蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

子は親を選べない、だから自分を選ぶ。出生コホート考 2

2025年03月03日 | 小説

(2025年3月3日)英国のコホート調査を前回に続いて紹介します。本書(ライフ・プロジェクト、ピアソン著大田訳、みすず書房)中のファインスタイン・グラフの手書き写し図1は逆転の状況=前回説明。図2はその伝えかけ。内容は字義の通りでその1は;多くの子は小学低学年での学業位置を高学年に向けて水平に維持する。優秀な子は優秀なまま、低迷する子は高学年でも成績はわるい(水平線)。2しかし2の例外があった、優秀な労働者家庭の子は11歳を前に、低迷だった中流家庭の子に逆転される(下向きと上向き曲線)
11歳に何が待ち構えるか。英国一斉の選抜試験(イレブンプラス、GCSE)。合格者は一般の中高校(グラマースクール)に進学できる。高等教育(大学)につながる道が開ける。不合格者は職業訓練学校に進学する。前者は専門知識、資格に結びつく教育を受けられる。片方にはその機会は閉ざされ、肉体労働的仕事に就業する、その待遇に甘んじる生活を選ぶ。11歳にして人生の可能性の上層下層が振り分けられてしまう。


本書ライフ・プロジェクト

11歳を前に下層優秀子が中層凡庸子に抜かれてしまうファインスタイン・グラフ。手書きの写し(前回掲載)

グラフの伝えかけ

(本書で仕入れた挿話。ジョン・レノン(ビートルズ)は労働者家庭の子ながら11歳試験に合格した。祖母は大喜びして青いラーレー自転車をプレゼントした。グラマースクールに入学するも、法律を学んで弁護士になるとかには関心が薄れ、音楽を選び才能が開花した)
一図の逆転に戻ろう。

著者は親の関与の差が逆転に現れた結果と分析している。中流階層の家庭では親も中流の職場勤め。中の上となると医師、弁護士、経営者など資格者、財産家。子には、自身が確立した業職に踏みとどまれる教育を切望する。勉強する環境、自室、机を揃え、更に塾に通わせる家庭教師を当てる(こうした資料、例えば親の職業、家の間取り、自室はあるかなどは調査の原簿に揃っている。それらの項目から出自階層を想定し学業を経年で結びつける。出生コホートの強みです)。
他方、労働者階層では親は子の教育に無関心。自室、机などもあてがわれていない。金のかかる塾に通うことなど考えられない。我が子に学問を全うしないと出世できないーと絶対に言わない(らしい)。子も学業への関心が薄れ、11歳を迎える頃には選抜合格の水準には達しない(ようだ)。

父親は稼いだ金を一日一本のウィスキーに無駄遣いし、酔っ払っては無意味説教に時間を費やし、スティーブ・クリスマス(コホート対象子)など兄弟を深夜まで眠らせない。11歳になってテストを受けたとき「自分がなぜそのテストを受けているのか分かっていなかった」答案紙を白紙で出した(78頁)。
著者はこの逆転の舞台裏を一言で論評している「子は親を選べない」(本書から)。
選抜試験の制度と階層によっての取り組みの差、さらに図1の逆転を併せ読むと、弁護士の子は弁護士に、医師の子は医師を継ぐ。労働者の親に当たってしまった子は労働者になるしかない、蛙の子は蛙。
こんな社会が浮かび上がるのだが、それが階層社会とされる英国の姿であろう。「ブランデン=コホート分析者=が見つけたのは社会流動性の悪化である。1970年生まれの子の収入は、58年生まれの子以上に、親の所得と強く結びついていた。イギリス国民は生まれたときの経済状況に縛られている。229頁」

出生コホートについて著者にしても長くこれを知らず、一般に膾炙されていなかった背景は英国社会の閉鎖性、階層分断の病理があからさまになっている、その事態が突きつけられるとしたらの為政者の怖れ、体制側の自己防御が働いていたのかもしれない。
蛙の子が終わりではない。トンビがタカを生む例だってあるのさ。それこそ投稿題名の後半「だから自分を選んだ」。階層を上げて新たな人生を展開する人々も報告される、

