蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

猿でも構造、悲しき熱帯を読む 5 

2017年05月26日 | 小説
(5月26日投稿、表題これまでは5月8,11,18,22日)

レヴィストロースがブラジル・マトグロッソに現地調査したのは1935年。仏の有力紙ルモンドが2008年に、マトグロッソの乱開発が進んでいる状況にコメントを求めた。100歳を迎えようとするレヴィストロースは「調査した当時の世界の人口は16億人、現在は64億人、私はすでに過去の人間だ、コメントを発する資格はない」と語ったと伝わる。
投稿子(蕃神ハガミ)なるは現在のマトグロッソさえ知らず、1935年当時の未開の様は想像するしかないが、多様な生活形態を維持する原住民のなかでも、ナンビクヴァラ族は最も原始的(=単純)だとされていた。悲しき熱帯のNambikwara章の最終行(P377)には:とある。
拙訳:私は人間社会の最も単純な(simple)表現形態を探していた。ナンビクヴァラのそれ(社会)とは幾人かの人間(des hommes)しかそこにいない、究極点だと知った。
解説:人間しかいない社会とは、制度や機関がないとの意味です。法律、身分制、教育機関、医療機関、交通制度などが見られません。<幾人か>は不定冠詞の複数です。定冠詞を付けてl’homme(the man)とするとその人の存在の意義、性格、知識などが確立して、“人”たる条件、資格を満たす存在となり、これは立派な人間に思える。文明人を彷彿させます。

不定冠詞複数の人とはどんな人々か、その生き様をこの章の90頁に書き連ねている訳です。

一家族、プラス複数人で生活のバンドを組みます。
バンドは定住での単位で、移動でも維持されますが、時には減員するとも示唆される。数100キロを自力で走行できない人は脱落する。
家族は家長、一人の、時には複数の妻、数人の子。プラスの人は個体では生活できない老人(女)、若者など。近隣の同族バンドとは連絡を取りますが、密ではないようです。定着地をどこにするか、移動ルートの連絡などが連絡項目のようです。
ブラジル会社が有線通信の中継拠点を攻撃した事例が報告されている。攻撃には毒矢を装備した複数の壮丁が目撃されていたから、(族の縄張り)が侵略される危機には、男複数がバンドを超えて戦闘員として集まる(ようです)。
教育機関は無いけれど、薬草毒草の知識、分別知識は蓄積され、父子を通じ伝わる。機関ではなく個人を介しての教育、医療に当たろうか。用具什器技術の伝達は母娘相伝を覗わせる、こちらは工芸大学の役割。これが彼らの社会。

世界観は;
自然と森羅万象を二分割して、男(主導)世界と女世界の対立、かつ相互依存が彼らの世界観です。
男世界は;
定住、安定、小屋住まい、安全、日々の繰り返し(manicheisme=マニ教思想、“単純な善悪論”の意味をかく訳した)、熱気、多雨、食物はマニヨック(キャッサバ)、狩りの獲物も潤沢なので日々食べられる。
女世界は;
移動、うろつき回り、昆虫小動物の採取、屋根のない地べたにごろ寝、乾燥、冷涼、飢餓。

前回(悲しき熱帯…5、5月26日)の課題に戻ります。
レヴィストロースが生活の2形態を家長から聞き取った時に、一方を暗く寂しく(melancolie)語り、もう一方は息を弾ませ楽しげに(exitation)回顧した。楽しげに回顧したのは定住生活と私は答えたが、師PierreGodoは即座にNONと否定した。彼らが息を弾ませて思い返したのは危険、飢餓の移動生活だった。
日本語でも同じですが前者と後者を前段で説明すれば、次段に移っても前者後者の関係は変わりません。レヴィストロースは前者を暗く、後者について明るく説明したと語り、前者は定住、後者は移動だった。(P340)。読解の基本中の基本でもありますが、ふと余計な、個人感想を雑念にして「たらふく食えるのは楽しい」と誤読してしまった。

ナンビクヴァラ族は「安定生活」よりもたとえバッタの脚で飢えを凌いでも「冒険、あらたな発見、困難を乗り越える工夫、ルートを間違えば飢餓が待つ」移動生活を好む。未開とされている部族ながら挑戦する気構えを持っているのだ。

猿でも構造、悲しき熱帯を読む 5の了 (次回は5月29日)
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猿でも構造、悲しき熱帯を読む 4 

2017年05月22日 | 小説
(5月22日に投稿 表題これまでの投稿は5月8日、18日)

