蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

落ち葉と霜

2019年11月30日 | 小説
本日(11月30日)の投稿は哲学、人類学、修辞法...など何も出てきません。寒いので霜が降りただけ。

写真がこれ!

隣家の立木(山帽子)の枯葉を集めてプラスティックボックスにまとめておいた。一晩たって霜が被った。それだけですが、南の方には珍しいかと。

これが拡大写真。
ニュースでは群馬県(沼田市)では吹雪だったとか。東京・日野市は快晴の青空。冬型天気が定着していくのかと。

余談:ホームページ(WWW.tribesman.asia)の過去投稿分を逐次、見直し加筆しています。本ブログを通して報告も出せるかと。
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自由カツ丼アリサの勝手 番外 諭吉と自由 

2019年11月28日 | 小説
デカルトとジッドと自由。さきにカツ丼の自由はアリサの勝手でしょを投稿し、続編となります。
「自由」を紹介したのは福沢諭吉ですが、自由の元の意義(漢籍で用いられていた)と仏語の自由は隔たりがあります。そのあたりを探ってみました。
ブログ愛好の皆様には申し訳ないが、本稿は長いのでブログにては投稿しきれない。部族民通信ホームページ(www.tribesman.asia)に全文を投稿しています。

一部をここに紹介する;

明治初期。文明開化、富国興産は国家の課題であり、これら計画を促進するために欧米の文明思想の導入は活発だった。インフラを導入するにはシュープラを知らねば効率が悪いとの正しい判断である。
liberteなる概念に出くわした先達が自由と訳した。この博識が誰かには各論あるが福沢諭吉との指摘は多い。訳の意とは自己の由(よし)とする。そもそもこの語は漢籍に用いられ用法は字面通り、気まま思うまま(大字源)とある。「欲しいまま、好き勝手」(広辞苑)に通じるから、情念を沸き立つままに放し抑制しないの意味でもある。第2義に他から拘束されず自身の意志で行動するが載せられている。

Liberteを自由と訳した諭吉

1義が古来からで2義は明治以降の自由であろう。
訳を探すに諭吉はliberteなる語にまといつく、デカルトの教条を知っていただろうか。それは選択において己の利得への無関心であり、他者(カツ丼の選択であればそれは食欲となる)の強制をはねのけて、過程においても結果にも、後々の悔いを覚えてはならないとする心境(volonte)と、実行(vertu)の絡まり様の生き姿である。故に元の仏語の用法は、漢籍漢籍の自由とは正反対の意味を醸し出しているのだが、なぜかこのこの語に落ち着いた。

例えば、
昼飯を食うに欲(空腹を癒す)と得(旨さを求める)に屈してカツ丼を選ぶなどは「自由」を遂行しているとは申せない。

諭吉はデカルトの自由を、それが本邦で遣われる「自由」とは反意に当たると「知っていた」と部族民蕃神は信じる。それが明治期知識人の博聞強記なのである。1万円札を眺めるだけでたやすく判断できる筈だけれど、手元が不如意なので確かめられぬ。
証左となる一文をここにあげよう;

<福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、(いずれも)原語の意義を尽くさないとする>(Wikipediaから引用)。

Liberteの訳に正反対の漢語の「自由」を当てた;日本と西欧との思想の交流で、根源において欠落があったのだ。悲しき熱帯の一節を引用する前にソシュールの意味論を少々、


言語学フェルディナン・ド・ソシュール(スイス1857~1913年)は意味論の先駆者とされる。言葉(parole)とは「意味する、意味される=signifiant, signifie」の相互関係にある。意味の伝達において主体と客体の相互関係が成立しているとすると彼は伝える。この説をレヴィストロースが受け入れる訳だが、咀嚼の過程で彼らしく構造主義の細工を仕掛けた。

以下はホームページ(www.tribesman.asia)に。
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カツ丼リベルタはアリサの勝手HP 投稿の案内

2019年11月25日 | 小説
(2019年11月25日)

デカルトが主唱した自由とは「無関心の自由」で、無関心とは選択する際に有利か不利か、役に立つか無益かなどの関心事から超越とした心構えで処すべきとの意味です。人はこのようにして神の心境に近づける。「考える」の手段を持って物事の本質を見抜く、コウして神の思考に肉薄できるとしたcogitoを精神作用に入れ替えた流れです。アンドレジッドは近世において自由とは何かを追求した。代表作「狭き門」では主人公アリサを通して、近代人が追求する自由の困難さを語りました。彼が20世紀において代表的カルテジアン(デカルト信奉者)とされる背景です。では日本では;日野市の老人Kがカツ丼自由(リベルタ)を実践した。しかし彼の自由はどうも無関心の自由ではなさそうだ。
このテーマで昨年ブログ(カツ丼の自由とアリサの勝手)を投稿した。本年5月に部族民通信ホームページ(WWW.tribesman.asia)開設に併せて上梓したが、リンクにバグが発見されたので、このたびHPを手直しした。同時にかなりの改編、加筆を施したので中身もHPらしく増大している。
以前にブラウザしてリンクに飛べなかった方には是非再来訪を乞います。
全体で50頁を越すので前文のみ本ブログに掲載する。HPでは前文,1,2,3と4部に分かれる。