前出のクリスマスはコホートの再調査(スィープ)に25歳の状況を以下に綴っている。「姓名をマーク・スティーブンに変えた。結婚して4人の子を設けた、職業は巡査部長で仕事は辛い、銃に打たれる危険だって抱えている。寝室6、キッチンと風呂、トイレ付きの家に住む」
呑んだくれの父の醜態は継がず公職にありつき、家族を養い寝室6の家構えは、実家での生活よりも上昇している。階層上昇に成功した道のりは語られていない、改名した経緯と関連があるかもしれない。

もう一例、「落伍者」とレッテルを貼られた11歳がいかにして「自分を選んだ」かが語られる。
チータムの生活環境が語られる。長屋住まい、トイレは掘っ立て小屋。父親は線路保全、母親は紡績職工、「労働者階級」の典型、さらに幼くして父を亡くし「生まれながらの落伍」と揶揄される境遇だった。
「彼は頭が良かったがそれだけでは11歳テストをくぐり抜けられなかった。しかし不断の野心で逆境に打ち勝てると信じた。訓練校からモダンスクールに転校し(ここで親戚から援助があった)製図の技を磨いた。奨学金を勝ち取り上級学校に進み、航空機設計、情報産業などに従事した」「労働者階級生まれの不利を克服した」(94頁)保全工員の父の境遇から抜け出すのを目指し、社会的に中流と分類される専門技術職にチータムは就業できた。本書ではこうした成果の83の例が記録されるとしている、母数は46年コホートの1万7千人。
子は親を選べない、だから自分を選ぶ。出生コホート考 2 了 (3月3日)

Erratum:前回英国での出生コホートの実施回数を7としたが5。また本書の評価を「知識の地平を広げる」としたが、故小柴昌俊博士(ニュートリノ天文学創始、ノベル賞受賞)の名言(読売新聞時代の証言、ニュートリノは何の役に立つかの質問の答え)のパクリです。
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子は親を選べない、だから自分を選ぶ。出生コホート考 1

2025年03月01日 | 小説

(2025年3月1日)コホートと呼ばれる調査手法をご存じと思います。この語が投稿基点なので説明をいれると、ある特定の要素を共通項に設定し、該当する多数を一集団にまとめ各個人の生活、健康、行動などを調査する。すると集団が抱える傾向が、この要素との関連で分かってくる。例えば喫煙する人をまとめ、健康を調査するとがんとの因果が明瞭に見えてくる(このコホート調査は1950年英国に遡る)。肥満と糖尿病についても幾つかの医学コホートで密接な関連が判明している。

「出生」コホートなる分野がある。特定の年、週を選び、その期間に「出生」した(原則全員の)子の生を追いかける。英国が先鞭をつけ、後に欧州各国、アメリカにも普及した。回数(英国では10年置いて7回、7万人を巻き込む)、規模の大きさでは英国が抜きんでている。嚆矢は1946年、3月の第一週に英国(正しくはUK)で生まれた子、全員を集団にくくった、出生時期を共通要素にした訳です。


上図の説明は拡大図とともに下に(本書の最大伝えかけです)


ピアソン著大田訳のライフ・プロジェクト

対象者は1万7千人あまり。生まれたときの家庭環境、自宅出産か病院から、難産だったかなど項目から始まり、年を経ても聞き取り調査(スウィープ整理と呼ばれる)は実施され、成長しての学業(11歳の全国選抜試験が重要)、就業、結婚などを追いかける。今、彼らは78歳を迎えている。幾割かは疾病に悩み、死亡に至ったかと。その原因、死亡時の環境なども調査されている。存命の方も含め、人生の一巡りを調査されていた。

