蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レビストロースを読む 神話学 生と調理 6

2017年09月27日 | 小説
(9月28日、前回投稿は 9月24日)
構造神話学第一巻「Le cru et le cuit」冒頭のOuverture(序章にあたるが序曲としている)を読んでいます。使われる単語文言は哲学、言語学、人類学の専門用語、それらのめんめんとした連なりが文章です。加えてフランス人の思考回路にこびりついている「修辞法」=抽象語での言い換え=が各所に散らばる。低容量の頭はねじくれる。横に連なる用語と縦の文列の絡繰りはったり出飾られる頁と頁に気分がなえる。ある一瞬、流星が夜空に流れる如く、見下ろす字面にレビストロースの思考が燦めいて、心が震える。
序曲20頁を理解すれば構造神話学の全てが分かる!その挑戦者はデカルト以来の西洋哲学、ソシュール、ヤコブソンの構造言語学、メルロポンティの現象学そして彼自身の構造人類学、これら全てを薬籠中のモノにしている構造的脳みそが必要です。投稿子(蕃神ハガミ)は上記学問いずれに無知である。

さて、これまで人が存在を認識する仕組み(現象学メルロポンティの進化版)、認識を省察する仕掛け(思考と存在の対立と相互依存)、省察を進展させるエネルギー(カントのentendement)などを取り上げてきました。本日の主題は神話そのもの、それ自体は何かーとなります。

前回の(手書きメモ)に戻ると。1言葉 2神話 3符号化の順列で人は神話を考えていると尊師レヴィストロースは伝え、3の符号化こそ構造神話学がめざす極地点としています。
符号化(codage)および対となる符号(code)はとりあえず置いて、序曲でたびたび引用される分節=articulation=に立ち寄ります。Robertで調べると1義は手足の間接、2義に<action de prononcer distinctement les differents sons="V." prononciation>=異なる音(おん)を明瞭に区切って発声する、発音を見る=とあります。ヤコブソン構造言語学の用語=articulation分節=を踏襲しているかとうかがえます。尊師はこの語に「音の区切りが思考の区切り」の意を付加し、言語学の範囲を超える概念を吹き込んでいます。投稿子はそれを「言い切り」と規定します。

文章(あるいは語り口)は言い切りarticulationsで表現はidee(思考)に昇華され、両者が対の構成と成る、それが3段階であるとレヴィストロースは教えます。
文での最初の言い切りは「イヌ」「ネコ」「タヌキ」などの語(mot)となります。それぞれが意味するidee対象があります。イヌは四本足で尻尾付きの動物、この対照はソシュールの意味論signifiant:signifieそのものです。その上段の言い切りは「イヌが走って棒に当たった」。初段の言い切りの「イヌガ」「ハシッテ」…を明瞭に発声し、それらを連ねて(文=phrase)と成して、2段目に思想ideeが生まれます。時には5頁もの長い文があって(プルースト)やっと言い切る。そんな文と文とが連なって、表現の絡まりが複雑化して作品(oevre)として完成する。作品にはかならず思考(pensee)や主張(these)が潜む。これが作品のidee。
神話にも同じ3段階のarticulationsがあるとレヴィストロースは主張します。


上に掲載の手書きメモを参照してください(乱筆にはご容赦)
神話表現の第一段には要素(elements mythiques=神話要素=とレヴィストロースは規定する)が登場します。人物、行動、発言、動植物、自然、天体現象など。個々の単位に分解できる「存在」です。おのおのにproprietes=所有物、性格、属性がついて回ります。男性女性、若者老人、イヌ、タヌキなど。さらにそうした外観の特徴を超えて親族関係、所属する集団、その集団での社会地位(娘か妻か、成人しているか若者かなど)原住民の語り手と聞き手が暗黙に了解している社会属性を含みます。動物に関してはオッポサム(sarigue)は南米原住民の思考に重い位置を占めている。その特別なproprieteの証明に20頁を費やしています。文化人類学を本貫とするレヴィストロース一流の分析です。

