蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロースを読む 神話と音楽8(最終回)

2017年11月28日 | 小説

(11月28日)
これまでの投稿を振り返りながら、
悲しき熱帯(TristesTropiques)を刊行して後の雌伏10年、ビストロースは「生と調理Le cru et le cuit」(Plon社1967年)を上梓した。レブラジル中央部(マトグロッソ)に住む先住民、200を越す神話を蒐集し、彼ならではの手法で解析しています。10月10に始まった本投稿(神話と音楽)は彼の手法をその文中に探りました。要約として神話の表現方法とは「3分節」(=登場する人物や動物、現象など要素elementsが下層を支え、中層でシーンsequenceが場面から場面へと流れを彩り、上層があらすじarmature)。それらの分節の区分けは「実体」であり、それらおのおのに対峙する「思想」の概念を持ち込みます。要素に対峙する思想とはpropriete=特質、sequence対code=符号、あらすじ対schemeスキームとなります。
例えばM1ヒーローはinitiation=成人となる通過儀礼を控える少年で、成熟も半ば、母系社会から離される不安を抱くなど、民族誌的分析の濃いprioriteを思想として対峙させている。
この「実体対思想」の二重性が神話解析の基本となります。神話の比較には同一、近似、反転など用語を用いますが、実体の似通いではなく、思想のレベルでの近似を比較しています。本書が構造神話学の嚆矢と評価される理由でもあります。

個々の神話解析の中核をcodeが占めます。
表題「生と調理」とおりに、最初に取り上げるcodeは「味覚」です。味覚に続いて聴覚、嗅覚、視覚、触覚をcodeに取り上げています。
基準の神話M1(Bororo族神話)ではヒーローは父に捨てられ、絶壁を放浪しながらトカゲを探し、大量に採取するまま生で大喰らいし意識を失い(ここで一旦死ぬ)、ハゲワシに啄まれる。霊として復活し村に戻り火をもたらす。
生食で大食らいして死ぬ(あるいは罹患する)sequenceはM5(Bororo族神話、病気の起源)でも取り上げられている。毒流し漁で女が大量に魚をすくい取り、村に持ち帰る途中で食べてしまった。女は魚を吐きだし、それらが病気の元となって地に猖獗する。生喰らいの2例を挙げたが、他の神話でも取り上げられ、それらsequenceで共通するのは単独の行為では不摂生不具合、集団であれば乱交、親族同性と相手構わずの交雑を誘発する(M15Mundurucu神話、野豚の起源)。
レヴィストロースは生喰いcodeをその上層、schemeの思想から説明します。それが自然対文化=nature VS culture=です。natureを自然としたがこれは連続、放縦、混乱の意味合いが強い。一方cultureは実体に火(調理)、水、音楽、儀礼が上がるけれど介入、規制、調和が思想としてあがる。この理解に沿って読み進めると母系社会とは変化のない継続で、それが放縦、混乱、退廃の源となる。schemeにはこの思想が読み取れる。レヴィストロースは幾度もnature/cultureの対句を文中に現しています。
まさにBororo族の社会と思考であり、どの族民も母系社会を形成するブラジル先住民、彼らの神話に共通するschemeです。
さて、本書の序曲、その第一頁第一行には;
<le but de ce livre est de montrer comment des categories empriques telles que celles de cru et de cuit="中略= peuvent" server d’outils cponceptuels pour degager des notions abstraites>
訳:本書の目的は生と調理(された物)という経験で規定できる分類則が抽象的考えを引き出せる道具たるかを証明することにある。
こうレヴィストロースは約束した。すると「生と調理」とは「世界観の対立」を表現するに他ならない。連続する社会は前述のとおり母子姦、大喰らい、放縦、疾病が取り巻く退廃の世界(レヴィストロースは一言もこうした解説を加えていない。しかし取り上げている神話、おのおののsequencesは如実に退廃振りを現している)。文化を担うのは男、この文化して母系の継続に断絶、すなわち介入して矯正をもたらす(各神話でのcode展開がそうなっている)。本書をこのように読めば、難解とされる構造神話学の全行が理解できる。