さて雑学(金にならない知識)で、わずかな蓄積を持つと自認する投稿子(部族民渡来部)は、2025年1月まで「出生コホート」の存在を、実は知らなかった。無知を一旦は反省したが、恥じ入ることはなかった。ネイチャーのエディターにして新鋭サイエンスライターのヘレン・ピアソン女史(英国)も2010年まで、64年前から、自国で、これほどの規模で、展開されている調査、研究の存在を知らなかったと告白している(ライフ・プロジェクト、同女史著大田訳、みすず書房2017年刊。以下「…」引用は同書から)。広範に知らされない理由は調査者側(予算をつけ政府)に、調査結果に認められる不都合が拡散されては困るーに尽きる。著者は英国人なので、その不都合、英国の社会病理、を詳らかにしてないが、外部(日本人)ならば立ち所、見当がつく。それは後述するとして、膨大な調査結果の中から、本投稿の表題に沿う一点だけを紹介する。
その一点は表題「子は親を選べない」(ピアソン女史の名言、本書から)。

本書 222頁に掲載されている、一般的にファインスタイン・グラフと賛辞される図を簡略化した自筆写しです(頁のグラフのデジカメを投稿に利用するのは著作権に触れると判断した。この稚拙落書きなら、みすず書房さんの許諾を得られるかと勝手解釈。整った原図を見たい方は「ライフ・プロジェクト」を買ってください。「知識の地平を広げる」秀逸本です、ちょっと高いけど)。


本著作の圧巻がこの図(著作権を考慮し、デジカメ再生していない)

図の読み方は ;
縦軸は学業成績、上は優秀下が凡庸。横軸は調査対象者(出生コホート)の月齢。幼児期(月齢22)の知能検査に始まり、11歳の学業成績まで記録される。ファインスタインは対象者を4分類した。幼児期に優秀な知能を見せた1中流家庭出身(上の青線) 2労働者家庭出身(赤線、右上に始まり左下に落ちる) 3中流家庭出身(赤線、左下に始まり右に上がる) 4労働者家庭出身(青線、下位に低迷)。
メッセージは ; 多くの子は高い知能であれば学業も優秀。低い知能は学業も低迷のまま(上の青線1と下の4)。2の例外が見受けられる。中流家庭趣出身の凡庸幼児は学年が進むにつれ、学業が上がる(3の赤線)、労働者家庭出身の優秀な子は学年が上がると成績は下る(赤線2)。「本グラフは学術誌に発表され、広く周知されることとなった、世界中の講演で話題になった」(224頁)

人は親を選べない、だから自分を選ぶ。出生コホート考 1 の了(3月1日)
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ヘーゲル精神現象学 Certitude部のまとめYoutube投稿

2025年02月25日 | 小説
Youtube概要欄の文章:

感じる蓋然は、そもそも、モノ世界の運動原理を悟性が体得し、自身の精神作用として、モノ理解に発動する。ヘーゲル弁証法で、悟性と知覚を結びつける役割を担います。

実質を知ることはできない。「今」、あるいは「ここ」の中に何があるかについて述べるは難しい。さらに私に何が在るのかも言えない。これ、ここ、今、これら個別の存在を述べながら、私はあらゆるこれ、ここ、今、全ての存在(の普遍)を言っているのだ。感じる蓋然は、対象の真実としてこの普遍を表現する。存在は対象に実質として宿る。それは即座ではない。そこに在るものは介在と否定であり、それは存在の普遍となる。この過程で残るモノは、理性が(眼の前に)見ている存在ではない。それは決定因を付帯する存在、抽象的存在、あるいはこの純粋普遍といえる。弁証法の舞台はモノ世界、否定肯定、実際のモノの流れを精神現象内に取り込む。ヘーゲルの弁証法を端的にまとめた一文といえます。 

Youtube動画リンク https://youtu.be/R6yRwyNTdDk
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ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit 第一章悟性Certitude部のまとめ 下