ポケット版悲しき熱帯の340頁(第7部Nambikwara, 第27章En Famille=家族では)は彼らの生活を以下に記述する(原文)
Les rapports entre hommes et femmes renvoient aux deux poles autour desquels s’oreganise leur existence: (=以下略)
拙訳:(ナンビクヴァラ族)男と女の(社会的、心情的価値)関係は彼らの存在基盤の中に構成される。
(以下は略した部分の訳)
一方は定着生活で、食料の獲得手段は農耕となる。住居(hutte=藁と木っ端のオンボロ小屋としているが)建設と日々の畑仕事が定着での労働となるが、全てすべて男の役割である。時折狩りにでて、運がよければ獲物、肉にありつける。

この記述には前段があって、レヴィストロースはナンビクヴァラ族の男女意識を「男は体力、知識で女よりも上。女と子供は劣る」と語っている。定住生活で女性は一日しゃがみ込んで籠、紐などを作っている、娘は母親を手伝いながら技法を学ぶけれど男子は遊んでいるなどが状景描写されている。これらの生産、修繕の女の活動にしても生活に不可欠なのだが、男からは「楽な仕事」として評価が低い。

もう一方の生活、移動について。340頁引用を続ける
<la periode nomade , pendant laquelle la subsistence est principelement assure par la collecte et le rammassage feminins>
拙訳:移動の季節になると日々の糧は女が移動最中に採取する植物や昆虫のみとなる。

移動する際の格好とは男は弓矢だけで身軽、女は什器用具の一切を籠に詰め、幼児がいれば背負い、ペット(猿かオウム)は担ぐ(前回に記述した)。移動の最中にもバッタを見つければ、手持ちの棍棒で手早くたたき落とす。木の実など食できる植物を採取する。男が弓矢を持つのは狩りのためだが、移動の季節(マトグロッソとしては寒く乾燥)に鳥類、動物に出会う機会はほとんど無い。食物とはバッタの脚(sauterelleと記載されている)と葉っぱの幾葉しか用意できない夕餉もある。東京日野市で見かける痩せバッタよりも肉付き良くあれと祈るしかない。
定住はl’euphnie alimentaire=食物の調和、移動はl’aventure et la dissette冒険と飢饉としてレヴィストロースは定義する。
この季節と労働の感覚はさらに発展してゆく。
次ページ(341);
<les hommes evoquent le type de vie define par l’abri temporaire et le panier permanent(=以下略)>
l’abri以下について;
<一時の避難場所と身から離さない籠>は移動生活の修辞。文意全体の解釈のキーは動詞evoquerです(文中ではevoquent三人称複数で活用されている)。辞書Robert(peteit)での第一義は死者を秘術で呼び起こすですが、これは採用できない。<他人の心に画像を示しながら思い起こさせる>が第四義として載ります。スタンダード辞典では<連想させる>とあります。単に思い出させるのではなく<より具体的に状景を交えて説明する>。移動を避難場所と籠とで修辞した文章技法も納得できる。
拙訳は:
男達は移動生活を避難でのあれこれのやり取り、突然の雨で濡れてしまった籠などの状景を交えて(懐かしげに)語ったとなります。食物が潤沢に用意される定住生活の間にも腹を減らして苦しんだ移動生活を懐かしむとは。

340頁に戻ります。
<Ils parlent de la premiere avec la melancolie 中略 ils decrivent l’autre avec excitation , et sur le ton exalte de la decouverte.>
拙訳:一の生活形態とは妥協と生きるための諦め、辛い仕事の繰り返しとして物悲しく(melancolie)語る。もう一方はあらたな発見などでは息を弾ませ興奮して(ton exalte)伝える。
さて生活の二形態とは定住と移動。読者皆様に質問です。もの悲しく思い出すのは移動でしょうか定住か。
ヒントは定住では食物は豊富で、デンプン質も蛋白質も程よく調和されている。しかし移動は困難と飢餓、吹きさらし雨ざらしで地べたに寝る。
.投稿子(蕃神ハガミ)は当然として苦しい移動生活を悲ししみとともに伝えて、定住の描写には息はずませたと哲学の師PierreGodoに答えた。

猿でも構造、悲しき熱帯を読む 4 の了(次回は5月26日予定)
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猿でも構造、悲しき熱帯を読む 3 

2017年05月18日 | 小説
図の解説は文中
(表題これまでの投稿は5月8日、18日)