(上の説明;Bororo族の神話に登場するジャガーの嫁のproprietes:夫ジャガーがヒーローを拾い帰ったが、それに食事を与える、与えない、与えるけど邪険...などを分類している)
第2段目の言い切りを状景=sequenceと呼んでいます。
映画の1シーン、舞台の一幕。例えば「鳥の巣あらし」ではヒーローとアンチヒーローがオウムの巣から雛を盗む流れです。ここで崖に登るのが年少ヒーロー(成人前)で、彼は雛を見つけてもそれを父(義理の兄)には渡しません。その言説、行動を1のproprieteを踏まえて符号とする。例えば「見つけても雛などいないと言い張る」「雛の代わりに石を投げる」「雛を高く放ったら石になった」ヒーローの行動を+-に抽象化して図式化するなど構造解析をへて3段目に入る。

(sequenceのcodeの一例:ヒーローが村を離れる下りで1姉妹が用意した食事を取り上げられる 2食事を用意してくれた母を失う...など神話のシーンをcodeに代えています)

3rd articulationとは;
Armature(骨格)と規定されます。下段階のcodesの集成となりますが、全体を貫くmotif、あるいはmessage、あるいはreperesentation、例えば火の創造、水の起源などが神話全容から浮き上がります。
これが一つの神話の構成で、この構成を別神話のそれと比較します。比較する過程で「人が気付かず忍び込んだ神話が人をして考えさしめた」仕組みを解き明かすのが構造神話学となります。
序曲、21頁以降は神話と音楽の関係に終始し、これはプロトコルなので飛ばします。次回から本文に入ります。

(次回投稿は10月の第二週を予定)
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レビストロースを読む 神話学 生と調理 5

2017年09月24日 | 小説
(9月24日、前回投稿は 9月22日)
勝手気ままな行動、任意な言動の社会、精神に一貫性を見つける。見つける論理、さらにそれを解釈するエネルギーは、カントの教えるentendement=考え力=である。理解力とも邦訳される。それは普遍性がある、全ての人類がこの力を共有するとレヴィストロースは、カントにならって伝えている。これが前回まで。
以上が、本書<le cru et le cuit>の序文(序曲=ouverture)の19頁までの要約となります。「秩序と混乱」「思想と存在」の構造対立が頭の芯で固まっているレヴィストロース師匠には、神話、神話学とはどの様に写るのか。20頁から興味深い文節を引用すると、

<Nous ne pretendons pas montrer comment les hommes pensent dans les mythes, mais comment mythes pensent dans les hommes , a leur insu>
拙訳;人々がどの様に神話を読み解くのかを私たち(彼個人)は主張しない。人は気付いていないけれど、神話が人々の精神に入り込んで、神話として考えているかを探している。
< les mythes se pensent entre eux>
同;神話は自分自身で考える。

人の心に入り込んで考えている。それを見極めるのが神話学である。まさに構造神話学の宣言です。
これまでの神話学とは民族、部族ごとに神話を収集して、主題を特定し似通う他民族の神話を見つけ、歴史との関連と伝播の様を探る。例えば洪水伝説はシュメールのギルガメシュに溯り、半月地帯に興亡した諸民族に伝播の軌跡がうかがえ、紀元前数世紀にユダヤ民族に取り入れられ、旧約聖書に引用されたなど。神話は人々、民族が語り、近隣に伝え、かく広範に伝播する。その主体は人、民族なので「神話」は考える力を持ちません。構造神話学「人の心に寄りつき考えている」はかなりに異質です。

投稿子(ハガミ)なりに神話精神の仕組みを問うと:人の精神には普遍の「考え力」が宿る。人物、動物、天候現象などを記録する仕組みも「考え力」のもとでの思考なので民族を構成する各員には共通の表現として残る。それが神話であり「神話として考える」土台であると。

尊師レヴィストロースは次の文節で「無意識ながら民族文化で一貫性が認められる」神話の理由を続けます;

<il y a dans les mithes le systeme des axioms definissants le meilleur code possible, capable de donner une signification commune a des elaborations inconscientes de l’esprit, de societies et de cultures>


