蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE 下

2025年01月23日 | 小説

本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) の紹介

(2025年1月23日)上引用文(前回22日の最終行、感じる蓋然は見えるがままのモノ理解をもっぱらとする)で留意すべきは2点 ;

1 悟性がモノ世界を見る、モノは「豊かな認識」として映し出される。ここでの覚知作用は「即座immédiat」。対象を「存在そのものétant」として認識する。
2 上記1の結論は「モノは形状を持つ、それは永遠無限、非溶解。時空と自己の形状に」制限はかからない。
これがモノ世界を見つめるヒトに共通した精神です。しかし…
« En fait cependant, cette certitude se révèle expressément comme la plus abstraite et la plus pauvre vérité. De ce qu'elle sait elle exprime seulement ceci : il est ; et sa vérité contient seulement l'être de la chose. De son côté, dans cette certitude, la conscience est seulement comme pur moi, ou j'y suis seulement comme pur celui-ci, et l 'objet également comme pur ceci » (82頁).
しかしこの蓋然は最も曖昧(抽象的)にして、何にもましての貧しい真実を明らかにしてしまう。モノの身の内をただ単にそんなモノ(ceci)と表しているに過ぎない。そのモノは「存在する、真実はモノとしての存在のみ」と語っているだけとなる。こうした思考作用の悟性は「純粋な個」でしかない。あるいは個は純粋な「その者」かもしれぬ。向かい合う対象にしても純粋な「これ」でしかない(としか覚知していない)。


Hyppolite先生の遺影。本書を未だ読みかけですが、解釈にあたり先生の脚注には助けられている。そもそもヘーゲルは一人独行で読んでも解明できない。一つ二つの文言の「ゲーゲル的」意味付けを掴み難い。そこで頁下部に目を下ろすと、脚注が解説してくれている。

部族民:3の引用文で本章主題のすべてが出揃った。
1 「単にそんなモノ」とは時空に存在し、個(牾性)に即座に覚知されているにしか過ぎない。この即座はモノが時空の中で進行変遷する、この真理を掴めない。別の意味では「今、見えているモノ」には真理が備わらない。モノ変遷のカラクリ(弁証法)に悟性が気づいていない。
2 (行外に)モノ世界は弁証法に統治される(前回9月25日~の導入章の紹介投稿)。モノを永遠として氷結固定するモノ理解は蓋然certitudeに「貧しい真実」のみを反映させるだけである。

« Le Moi n'a pas la signification d'un représenter ou d'un penser des moments divers, et la chose n'a pas la signification d'une multitude de caractères distincts ; mais la chose est, et elle est seulement parce qu'elle est. Elle est ; c'est là pour le savoir sensible l'essentiel, et ce pur être ou cette simple immédiateté constitue la vérité de la chose. La certitude également, en tant que rapport, est un pur rapport immédiat. La conscience est moi, rien de plus, un pur celui-ci. Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » (同)
私(大文字の私、悟性ではなくモノを見ている私)には、いろいろな時間軸、節目(moments)を思考し表現する意味合い(能力)はない。モノにしても種々性質の集成である身の内は見えない。モノはそこにただ存在するだけ。存在するからそこに在る。知にはそれは実質である。純粋な存在、あるいは純粋な即座がモノの真実を決めている(と早とちりする=訳者)。蓋然にしても(モノ世界との)交信は純粋「即座」に制御されている。悟性とは私、純粋(単純)な「この者」である。個別性は純粋(単純)なこのモノを理解するし、それが個別であると知る。
部族民:悟性は「純粋な即座性 cette simple immédiateté」を持ってモノを取り込む。モノが見えるがまま、真理としてしまう、Certitude蓋然の起点です。しかしここに誤りが宿る。最後の句 « Le singulier sait un pur ceci ou sait ce qui est singulier » 個別性は純粋なこのモノを理解…は「個別的悟性は純粋な個別のモノしか理解しない、なぜならCertitudeは即座理解をもっぱらとするから」と読みます。Purを純粋と訳したが、日本語の「前向き語感」はフランス語のpurには必ずしも含意されない。Immédiat即座の言い換えなので「単純」が正訳であろう。