この解釈を今の日本社会に反映できるか否かを投稿子(蕃神)は考えた。
継続は自然ながら人の性(サガ)で退廃に向かう、この思想は日本に当てはまるだろうか。分断するが文化で、介入により腐敗が矯正できるのか。Bororo族で証明した2元論を今の日本に応用する、その試み自体が正しいか。継続とは分断とは、すぐに答えはでない。

写真:デカルト的「生体解剖」を否定し、神からの知性も否定し、思想と本質の相互性を打ち立てた哲学者、20世紀を代表する智の人。写真はBororo族調査中のレビストロース

最後に
「レヴィストロースを読む神話と音楽」は本投稿をもって終了です。
投稿子は2巻目の「Du miel aux cendres=蜜から灰へ」を読書中です、いずれこちらも報告いたしたい。また本書で取り上げられる幾つかのエピソードは知識として楽しい。例えばフランスでvacarmeと伝わり、日本でも古事記に取り上げられている蝕に際しての大騒ぎ(アメノウズメの命)。その風習はBororo族にも残り、その構造主義的説明にレヴィストロースは数頁を費やしています。関連して「ウワナリねたみ」=後妻いじめ=も日欧南米Bororoに共通です。こうしたエピソードを軽く取り上げようと考えています。
(11月28日 2017年)
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ7

2017年11月11日 | 小説
(11月11日)

第一楽章と第二のまとめとして。
レヴィストロースが主唱した構造神話学、その嚆矢とされる歴史的名著「Le cru et le cuit」(生と調理)の解説を試みている。前回までに神話における3段階の構成、そして各構成における表現の有り様を文中、行間そして文字裏に探った。尊師の言い方ではこの段落はテーマと変奏、ソナタ。音楽ならば、語り口と筋道とは演奏の流れ、小節小節に符号(code)が散りばめられ、それがとある方向に展開する。これが符号化(codage)。これらの演奏振りを「鳥の巣あらし」「野豚の起源」二の神話群で探った訳です。
そもそもcode/codageは神話のメッセージの筋道(armature)とスキーム(scheme)を表現する原動力ともいえます。その共通する力が「五感」。

トッカータとフーガ、スバル星のテーマ(247頁)から一節を引用すると;
<en dereniere analyse, ces differences se reduisent a autant de codes , constitutes a l’aide des categories de la sensibilities : gout, ouie, odorat, toucher, vue…>

訳:これら神話は内容において大きな差異を見せているが(人の寿命の起源神話群、この前の数十ページでは南米のみならず、中北米の原住民アメランディアンから神話を選んでいる)これまで論じてきたように官能則による符号(code)付けの成果を取り込めば、それら差異は味覚、聴覚、嗅覚、触覚、視覚の5に縮小できる。

鳥の巣あらし神話では味覚(gout、gustatif)をcodeとしている。父に謀られ絶壁に取り残されてトカゲを喰らう(M1ヒーロー)、毒流し漁獲物を大食らい(M2ヒーローの母)など、生喰らいまでの経緯とその結末をsequence(シーン、聞かせ場のアリア)としてあげている。
野豚でもしかり、鳥の巣ではこうしたsequencesをレヴィストロースはボロロ族での自身の調査での見分、民族誌の知識をもって判定している。生食い行為(manger cru)とは、「野蛮」「未開」を表すのではなく、何やらの社会性、精神を表象していると推理する。哲学者ではなく人類学者と自身を位置づける洞察力の深み、レヴィストロースのraison d’etre存在理由がそこに隠れ見える。