拙訳;神話には公理となるシステムがある。公理は精神、社会、文化のもとでうまれる「念入りに無意識にはぐくまれた」事象を、共通の表現方法で言い表せる符号系を規定する。
拙解;axiome=公理は証明されないから神話の根本潜む自律性は証明する事はない。それがentendementであるとは文脈で理解できる。符号(code)化(=P20で突然出てきた)の手法で、文明が生み出した無意識の事象(elaborations)に、民族に共通の意味付けを与える。

人の思考活動の中で神話の位置に
1 言語
2 いわゆる神話
そして本書「le cru et le cuit」は
3に位置する神話の特質「符号、符号化=code、codage」の表象構造を解き明かすとしている。その手法をとればこそ
<ce livre offrirait l’ebauche d’un code du troisieme ordre, destine a assurer la traductibilite reciproque de plusieurs mythes>
拙訳;本書が解明するのは神話の第3位の符号化(code)についてである。これを持っていくつもの神話の相互依存、関連性を解き明かせるから(掲載図面を御参照)



解説:左コラムは神話を巡る認識の階層、言語が最低位、最上位に符号=codage=化がある。各役割は中のコラム、右に神話の階層を載せました。認識の階層と神話のそれは対応しています。

レビストロースを読む 神話学 生と調理 5の了
(次回投稿は9月28日)
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レビストロースを読む 神話学 生と調理 4の追補

2017年09月22日 | 小説
(9月22日)
昨日の投稿(=9月21日、神話学 生と調理 4)で原文19頁の引用がすっかり抜けていた。幾度か再編集を試みてもなぜか原文(フランス語)のみ反映されない。その部分を本日、再投稿し、幾行かの解説を加えた。

<A l'hypothese d'un entendement universel, il prefere l'pbservation empirique d'entendements collectifs dont les proprietes lui sont manifestes par d'innombrables systems concrets de representation>

訳の方は前投稿に載っているのだが付け加えます。
拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの仮説をもとにして、彼(レヴィストロース)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中にその(entendementの)特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。

なぜこの一文を再投稿したかというと、これこそレヴィストロース構造主義を理解するに最重要と信じるので。少し長くなりますが解説します。
entendementは白水社大辞典で一義に「理解力」と出てきます。頼みのRobert(petit)では「faculte de comprendre」これは前者と同じ。二義に「fonction de l’esprit qui consiste a relier les sensations a systeme coherent=カントの用法」とあります。投稿子はここではまず一義をとり、投稿子の独自解釈でその訳を「考える力」とします。
デカルトは考える(penser)、考えたらこうなった(raison)の2元のみを語ります。考えるに至らせる理性の押し、あるいは力 (悟性と言うらしい) は「神から授かった」から言及する用意などさらさら持たない。無神論者のレヴィストロースには、困ったときの「神頼み」のカードは配られない。しかし、未開(とされる)民族は文明人と思考の仕組みを共有すると論じているから、その仕組みを証明しなければならない。錦の御旗「idee対existence(思想VS存在)」なる構造主義は「悲しき熱帯」および「親族の基本構造」で立ち上げられたが、サルトルなんかの予期せぬ「外野」には評判がイマイチだった。(歴史性に欠ける、思弁に流れているとか=4回目の投稿9月21日を御参照)しかし表看板「idee対existence」に修整を加えたら、構造主義の根幹で妥協してしまうからありえない。そこでカントentendementを持ち出してきた。疑われまくりの「対立する構造」を、レヴィストロースは畢竟の奥の手、カントで安堵させた。
上記の辞書robertでのentendementの二義fonction de l’esprit ...にもどります。
訳を試みると「覚知した感性を、整合する思考体系に結びつける精神機能」。これはまさに「カオスを見つめて秩序を理解する」構造主義の方法論に結びつく。これを打ち出せば、実存主義者の小うるささを一瞬にして沈黙に押し潰すにつながる!それに気付いて尊師レビストロースは歓声を上げただろうか。
未開人と西洋人は、考える力はuniverselで同一、考えた結果の様態が幾分異なるだけだ(例えば病気になって呪術で悪魔を払う治療対西洋の診察と病名、治療の医学)。
考える至る過程は構造主義で解明できる、その考えを生み出す力とは未開人も西洋人もカントが教えるentendementだと伝えている訳です。