悲しき熱帯、全文497頁。レヴィストロースは1954年10月12日に起稿して翌年3月5日に校了した。同年中に叢書「人間の大地」の第2巻として出版された。後のインタビューでレヴィストロースは「中休みを勘案し、実質4ヶ月で書き上げた」と述べている。日本語訳は文化人類学者川田順三が完訳を河出から出版している。川田は訳には14年かけたと語っている。
出版までに至る事情には同叢書の選者であり第一巻(チュレ族最後の王)を著述したジャンマロリ(JeanMalaurie=歴史民族学、2017年5月にて存命97歳)が、コレージュドフランスの教授選に破れ気落ちしたレヴィストロースに「アンガジュマン」して再起を狙えと励ました本人の言が伝わる。(なお“気落ち”は投稿子ハガミの想像)
レヴィストロースはアンガジュマンを「未開と誤解される非文明人の生き様」の紹介と解釈した。生き様と世界観を紹介することで、彼らは決して「野蛮」ではなく「キリスト・デカルト的」西欧とは異なるものの倫理、論理、信仰に立脚した自然生活を享受していると啓蒙する。こうした市民の理解が北極、アマゾンの乱開発の防止につながるとの使命感が背景にある(猿でも分かる構造主義第一回目ご高覧を乞う)
一般化の故に「悲しき熱帯」はリセ高学年生徒でも読破できる文章のレベルだと語る御仁がいる。これほど投稿子を励ました解説は他になかったけれど、のちのち裏切られた気落ち感がひどく重篤だった。さらに悲惨は愛着のスタンダード辞書、一冊がばらけるまで酷使された。
2015年12月にアマゾンで購入、1年をかけてドクハした。読破とドクハは月とスッポンの差をさらに凌ぐが、私なりのドクハに至るまでにはA学院(東京駿河台)での哲学講座PierreGodo師の鞭撻を得た幸運にかかる処が大である。師からはこの作品で展開されている文章の癖、神学哲学での含蓄、用語法、ギリシャローマ神話につながる修辞などを教授された。モンテーニュと異なりイロニ(皮肉、批判、反語)は一切無いとのこと。解釈に行き詰まったら文字通り、すなわちRobert辞典での第一義(神学での解釈)で理解せよとも教わった。私的には難しい箇所にぶつかったらレヴィストロースを思い浮かべる。堅物、きまじめ、へりくつ三昧の尊顔から「意義通りに解釈せよ」が聞こえた。
一言で言えば彼の地の知識層が好む捻りと故事、言い換えと原典復帰が散りばまれる伝統に沿った、上質なフランス語論文である。
概要を早く理解したい方は川田の完訳を薦める。
この訳はレヴィストロース以上にレヴィストロースであるとも語られる。しかし2点の欠陥を持つ。
その1:ハードバック全2巻は長い。訳注を各所に附記している分の長さと思われる。その分、翻訳として完璧に近づくが、Recit(フランス文章の形態、私を主語として著者自身が知ることを述べる)の軽さは(あまり)伝わらない。
2:やはり翻訳である。日仏の文法用語法の差は、訳者の能力を超えて大きい。フランス語をある程度知る方には原典に挑戦することを勧めます。ちなみに投稿子は仏語を学生時期に4年習ったのみ、こんにちわは「サヴァ」と知る程度の仏語アマチュアです。

本文の内容は「熱帯」と「非熱帯」の記述が錯綜する。非熱帯にはフランス国内事情、学部生だった頃の思い出、フランス脱出(l’Armistice=第二次大戦での仏独休戦協定、1940年6月22日)までの経緯、ブラジル領事がビザを発給しなかった場面、アメリカビザを取得し出航できたまでとその船上の状景など。出版年は戦後10年、フランス人には対戦の記憶が生々しい筈で、非熱帯の内容には述懐が湧く内容と思われる。本投稿では「熱帯」に焦点を当てます。そして熱帯とは彼にとり、ブラジル・マトグロッソに限ると断定します。