ジッドとサルトル。拡大は下。

前文:カツ丼を食らいの自由を堪能したK氏が浮かれ気分。身勝手好き勝手を満喫したアリサとは皆様ご存じ文豪はアンドレ・ジッド、ノーベル賞作品「狭き門」(La porte etroite)の女主人公。二人ながら「自由」を求めてそれぞれの、喰い様と生き様を邁進したのだけれど、その起因を促す事由の諸々、というか自己表現の発露模様に取り付いた形式美学の混迷か、喰い地の貫きも世俗の愛のスッタモンダも結局は結実しなかった。
日野なるイナカの丘陵地、ムジナ除けなる犬と住む老人K氏とフランスはノルマンディの旧家のご令嬢、薄幸美女の可憐さと一途の献身を比べる宿命の、その糸口を小筆は探せないけれど、本邦21世紀は令和的島国の閉塞、彼の地19世紀のその末は文明の灯火か細き黄昏と、両の事情を比べてどこでも開けてしまうパスパルトゥーみたいな魔法の尺度はないけれど、比較の鍵に自由liberteを用いれば、生きと死にの比べの様が成立するのではないか。
するとこの前文とやらは、無責任すら裸足で逃げる ヤシンの一文だ。デカルトが説いた自由とはいわばcogitoの自由。ジッドはvertu行動の自由追求した。そして信仰と自由との狭間に近代奈落を見てしまった。K氏が落ち込んだカツ丼陥穽とは食と社会の葛藤の熱地獄だった。
この三題噺をまとめるは難しい。しかし 小筆ハカミには強い味方があったのだ。

サルトルとジッド、二人のノーベル文学賞受賞者。ただしサルトルは受賞を拒否した。既存権威からの格付けを拒んだのである。自由意志でノーベル賞を拒否した唯一の人間。彼も自由を追求した一人で、その流れはデカルトの自由に濫觴を得る。

多様な精神在りどころの位相差をレヴィストロース(Claude Levi-Strauss, 哲学者人類学者2009年没)が主唱した構造主義の手法を用いれば易々と、細部に至りチチンプイと解決してしまう。カツ丼を食らう心情のワケをアリサの純真に投影して、なおもついでに老人の内なる心のねじくれを純情オボコの潔癖ぶりと対比させ、21世紀はいかにして19世紀との離反に苦しむか。これを解明せんとするハカミ、コンシンの投稿。 (前文の了)

よろしく部族民通信HPにご来訪を。(左ブックマークから、ないし部族民通信でネット検索)
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裸の男を読む 6 (最終)

2019年11月18日 | 小説
始めに。本章題にて6回目の投稿です。過去投稿とも合わせHP(www.tribesman.asia)に3回連載として掲載しています。ブログ文から(かなりの行数を)加筆、改訂しています。是非、ホームページにも御訪問を、2019年11月18日)

一方、paradigmeとは出来事の進み具合、その起と結を探る論理であるわけだから弁証法と言える。この思考を部族民蕃神は経時因果した。新大陸の神話では筋立ては多くに同盟や制度の否定を皮切りにして、反動巻き込み、錯乱(罰に結びつく)そして総括でサイクルを終える。総括をサルトルの言葉totalisationとすれば理解も深まるか。分析思考、弁証法論理は先学によれば、共通の知恵としてあまねく人類が「経験の前に」抱くものだから、新大陸の先住民にしてもこの思考回路で、世の中と森羅万象を見極めている事実は偶然ではない。