写真はハゲワシ(Urubu)Bororo族の神話で重要な地位を占めます(作者の著作から)

補)レヴィストロースは1985年に来日しての講演で「私は根っからのカント主義者」と語っている。サルトルなどをヤッつける為にカントを持ち出したとの印象を拙文から受けたら投稿子(蕃神ハガミ)文意の至らなさです。

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レビストロースを読む 神話学 生と調理 4 

2017年09月21日 | 小説
はじめに:当投稿は原文(フランス語)を引用しながら、その訳を通してレビストロースの思想に迫ります、しかし原文の引用が投稿に反映されていません。とりあえず不完全ながら4回目を再投稿します。(本日12時30分に投稿して発覚、削除していました)

(2017年9月21日)

前回までは神話学をでは「頭をどのように回転させるか」の課題を説明している。要約すると雑多なカオスの中から秩序を見いだし、「精神活動の基本」を見抜くのが構造主義の狙いであると。そして説明の殿軍にカントを引用している(ouverture P18~19)。引用すると、
<En se laissant guider par la recherche des contraintes mentales, notre problematique rejoin celle du kantisme="後略">
文列のなかで解釈に頭を捻る=contraintes mentales=が難関。直訳すれば=メンタルな強制=これは何の事やら分からない。投稿子(蕃神ハガミ)は“考え方の基準“をひねり出した。そして次の語”problematique”が同様に難しいけれど「成就するかは不明な取り組み」とすれば上記引用は;
拙訳;<考え方の基準に導かれるままに思考をゆだねると、私の取り組みは成就するかは未だ不明ながらもカントにたどり着く>

その能力を持ち合わせないので投稿子はカント哲学を語らない。ただ「認識は主観の所与を秩序として見分けできる事によって成立する=広辞苑」を引用するのみ。だがこれで何となく分かった(気を覚える)。さらに先ほどのcontraintes mentalesをentendements(理解する力、カントの用語でもある)と結びつければ、(錯覚かも知れぬが)なお理解が進む。

引用を続ける;
拙訳;いわゆる民族学者とは(レヴィストロース自身のこと)は省察するに一定の基準をとって、己の説や主張を、一種の「思考する力」に敷衍するとは強制されていない。いわゆる哲学者(カントのこと)とは異なるのはその点である。ここは前提で、レヴィストロースはかなりへりくだっている。次行がより重要、<>(P19)

拙訳;「考える力」<entendement>は普遍的(人類に共通)であるとの仮説をもとにして(なにしろカントが言ってる)、彼(民族学者を受けるがレヴィストロースのこと)は観察にあたって「集団としての考える力」を取り上げる。なぜなら、彼(レヴィストロース)には社会のいろいろな慣習やシステムの中に、その特質が滲み出ている様が明確に見えるからである。
=どんな民族にあっても考える力は普遍なので、婚姻の仕組みや贈答しきたりなどが似通う理由はその普遍に立脚している(=親族の基本構造で論証)。その手順で神話を解析するとの宣言である。

雑誌Magazine litteraireに掲載されたレビストロースの論文(1985年12月号)表題は「哲学者の役目」顔写真の左側にサルトルへの言及が読める。「彼には多大な尊敬を抱いているが、面と向かって図らずも論争してしまった。彼の考えが科学の思考に背をむけているからである」と書かれている。尊師の御歳77歳。