文頭に同地の位置とレヴィストロースがフィールド調査した部族名の地図を載せました。
CADUVEO(カデュヴェオ)族がマトグロッソ南部に居住します。この地はパラグアイとの国境に近く、当時(1930年代)は未開発でレヴィストロースも民族調査に出たのですが、21世紀の世界地図と重ねると、今や都市が並び周辺は牧場、農場化していると思われる。
BOROROボロロ族が住んでいた地はそれよりも北、Cuiaba(クアアバ)の近郊。この都市は今も地図に載る。背後を高原が迫り、高原を越えてからマトグロッソが拡がる。さらなる北にNAMBIKWARAナンビクバラ族、そしてTUBIKAWAHIBチュビカバヒブ族が徘徊していた(当時は)全く知られていなかった奥地。
カデュヴェオからチュビカバヒブに至る順に、それら部族の社会構成が単純化し、規模は縮小してゆく。これは基盤とする土地の生産性によるもので、カデュヴェオ族はもともと「未開」などとは規定できない社会基盤、統治制度を確立していた。
そうした土地には入植者が早く入り込んだので、前記の順に「西洋化」の色合いが濃から淡へと変わっている。
本投稿ではレヴィストロースが最も調査、記述に力を入れたナンビクヴァラおよびボロロ族を取り上げる。
ナンビクヴァラは投稿子の知る限り他の、アフリカ南米でどの部族も取り入れてない生活形態、半年の定住と半年の遊牧という特殊生活を実践している。原語のNomadeを遊牧と訳したが、牧すなわちウシヒツジを帯同しての移動ではない。人が狩猟具、生活什器一式を背負って移動するのである。人としたが、男は移動の途上で獲物や敵に遭うかも知れないので弓を持ち矢を背負い、追跡の用意で身軽な出で立ち。荷物を背負うのは女の痩せ背である。故にハンモックなどのかさばる用具は所有していない。停泊地に休むときは裸身を地べたに横たえ寝るという「原始生活」を実践している。そして彼らの生活環境、世界観、倫理は構造主義が語るDualite =二重性、そのものである。

猿でも構造、悲しき熱帯を読む3の了(5月18日、次回予定5月22日)
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猿でも構造、悲しき熱帯を読む 2

2017年05月11日 | 小説


絵画はアンリルソー(税関士のルソー)の「熱帯」(ネットから)説明は文中。

前回は「題名の“悲しき”熱帯は苦肉の訳」で終えました。(川田順三の訳本)
原文の表題はTristesTropiques複数形です。もしあらゆる熱帯地方について語るなら定冠詞複数のLesを冠に置きます。すべての熱帯地方に共通する、ある何かを伝えるならLe(定冠詞男性形)を載せます。しかし冠詞が無い、と言うことは全てでも代表でもない。彼が知る範囲の、ある幾つかの熱帯地方について、それらが「悲しき」と言っています。「私は全ての熱帯を知る訳でない、訪れた熱帯の幾つかが悲しい」とレヴィストロースは教えています。

「悲しき」は悲しいの文語の言い回しなので、以下悲しいを取りますが、この語がくせ者です。くせ者振りを別の言い回しで説明します。
「嬉しい贈り物」を考えると、嬉しいは贈り物にかかる形容詞なので贈り物の数多い属性:高い安い、見てくれが良い、包装紙が老舗だなどの一つの属性としての「嬉しい」です。となれば贈り物が「嬉しい」と心が弾ませるとの表現ですが、その通りでしょうか。違います、貰う人が「タカシマ屋の紙で包装されたトラヤね、嬉しいわ」と喜ぶ。すなわち形容詞の「嬉しい」は名詞の属性ではなく、受け取る人との「相関」を表すことになる。
形容詞を用いる側の「感情移入」が形容詞に紛れています。日本人は時に形容詞を己の感情移入に使い、読む側もその様態で受け止めます。

もう一例「楽しい哲学講義」「もっと楽しいフランス哲学講座」あり得ない例で恐縮です。
形容詞「楽しい」とは、その語を受ける哲学講座が「今日は生徒が五人と多い、楽しいな」と嬉しがる訳ではない。出席する受講生に楽しみを与える「楽しい」です。するとこれもまた、形容すべき名詞の属性を示す役割から疎外されてしまった。名詞属性など無視した変幻自在の使い方、感情移入がここにも見られる。
しかし「赤いバラ」はバラが赤いのであって、眺める愛好家が赤面するとの意味はない。
どうも喜怒哀楽を表す形容詞には感情移入が前提となる、と投稿子(蕃神ハガミ)は考えます。(万葉集をひっくり返せば感情移入としての修辞法の歴史が出てくる。これはそのうちに)