分析によると;
ブラジル中央のマトグロッソ・アマゾニア原住民はmatrilineaire母系社会、ボロロ族ではそれに加えmatrilocal母系居住の社会制度を厳然と維持している。ヒーロー若者は成人の儀礼(initiation)を迎えた。通過後には男屋に隔離される。母系居住の女屋には成人男子の居場所はない。隔離居住こそ母系制維持に不可欠制度だがヒーローが拒否した。それは居残りたい、母から離れたくないに尽きる。
血縁(母方)との連合を継続する、同盟(姻族、父方)の拒否である。父との関係を姻族としたのはボロロ族は邑を二分する「部」が社会の基本である。子は母の子であ、母の部の構成員である。父の部には入らない。子は父を姻族同盟の先端とみている。鳥の巣あらしでは子が樹上(断崖)に上り金剛インコの雛を掴むが、父に「雛は見えない」「まだ卵」と偽り、雛の引き渡しを拒む(M1)。石を卵に見立て、飛礫を投げつける(別神話)。地位の象徴である金剛インコの尾羽を父に渡すまいとする反逆は、同盟を否定する行為である。
母の部での継続とは制度への反逆、放縦、無視、不作法、そして近親姦の「思想」がまつわり、それらを「生喰らい」に集約している。生で食べるとは自然で継続、そして母子姦(おやこたわけ)につながるのである。

写真:ボロロ族は金剛インコの雛を盗み育てる。尾羽が長く生えたら抜き取って冠飾りに用いる。このインコはkejara落で著者に撮影された成鳥だが、尾羽がない「鳥の巣あらし」で雛で盗まれた、尾羽が生えたら抜き取られして、「生き続けろと勇気づけられている=悲しき熱帯の一行」のであろう。本書からデジカメ。

野豚の起源神話では音(ouie)となる。
M16で俗神カルサカイベの要求は良き作法に他ならないが、結婚している姉妹は応ぜず、俗神代理を侮蔑し、交換品など渡さず帰す。復讐の結果姉妹の嫁ぎ先一族は野豚に変身させられる。俗神の「汝等、肉を喰らえ」呪いで、これを一族郎党が「まぐわい」に狂えと聞き違えた。「ブイブイ」と野豚の唸りをあげ相手構わずに交合して、その放縦の果てが野豚への変身だった。
不作法な音が放縦、作法破り、連続の思想を表しそれが、姻族からの要求(介入)を拒否する自然となる。
原文では肉=viandeを喰らえとしている、このviandeは調理前の肉で、調理してのちにboef(牛)proc(豚)などに変わる。ここでも生喰らいのcodeが存在し、それが不規則な姦淫(放縦の象徴)と結びついている。
本書序曲の第一行の「生と調理などの経験で判別できる感覚が抽象概念を曝く」との質問に鳥の巣あらし、野豚の起源に答えが用意されていると感じる

良き作法のソナタ7の了
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ6

2017年11月09日 | 小説
(11月9日)

前回投稿(11月7日)ではレヴィストロースの問いかけ(IsomorpheVSheteromophe)で躓いてしまった。iso/heteroの区別はしたものの、その概念を2の神話群の対照に導入するのに脳血流がぶち切れたようだ。前回の>異質とする処とはその発端が(母系内部の放縦性=対=姻族同盟を要求する俗神)に分かれている点である<の解釈は引き下げて白紙から再スタートする。
言葉の定義について変更は無しで=isomorpheは異質同像、heteromorpheは同質異像。レヴィストロースはもう一対の概念を導入している。それがsupplementaire / complementaire,この意義を片付けてから再スタートしよう。

勝手解釈ながらcomplementaire(補完的)とは1の思想を1の実体で比定するが「さらに別の実体を引用して補完的に説明する」としよう。supplementaire(補充的)はこの真逆なので1の実体を1 の思想で説明して「さらに別思想で補充する」とする。分かりやすく書けば「彼女は美しい(思想)、それは目は澄んでいる(1の実体)のと色白(別の実体)だから」これがcomplementaire。「彼女の目は輝く(実体)、それは美しさ(思想)と優しさ(別の思想)を兼ね持つから」これがsupplementaireとする。