今回作成したPDFの2頁目 拡大は下に

英雄(M1バイゴゴ)は罪と罰サイクルの終局に生まれる。母を姦淫し通過儀礼には鳥を巻き込み難関をくりぬけ、インコの雛を父に渡さず飛礫を放つ。結果は死であるが、機転を利かせて(粘土でお尻の穴を塞いで垂れ流しを防ぎ)蘇り、洪水の後、火の所有者として世に君臨する。
M538イシスにして前世代数次の近親姦の果てに俗神に救い出され、ばらけた身を俗神の膝に身体移植されて新たな誕生。否定、反動、錯乱、総括の因果を有様はM1と変わらずとすれば、2の神話で経時の展開の様は共通している。
Syntagmeを横軸としてpradigmeは縦軸、それらが形成する座標を統合(グローバル)野としたのは、前回投稿(神話から物語りへ)にて著者レヴィストロースの文中示唆を受けての故の定義である。本投稿で南米神話M1(鳥の巣あらし神話Bororo族)等と北米M538(イシスの冒険神話Klamath族)等が一つの神話群を形成するか、上述を取りまとめる形で、統合(グローバル)野に共存するかを試みるとしよう。
PDF1頁目を参照、これは上述1~2理論の図式化そのものとなります。
PDF2頁目は実例を当てはめての肉付けとなります。結論を先に述べると新大陸、南北の神話群は共時、経時の因果を共に持ち、その座標、統合野の中に共存している。
始めの因果である同盟をみると;
同盟とは婚姻制度であり、嫁やり取り(母系社会のBororoでは婿の納まり方)に他ならないが、支族の間柄を、やり取りを通じて強固にする制度です。主人公は同盟を否定した。再生して村に戻り、父ら族民を殲滅する。これが同盟を否定した罰、社会の途絶となります。
M538 では末弟をテント奥の地下穴に隠す。姉は実弟との姦淫を希求する。姉は弟を引き連れる途中で露営する。婚たわけが発生した。村は姉の火付けで壊滅し、全族民が焼け死んだ。両の神話では社会制度においても否定(罪)、反動(罰)、総括の蠢きをみる。


別神話ながらM2 Bororo族では毒流し漁で故意に遅れ、掬い上げた魚を独り占めして病気になった女を描いている。女にありがちな「喰いすぎ」を戒めるための教訓神話ではない。毒流し漁は村民総出の集団漁法なので漁労も漁獲も村民で分かち合う。しきたりを破った女に罰を与え、制度を守れと教えている。
北米Klamath族の実家に入り浸りの姉は、婚家の務めをないがしろにした(制度の否定)。罰は族民の虐殺。読者は「諫める善の側が悪者に殺戮される」仕組みを不平等と感じるかも知れない。前述のM1神話でも近親姦をとがめた父に罰が振りかぶり息子に殺される。日本人の抱く直線進行の勧善懲悪とは異なり、罰の下され様に複雑系があるかと伺える。
儀礼についてはM1では困難な義務(水底に棲む精霊から楽器(死者の儀礼に用いる)を盗む)を命ぜられた息子は、鳥の協力を得て難なく通過する。これは個の力で切り抜ける儀礼精神への違反である。父親はより困難な義務を課す(断崖のインコの巣から雛を盗む)。バイトゴゴは失敗し(死に)帰還しない。罪と罰の起、結がここにも見える。M540は装飾と儀礼に欠かせないヤマアラシトゲ毛について一挿話を割いている(以上、PDF2頁を参照あれ)
周期性について;
南米神話では漁期と星座の関わりをもっぱらとするが、M1とその周辺神話では語られない。北米M538での「太陽周期性を混乱させる」挿話(姉が太陽に早く沈めと威嚇する)に周期への反逆が認められる。
南北新大陸神話には上述のとおり、水平視線にも経時の視点にも共通項が探し出せる。

「裸の男HommeNu」を読む 了 
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「裸の男HommeNu」を読む5

2019年11月11日 | 小説
(2019年11月11日)
レヴィストロースの神話北上説はブラジル神話が北米プラトーにまで伝わったとする。神話学全4巻で全体の基準神話として取り上げられているM1(マトグロッソBororo族)から始まり、アマゾン中流、下流(Tukuna、Mundurucu、Arawak、カリブ海沿岸に住むWarrau,Carib族)などの居住地をなぞれば、ブラジル中央からアマゾニア、そして海域へとつながる経路が想定できる。
カリブ海に住んでいただろう諸族は新大陸発見の後、早々と絶滅したから神話の採取などあり得なかった、今も残っていない。同じ経緯がフロリダ、ミシシッピ河岸にも当てはまるのだろうか、少なくともレヴィストロースの著作にはこれら北米南部の諸部族の神話は登場しない。
オレノコ河岸Warrau族の後には、8000キロを隔てたプレーンズ(大平原)のArapaho族となる。