« Mais dans ce pur être qui constitue l'essence de cette certitude, et qu'elle énonce comme sa vérité, il y a encore bien autre chose en jeu, si nous regardons bien. Une certitude sensible effectivement réelle n'est pas seulement cette pure immédiateté, mais est encore un exemple de celle-ci et de ce qu'il y a en jeu » (同)
しかしこの単純存在がこの蓋然の実質となっているし、この単純が己の真理と蓋然は強弁している。正しく観察すれば、組をなす別のモノがある。感じる蓋然(la certitude sensible)の実効的実際は、単純な即座判断のみではないと気づく。これ(単純な即座)の傍証(exemple) ながら、伴うとある組の存在に気づく。

(原文引用なし)このあとこの純粋存在に脇にある組が見えている。それは「その者」の個と存在の表象である対象。この差異(純粋存在に対峙して「個」と「対象」の組が居座ること)ーを省察すると、個も対象も即座immédiatementに蓋然に取り込まれてはいない。介在médiationを受けている (médiatisé) と理解に至る 。
« j'ai la certitude par la médiation d'un autre, la chose précisément, et celle-ci est aussi dans la certitude par la médiation d'un autre, précisément le moi » (同)他のあるモノの介在をもって個は蓋然を得る。それはモノである。これも蓋然のなかで別のモノの介在を受ける、いわばそれは個である。

部族民:悟性がモノ対象を見る、見えるそのものを概念化する、これをImmédiateté即座性とする。モノには介在が備わる、その介在の例「今は夜」を後述する。対象の即座性を受け入れてそれを概念化すると表象としての即座になる、しかし時(場)の変遷でこの単純真実は破れる。久遠の、永遠地平の真実はない=前述=につながる。

ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界 了

部族民から:当ブログ内容は動画、パワーポイント(PDF) として以下のサイトで確認できます。

本部族民サイト www.tribesman.net パワーポイントのPDF、及び動画
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Youtube(1月21日最新動画の) https://youtu.be/-1GbOAO7Nwg
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ヘーゲル精神現象学 本文Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE 上

2025年01月22日 | 小説
(2025年1月22日)ヘーゲル精神現象学を仏語Hyppolite訳から紹介しています。昨年12月までは導入章(Introduction) でした。今回から本文に入ります。第一章は悟性、その第一部は「LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界)の題名が冠されます。 

前文:前回のヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Espritの連続投稿(2024年9月~12月)で導入章Introductionを採りあげた。理性の目的は絶対知Savoir absoluを得ることに尽きる。ヒト思考運動は現精神象であるから、モノ実質には接触できない。理性は自身の内に現象の野を広げ、モノ実質、絶対知に迫らむとする。今回、本文に入り(第一章Conscience悟性)では思考の仕組み、特に悟性内部の思考の展開(前回で思考は2段ロケットとした、今回はその2段目に当たる)を解説する。

鍵語 1 Certitude sensible感じる蓋然 2 Immédiat即座 Médiation 介在 3 Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)

1 Certitudeの定訳は確実、必然など。これらには定量的確実性(99%か?)の含意が強い。蓋然は(推定するけどそれが真実か分からない)定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近いと思う。「あり得るかな、無いかな」の精神作用でモノを観察(感じるsensible)を言う。実現する確率数値とは関係を持たない。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する。介在はモノに(必ず)付属する属性。ヘーゲルは「今は夜」なる真実には「夜」が介在している、この介在は不定との観点から論を広げる。
3 否定肯定する過程がモノの真実。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueがモノの本質。この弁証法原理を、蓋然として取り入れなければ、真実を掴めない。

以下本文に入る;

« Le savoir, qui d'abord ou immédiatement est notre objet ne peut être rien d'autre que celui qui est lui-même savoir immédiat, savoir de l'immédiat ou de l’étant. Nous devons nous comporter à son égard d'une façon non moins immédiate, ou accueillir ce savoir comme il s'offre, sans l'altérer en rien et bien laisser cette appréhension indépendante de toute conception » (La phénoménologie de l’Esprit Conscience章 81頁).
拙訳:知ること、これが第一にかつすぐさまに我々(理性)の目的であり、即座の知であり存在するモノへの知でもある。理性は少なからぬ即断をもって存在モノに当たる。あるがまま知として受け入れ、何かに置換する試みなど廃し、他のいかなる受け止めから独立して、この理解を尊重するのである。

« Le contenu concret de la certitude sensible la fait apparaitre immédiatement comme la connaissance la plus riche, comme une connaissance, certes, d'une richesse à ce point infinie qu'on n 'en peut trouver aucune limite, ni en extension, dans l 'espace et dans le temps où elle se déploie, ni en pénétration, dans le fragment extrait de cette plénitude par division. Cette connaissance apparaît, en outre, comme la plus vraie ; car elle n'a encore rien écarté de l’objet, mais l'a devant soi dans toute sa plénitude. » (同)