2025年02月24日 | 小説

(2025年2月24日)« l'autre moment est posé, au contraire, comme l'inessentiel et le médiatisé, ce qui en cela n'est pas en soi, mais est seulement par la médiation d'un autre, c'est le moi, un savoir qui sait l'objet, seulement parce que l'objet est, un savoir qui peut être ou aussi ne pas être. Mais l'objet est ; il est le vrai et l 'essence, il est, indifférent au fait d'être su ou non, il demeure même s'il n'est pas su, mais le savoir n'est pas. si l'objet n'est pas » (83頁).
(前回22日の最終文は「哲学的」思考のモノ世界観察。こちらはヘーゲル弁証法の思考)別のもう一つの要素が置かれた、それは反対に非実質であり介在を通している。その中にあるものは、それ(対象)自身ではない。他者の介在を通して存在する。それは私、悟性であり、知である(知が現象として野に投影する要素、介在を通した対象)。その知は対象が存在する存在するかしないかを知るだけの知といえる。しかし対象はそこに存在する、それが真実で実質である。実質は知られているのかいないのかには無関心である。知られていなくともそこに潜んでいる。そこに対象が存在しなければ知も存在しない。

« peu puis-je dire ce que je vise dans le maintenant et l'ici, aussi peu le puis-je dans le moi. En disant ceci, ici, maintenant, ou un être singulier je dis tous les ceci, les ici, les maintenant, les êtres singuliers » (86頁)
(実質を知ることはできない、一つのモノを例として普遍、全容を語る)私(悟性)は「今」、あるいは「ここ」の中に何があるかについて述べるは難しい。さらに私には何が在るのかも言えない。これ、ここ、今、これら個別の存在を述べながら、私はあらゆるこれ、ここ、今、全ての存在(の普遍)を言っているのだ。
« La certitude sensible démontre en elle-même l'universel comme la vérité de son objet. Le pur être est alors ce qui demeure comme son essence, mais non plus comme un immédiat, mais comme ce qui est tel que la médiation et la négation lui soient essentielles. Ce qui demeure donc, ce n'est plus ce que nous visions comme être, mais l'être avec la détermination d'être l'abstraction ou le pur universel » (85頁).

訳:感じる蓋然は自身の内に、対象の真実としてこの普遍(介在が代替していく)を表現する。純粋存在は、対象に実質として宿る。それは即座ではない(介在を受けている)。そこに在るものは介在と否定であり、それは存在の普遍となる。この過程で残るモノは、理性が(眼の前に)見ている存在ではない。それは決定因を付帯する存在、抽象的存在、あるいはこの純粋普遍といえる。

弁証法の舞台はモノ世界、否定肯定、実際のモノの流れを精神現象内に取り込む。ヘーゲルの弁証法を端的にまとめた一文といえます。 

ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit Certitude部のまとめ 了


まとめの追:ヘーゲル弁証法の2段ロケットを部族民は主唱してきた(図)。一段目(導入章で解説される)は現象の野で、モノ「概念」と悟性の「基準」の対照の結果、否定が生ずると説明された。感じる蓋然の章になって、肯定否定はモノ世界の普遍であると知らされる。それだけ絶対知に近づいた訳か。


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ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit Certitude部のまとめ

2025年02月22日 | 小説
(2025年2月22日)本文の第一章 Conscience悟性その第一部はLA CERTITUDE SENSIBLE, OU LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界)Jean Hyppolite訳による仏語版から。

(当ブログ及びYoutubeに投稿されたLa Certitude sensible (感じる蓋然) 1月23日から4回のまとめです)

本章を理解する3の鍵語から入る ; 1Certitude sensible感じる蓋然 2Immédiat即座 Médiation 介在 3Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)
1 Certitude:定訳は確実、必然。これらには定量性の含意が強い。蓋然は(定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近い。悟性に宿る精神作用で、モノを観察(感じるsensible)する際に発動する。Certitude語義には主体か客体かが不定であるが、本稿では主体とする。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する(cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. Page81. この蓋然=モノを即座に見る=の見方では抽象的かつ貧しい真実しか求められない=後述)。介在はモノに(必ず)付属する「属性」(ヘーゲルは属性の語は用いていないが)。「Maintenant est la nuit今は夜」は真実である。しかしその真実は、瞬時に、朝を迎え否定される。見えるがままではなく、実質と介在を分離し、「夜」は介在であり、それが朝になって否定される。否定されるのは介在であり、介在は肯定されて後には否定される。
3 介在を否定肯定する過程がモノの普遍universel。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueを観察する。この弁証法を、蓋然として取り入れなければ、モノの真実を掴めない。