写真:裸の男掲載の図を加工した

しかしArapaho神話(月の嫁)は、南米モンマネキ神話の後継譚としてすんなり読み解けるのである。「昔々、平原に1 夫婦しか住まなかった。彼らは天に移住して二人男子をもうけた」夫が太陽と月の父となるのだが、彼がArapaho嫁に小うるさい。「人間なんだから、月の障りが無かったら十月十日で…」と小言を言いまくる。モンマネキの老母がカエル嫁に「人間は毛虫とかムカデを喰うもんじゃない…」などと小言を浴びせ、カエルは居たたまれず逃げ出した顛末を思い起こさせる。Arapaho神話の天上老父はモンマネキのなれの果てと受け止める次第です。
前回は基準神話M1と伝播の末神話M538(イシスの冒険)を比較しました。罪と罰(近親姦)のあり方でM1が単独の発生にたいし、M538 は4度の繰り返しでした。
もう一つの比較を提言しているが、それは(罪と罰のみではなく)神話全域を被うSyntagme=共時因果を探り出すになります。
M1、およびブラジル中央部神話群(部族の形成神話、火の起源神話、同盟のあり方神話、ブタの起源神話などM16俗神カルサカイベ神話まで)をまとめる共時因果を探ると;
分断、同盟、道具の取得、目的の創造と(小筆は)考えます。
1 分断の原理:主人公バイトゴゴは再生して村に戻り父、その妻複数、村人全員を殺戮する。過去の連続世界(自然が横溢する社会)を洪水で滅ぼす。再生に当たって8の支族で分断する村を造った。
2 同盟:神話から読み取れる実情は婚姻同盟を模索している。M16でカルサカイベが姻族をブタにした理由は彼らが「嫁のもらい手」の義務を果たさなかったからである。M20では嫁いだ嫁が兄弟(オウム)に2の禁忌を犯す(不正な手段で手に入れた蜂蜜を渡す、男小屋を覗く)、結果兄弟は同盟を解消する。模索する流れはモンマネキ神話に引き継がれる。
3 道具とは火、水、服飾、狩り具である。水の取得はM1,以降火の取得(盗み)がM2~7に続く。
4 目的は野ブタ。ペカリ種の野ブタを人は自然に気兼ねなく狩りとれる経緯がカルサカイベ神話の主題である。

上写真の拡大

ではこれらをM538は共有できるのか。
1 近親姦とその破断とは同盟(模索)と分断と読み取れる。
2 道具について。イシスが樹上に遺棄され助けられて臥す床にヤマアラシが「捉まえられないだろう」と徴発する、イシスは重篤を装い、翌夜に捕殺しトゲ毛を服の飾りとした。漁労の名目、起源も語られる。
3 目的は魚に変わる。漁獲する名目は「孤児にさせた怪物を探し復讐する」ため。手法(夜の篝火漁)場所も特定されている。
共時因果での共通項は上記で解明されている。前回投稿では起因、行動、断絶の経時因果の共通を説明したので、両者の枠組みたるグローバル野において、M1とM538は共存していると言える。 
「裸の男HommeNu」を読む5の了
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「裸の男HommeNu」を読む4

2019年11月07日 | 小説
(2019年11月7日)
M1神話(神話学全4巻の基準)は以前の投稿「生と料理」で取り上げた。
あらすじ;
少年バイトゴゴは森に入った母を追って、母を姦する。母は息子の印(腰ひもに飾る羽)を取って、己の紐に「みよがし」に飾る。夫はその羽模様を訝しみ、少年らを集めダンス特訓を開く(通過儀礼の過程)。突き止めた結果を信じられず再度集める。やはり同じ結果、妻を犯した少年は実の息子と知った。=中途はいろいろあって略=バイトゴゴは蘇って村に戻り、牡鹿に変身して父を川に突き落とす。父はピラニアに喰い殺された。実の母を含む複数の妻も一人残らず殺戮する。洪水が村を襲って、彼と祖母はジャガーからくすねた火を守って生き残る。
M1では近親姦は上下婚(おやこたわけ)で一度のみ。罪と罰に分解すると;
罪:感情と行為を連続させる「未文化」思考が罪。
姦淫したいと蠢く情を、それは禁忌だ、人倫を乱すと自制などはたらかせず、直に行動に移す。罪はバイトゴゴ(神話主人公の名)個人行動にあるのではなく、統制のない人間社会にやどる。
罰:そのような社会を是認していた父、母全員の殲滅。バイトゴゴは一旦死んでしるから、罪はチャラになっている。罰明けでバイトゴゴと祖母は新たな「文化」社会を創り始める。
(「生と料理」でレヴィストロースは「何故、罪を犯したバイトゴゴは復活しさしたる罰を受けず、罪をとがめた父が報われないのか」の問いかけを行中に挟んだ。この解にたどり着かなかったが、4巻目にして罪と罰のあり方を見直し、解を得た、と思う)
罪とは行為ではない、思想が罪である、これはキリストにも繋がる価値観であり、同時に構造主義としての森羅万象の解釈でもある。
M538(イシスの冒険、第4巻での基準神話)
あら筋は前回(11月5日)に紹介した。母親が末弟を床下に閉じこめる理由は「あまりにも美少年」であるから。長姉が婚家と夫をないがしろにして、足繁く実家に戻る狙いが末弟。その二人が戻る途中で野営するハメにおちた。この晩に起きた出来事には2の解釈が立つ。1は同衾のみ 2は交合、近親姦が起きたーのいずれか。レヴィストロースは(=)と括弧付きで表す。
直説法では何も語らないから、姦淫は無かったと思わしめるが言い回しにクセが見え隠れする。まず少年が目覚めると姉はcontre lui=彼に対峙=にいた。寝ている脇に滑り込んだのならa cote de luiとすればよい。対峙なら馬乗りとなる。少年は目覚めたが、この目覚めをse reveillerではなくs’eveillerとしている。後者は比喩としての「目覚め」例えば春の目覚め、性の目覚めなど使われるし、まず最初の事象であるとの意が強い。