SNS投稿に当たり作成した資料の一部

感じる蓋然(la certitude sensible)の具体的内実がこの独立した理解を、豊かな認識として現出するに至る。その認識とは時間空間にいかなる限界もないうえ、細分され破砕に溶け入る展開の様など見せない。さらには最たる真実として認識に現れる。なぜならこの真実は対象から離れていない、対象を見えるがまま、横溢さで自の前においているから。
部族民(蕃神ハカミ義男、以下同じ):本章の主題は牾性conscience、その働き方。牾性が外界モノ世界を理解する精神作用がcertitude sensible、これを「感じる蓋然」と訳した。Certitudeなる語は、主体客体の両用が可能となるという理解しにくい側面を持つ。 客体としての使用では「確実なモノ」との意味合いになろうが、本稿では「主体」として精神内に動く蓋然、として用いられる。

精神が理解しようとするモノ世界とは「そうかも知れない、そうでないかも」不確実が残る。これをして蓋然と訳した。またHyppoliteは脚注で « La certitude sensible vise … » と動詞を続けているから主体とほのめかしているので安心した。(最初の一読では客体。モノの蓋然と想定したら、分けワカメで沈没した)了(1月22日)



部族民から:本来は当ブログに投稿した後、youtube、ホームサイトに掲載するを心がけていますが。今回はそれらの後になっています。動画、パワーポイント(PDF) は以下のサイトで確認できます。

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Youtube(1月21日最新動画の) https://youtu.be/-1GbOAO7Nwg
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ヘーへーゲル精神現象学Conscience悟性の章 第一部LA CERTITUDE SENSIBLE Youtube投稿

2025年01月21日 | 小説
ヘーゲル精神現象学 仏語Hyppolite訳の紹介
本文 Conscience 悟性の章 第一部 LA CERTITUDE SENSIBLE, LE CECI ET MA VISÉE DU CECI
(感じる蓋然、あるいはこのモノ、そしてこのモノに向ける私の視界) 上

(2025年1月21日)Youtube動画はまだ当ブログには投稿していません。明日から(上下)で投稿します。

前回のヘーゲル精神現象学La Phénoménologie de l’Espritの連続投稿(2024年9月~12月)で導入章Introductionを採りあげた。理性の目的は絶対知Savoir absoluを得ることに尽きる。ヒト思考運動は現精神象であるから、モノ実質には接触できない。理性は自身の内に現象の野を広げ、モノ実質、絶対知に迫らむとする。今回、本文に入り(第一章Conscience悟性)では思考の仕組み、特に悟性内部の思考の展開(前回で思考は2段ロケットとした、今回はその2段目に当たる)を解説する。
鍵語 1 Certitude sensible感じる蓋然 2 Immédiat即座 Médiation 介在 3 Négation・Affirmation・Détermination否定肯定決定(弁証法)


3の鍵語と解説


1 Certitudeの定訳は確実、必然など。これらには定量的確実性(99%か?)の含意が強い。蓋然は(推定するけどそれが真実か分からない)定性的な語感を表すので、本章の趣旨により近いと思う。「あり得るかな、無いかな」の精神作用でモノを観察(感じるsensible)を言う。実現する確率数値とは関係を持たない。
2 即座 Immédiat はモノを判断するとき、見えるがままをそのモノとして判断する作用。これがヒトの判断の一般的とした上で、その観察は最も貧しい真実しか見つけられないと批判する。介在はモノに(必ず)付属する属性。ヘーゲルは「今は夜」なる真実には「夜」が介在している、この介在は不定との観点から論を広げる。
3 否定肯定する過程がモノの真実。即座で観察してしまう「実体essence」ではなく、変遷(経験)dialectiqueがモノの本質。この弁証法原理を、蓋然として取り入れなければ、真実を掴めない。


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美智子さまの歌集ゆふすげ

2025年01月17日 | 小説
(2025年1月17日)アマゾンに予約していた、美智子さま歌集、書名は「ゆふすげ」出版岩波、が本日、発売日に届きました。
この報告と心に響いた一首を、引用させていただきます。

母逝きて十年近く父病めば
    我が立つ苑の冬枯れさびし(平成9年)