2の神話群(鳥の巣あらしと豚の起源)を構造主義的に3の分節(articulation)、それぞれの実体と思想を表にした。掲載のデジカメを参考にしてください。
鳥の巣あらしはヒーローが母と相姦し、父に謀られ樹上に取り残され、トカゲを生食ながらもハゲワシについばまれ、霊となって村に戻り復讐する(父も母も殺す)があらすじ。そのarmature/scheme(骨格とスキーム)はnature→cultureです。自然(生食い)から文化(火の使用)にのスキーム。(掲載図では左の最下段)
natureには自然の意以外に気まま、放縦、連続が強いと以前の投稿で説明しました。cultureは文化よりも介入、不連続となります。すなわち放縦から脱出し、介入に移行した人間社会を叙事にしている。スキームの一段の下層では(表で真ん中)gustatif(味覚)をcodeに取り、生喰い食い過ぎ鳥の糞まみれなどのあと、火を獲得して調理(介入)の文化に入ってゆくsequencesシーケンスが並ぶ(この過程が本書Le cru et le cuitの題名に取り上げられた)。最下層の登場人物とpropriete(特質)では、母子姦、父への反逆、インコの雛を石に変えて投げつけるなどの行動を通してヒーローの母系社会に執着する思考をあからさまにしています。連続を願う思想です。

(表は同書105頁記述を参考にして投稿子が作成した)

表の右側、野生豚の起源に入ります。
最下段にスキーム、culture→natureとあります。人が豚に変身する顛末。中段ではcodeに聴覚(ouie)を取り上げています。Elementの段では俗神のproprieteとして文化、介入を上げる。一方で姻族側(姉妹の嫁ぎ先)は自身の連続性に拘泥し、俗神の介入(不等価交換の催促)を拒否する=自然、放縦=をを優先している。

この2群の神話にはiso/heteromorpheとsupplementaire/complementaireの対立があると尊師は指摘した。ここまでがおさらい。この表をもとにして2群の神話の対立を浮かべる。まず、isomorphe/supplementaire異質同像から考える、そしてそれが補充関係とは;

1 母子姦の結果、夫婦(ヒーロー父母)の同盟=が破壊された(鳥の巣あらし)。野豚神話では兄(俗神)の不等価交換を拒否した(姉妹)は血族を忌避し、同盟(夫)の連続性を優先した。優先は血族か姻族かこれが異質。
2 結果はいずれも連続性の破局、鳥の巣ではヒーローは母系集団から隔離され、野豚では姻族の一統は豚に変身させられた。
3 継続性の実践(これが実体)は血族連続の論理、そして血族排除の思想(兄を侮辱した姉妹)いずれでもあり得る(supplementaire)

もう一方のheteromorphe/complementaire=同質異像、補完関係とは;
1 codeにcategorie empirique(経験則=序曲1の1行目)を採用し、いずれも連続性(自然、放縦)の展開(codage)を見せている。ヒーローの生食、処構わずの唸りと交合。これは同質。
2 鳥の巣あらしではヒーローが火を持ち込んで介入の社会(culture)を創造したのに比べ野豚神話では人が放縦(nature)に貶められた。(異像)同種の行動でも結果は真逆。
3 nature/cultureの移行、逆行(思想)には同盟の破局(鳥の巣)、血族の忌避(野豚)の両の起因がある(complementaire)。

母子姦(成人の後は母社会から隔離される)、父への石つぶて(子は父と異なる支族)、兄を侮辱する姉妹-これらの背景にはmatrimonial/matrilocal(=女系社会、女系居住)の軋轢が指摘される。

神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ6の了
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ5

2017年11月07日 | 小説
(11月7日)

写真説明:獲物はオオハシ4羽、自慢げにぶら下げている。(ナンビクワラ族、同氏の著作から)


前回(11月3日)の写真は本書le cru et le cuitの104頁の表をデジカメ化した。その結論たる105頁初段の別表を手書きにして掲載する(下)。下図を参照してください。M16,20,21は「野生豚の起源」「文化財」起源を語る神話で、互いの符号、符号展開(code,codage)の近似から一つの神話群としてまとまる。codeが”acoustique”=音です。
上引用の訳;operationsは104頁で展開したelements(自然の資源、血族姻族の離反、嫁の贈り手受け手など)をその思想であるproprietes(特質)に変換させた作業。その全体を俯瞰すると音声コードを浮き上がった。