しかしフランス語形容詞にはこの「感情移入」が全くない。
あくまで名詞を、存在する物体と“デカルト的に“とらえて、その本質、属性を説明する機能です。文法の説明書「le bon usage」を開くと形容詞の説明に「pour exprimer une qualite de l’etre ou de l’obejt」=物体、対象物が持つある一つの性質を表現する=とあります。それ以上でも以下でもない。すると「悲しい」に感情移入をしてしまう日本人の受け止めかたと、レヴィストロースの用い方とで乖離が発生する。「Triste=悲しい」には「読者を悲しませる何かが」熱帯地方にはあると理解するし、投稿子もそう受け止めていたが、これが誤解。
TristesTropiquesの意を正しく訳するとtristeをどう訳すかにかかる。辞書のRobert(petit)を紐解くと同義語にabattu,afflige,decourageなどが上がっている。悲しい中身には「うちひしがれた」「悲嘆に暮れた」「自信を喪失した」。投稿子は「惨め」を取ります。惨めは悲しいよりも強い表現だが、感情移入はない。
TristesTropiquesとは「幾つかの熱帯地方の惨めさ」、これが感情移入を遮断する意味において正しい訳です。しかしそんな表題の本を買う人はいません。悲しき…として気を引いて読ませる、あるいは購読につなげる。その意味では正しい訳です。(なお川田は室の訳語を踏襲している)

一方でレヴィストロースは別の手法で読者の感情移入を誘い、その大胆な試みが成功しています、名詞の含意と対立する形容詞を使う修辞です。有名なのは<LaPenseeSauvage>(野蛮な思考)。単数の定冠詞Laがあえて挑戦的に置かれます。「野蛮人の思考には実態があって本質も確かにある」との意が含まれます。野蛮人に思考だって、あり得ない形容詞の使い方Auximoreとして当時(出版は1961年)盛んに喧伝されました。
そしてTristes…について。
熱帯はかつて(本書が出版された1955年においても)悲しくは無かった。豊かな動物相、植物相を持つあこがれの地であった。レヴィストロース自身も<太陽、ココヤシの茂り…>とあこがれを述べている。投稿子は哲学の師PierreGodo氏にTristes…もauximoreの表現法かと尋ねました。彼はそこまでの対立はないと答えました。
熱帯が実はTristes(悲惨)だったとは、と読者の気を誘います。アンリルソーのちっとも悲しくない熱帯、夢を誘う1点を冒頭に掲載しました。

猿でも構造、悲しき熱帯を読む 2の了 5月11日
(表題1回目は5月8日投稿、次回は5月15日を予定)
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猿でも構造、悲しき熱帯を読む 1

2017年05月08日 | 小説
(表題一回目の投稿)


=写真は表題の本と文中取り上げた野生のスミレ、ポケット版=
猿でも分かる構造主義を4月5日(2017年)から8回投稿した。その背景は昔とった杵柄、フランス語を磨きあげんと、東京お茶の水のA学院に通学し始めたのが契機。2015年9月、折もよく哲学・人類学の講座が開かれていた。講師はPierreGodo師(哲学アグレジェ、大学教授資格者)、取り上げたのがレヴィストロース著の「悲しき熱帯」。理由について「一般の知識人(哲学、人類学の徒でない)が読んで楽しく、かつ彼の哲学(構造主義)の後の発展の基盤を各所に書き連ねてある」Godo師は何も知らない投稿子(蕃神ハガミ)を教えた。それ以前出版の「親族の基本構造」、以降の「野生のスミレ」は文化人類学の見識がないと、例えば「ニューヘブリデス島で実践されている贈答の慣行クラとは…」の行に出会っても、クラもヘブリデスも知らないから、多くの頁を読み外すだけに終わる。
手元のポケット版は講義に合わせてアマゾン購入、講義に並行して読み進めた。猿でも…で掲載した写真を再掲する。社会学・人類学徒を熱狂させ、日本でも一世を風靡し紙価を高めた著名な作品、そのあらましとは;

1 フランス文化で言うところのレシ(recit)、主人公は「私」で語り口が「私」、その感覚や外界世界の受け止めがテーマであり分かりやすい。土佐日記に代表される日本の「日記」に近いスタイルである。反面、ロマン(roman)よりは物語の地平が拡がらないとされる。ジッドの「狭き門」はこのスタイルのノーベル賞レベルの傑作。
2 1954年、レヴィストロースはコレージュドフランス(College de France)教授職、人間博物館(Musee de l’homme)館長職の就任を学会の主流派(ノルマリアン)から拒否された。失意のレヴィストロースに手を差し出したのがマロリー。人間の大地叢書に「一般向け」の読み物を書いて欲しいと(=猿でも…の2回目)。依頼を受けて1954年10月から4ヶ月で書き上げた。
3 497頁に及ぶ大作にはフランス語に素人の投稿子(大学4年間で学んだのみ)でも挑戦したい魅力が溢れる。分かり易いとの評もあってその尺度をある方(日本人)が「リセ上級生にも理解できる程度」とした。その通り、正しいと感じる反面、それでも、小老(蕃神ハガミ)は一行あたり数度を躓く。ねじり鉢巻と辞書は、もちろん、離せない。
私程度の仏語理解力をお持ちの方、それ以上の造詣をお持ちの方は、日野市には少ないが、日本には多いと信ずる。アーベーセーから始めてでも原文で挑戦するを勧めます。