(本投稿は部族民が懇意させていただくS氏ご令閨からの電話連絡を文字起こしました、16時40分)


本書

帯の拡大写真
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Hyppolite、ラカンに哲学を...のYoutube案内

2025年01月14日 | 小説
(2025年1月14日)Hyppolite、ラカンに哲学を...は本年1月9、11日に本ブログに投稿した。その内容をパワーポイントに落とし動画作成し、Youtubeに投稿しました。リンクは最後列に。

Youtube 概要欄の紹介文を下に;

ジャック・ラカン(精神分析学1901~81年)は著作を残していない。セミナーを開催して速記録が残った。弟子ミレールが編纂し1970年代から出版され,全19冊が刊行された。その2巻目、日付は1955年1月12日、セミナーに参加していたHyppolite(ドイツ観念論、とくにヘーゲルの仏語圏への紹介者。部族民通信は彼の仏語訳になる「精神現象学」を昨年9月からYoutube投稿している)とラカンのやり取りを、本動画で「肩のこり」をほぐすために投稿する。


ラカン、セミナーで熱弁を振るう(1955年1月)ネットから採取

Hyppoliteの発言は教訓です;
1ヘーゲルは様々に解釈されている。ハイデッガーの解釈もありうる(彼とヘーゲルの思想は真逆ですが) 2各自各様の解釈ながらその骨子は畢竟、絶対知savoir absoluは誰なのか、何なのかーに尽きる 3ここで自説を開陳するHyppolite。絶対知は弁証法のすべての局面に「潜在immanent」している。弁証法が究極にある特異点に収斂するのは、絶対知があらゆる節目momentに浸透しているからだよ~
4 Hyppoliteはナポレオンを例に挙げる。ナポレオンのイエナ入城、目撃したヘーゲルは「世界精神が馬に乗っている」と感激した。世界精神とは絶対知です、ヒトの歴史の究極にナポレオンが馬に乗って現れた、ヘーゲルは自説の正しさが眼の前に行軍する様を確認した。
最終の5は:ヘーゲル思想は「絶対知も世界精神もモノ世界に存在する。あらゆる節目(弁証法の肯定・否定・統合)は絶対知に支配される。弁証法は宇宙を究極に特異点で収斂する」。でもこれってマルクスです。サルトルもこんなこと言っていた。 
ナポレオンとヘーゲルの邂逅、この「世界史的出来事」を視覚化した絵画も引用し本動画をまとめた。

本動画リンク https://youtu.be/RaDZlz6n-qE

なお部族民通信HP www.tribesman.net に訪問すればパワーポイントのPDF版が参照できます(14日12時以降)

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Hyppolite、ラカンに哲学を教える 下

2025年01月11日 | 小説
本年初の投稿なので肩のこらない話題...「哲学は理解じゃないよ、解釈」その下

(2025年1月11日)et qui s'appellerait le savoir absolu ? Hegel le dit un peu, mais on peut le comprendre tout autrement. L'interprétation de Heidegger, par exemple, est tendancieuse, mais elle est possible, heureusement. C'est pour cela qu'on ne dépasse pas Hegel. Il serait fort possible que le savoir absolu soit, pour ainsi dire, immanent à chaque étape de la Phénoménologie. Seulement la conscience le manque. 絶対知とは誰のことか。ヘーゲルは少しだけ語っている。しかしそれを正反対に理解する人だっている。ハイデッガーの解釈は、傾向的すぎるけど、それも可能です、(彼には)幸せなことに。でもこの事をもって、人はヘーゲルを乗り越えられない。こうも言えるのではないか、現象の一つずつの段階に絶対知は浸透している。悟性はそれを理解しないだけと。
(ハイデッガーの解釈、部族民は語れません。Wiki仕込みくらいを挙げたいのでネットに入ると、色々出てくる。開ける画面は「哲学系」のお偉い様の論文。そこには部族民にとっては「何も」書かれていない。ただアータラコータラで結局、部族民の低級脳ミソは理解しない。
「複雑に絡み合う事象を」簡明にまとめるのが科学者なのだ=レヴィ・ストロースのスンバラシイ言葉=とは真逆、簡単なはずのヘーゲル真理(Hyppoliteがそう解説する)を「哲学的」複雑さに追いやる、こんな解説を読んでいると頭が痛くなる。