Youtubeのサムネイル


さて、この部ではモノ世界がどのように運動し、ヒトがその様を如何に観察すべきかを記している。モノは実質essenceと介在médiationで構成される。実質にはヒトが接近できない上、それを直感的に(即座immédiat)捉えたところで「貧弱な真理」しか得られない。介在は肯定され否定される。(この例に「今は夜」を挙げて、朝になったら介在の夜は否定され、今は朝となる。その朝も瞬時に否定される)
この肯定否定の流れを普遍universelとする。普遍を掴む精神作用をcertitude sensible感じる蓋然という。この蓋然に目覚め、モノ世界の経験expérience=弁証法を体得することで絶対知に近づく。いくつかの文節を引用する。

即座でモノ世界を捉える誤り ; « Le savoir est notre objet ne peut être rien d'autre que celui qui est lui-même savoir immédiat, savoir de l'immédiat ou de l’étant. (La phénoménologie de l’Esprit Conscience章 81頁).
拙訳:知ること、これが我々(理性)の目的であり、即座の知であり存在するモノをあるがまま知として受け入れ、何かに置換する試みなど廃し、他のいかなる受け止めから独立して、この理解を尊重するのである。
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).

しかし「この蓋然」(感じる蓋然とは別の即座性)は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内を単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけ。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない。

個(conscience)が感じる蓋然を得る仕組み ; « j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。
モノに介在は付帯する。その介在カラ蓋然を学ぶ。
上記の仕組みが今回(中)で明かされる。精神現象の野で悟性が対象を取り込み、(蓋然の作用を帯びながら)モノを理解する流れとなる; « Dans cette certitude, un moment est posé comme ce qui simplement et immédiatement est, ou comme l'essence, c'est l'objet »

蓋然の中に一つの要素(moment前投稿では節目)が置かれた。それは単純にかつ即座的に、実質としての対象である(この思考が哲学的)。
ヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Esprit Certitude部のまとめ 

上の了(2月22日)


部族民から:ブログ内容は動画、パワーポイント(PDF) として以下のサイトで確認できます。
部族民ホームサイト www.tribesman.net パワーポイントのPDF、及び動画
GooBlog部族民ページ https://blog.goo.ne.jp/tribesman
Youtube(1月21日最新動画は) https://youtu.be/-1GbOAO7Nwg
(他にも複数の動画投稿、チャンネル登録かYoutube検索窓に「部族民通信」で検索すると速い)
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ヘーゲル精神現象学 感じる蓋然章 下の2(本章の最終回)Youtube投稿 

2025年02月18日 | 小説

(2025年2月18日)感じる蓋然の4回目、最終回となります。モノ世界での否定肯定の活動、そこに普遍をみつけるヒトの悟性。ただし、感じる蓋然を自己に取り込まなければ、悟性はこの普遍を知ることはできない。ヘーゲルは異なる用語「感じる悟性」を持ち出します。こちらを「哲学的」悟性とも語ります。この悟性は実質のみ知る、するとその観察では「否定を受けない」肯定、いうなれば瞬時の実質を見つめる悟性となる。その悟性は、一旦は「豊かな」認識を獲得したが、認識した時点でこの実質は風化している。豊かさが逃げ、貧弱な実質を抱えるーと指摘する。


Youtube用のサムナイル


感じる蓋然章の最終文節(本投稿)でヘーゲル指摘の注目すべき箇所について ;

否定・肯定の繰り返しで進展する(1~3の箇条を示す)モノ世界の運動(弁証法)。それぞれの節目でモノが判断し次の行為に乗り出す。すなわちモノは反照し節目を確認し、実行する。ヒト悟性はモノの運動を認識し、それとして受けいれる。「感じる蓋然」は「モノ世界の運動」そのもの(=本章)といえる。