図:レヴィストロースの解釈する近親姦の相関図、本書から再掲

さらに姉は、身代わりに置いた幹は弟とすっかり騙されて、昼まで寝込んでしまう。もし姦淫に至らなければ「まんじりともせず」眠るのであろうから生身と幹の区別は立ちどころだ。状況証拠では「あった」気配濃厚である。それが(=)の関係図である。
怒りの姉の放火で嫁が死に、母が嫁腹を割って子(男と女の双生児)を取りだした。その子達が夫婦となって暮らす。第2の近親姦の発生。以上が著者レヴィストロースの解釈です。
投稿子は姦淫の起と結を拡げて解釈します(回答を与えるのではない、質問しているのだとレヴィストロースは幾度か語るので、読者の解釈は踏み外しではない)。
まず、母(姉弟の)に禁忌破りがあった。理由はこの母のただならぬ警戒心。長姉が実家に帰る頻度から末弟への恋慕心を見抜いた。婚家に帰るお供に姉は末弟を指名したが、許した理由は「まだ日が高い、夕暮れ前にはたどり着く」。野営を前提の旅行きでは「きっと起こる」禁忌破りを危惧するから、許さなかった筈だ。

投稿子の解釈による近親姦の繰り返し(feuilleton化)の図部族民通信オリジナル

腹から取りだした双生児を一体化して、男子に影を見てはならないと戒めた理由は、分身したら近親姦が発生すると知るから。結局、二人は分身し愛し合い、子(英雄イシス)までもうける。
母(双生児からは祖母)は己が犯した禁忌破りを知るからに、子の代孫の代に渡る悪状を怖れていたのだ。最後の近親姦はイシス養父と嫁の姦淫。
これら行為の罪と罰を考えよう。近親の姦淫は結果としての「行為」なので罪にも罰にも比定されないを前提にする。
母(祖母)の罪は記述されない。
姉は弟と野営を設けるべく「太陽を脅して」運行を速めた、天体周期の規則を乱したが罪。その罰は水鳥に化け、首を狩り取られるが罰。双生児にまつわる罪は死んだ母から兄妹を引きずり出した祖母の罪(生まれない子は死んでいるとの信心;こうした信心が民族宗教誌として正しいのか、当方は証明できない)。祖母の戒めを破った兄、兄を問いつめた妹の罪。

M538における罪と罰(部族民通信オリジナル)

前回の投稿(神話から物語りへ)で同じ出来事を繰り返し語る「新聞の連載小説=feuilleton化」なる現象が「物語化」に見られるとレヴィストロースは教える。M1とM538を見比べれば、近親姦とそれにまつわる罪と罰の繰り返しが4例を数えられる。まさに伝播した実例であろう。改めて南北神話の分布図を示す。

(神話の分布図、再掲)
「裸の男HommeNu」を読む4  了
なお本ブログは前回(...読む3)とあわせて部族民通信ホームページWWW.tribesman.asiaに(HP版では2回目)として本日投稿されています。HPではPDFとリンクされているので理解しやすいかと。
(次回は11日、南北神話のグローバル野の試み)