この構想を、孫のハルカちゃんに会いそびれた「失意の」K氏に明かしたら;
「それって川田順三っていうお偉い文化人類学者さんが完訳したヤツですよね」と返事しにくい指摘を投げてきた。小老は顔をしかめながらも、
「あれは立派な仕事だ、4ヶ月で書き上げた著作を14年かけて訳したのだ」
「原文を読まなくとも、立派な訳本がシリツ図書館の閉架書庫でお待ちしてるのでは」
K氏は投稿子の仏語能力を疑っているのだ。年金老人とはいらん時に鋭く、洞察力を披露するヤッカイな者共なのだ。
「シリツ図書館の世話にはならぬ、原文に挑戦するのだ。日本語とフランス語では基本的に異なる。原文をドクハする事で、神様、レヴィストロースの思想に触れる」
K氏は投稿子が神様の「思想に触れる」に納得していない。「ドクハするだって?フーン」の鼻息で白け振りをあからさまにした。そこで投稿子は;

フランス語の名詞には男性女性、単数複数。3種の冠詞、8の時制、3の法(直接、接続、条件)など複雑な上、これらは日本語には存在しない。条件法をとっても「あり得るかあり得ないか」に言及しない単純条件と「あり得ない条件」を示す仕組みがある。あり得ない過去を仮定して、そうなったら今頃はどうなっていたか。そんな言い回しに原文なら肉薄できる。
「そこを知るのが苦労しても原文で肉薄する理由だ」かく、投稿子は、疑いを隠さないK氏に曰った。

本文の書き出しが < Je hais les voyageurs et les explorateurs >
訳すと<私はあらゆる旅行者と探検者が嫌いだ>である。Lesは定冠詞複数形、旅行者という者の全て、探検者という者の全てが嫌いと語る。しかし彼はブラジルに旅行し部族の研究をした訳だから、その範疇にしっかり入っている。この絡繰りを考えていくと、レヴィストロースが嫌いなのは「旅行する」「開拓する」人々ではなく、行為その物なのだ。すなわち、はからずも旅行して探検して、ボロロ族、ナンビクワラ族などに闖入した懺悔の一文と読める。レヴィストロースが訪問しなくともボロロ族はボロロ族のまま生き続けるのだ。
実質では本文の最後となる495頁に<Le monde a commence sans l’homme et il s’achevera sans lui>
宇宙の始まりを複合過去で始めている。その宇宙は未だに続いているとの意である。始まりに人間は存在していなかった、終わりにも人間は居ない。終わりと訳したが、ここに用いられているs’acheverは一仕事を完成するの意が強い。すなわち「今のこの宇宙は昔に始まって、今でも続いているけれど、一段落ついて必ず終わる(単純未来)。始まりにも終わりにも居ない人は宇宙にとって無視されるモノ」と伝えた訳である。
無神論者の乾いた、突き放した言い方であろう。K氏には
「仕事の懺悔で始まり、無神論の響きで終わる。ならば本文はこんな文章の機微がてんこ盛りだい」と伝えた。その上「そもそも題名の悲しき熱帯が苦肉の訳なのだ」

1の了 次回投稿は5月11日
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女子4歳が母に伝えた言葉 2

2017年05月06日 | 小説


(写真はバドワのポストイット=説明は文中、別葉は今が盛りのチューリップ、水平の西日に当たっていました=2017年5月3日撮影)
昨日は5月5日(2017年)こどもの日、友人K氏が心待ちにしていたハルカちゃん上京訪問が母親シズカさん(K氏の長女)の都合でキャンセルになった。「元気になっておじいちゃんちに行こうね」とハルカちゃんが母を慰めたと聞いてK氏は「ホロリとした」。ここまでは前回。このやり取りでうっかり投稿子(蕃神=ハガミ)がK氏の説明を「物事、存在を分析するデカルト的上からの目線」と指摘した。これにK氏が「色をなした」。そして「構造主義的にハルカちゃんの心情を説明してみろ」のきつい一言。
思いもかけない叱責と質問に投稿子の額から汗がタラリ幾筋か。しばし黙考してハタと拳を打った。
「これを見てくれ」と差し出したのはバドワ(Badoit)社のポストイット(上掲の写真)。
Badoitとは仏のミネラルウォーター、軽く発泡するので喉ごしがさわやか。同種のペリエより刺激性が少なく、エヴィアンよりも濃厚。投稿子の好みだが多摩の日野なる地ではスーパー陳列棚に見たこともない。もう幾十年、口に含んだ記憶が無いから味も忘れた。
東京なら手に入れられるかもしれないから、皆様お試しを。
そのBadoitがある年の春先、とある食堂でキャンペーンした。ボトルを注文した客にノベルティとして配った。表書きはBoisson=ボワソン= d’Avril(春の飲み物)、紙の形状は魚=Poissonポワソン=故に飲み物と魚の地口。フランス人は滅多に地口を使わないが、こいつは「季節の時宜を得て洒落ているな」取っておいた。