神話学の論証の根底にカントのentendementを位置づけた背景とは、当時のレヴィストロースに降りかかった批判への回答である。悲しき熱帯の成功の後に、彼は2のグループから批判された。
その1はサルトルを筆頭とする「実存」主義者。
存在=existence=が思考に先立つという実存主義は、「思考と存在は対立するが相互依存だ」とする構造主義と両立しない。しかしサルトルが主に批判したのは「非歴史性」である。なぜ「存在と思考」という西洋伝統の哲学論争に入らなかったかを推察すると、当時(1960年代)のサルトルはengagemant=作家の政治闘争=に力を入れており、「政治と歴史」に論評を重ねていた。こちらの側面から構造主義を批判したと投稿子は観察している。
もう一派はプラグマティズム系の実証主義民族学者である。北米を中心としていた。レヴィストロースが伝える人類学は思弁的、観念的に過ぎると。

レヴィストロースは構造主義の骨格を「悲しき熱帯」から一部変更した。
時間の余裕ある読者は投稿子の過去分「猿でも分かる構造主義」にブラウザしてください。悲しき熱帯でレヴィストロースが論じた構造主義を取り上げています。それは純粋に「イデー=思考」対「存在=existence」が美しく対立する簡素な図式でした。その世界は「膨張しない宇宙」みたいで時間が流れません。サルトルはその「完結性」「非時間性」を突きました。
生と調理=Le cru et le cuitでは思考(表象)と存在を対立させているのですが、その根底に普遍のentendement、思考する力を持ち出してきました。それによって思考(調理)と生(存在)の対立の様が自立的に変遷する考えました。ただし、その対立式を普遍として考えているentendementは変わらないとも。この論法で同時に民族学での実証主義派へも返答しました。

(2017年9月21日)
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レビストロースを読む 神話学 生と調理 3 

2017年09月18日 | 小説
(2017年9月18日)
前回の<混乱カオスの世界だが見つめることで秩序が見えてくる>を続けます。
<il s’agit de dresser un inventaire des enceintes mentales, de reduire des donnes apparemment arbitraries a un ordre, de rejoindre un niveau ou une necessite se releve, immanente aux illusions de la liberte>(ouverture P18)
拙訳:心の中で知っているだけの事柄の在庫目録を立ち上げる。するとこれらの事象明らかに気ままに見えているのだが、うまく整理すれば、ある種の必要性が基準なるものの上で立ち上がり、その基準に「自由であるとの幻想」を結びつけられる。
読者皆様にはフランス語を理解する方も多いと存じます。< >を原文で読めば簡潔。しかし日本語にするとワケが見えない「クセジュ文庫」的になっている。この段は「生と調理」さらに構造神話学の方法論を理解するキモとなります。
取りまとめるコツは文言を「秩序=イデー」側と「混乱=forme、見える形」側とに区別するに尽きます。それは;
<知識の在庫は目録のみで整理されていないから(混乱)状態。それらを一見するとarbitraire(気まま)がまず見える。見ただけでは混乱と判断してしまう。しかし上手いやり方で整理すればそこに秩序=ordre=が隠れるとわかる。そのやり方とはune necessiteある必要性が、ある基準(un niveau)に沿って立ち上がり、「自由であるとの幻想」と結びつければ、知識の在庫の混乱状態が解決される。
若干の寄り道ながら「自由の幻想」について;
自由を論じた哲学者はデカルトです。libre arbitreとは自由意志の意で何にも制約を受けない、あらゆる事に自由である神に近づく状態です。レヴィストロースがここで「自由の幻想」と記するとは、その様な自由は無いと全否定している訳です。自由な思考行動はillusions幻想にすぎないと片付けています。
それを曝くには必要性(necessite)と基準(niveau)が必要。それらを打ち上げられれば「気まま、無秩序の極み」に秩序に終止符を立て神話が解析できる。

構造主義とは縁のない写真をご容赦。陋屋は丘の中腹、少々足を伸ばし見晴らし点に立つ。近景は旭が丘、遠景は久しぶりに姿を現した山の連なり、中央やや左に三頭山、その右に大岳、そして雲取。