Hyppoliteの哲学「講義」が収まるラカン・セミナーの第2冊。表紙はイタリア・マニエリズム大家、モンテーニャのLe Clavaire (ゴルゴダの丘)

部分。良き人ヨセフがイエスの遺骸を引き取るため布地を百人隊長に贈る。後ろの(狡猾な面構え)は総督ピラト。ルーブル蔵

Elle fait de cette vérité qui serait le savoir absolu, un autre phénomène naturel, qui n'est pas le savoir absolu. Jamais donc le savoir absolu ne serait un moment de l'histoire, et il serait toujours. Le savoir absolu serait l'expérience comme telle, et non pas un moment de l'expérience. La conscience, étant dans le champ, ne voit pas le champ. Voir le champ, c'est ça, le savoir absolu.
結局、悟性はこの真実(絶対知は現象の細部に浸透する)をして、もう一つの現象、自然現象を形成してしまう。それは絶対知ではない。言いたいことは絶対知は歴史の一区切りに現れるのではなく、歴史そのものなのだ。絶対知はこうした経験(弁証法)に現れるわけで、一つの節目に出てくるものではない。悟性は(現象の)野に生きるから、この野を見てはいない。現象の野を観察する、これが絶対知なのだよ。

教訓 : 1哲学書は理解できない、著者のわだかまる思考の果ての捻じくれ修辞は、フツー、理解できない。だから解釈する。たまに易しい哲学書はあるが、全く面白くない。仏語界隈の話です。哲学者は文章をしたため、世に公表する。そのときから著作が独り歩きする。読者は文言、行間を読むに集中する。著者はもはや作者ではない。この事情をHyppoliteが簡明に語っている。

2 絶対知は弁証法に潜在(immanent)している。弁証法そのものが絶対知を表現しているノダ。絶対知は歴史そのものだ。ナポレオンは、それまでの開明開放の人道歴史の昇華なのだ。ヘーゲルがこう言ってるが、これって全くマルクスじゃん。サルトルも「弁証法理性批判」で似たこと言ってるぜ。

3 悟性(考える力に属する)はそれ(絶対知の浸透)を理解しないうえ、眼の前を「自然な」現象に捨象してしまう。自然なとは、理性を介在しない、見えるがままの性状として理解する(このあたりはCertitude sensible感じる蓋然で解説している。部族民は1月半ばからBlog投稿する)。

4 ハイデッガーのヘーゲル解釈にHyppoliteは賛同していない風です。それでも « Heureusement » ハイデッガーには都合が良かったんだけど、彼の解釈も実は成り立つ。Hyppoliteのこの皮肉には鼓舞される、先程は諦めたハイデッガーのヘーゲル論に入るべぇと。
ネット断片を読み解くと;ハイデッガーは宇宙理解(彼にしての実存)を個のレベルに引き下げた。ヘーゲルはカント伝統を受け継ぐから、理性(science)を人(全人類)の知性の源においた。個の知は理性に浸透(immanent)されているのか、個それぞれが、それぞれの宇宙観を育成するのか、この対立になるのではないかな。

最後にラカン「ヘーゲルは最後の人文主義者、そこに行き詰まった。フロイトはその出口を見つけた。故に彼は人道主義者ではない」

なんとも意味深の言葉です。 Hyppolite、ラカンに哲学を教える了(1月11日)

後記:レヴィ・ストロースがサルトルを批判した文(野生の思考)に対し、日本の高名なサルトル紹介者(文学系)が放った言葉「レヴィ・ストロースはサルトルを全く理解してない」(1963年)。後にこの語を聞き及んで、私は衝撃を受けた。文学者は作品を「理解」するのかと。考え直して「文学作品は作者、その時代、生活環境とあわせて語られる」ことが多々、伺える。その雄弁な例はユイスマンス、プルースト、漱石龍之介など、皆文豪です。それを称して「理解」と述べたのか。しかし哲学書は、幾度か言うが、文言命です。著作が発表された途端、書物は独り歩きする。デカルトは吝嗇、キルケゴールは女たらし(知らないけど)などを前提にして、著作を論じません(部族民蕃神ハカミ)。




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Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上

2025年01月09日 | 小説
2025年初めての投稿となります(2025年1月9日)
皆様には、2024年を通して当ブログ、同期するYoutube、ホームページへのご訪問に深く感謝。本年もご訪問、コメントで部族民を叱咤激励してください(部族民通信)。
本年の初投稿、堅苦しくない話題を。精神分析ラカンとHyppolite(哲学、昨年の部族民ブログでヘーゲル著作の紹介者として採りあげています)のやり取りです。