「なんだ、魚じゃねえか」とはK氏、大当たりだ。K氏は還暦を過ぎた老人ならばデフォルメした形態を見てもポワソン、魚と判断したのは不思議でも天才でもない。しかし;
「一昨年の夏、お孫さんハルカちゃんを散歩がてら連れきた」
「あの年は夏休みに訪れた、ハルカが2歳半かな」
「これをオトトと呼んだ、その2歳半の子の頭に、一体、何が起こったのか」
「見て判断したのだ」
この「判断」を耳にしたからこそ、したり顔でK氏に迫った投稿子は
「見ての判断、その絡繰りが構造主義なのだ」
「2歳半で構造主義者とは、ヘーッ」
信じられないと氏はしきりに目をしばたいた。

ハルカちゃんが魚=オトトを目にでき触る機会とは、母親に連れられスーパーの鮮魚売り場に立ち止まり、数々の種類を目の前にして母から「これらは全部魚」と教えられる。あるいは絵本に出てくる崩れた姿の頭と尻尾を見て「魚」と教わる。このような機会の中で「魚は頭が尖って、尻に尾びれがついている、食べられる」との思想=表象を、自身のなかに醸成していたはずだ。このポストイットはある春先に小さな料理店で一回だけ配っただけ、母親のシズカさんがこれを手にして「これもオトト」と教えた可能性は限りなくゼロである。
自身の「魚の思想」と目の前の「魚らしき形状」を対比=Dualite 二重性=させて魚と特定した。これがK氏の言った「見て判断した」行程の構造主義的説明である。
デカルト分析ではBadoitのポストイットを「魚」と見られる訳がないし、メルロポンティの「知覚」でもこんな紙片を魚として「領域」から抜き出す作業は無理だ。
まず己が思想=表象を持たなければ先に進まない。表象と目の前の形状との二重性の対比が頭に浮かばない。
2歳半でもヒトの子は思想=表象と形状の対立関係を理解する。これがまさにゴリラチンパンの子らに対してヒトの子の優位性である。ちびゴリラちび猿なんかと比べてハルカちゃんはとっても偉いのだ。
ではハルカちゃんが抱く思想とは何か。母親との関係を基盤とする生活、安定、継続ではないだろうか。こうした「日常」を思想として頭に持つ、おじいちゃんを訪れるはこの「日常」を形づくる「存在」の一角であった。その一角が崩れた、これは「思想」の危機である。
K氏をほろりとさせたハルカちゃんの母への励まし「希望、同情、永遠」(第一回を御参照)とはこの構造が脅かされる「存立危機、そして共演者の母への励まし」であったのだ。
投稿子はK氏にここまでまくし立てた。その顔が「ドヤッ」と歪んだ。そのドヤッに反発したK氏は納得するどころか、
「一体どこに、構造主義とやらのご託宣が出ているのか」
ドヤ顔をおさめて投稿子は厳かに、
「悲しき熱帯=TristesTropiques=に全て書かれてあるぞ」(了)

次回は猿でも構造、悲しき熱帯を読む(5月8日出稿予定)
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女子4歳が母に伝えた言葉 1