P18を続けます。
<Derriere la contingence superficielle et la diversite incoherante, des regles de marriage, dans 「les structure elementaires de la parente」,un petite nombre de principles simples, au premier abord absurdes, etaient ramenes a un systeme significant>
拙訳:例えば結婚の行動など表面上は偶然、辻褄が合わない行動にしても、一見して(そんな解釈は)absurde不条理(=カミユ、サルトルの用語。サルトルとの論争は続いていた)とされるだけだけれど、背後に幾つかの原理が見え隠れしている。そして偶然なる行動が意味深い一つのシステムに統合され、秩序が見えてくる。

「les structure…」はレヴィストロース著の「親族の基本構造」。その成果に言及すると;
イトコ婚は世界各地で見られる。イトコ婚でも交差イトコと分類される仕組みが圧倒的に多い。交差とは父親の姉妹の子、あるいは母親の兄弟の子のイトコ。その風習を持つ民族は交差イトコを「イトコ」と呼び、平行イトコ(父の兄弟、母の姉妹の子どうし)を「兄弟姉妹」と呼ぶ。平行イトコ婚は、兄弟姉妹の間だから近親婚として禁止されている。財産が男系で相続される民族で男系の平行イトコが結婚すると富が集中する。母親と姉妹系統には相続が無く財産が偏在する。偏在、不安定を避けるための制度で、制度のみならず言語、居住形態、男女の役割分担、通過儀礼など多岐の実例を上げて「交差イトコ婚と富の交換」を証明した。
一方で、その様な部族で交差イトコの結婚が、あまねく実行されているわけではない。禁止の近親婚こそ避けるけれど、イトコ以外の結婚は頻繁である。婚姻と財産の移動の原則は「contingence superficielle=表面上の偶然」の背後に潜む、かくあれと願う秩序として解明した。彼がが論証したのは交差イトコ婚ではなく、婚姻のイデー、思想である。

次の文節に移る。同じく18頁で
<plus decisive sera donc l’experience sur la mythologie. Celle-ci n’a pas de function pratique evidente; a l’enverse des phnomenes precedemment examines>
拙訳:神話学とはより決定的である必要にせまられる。なぜなら、神話には(社会への関与で)直接的でもなく、明確性も持たない。前回(イトコ婚の分析)とは大きくことなっている。
そして論証する拠り所、「必要性」と「基準」を展開するなかであの「カント」が出てくるのだ。(第3回の了)
(過去投稿は2017年 9月13、15日)

補遺;本日は台風一過、投稿子は多摩(日野市)の陋屋にて雨露を凌いでおります。今朝は西の遠方に霞む三頭山、大岳(多摩の山岳)まで抜けた空の青さが見事です。本年最後であろう暑さを汗で耐え本投稿に至った。
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レビストロースを読む 神話学 生と調理 2

2017年09月15日 | 小説
(前回第一回は2017年 9月13日投稿)

神話学シリーズの第一巻の<Le Cru et le Cuit>(生と調理、1963年刊行)は全397頁に及ぶ。この後<Du miel aux cendres>(蜜から灰)など3巻が矢継ぎ早に発行され、構造主義の切り口で神話を解析する手法が定着しレビストロースをして文化人類学第一人者の地位を確立した。73年にはアカデミー(フランス翰林院)会員に選出された。定着したと述べたが、実はその後、研究者が続かなかった。4巻の内容が膨大難解でさらに「問題の提起からその回答まで」自己完結している完璧さに圧倒されたのかも知れない。左記は投稿子(蕃神ハガミ)の感想である。

フランスアカデミー会員に選ばれたレビストロース、御歳69歳。やや緊張気味、というのは64人の定員なので図抜けた業績と運が良くないと会員になれない。あのデカルトさえ会員になれなかった。写真は著作から。

序曲(ouverture)と名付けられる30頁の前文を読み始める。哲学用語、フランス語特有の修辞の羅列である。その困難さが狭き門と化け、読者は悩む。3回読んで前回(第一回9月13日)で指摘した「本文(=discours)とプロトコル(解説、言い訳)」に分離して本文のみに集中して理解に至った。では本文、その内訳とは;
1 神話学は何を学ぶのか
2 どの様に展開するか(methodologie、方法論)
3 神話とは何物か
番外 神話と言語、音楽の関係に大別される。1に入ろう。