弁証法主体はモノにあるとの主張です。マルクス歴史経済学を予言し、サルトル実存主義の魁を演じた一文を見つけた次第です。

動画Youtubeリンク https://youtu.be/J8-2YFGCLus
部族民通信サイトでの頁(Text中心)は https://tribesman.net/Hegelcetitude3.html

哲学頁は https://tribesman.net/philo.html
(哲学頁からは動画(HD解像)、PDF, 2分のシャクタン・ショート動画に接近できる)

部族民通信のホーム(Index頁)は https://tribesman.net/index.html
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ヘーゲル精神現象学 悟性感じる蓋然 Yourube下の投稿 案内

2025年02月09日 | 小説
(2025年2月9日)表記をYoutube に投稿しました。この動画(ヘーゲル精神現象学本文悟性Conscienceの章 第一部 感じる蓋然下)では「感じる蓋然性とはモノ世界の蓋然性=そうであるか、違うか」が精神に、機能として乗り移って、精神作用としてモノ世界の蓋然を理解するに至るー事を明らかにする。実質とはモノそのもの、その中身とは「これはこれ」「今は今」でしか無い。これをしてヘーゲルは最も貧相な中身とする。一方、モノに付属する介在は例えば「今は朝」の朝であり肯定されすぐさま否定される。この経験(弁証法)がモノの普遍である。悟性はそれを観想し、即座に判定する。


Youtbe巻頭のサムネ


モノ世界はこの普遍、弁証法、で運動していると教えてくれる。「今maintenant」の例の分解をヘーゲルは続ける。今が朝、昼、夜に変遷する。これはモノ世界が朝を否定し、昼を肯定するからであり、ヒトも「感じる蓋然」の精神作用でこの変遷を、取り込む。« la certitude sensible fait en elle-même l'expérience de la même dialectique » (悟性内の)感じる蓋然が(モノ世界と)同じ弁証法を体現する。モノ世界は自律して弁証法を展開するモノ世界優位を表している。
(感じる蓋然下を通貫して動画にすると長すぎるので今回は下_1とした。10分ほどの尺、幾頁は既出なので先飛ばしすると5分もかからず、ヘーゲル弁証法のシンズイが理解できちゃう。下_2は一両日中に)了
このYoutube動画リンク https://youtu.be/mmM2TwRIvCA
部族民通信サイトでの住所(Text中心)は https://tribesman.net/Hegelcetitude3.html
(哲学頁からは動画(HD解像)、PDF, 2分のシャクタン・ショート動画に接近できる)
哲学頁は https://tribesman.net/philo.html
ホーム(Index頁)は https://tribesman.net/index.html

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3万人の埋葬地バビ・ヤール

2025年02月01日 | 小説
(2025年2月1日)約3万4,000人のユダヤ人がバビ・ヤール(ウクラナ、キエフ近郊)で殺害される(1941年9月29日〜30日)。3万人規模の埋葬地の写真がとある本に掲載されている。

 
バビ・ヤールの巨大埋葬地


下はネット採取


見られる通り、広大な窪地(埋葬跡地)。写真の人影はソ連軍兵士。ナチスドイツがユダヤ人3万数千人を虐殺(銃殺)し、谷窪地に埋めた事実は、現地住民には知られていた。しかしドイツ軍占領下ではその事実など口にも出せない。彼ら、ユダヤ人ではないウクライナ人ですら、理由なく殺戮されていた時代だったから(書ブラッドランドBlood Landから)、誰もが押し黙ったままだった。ウクライナがソ連に回復された後、ソ連軍が当該地を掘削し、人数分の遺体を回収した。その地を平坦にした時点での撮影(遺骸はみえない)。

