突き当たりの本殿の前で拝んでいる。


ここも都会の神様でいろんなご利益がある。
 中でも火難痛難災除の神は、第2次大戦の空襲で、周りはすっかり焼けたのに、ここのお宮だけが焼け残ったからである。ひとへに安倍晴明さまのご威光である。


産湯井の跡と言うのがある。


父が信太(しのだ)明神に参詣して、その時に助けた白ギツネと結ばれて、晴明が生まれたと言う。晴明の母は狐であった。彼は京に上り、勉強して神通力があるのも頷ける。


母である狐の銅像である。「しのだ狐」としてよく知られ、狐は油揚げを好む事から、油揚げを「しのだ」と言う。狐うどんを「しのだうどん」とも、稲荷寿司を「しのだ寿司」等と言う。


こじんまりとした本堂である。


安倍晴明神社の南隣りに、熊野古道九十九王子の2番目の阿倍野王子がある。
 ここでは3本足の八咫(やた)烏の絵馬がある。

一条戻橋

2007-03-18 | 旅の風物
 京都晴明神社の近くに、「一条戻り橋」がある。旧の戻橋の石材の断片が晴明神社で保管されている。
 いろいろと曰くのある橋で、鬼の腕を切った話、死亡した父を呼び戻した話など、おどろおどろしている。 


青森の「ねぶた」の中に「戻橋」のテーマの山車がある。
 東北にまで都の話が伝わっているのは、江戸時代に庶民の娯楽であった歌舞伎・芝居の全国興行によるもの。勇壮な「ねぶた」に今も残る数々の芝居・歌舞伎のテーマの一つである。
 歌舞伎に「戻橋・・」と言う河竹黙阿弥作の演目がある。


渡辺の綱が鬼女の腕を斬る話は各地で見られる。
 腕が斬られて飛んでいって、北野天満宮の境内に落ちたと言う。今も北野神社の三光門の東側にはこの時に腕が落ちた地点があり、伝渡辺綱石灯籠として残っている。

 これらの話の後、鬼女が、綱の母に化けて腕を取り返しに来たりする。


新しく堀川にかけられた立派な石の橋の袂である。時代劇に出てくるおどろおどろの戻橋からは想像もつかない。しっかり枝垂れヤナギも植えられているのだが。
自動車がつぎつぎと走る一条通である。


立札が立っている。
 平安時代に文章(もんじょう)博士であった三善清行が都で亡くなり、それを聞いた息子が熊野から大急ぎで帰ってくる。
 すでに葬列は戻橋に差し掛かっており、息子は父の棺にしきりに呼びかけた。神仏に願いが届いたのか、父が蘇生して暫く親子で話をしたという。
 以来この橋は死者の甦る橋とされて「戻橋」と言うそうである。

安倍晴明その2

2007-03-17 | 歴史・文化遺産
 南北に走る堀川通りと東西に走る一条通りとの交差点付近にある晴明神社である。
 この場所に陰陽師、安部晴明の居宅があって、そこに神社が建立されたという。
5年前の写真を引っ張り出してきました。


鳥居の前は道路が走っているので、この道によって、境内が分断されている事になる。 晴明の気に押されたのか、写真が霞んでしまっている。

 ところで、晴明ブームが来るまでは、ひっそりとした神社で、観光地図にも掲載されなかった。
 それが、今は参拝者が多くて、この鳥居の右の建物は講堂であるが、これが新築されてピカピカになっている。


唐破風の本殿も、金ぴかになっている。家紋の星が鮮やかである。


本殿改築前に境内にあった石灯籠だろう。古いものだろうが、手の届かぬ神苑の中に立っている。「晴明社」と読める。


ここの絵馬は五角形である。映画の撮影前に出演者らが絵馬を奉納している。よく見る俳優の名前などが見える。


すぐ前を流れる堀川に架かっていた一条戻橋のレプリカである。橋の架け替えの為に、石組みなどが、境内に復元保管されている。
 時代劇などに出てくる一条戻橋は、おどろおどろであるが、21世紀の今ではあっけらかんとしている。


京都御所の西の方になる。西陣織会館が目安になる。
 右下の方に「楽美術館」がある。楽焼の本家で、多くの名品を展示している。


安倍晴明

2007-03-16 | 歴史・文化遺産
 昨日、京都嵐山を散策していると、安倍晴明の墓所に出合った。

 京都市内には、最近めきめき評判の出た清明神社があって修学旅行生に大変人気がある。ここは晴明の屋敷があったところである。
 また安倍晴明の生まれた所として、大阪阿倍野の熊野古道沿いに晴明神社がある。ここには晴明の母といわれる狐の銅像がある。
 

そして、今回は墓所であった。彼の死後ここに葬られ、かなり荒廃していたが、近年、篤志家の努力によって再建された。


平安時代、天皇六代に仕え、陰陽道(おんみょうどう)を極め、博士の称号を受けていた。その神通力をもって占い、多くの諸問題の裁定をしていた。


碑文にあるように、平安京の宮中の変事を予見し、遠国の出来事も掌中にある如く神通自在の妙術を駆使して、内外の信望も厚かった


墓所を囲む玉垣には、晴明の家紋である星の紋がついている。


花が供えてあり、手厚く守りをされている様である。背後の建物は隣の角倉稲荷の本堂である。また左手の築山は長慶天皇御陵である。


嵐山の渡月橋界隈の賑わいは今一つというところか。
 人力車を引く若者が立っている。桜餅の看板があるが、ここの餅は餡子が入っていない。着物姿の女の子も風物であろうか。

南の鶴03

2007-03-15 | 国内旅行
 飛翔するツルたち


青空に浮かぶツル、悠然として先を争わず、風を切って宙に舞う。


ファミリーが翔ぶ。


思いを一つにして、心合わせて未来を見つめて翔んでいくカップル。


ナベヅルの低空飛行。やや大きくて、灰色の背中を見せるのはマナヅル。


翔々。こもごも。


この動き、力のバランスが完成していると言う。そしてバランスは美しい姿態を作る。


左:おーい待ってくれー
右:並んでーっ、編隊飛行を崩さないでーっ。目標は左下10時の方向!