序曲の第一行目、これが構造神話学の宣言である。以下の出だしである。
<Le but de ce livre est de monter comment des categorie empiriques, cru et cuit,freais et pourri…outils conceptuels…>(p9)
拙訳; 生や調理、新鮮と腐敗、あるいは湿っているか炙られているかなど、経験を通して分別する官能則が、如何にして概念の手だてとして抽象思考を表出し、それらを整理し正しい位置に置いているかを証明するーとある。
注)empiriqueの語は経験とするのでそれを用いた。原文に「官能」はない。日本語では資格嗅覚などは官能分野とされるから、この語を追加した。

一読してなにやら分からない。とりあえず生と調理が論理的な言葉を置き換える暗喩法かと理解して、読み進める。巻末346頁に
<La structure feuilletee du mythe permet de voir une matrice de significations rangees en lignes et en collones…l’unique reponse que suggere ce livre est que les mythes signifient l’esprit> と結んでいる。
拙訳;神話の重層した構造に目を向けると、そこに横糸と縦糸との「意味付け」のマトリクスが織り込まれていると気付いた。このマトリクスは伝播し変容し、他の神話の骨格に再形成される。この仕組みが示す究極の「意味合い」についてこの本は「神話は精神である」を唯一の答とする。
巻頭と巻末を合わせると神話には神話の精神が宿り、自己生育、自主活動しているかと読める。340頁余はその神話精神の活動の様が分析され、記載されているのだと勘ぐれる。これが前記1のとりあえずの回答となろうか。序曲を読み進もう。

(P13)
拙訳;神話の研究とはそのやり方がいまだ定まらず、解釈に難しさが生じると、ともかく分解して要素を集めて、これが実体だとするデカルト方法論はそぐわない。注)引用文中の cartesienとはデカルト信奉者、あるいは屁理屈屋。
このあとune forme synthetique au mythe(神話の統合的形態)やらmythe est anaclastique(神話は分解できない)が並ぶ、いずれも分解してはならないと語っている。とくにanaclastiqueは分解よりも破断、破砕に近い。デカルト分解すると神話は壊れてしまう、レヴィストロースの警鐘が聞こえてくる。

ではどの方法論で神話を学ぶのか;
<des filamants epars se soudent, des lacunes se comblent des connections s’etablissent, quelque chose qui ressemblea un ordre transparait derriere le chaos>(P11)
拙訳;(目をこらすと)離ればなれの微かな光芒が寄り集まり、間隙は埋まりそれぞれに繋がりがうち立てられ、混乱の背景に秩序がなにやら見えてくる(宇宙の銀河を神話研究の方法として比喩)

第一回でも述べた秩序対混乱の構造主義です。
秩序が思考側、混乱は物体、その二重性と相互依存、主義の基本理念です。神話に目を向けると数多い異型(variantes)を収集すると定まりのないエピソード、様々な登場人物とその行動、反応などに接することになる。一読では混乱カオスの世界だが見つめることで秩序が浮かび上がる。神話の群を想定し、分解するのではなく、対照して秩序を見分ける。

(次回投稿は9月19日を予定)
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構造主義レビストロースを読む 神話学 生と調理 1

2017年09月13日 | 小説
(表題第一回投稿 2017年 9月13日)
レビストロースの構造主義への理解を深めたく、昨年(2016年)10月以来その著作を継続し読んでいます。最初に取りかかった「悲しき熱帯」TristesTropiquesについては当ブログにて読後の感想を投稿しました(2017年4月5日~5月1日=「猿でも分かる構造主義」、および「猿でも構造、悲しき熱帯」を読む5月~7月)。投稿カレンダーから溯って照会してください。
しかし、多くの方は過去ブログを開くゆとりは持ち合わせていないと推察します。それらの趣旨を紹介すると;