虐殺の様相は:ドイツ軍がキエフのユダヤ人居住者に対し、キエフの郊外に移住するためメルニク通りに集まるよう命令します。バビ・ヤール命令どおりに集まった人たちは、メルニク通りをユダヤ人墓地の方向に向かわされ、バビ・ヤールと呼ばれる峡谷まで連れて行かれます。ユダヤ人はそこで、貴重品を引き渡して衣服を脱ぎ、少人数のグループに分かれて峡谷内に移動するよう強制され、ドイツの虐殺部隊とウクライナの補助部隊によって銃殺されます。この大虐殺は2日間続き、約3万4,000人のユダヤ人が男女、子供を問わず殺害されます。(ホロコースト・ミュージアムの日本語版ホームページから引用)

驚くのはこの広大さです。たとえは悪いが、後楽園球場が4万人の満員になって、彼らに寝てもらっても球場フィールドでは収容できない。この写真の奥行きを、人物の縮小具合の目測で計ると300メートルはありそう。これが3万人です。

30万人だったらどれほどになるのか。この10倍、あるいはこれほどの埋葬地を計10箇所設けなければならない。バビ・ヤールでは全住民が虐殺と埋葬を知っていた。南京ではその気配はなかった。日本軍が撤収してすぐさま、解放軍が墓を暴いた―なる話は聞いていない。
30万人が消えるはずはない、住民に見つからない方法で巧妙に、どっかの山の中にでも隠したのか。その山すら見つかっていない。それとも捏造の虐殺だったのか。


ネタ元はドイツロシアの世紀1900~2200 出版は白水社


(ネット以外の二葉の写真は日野市図書館の許可を得て、同館内で館員の立会のもと撮影した。館員には3万人の埋葬地の規模を伝える貴重な世界史的資料なのでSNSに投稿する旨は伝えている。これらから著作権のへの抵触はないと考えている。部族民通信)
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ヘーゲル精神現象学 悟性感じる蓋然 Yourube中の投稿

2025年01月28日 | 小説
(2025年1月28日)導入章に引き続き本文をYoutube紹介しています。 本文第一回(上、1月21日)では「感じる蓋然Certitude Sensible」なる概念を導入している。
Certitudeは主体か客体かが分かりにくい語である。本稿で弁証法の原初(始まる前)ではモノに取り憑く客体、すなわちモノの曖昧さを意味し、弁証法が始まるとその蓋然性は主体側、すなわち悟性に憑依しその精神作用として蠢く。
これは奇妙な言い回しです、しかし主意を噛みしめると、さもありなんと納得してしまう。いかにもヘーゲルらしい高等な修辞を駆使しています。例証に「今maintenant」と「ここici」と採り上げる。今は夜の言葉は一聴して、真実と思えてしまう。これが即座の理解で「最も貧しい真理」しかもたらさない。なぜなら昼になったら朝は瓦解する。


Hyppoliteもヘーゲルは2段ロケットだとお墨付き


今が実質、夜は介在で普遍を演出する

モノ表象の中に「実質=変わらない真実」、それに付帯する「普遍=否定と介在で変化する」を見極めなければ、真理にたどり着けないと教える。「ここ」についても木と家を論法に使い、実質と普遍を分離している。

この介在否定を体得するには「感じる蓋然」を悟性が採り込むのだとヘーゲル先生は我々愚衆を、オット失礼、愚は私だけです、叱咤激励する。

以上が2段ロケットの最終段での精神現象です。

動画で用いられるPDFは部族民通信ホームサイト
www.tribesman.net で接近できる

本動画のYoutubeリンクhttps://youtu.be/DulOyVtfx6o  了(1月28日)
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ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE 下

2025年01月23日 | 小説

本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) の紹介

(2025年1月23日)上引用文(前回22日の最終行、感じる蓋然は見えるがままのモノ理解をもっぱらとする)で留意すべきは2点 ;

1 悟性がモノ世界を見る、モノは「豊かな認識」として映し出される。ここでの覚知作用は「即座immédiat」。対象を「存在そのものétant」として認識する。
2 上記1の結論は「モノは形状を持つ、それは永遠無限、非溶解。時空と自己の形状に」制限はかからない。
これがモノ世界を見つめるヒトに共通した精神です。しかし…
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).
しかしこの蓋然は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内をただ単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけとなる。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない(としか覚知していない)。