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「裸の男HommeNu」を読む 3

2019年11月05日 | 小説
2019年11月5日)
本ブログ初回投稿(10月31日)にて紹介したKlamath族の神話M529、M530aはCurtis(Edward 1869~1953年、Klamath民族誌写真を残す) 、Stern(Theodore 著作KlamathTribeを残す)、Gestchet(ネット検索できず)氏の採取であるが、その長さと相まって語り手記憶の不確かさから前後の関連など不明であった。とある老齢の女語り部の口述から、両の神話を統合する長大な物語としてのまとまりが1955年に明らかとなり、かつLetkawash(ヒーロー・Aishishイシスの母親)の焼身自殺にいたる道筋が明らかとなった。

写真:民族誌家写真家のEdwardCurtis。ネットから採取。

<La geste de Aishish , dont Gestchet, Curtis et Stern n’ont recuilli que des fraguements, était apparue vers 1955, miraculeusement preservee dans la mémoire d’une informatice>(41頁)一人の女語り部に奇跡的(miraculeusement)残されていたとレヴィストロースは表現している。
M538 Klamath族、geste de Aishishイシスの冒険 (42~45頁)
M529,530で語られていない部分を紹介する。

Curtis拡大写真。

幾人かの子を持つ女。
娘の一人はさほど遠くはない村に嫁いだ。しかし何かにつけては実家に戻る。一番下の弟は美少年と知られるから母は外には滅多なことで外には出さず、家の中でも地下の穴蔵に住まわせていた。姉の狙いはこの弟であった。
嫁ぎ先に戻る姉に弟が供をすることになった。太陽は中空にかかる、今出立して夕前には到着する行程であるから、母は同行を許した。しかし何故か日がとても早く暮れてしまった(別バージョンでは太陽に早く隠れろと姉が脅す)。野の窪みに二人は宿る。寝入った弟の脇に姉が滑り込む。<La femme vint se glisser pres de son frere endormi. Il s’eveilla et fut choque de la trouver contre lui ((Quleelfole ! Vouloir devenir l’epouse de son propre frere !))>
<女は身をすべらし弟は目覚めた。姉を己の上に見て、ただならぬ衝撃を受けた。なんと愚かな行い、血を分けた汝の弟の妻になろうとは。
姉は寝入り、太い幹を身代わりに置き弟は逃げ出した。この出来事をつぶさに聞く母は大惨事を予兆しおののく。姉の目覚めは昼下がりとなった(早く隠れろと命じた分、翌日にも太陽周期は速まっていた)。
愛しき弟のつもりで抱いた幹が真っ赤な偽り、憤怒に染まる身を走らせた。村中の屋に火を放ち、兄弟達と妻のすべてが死んだ。ただ独り生き残った母は、嫁の一人のSturnelle(ヒガシマキバドリ、鳴き声の良さで知られる)の死骸を探り、腹を割って胎児を取り出した。双子、男と女の子であった。祖母は女の子を男子の背に埋め込み、成長した男子に「前屈みで自身の影を見てはならない、矢を空に向けてはならない」ときつく戒めた。
己身の異常に薄々気づいた子を鳥(pluvier kildirムナグロ)が「空に矢を放て」とそそのかした。矢は真っ逆さまに落ちて背に当たり、二人は分かれた。分身だった妹を、妹も兄を初めて見た。