Jaque Lacan (精神分析医、以下ラカン) 彼の紹介はWikipediaを丸ごと引用する:
ジャック=マリー=エミール・ラカン 1901年~81年フランスパリ、哲学者、精神科医、精神分析家。 初期には、フランスの構造主義、ポスト構造主義思想に影響力を持った精神分析家として知られていた。 中期では、フロイトの精神分析学を構造主義的に発展させたパリ・フロイト派のリーダー役を荷った。 後期では、フロイトの大義派を立ち上げた。


セミナーではラカン節が炸裂

付け加えるとパリ・サンタンヌ病院(神経内科の専門施設)の精神分析医長。公開セミナーを開催した(1950~70年代)。一般人も自由に傍聴できた、一時100名をこす参加傍聴もあって、大変に盛況だった。セミナー会場は当初はサンタンヌ病院会議室、後に(参加者が増えたので)高等師範学校 (Ecole normale supérieure) 階段教室に移った。このときに同校哲学教授を勤めていたのはJean Hyppolite。施設貸出を許可した当人で、かつフロイトにも関心を寄せていたのでセミナーには足繁く通った。


パリのサンタンヌ病院

ラカンは著述を残していない、公開セミナーは速記録(速タイプ)が残されていた。弟子のアラン・ミレールの編纂で1970年代から出版された(全19巻あるらしい、邦訳では5を越すほどか)。
以下の引用はラカン・セミナー第2巻 91~92頁から。

話がヘーゲルに飛んだ。
ラカン「彼の著作の「精神」=精神現象学=は傑作中の傑作と思うのだが」
イポリット「君が傑作をどのように定義するのかによる」
ラ「私はよく考えている、その定義の説明は後にして、それ(精神現象学)はどの辺りを主張するのか教えてくれないか」
イ「私を(ヘーゲルの)宣伝員と思ったら困る、ヘーゲルの代行になったことなどと思っていない。どちらかと言うとその反対だね。」
ラ「それはよく理解しているよ、それでも君は私よりヘーゲル専門家なのだから、彼の諸作品が私の主張に沿うのか、全く反対かどうかは指摘できる=中略=結局、絶対知(Savoir absolu)ですよね、ヘーゲルはそこから抜け出ていない。弁証法悟性があって、それが絶対知につながる。そう書かれている」
(ラカンはヘーゲルをちゃんと知っているのだ。単なる「減らず口」なんて評価したらラカン、間違えたアカン。哲学素養満載の口達者なのだ)
Hyppoliteは立ち上がっておもむろに、しかしラカンのセミナーなので長い時間は取れない、簡潔に、そして核心どころ、一口舌した。それが以下;

M. HYPPOLITE : — Oui, mais on peut interpréter Hegel. On peut se demander s'il y a un moment, dans la suite de l'expérience, qui apparaît comme le savoir absolu, ou bien si le savoir absolu est dans la présentation totale de l’expérience ? C'est-à-dire — est-ce que nous sommes toujours et en tout temps dans le savoir absolu ? Ou bien le savoir absolu est-il un moment ? Est-ce que, dans la Phénoménologie, il y a une série d'étapes qui sont antérieures au savoir absolu, puis une étape finale à laquelle arrive Napoléon, n'importe qui, etc.,
了解、しかしヘーゲルは多様に解釈されている。経験の流れのなかで、それが絶対知に思える一時はありうる。あるいは経験全ての表現が絶対知なのか。言い換えると我々は常に、いつも絶対知の中にいるのか?それともそれは一瞬の時なのか。現象学の中では絶対知に先立つ一連の段階を説明している。その最終段階にナポレオンが登場する、絶対精神のかのごとく。ナポレオン以外でも良いのだが。
(ナポレオンのイエナ入城に居合わせ、目撃したヘーゲルが「世界精神が馬に乗っている」と感興を語っている。絶対知を世界精神と言い換え、それはモノ世界に存在して、それに値する英雄に憑依したとヘーゲルが感動した。こう=部族民は=理解、オットまた間違い、解釈する)


イエナに凱旋するナポレオンとヘーゲル、抱えている書類は精神現象学の草稿。これを手に戦乱から逃げ回ったとも伝わる(写真はいずれもネット採取)



Hyppolite、ラカンに哲学を教える 上 の了 (1月9日)
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