Hyppolite先生の遺影。本書を未だ読みかけですが、解釈にあたり先生の脚注には助けられている。そもそもヘーゲルは一人独行で読んでも解明できない。一つ二つの文言の「ゲーゲル的」意味付けを掴み難い。そこで頁下部に目を下ろすと、脚注が解説してくれている。

部族民:3の引用文で本章主題のすべてが出揃った。
1 「単にそんなモノ」とは時空に存在し、個(牾性)に即座に覚知されているにしか過ぎない。この即座はモノが時空の中で進行変遷する、この真理を掴めない。別の意味では「今、見えているモノ」には真理が備わらない。モノ変遷のカラクリ(弁証法)に悟性が気づいていない。
2 (行外に)モノ世界は弁証法に統治される(前回9月25日~の導入章の紹介投稿)。モノを永遠として氷結固定するモノ理解は蓋然certitudeに「貧しい真実」のみを反映させるだけである。

« Le Moi n'a pas la signification d'un représenter ou d'un penser des moments divers, et la chose n'a pas la signification d'une multitude de caractères distincts ; mais la chose est, et elle est seulement parce qu'elle est. Elle est ; c'est là pour le savoir sensible l'essentiel, et ce pur être ou cette simple immédiateté constitue la vérité de la chose. La certitude également, en tant que rapport, est un pur rapport immédiat. La conscience est moi, rien de plus, un pur celui-ci. Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » (同)
私(大文字の私、悟性ではなくモノを見ている私)には、いろいろな時間軸、節目(moments)を思考し表現する意味合い(能力)はない。モノにしても種々性質の集成である身の内は見えない。モノはそこにただ存在するだけ。存在するからそこに在る。知にはそれは実質である。純粋な存在、あるいは純粋な即座がモノの真実を決めている(と早とちりする=訳者)。蓋然にしても(モノ世界との)交信は純粋「即座」に制御されている。悟性とは私、純粋(単純)な「この者」である。個別性は純粋(単純)なこのモノを理解するし、それが個別であると知る。
部族民:悟性は「純粋な即座性 cette simple immédiateté」を持ってモノを取り込む。モノが見えるがまま、真理としてしまう、Certitude蓋然の起点です。しかしここに誤りが宿る。最後の句 « Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » 個別性は純粋なこのモノを理解…は「個別的悟性は純粋な個別のモノしか理解しない、なぜならCertitudeは即座理解をもっぱらとするから」と読みます。Purを純粋と訳したが、日本語の「前向き語感」はフランス語のpurには必ずしも含意されない。Immédiat即座の言い換えなので「単純」が正訳であろう。

« Mais dans ce pur être qui constitue l'essence de cette certitude, et qu'elle énonce comme sa vérité, il y a encore bien autre chose en jeu, si nous regardons bien. Une certitude sensible effectivement réelle n'est pas seulement cette pure immédiateté, mais est encore un exemple de celle-ci et de ce qu'il y a en jeu » (同)
しかしこの単純存在がこの蓋然の実質となっているし、この単純が己の真理と蓋然は強弁している。正しく観察すれば、組をなす別のモノがある。感じる蓋然(la certitude sensible)の実効的実際は、単純な即座判断のみではないと気づく。これ(単純な即座)の傍証(exemple) ながら、伴うとある組の存在に気づく。

(原文引用なし)このあとこの純粋存在に脇にある組が見えている。それは「その者」の個と存在の表象である対象。この差異(純粋存在に対峙して「個」と「対象」の組が居座ること)ーを省察すると、個も対象も即座immédiatementに蓋然に取り込まれてはいない。介在médiationを受けている (médiatisé) と理解に至る 。
« j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。

部族民:悟性がモノ対象を見る、見えるそのものを概念化する、これをImmédiateté即座性とする。モノには介在が備わる、その介在の例「今は夜」を後述する。対象の即座性を受け入れてそれを概念化すると表象としての即座になる、しかし時(場)の変遷でこの単純真実は破れる。久遠の、永遠地平の真実はない=前述=につながる。

ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界 了

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