1 構造主義が伝える構造とは主体と客体の相互依存関係です。すなわち思考(主体)と物(客体)を水平に対峙させる。この2者は対立し=oppositionかつ相互に依存する=reciprocite関係にある。単なる構造機能論(例えばタテ社会の構造と言った分析論)とは異なります。
(上記の解説:デカルトは思考が絶対とした。対象=物を上から見下ろす視線を持った。物を要素(elements)に分解して本質(substance)に肉薄する。神から授かった「思考」なのだから、物の本質を曝くのは必ず可能だ、なぜなら物とは全て神の被創造物だから)

2 思考と物の対峙構造に気付くには、自然と芸術を思いをはせればよい。人が目にする周囲とは、色と形態の雑然とした混乱にある、音であれば自然とは雑音、不協和音の重なりでしかない。芸術家はその混乱から秩序、美を抜き出し作品(絵画、音楽、詩)とする。作品にまとめる過程とは、まず己の頭に秩序だった「思考」を持たなくてはならない。自身がはぐくむ思考=美を周囲の混乱から抜き取り、キャンパスや五線譜に再現する過程が芸術家の創造である(=メルロポンティ)。
(解説:レヴィストロースはメルロポンティの「知覚の現象学」を大いに参考にしている。特に生体解剖するかのデカルト的、上から分析する視線を否定し、周囲(メルロポンティはchampフィールドと語る)を水平に見つめる観察手法を取り入れている。
一方、メルロポンティは「秩序はあくまで周囲、無秩序に内包されている」と語る。美も混乱も物なので、これらは神の創造物。神は対立など創造しないから、周囲の中に美も混乱も漫然と同居(coexistance)している。メルロポンティは敬けんなカソリック教徒、彼ならではの論考であろう)
(写真の二冊は悲しき熱帯左と生と調理、裏表紙に45F(フラン)とあった。1フラン72円の固定レートの換算で3200円ほど。当時私は高校生で、母親から月に1000円を貰っていた)

3 これに対して無神論のレヴィストロースは、この世を混乱と秩序に対立に分けた。秩序は思考、芸術、社会制度、結婚制度、服飾などに表されている。混乱は行動、上下区別を知らない社会制度、近親婚、反乱、殺戮など。これらの対比、相克、破壊創造、放浪と復帰がBororo族を始めとする南米(マトグロッソおよびアマゾニア)原住民族の神話の主題となっている。原住民族の200弱の神話群を、構造主義を駆使して、レヴィストロースが神話学としてまとめた。それが「生と調理」(LecruetLecuit)である。

悲しき熱帯を読み終えたのが本年(2017)5月だった。流れとして野生のスミレ(PenseesSauvages)に挑戦したが、なぜか関心を呼び起こさなかった。多くが民族誌的な記述である。例えばトロブリアンド諸島での贈り物交換の制度(Kulaと言うらしい)の意義などが長く続くのだが、投稿子(蕃神ハガミ)には読み切れない。そこで一気に神話学に挑戦した。手始めにと邦字で紹介している書冊を手にしたが、何のことやらさっぱりつかめない。おそらく投稿子の頭回転の錆びつき塩梅に問題があるのだろう。あるいはそれら著者がレヴィストロースの神話学を語るのではなく、自身の「神話観」を述べているせいかもしれない。そこで一気に原本に取りかかった。手に入れた版はPlon出版、奥付がないから年月は分からないが、最終頁に1963年6月の年月があった、校了年月を教えている。

読み始めて3月、読了したが、非常に分かりやすい。文の構成は哲学用語で受け取る修辞法が頻繁に現れる。これが本論で難しいが長くは続かない。本論をプロトコルがうける。これは「批判が出る筈だ。前もって予想して答えておこう」、言い訳ととれる。「悲しき熱帯」の反響は賛否両論だった。大御所(サルトルなど)からの批判、否定にレヴィストロースは苦しんだから、予防処置。
本論はしっかり読んで、特に修辞法(言い換え)が出てくると、その語を辞書Robertなどでしっかり解析して、自分なりに辻褄を合わせ次節に進む。辻褄の拠り所が上記1~3の構造主義解釈である。
次回から解説に入る。
(2017年 9月13日、第二回は9月15日を予定)
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