狩りでる時も妹は兄から離れず質問を続けて兄を悩ます。((Qui sommes-nous ? Pourquoi n’avons-nous pas ni père ni mère ? Qu’a donc notre grand-mere a pleure sans cesse ?))(42頁)私たちって誰なの ?何故、父も母もいないの、おばあちゃんは毎日泣いている、いったい何故?
妹「何でも知っている太陽に聞いてみよう」しかし、彼らの問いを太陽は無視する。妹は矢を取って太陽を射た。やっと太陽が真実を語った。お前達を孤児に貶めた者は今、水中に潜むと。
兄妹は教えられた沼に夜の漁を仕掛ける。<Nuit après nuit ils raporterent du poisson et des loiseuax d’eau en quantite. Enfin ,ils entendirent le cri de la meurtriere ((gocho gocho gochdjip)) La grand-mere l’entendit et pressenterait qu’un jour ,en dechargeant le poisson elle trouverait la tete coupee de sa fille dans le panier.(43頁)
毎夜、魚と水鳥を篭に一杯に満たし二人は戻る。ある夜、殺人者の鳴き声ゴッコゴッコ…を聞いた。その鳴き声は祖母も耳にした。「篭の魚を取り込みで娘の首を見つけてしまう、そんな日が来るに違いない」不吉な予兆に苛まれた。祖母は殺人娘を愛していたのだ。
二人は祖母から逃げる。(竈間の灰に穴を穿って逃げ道としたが、什器の諸々に「誰にも教えてはならぬ」と命じた。しかし錐(alene)には伝え漏れてしまった。案の定祖母の問いつめに錐は逃げ道を教えた。錐への申し付け忘れと秘密の露呈は広く新大陸神話に登場する)
兄は矢を林に見失う。妹に探し出すよう乞う。妹はこの問い「私はあなたの誰なの」に答えてと切り返す。<Elle refusa a moins qu’il ne precisat a sa satisfaction quel était leur lien de parente. ((Tu es ma sœur ?―Non)) 兄の返事は妹だろう。違うわ。返答は叔母、母、いとこ…続くけれど妹からーNonが返される。親族関係の言い回しは、それを口に出すまいと兄が残しておいた、一つの間柄しかもはや残されない。Epouse伴侶を答えてしまった兄に妹のーOuiそうよ、がやっと出た。以来、<bienque frere et sœur, ils vecurent comme des époux>兄妹なれ夫婦として過ごした。
祖母は追う。彼らが遺棄した小屋の竈灰が丸く凹んでいる。身ごもった腹が灰を窪ませた、祖母は孫二人の起こる可くして成った結末を知った。
子は生まれた。兄は森に入った。断食と潔斎で精霊を呼び加護を祈るためである。しかし熊に変身した祖母に喰われた。祖母は孫娘に会いに来た。その意図を先に孫娘が察知して真っ赤に焼けた石棒を祖母の肛門に突き刺した。遺骸を焼くために火を熾した。
ここからM529(女Letkakawashは子を背に負い、燃えさかる薪火の前に立った。因縁浅からぬ一人の魔女の死骸を焼かむと熾した業火であった…)が続」く。そしてM530 (イシスは複数の妻を持つ。妻の一人にKmu…が懸想しイシスを村から放逐しようと画策した...)につながる。
イシスの復讐さを受け、全ての心臓を燃やされた(Curtis版ではパイプ)俗神Kmukamchは地上に樹脂の熱雨を降らせる。イシスと家族は助かるものの村人の全滅でM538神話は終わる。
このM538が本巻の基準神話としてこの後も取り上げられる。
投稿子は本文を読み進み、この解析に2の視点を取るべきと提案する。その1着目点を近親姦の罪と罰に限定する 2に神話のschemeスキーム全体の主張の比較である。いずれの解析もレヴィストロースが用いた手法であり、この神話とM1(神話学4巻の基準神話)との関連、伝播の証左を見つけるとする目的である。