右へ行く。左へ進む。それぞれが、それぞれのところに向う交差点。

南の鶴02

2007-03-14 | 国内旅行
 あまりにも混雑してしまって、イモの子を洗うように見える。海水浴場を髣髴とさせる。しかし、平面だけでなく垂直方向も彼らの縄張りである。


普段から鶴と言えばタンチョウを見慣れているので、顔の赤い鶴に見慣れるのに時間がかかる。空を優雅に飛ぶ姿はツルである。



我が国で見られるツルは7種類だそうで、タンチョウも含めてすべてここ出水市で見つけられていると言う。


ナベヅルが圧倒的に多い。顔の赤いマナヅルが続く。羽の色だけではナベヅルとクロヅルがちょっと見たところでは区別が付きにくそうだ。首の模様が決め手だが・・。
 この表のツルの数は、日曜日になると、地元の中学生・小学生達も参加して、カウンターを持って数えると言う。


おそらくこれは雌雄のペアである。彼らも一生涯相手を変えないという。


田に水を張って、ツルの塒(ねぐら)を用意している。水の中に脚を入れて眠るのがイタチなど外敵に襲われない安全な住処である。冷たいので脚を一本にして寝る。


やや背の低い、羽根の黒いのがナベヅル。ここには見えないが、茶色の頭が子どもである。


群衆の中にいても、仲良しのカップルは見間違う事はない。カップルとは関係ないが下方に幼鳥の頭が見える。


「どうしたんだ、どうかしたか」「なんでもない、なんでもない」それはそれは賑やかに鳴く。鳴き声はタンチョウと同じであるから、よく似た声帯を持っているのだろう。


これはナベヅルの番(つがい)であろう。飛ぶスピードが早い。
 足下の地面にまかれた餌の小麦がまだ残っているのだろうか。一日に小麦を一俵与えると言う。ツルたちにとっては冬の楽園である。
 山口県に渡りをしていたツルたちが、ここ数年前から減少して、10数羽になってしまったそうである。こちらに合流しているらしい。

南の鶴01

2007-03-13 | 国内旅行
鹿児島県出水(いずみ)市には例年12月頃から3月半ばまでツルがやって来ると聞いた。
 冬になるとやって来て、春3月にはシベリア大陸に帰っていくという。今年1月に初めて訪問する機会が出来た。


北海道釧路にはタンチョウが冬に餌場に集まる。出水市は釧路市と友好都市盟約を結んでいる。


江戸時代からツルが渡り鳥としてやってきていたという。
 行政の手厚い保護を受けて、今やここ10年は毎年1万羽を越す飛来がある。ツルの観察用の立派な展望台の建物もあり、冬のシーズンだけの観光地となる。

 薩摩藩は藩内各地の村に、小都市を経営し、県全体が要塞の形をとっていた。鹿児島県の最北端に位置する出水もその一つの街である。


ツルの種類も多様であるが、ナベヅルが最も多く、マナヅルがそれに続く。
 ここに飛来して越冬するナベツルは、世界中のナベツルの大部分が出水市に来て越冬すると言う。

 
遥かバイカル湖周辺からやって来るナベヅル(鍋鶴)である。腹の毛並みの色が鍋の底の色に似ているからナベヅルと名がついたと言うが、ツルは何と思うだろうか。


マナヅル(真名鶴)は数が少なく、特別天然記念物になっている。


展示物の一つ:左からナベヅル、マナヅル、タンチョウの卵。


見渡す限りのツルたち、遥かに見える点々も皆ツルである。(3階の展望所より)
 ここだけでなく、村の田畑のあちこちに、三々五々羽根を休め、餌を探している。 


 どれがどれやら、大変混雑しています。

早春の旅14フェリー「きそ」

2007-03-12 | 国内旅行
 このフェリーの名前は日本海フェリーと同じく聞いていたけれども、見るのも乗るのも初めて。
 北海道からの旅立ちに船と言うのも良いか。


苫小牧から仙台まで、途中ステージなどもあって、朝、仙台港に着いた時の写真である。全長200mを越すというから、外洋航路としてはこんなものか。使った船室の窓が見える。最上段前から二番目の、電柱のすぐ左の部屋であった。


太平洋フェリーは一体何処を走るのだろう、太平洋を横断するフェリーか。また、どの島からどの島へ繋ぐのかと思ったものだ。苫小牧ー仙台ー東京である。


左:乗船した時は日暮れであったが、波止場では全容が見えなかった。
右:特等船室はまあこんなものだろう。バストイレつきも、窓から見える真っ暗な夜も、それほど興味がなく、大浴場が良かった。流行の日帰り温泉よろしく湯船が5つ、サウナも蒸し風呂も、露天風呂も冷風が気持ちよく、日帰り温泉と遜色ない。


売店の土産物屋のショーウインドー。昆布が各種いろいろ。


レストランはバイキングである。バーとか喫茶軽食コーナーには食堂に入らない人たちもいる。


左:レストランの天窓からは、船の煙突が見える。
右:船の紹介の額が掛けてあった。フェリーオブザイヤーになった数年間があるようだ。