2017年05月02日 | 小説
表題 第一回の投稿

ゴールデンウィーク真っ盛り、この地日野でもツツジの盛り、近辺の満開ツツジを載せました。
昨日(2017年5月1日)多摩では天候急変でにわか雨を経たが、午後に回復しさわやかな夕べを迎えた。友人K氏が散歩の途中で弊居に立ち寄った。浮かぬ顔を見せている、ワケを尋ねると、
「連休に来る予定だった孫が来られなくなった」
K氏の長女が結婚してご主人の勤務先の愛知県に住むことになったとは仄聞したが、お孫さんができたとは知らなかった。K氏は続ける、
「4歳になるのだがここ一年ほど見ていない。娘の家族は愛知県みよし市、こっちの儂は日野なる多摩の田舎、会うと言っても一日がかりになるから、夏休みかゴールデンウィークくらいしか来られない」
「お孫さんの顔をみたければあんたが「みよし」なる田舎に行ったらどうだい」
「そういう事にするかと、何回か、シズカ(娘さんの名)に声をかけたんだが、断られるんだ」
理由は先方の多忙にある。
シズカさんのご主人は車両関連のメーカーに勤務している。愛知県で車両ともなれば、プリウスとヴィッツが売れまくりの世の中、鼻息が荒い。忙しさも宜なるかな。
さて上記、投稿子は何も知らずにみよし市を「田舎」と蔑んだが、世間知らずの大間違い。世界に冠たるT社が新鋭工場を幾つか設けている地なれば、かのT市並みにインフラと社会保障、綺麗な(ハリウッド的な)道路網が行き届いているのだとか。多摩にも「豊田」はあるが、こっちのトヨタ(トヨダァ~と地元民は発音する)は駅をとっても平坦な田舎っぽいトタンのボロ建て。ビルがぐるりと囲むあっちのトヨタ駅の回りと比べたら、月とすっぽんの差をつけられている(らしい)。
その上に娘シズカさんは常雇いで働いている。主婦で母親、会社員。それだけでも忙しい上に「資格を上げるためにこの4月から大学院に行ってるんだ」
それじゃお爺さんが立ち寄っても迷惑を振りまきに訪ねるだけだ。
投稿子(=蕃神ハガミ)はかつてK氏宅でシズカさんにお目にかかったけれど、小柄な、話し方のしっかりさが印象に残る小学生だった。その子が今では
「ハルカちゃん(お孫さん)を保育園に預け、名古屋市央の事務所に通って、週3日の大学院の講義に出てる」
投稿子には想像するだけで怖じ気づく忙しさ。タッキュウービン、デンツーだって裸足で逃げ出す世界に昇華している。温和しそうなお下げの子がキャリアウーマンで大学院生、働き戦列の現役で第一線、夫に負けじのウーマンワリヤーに化けたとは。
これほどまでの個人変化の振りには畏れ入った。それがシズカさん一家の望む生活の形態であるし、社会が個人、家族に求めている新しい仕組みかも知れない。お下げ少女からワリヤーへ、20年の歳月がもたらした変質を社会が求めているなら、多くの人がその潮流に何かを求め、浮かび泳いでいるかと信じます。
その代償が忙しさとは前述の通り。
「ゴールデンウィークに入った途端、シズカが風邪で寝込んでしまった」
風邪の症状は表向きで、緊張と疲れの重なりから解放された心身が求めている活動のポーズ、中休みであろう。
「孫ハルカがシズカにこう言ったのだって。ママ、元気になったらおばじいちゃんちに行こうね」
これを聞いてK氏はほろりと涙をこぼした。お孫さんハルカちゃんに会わなくともこの一言を伝えられただけで大満足。ハルカちゃんの成長ぶりがうかがい知れたからだ。
投稿子も思わず頭を唸った。4歳にして子とは、これほどにも巧みに言葉を用いて、己の信条を、かくも美しく母に伝えるのかと。
「Kさんよ、ハルカちゃんには思い遣りって心が目覚めているんだ」
「ハガミさんよ、よく言ってくれた。去年の例を聞いてくれ。昨年の8月、ウチに来てすぐにシズカは塩梅が悪くなった。横になっているシズカを、ハルカがママ起きて起きてって騒いでいたんだ。それと比べたら大の進歩。しかしそれを思い遣り一言で言い尽くしたと誤解しないでくれ。より広範な心構え、生きてゆく上で欠かせない心情だろうな」
その心情はハルカちゃんに芽生えている1励まし 2希望 3同情 4永遠 が籠もるとK氏は断じた。
「Kさん、その通りだろう。ハルカちゃんの心情の本質とはママと共に生きる、すなわち協和でその属性が1~4に分析されるな。これはまさにカルチアン(デカルト信奉者)の筆頭アンドレジッドが狭き門(=小説)で開陳した手法だな」
投稿子のふとした指摘にK氏が色をなした。
「そんなら、あんた、構造主義的にハルカちゃん心情を説明できるとでも言うのか」

女子4歳が母に伝えた言葉 2 に続く(5月6日に投稿予定)

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