図:神話イシスの冒険の近親姦図(本書47頁)=は近親姦が成就された。注目点は祖母に、姉弟にも=が。拡大による解説は次回7日。

「裸の男HommeNu」を読む3の了。次回投稿は7日を予定。
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神話学4巻「裸の男HommeNu」を読む 2

2019年11月02日 | 小説
(2019年11月2日) 北米太平洋沿岸(今のオレゴン、カリフォルニア州)居住のKlamath族が伝える神話、M530は南米マトグロッソBororo族の「火と水の起源」神話M1の伝播であるとレヴィストロースは主張する。裸の男イシスが木に登り放逐される筋立てはM1に似通うけれど、そそのかした「父」は養父である。目的は養子イシスの妻を寝取るためで、近親姦を企てる不実者は父親である。一方M1では禁忌の上下婚(母たわけ)を犯したのは息子、父は死に至らせるため息子を断崖に追い出した。他の要素にも同様に述べられるが、筋立てで最重要な禁忌の破りで、M530とM1では主客が逆転している。 写真:裸の男の表紙 下は拡大 北米M530 を南米M1と見比べると、筋、登場人物など「似通い」は多くはない。その程度を持って神話伝播の証左とするには抵抗は残ると思うが。レヴィストロースのこの新説「神話北上論」には否定反響が一般的であった。 反論の中身とは;1そもそも新大陸はアジアからの民族移動により大陸北方から人口が広まった。2人口分布は北から南への流れだとは明確なのだから、北米神話が 南に伝播する流れはあってもその逆は考えられない3そもそも人の移動は神話など言い伝えを伴うから、南北両大陸の神話の似通いは当然である。この3点につきる。 当時(1960年代)は神話をして民族の歴史、移動の経緯の説明に用いる「フィンランド学派、歴史神話学」が主流であったから、人と神話の動きが逆流する主張を受け入れる素地はなかった。また、これまでも南北神話の相似は指摘されていたので、数多い説明のなかの「一風変わった」一の説でしかないとの受け止めが多かった。 写真:「服を着していては木に登れない、イシスは裸になってよじ登った レヴィストロースはこれら反論を一刀両断の筆致で排除した。 <En posant ainsi le probleme, on meconnaitrait completement le sens de notre entreprise. Nous ne cherchon pas le pourquoi de ces ressemblances, mais le comment. En effet le propre des mythes que nous rapprochons ne tient pas a ce qu’ils se ressemblent ; et souvent même, ils ne se ressemblent pas. (32頁) 訳;これら反論に接するにつけ、彼らは我々(レヴィストロース自身)の意図を全く持って理解していないと覚えさしめる。これら相似の「何故pourquoi」を我々は探しているのではない。「どのようにcomment」を追求しているのだ。さらには、近接関係があると推定している幾つかの神話の、それぞれの性状は似通いがあると認め難いし、全く似つかないことも頻繁である。 似通いで神話の遠近を論ずるは間違い。(形のうえだけで)神話を見比べる方法ではなく「どのようにして伝播した」のかを探るための「徴し」を求めるのが(彼の)神話学であるとする。 当ブログ(あるいはホームページ)を訪れている読者諸氏はすでに勘づいているかと。直近の投稿「神話から物語りへ」では伝播とは何か、そして遠近を問わず神話が「群」を創るとはどのような有様を呈するのか、これらをすでに論じた。時間に余裕がある方は当ブログの過去投稿「神話から...」を、また部族民通信のHP(WWW. tribesman.asia)を開いてください。 以下に要約; 1 (距離的時間的に)長く伝播するとは、配役や筋立ての自由選択により内容が換骨奪胎され、パロディなど別物に変わる。あるいは一の挿話を繰り返し用いる(feuilleton化)連載の通俗小説になりはてる。 長い伝播での物語り化現象である。 図:本書挿し図から、南米マトグロッソと北米プラトーの神話分布を比較した図。 2 (距離的時間的に)離れていてもsyntagme・paradigme(=これは言語学の用語なので小筆は共時因果・経時因果、分析思考・弁証法思考と用語の変換を試みている)。そしてそれらsyntagme共時因果・paradigme経時因果が囲む域をグローバル野として、そこに立ち位置を置く神話を群とした。転がる首の神話群PDFにて説明している。 上記PDFでは南米神話のみを取り上げた。北進説が正しいとすれば、南北の神話が転がる首PDFと同じく、グローバル野を共有できるはずである。そもそも共時因果・経時因果なる思考が分析、弁証法へと繋がるわけだから、これはカントの語る先験となるから人類共通の智である。南北の部族民が共時因果・経時因果を共有して、何ら不思議はない。 投稿子はすでにM1神話からモンマネキ神話M354、そして北米Arapaho族の月の嫁神話への伝播を提案している(モンマネキから月の嫁神話、PDF参照)。しかるにここでの伝播形状は、隣から隣への「伝言リレーゲーム」の域を越えない。構造神話学としての説明では不十分であるとの叱責を受けよう。本巻本部の記述に示唆を得て、構造主義的に南北新大陸の神話群を設定するつもりである。 南北の伝播を証明するに2の神話を紹介している。 M660 Klikitat族(北米太平洋岸今のワシントン州に居住);隠された妻 鷲とスカンクは兄弟。鷲が狩りに出ているあいだスカンクは妻を娶った。鷲が戻り獲物を床において寝入った。スカンクは(小屋の)暗がりのなかで妻と喋り込んだ。翌朝、鷲はスカンクに、夜中に誰と喋り、笑っていたのかと問うと<Je ris parce qu’une souris vient me voir, me court sur le visage>ネズミがやってきて顔の上を走ったから笑ったのさ>(37頁) M95 Tukuna族(南米アマゾニア):Umari木の娘 兄弟Epi(穂)に知らせずにDyaiがびっくりするほど美しい娘を嫁にとった。彼は娘を手に挟んで転がし、小さくして横笛(umari木で出来ている、文脈から推測)の中に隠した。4番目の夜、Dyaiは嫁を笛から引き出し己のハンモックに導き、声も立てずに嫁を楽しんだ。5番目の夜、嫁が笑ってしまった。小さな貝を重ねた腕飾りが揺れ、音を立てた。翌朝、Epiはお前は笑ったな、誰と一緒だったのかと尋ねると<c’est le balai qui rit parce que je l’ai chatouille>あれは箒さ、くすぐったら笑ったのさと答えた。(同) Dyaiはオッポサムと文脈から伺える。スカンクと同列で狡猾で「臭い」が属性。すると南北の両神話は筋立てが共通するのみならず、登場者の性格(proprietes)においても対象的と言える。南北伝播の一例として挙げた。 神話学4巻「裸の男HommeNu」を読む 2 了 (本稿1,2はあわせて部族民通信ホームページWWW.tribesman.asia11月2日に掲載されます、次回投稿は11月5日を予定)
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