<Puisque la transformation des hommes en cochons dans M21 resulte---al’inverse de ce qui se passé dans M16---d’une disjunction d’epoux qui se heurtent, et non de keur union charnelle>(105頁)
訳;人が豚に変身する過程はM16とM21では真逆である、(しかし音を介している)。注:M16では俗神が「汝等の肉を喰らえ」と呪いをかけたら、野豚が「交尾の唸り」をあげるかに姻族員が辺りにも人、性にも構わず交合に狂いだした。M21では食事にカラシを盛られた夫が「唸り」野豚に変身した。

次頁でレヴィストロースは意味深い質問を提起します。
<ils sont partiellement ISOMORPHES (大文字は投稿子) et supplementaires puisqu’ils posent le problem de l’allience matrimoniales ; et, partiellement aussi, ils sont HETEROMORPHES (同) et complementaires, puisque de l’allience matrimonial, chacun ne reticent qu’un aspect>(106頁)
訳;それら(第一神話群「鳥の巣あらし」とそれに対する「野豚の起源」神話群)は部分的にISOMORPHESで補充的である。なぜなら母系社会の同盟での(特定されている)問題を等しく提起しているからである。その上、部分的にHETEROMORPHESで補完的である。なぜならその同盟から、それぞれはある一つの様相しか引き止めないからである。
「これ分かるかな」レヴィストロースの声が聞こえてきそうだ。

これまで遭遇した事のない言葉、isomorpheの意味を調べると「化学用語;異質同像」とある(白水社大辞典)よく分からないからrobertを開く<propriete que posedent deax ou plisieurs corps de constitution chimique analogue d’avoir des formes cristallines voisines> 類似した(analogue)組成を持つ複数の物体の結晶の像が近似(voisine)する事とある。analogueは「一部が類似する」との意味が強い、voisinは「全体として近似する」のでanalogueよりは同質に近いと言える。しかし「同質」までには行かない。よって「何となく似通う物体が結晶化するとかなり近似する像を見せる」が正しいだろうが、長すぎる。その意を含んでの「異質同像」と理解する。
HETEROMORPHESはその逆として「同質異形」と訳す。この訳にも「近似する2の物質は異なるけれど似通う像を見せる」の含意を持たせるとしよう。
そして鳥の巣あらし、野豚の起源の神話群に共通するのはあの問題(le problem)だそうだ。それは母系社会の同盟に端を発すると。

M1(基準神話、ボロロ族鳥の巣あらし)を思い出そう、主題は母系同盟の「連続」の固執である。成人の通過儀礼を迎える子がヒーロー。この儀礼とは母系からの分断である。分断を拒否して(母子の相姦)、父と母の同盟を破断させた。子との相姦と広い意味での兄弟(同じ部に属する男子)との相姦もM2以降に語られている。これらは母系の連続を希求する行動である。母系の連続が自然、放任、放縦につながるとは(前の投稿で)述べた。
別の様相を見せる問題がある。それは姻族関係の破局である。レヴィストロースの言葉で(嫁の贈り手受け手)<des liens avec des etre do’t la nature lui parait irreductible a la sienne>贈り手は自身の立場と妥協できないほどに対立する側(受け手)との同盟を結ばなければならない。
妥協できず対立してしまった例とはM16以下の神話である。
ヒーロー俗神の行動を見よう。
サルカルイベが子を連れて姻族(姉妹を嫁がせた受け手)近くに居を構え、ウズラ一羽と野豚一匹の交換を要求する。社会慣習に沿った理のある行動。姉妹は「夫が狩った」野豚ではあるが不等価故に拒否する。サルカルイベは呪いをかけて姻族全員を豚に変えた。この贈り手受け手の行動には、母系社会の連続を優先するか、姻族との同盟を優先するのかの相克と、結局は前者をとるとの意識が働く。これが問題、豚の起源である。
一つの問題le problemeではあるが、母系内部の問題と姻族同盟の否定という2の様相が見えた。
ではその結果としての崩壊に目を向けよう。
鳥の巣あらしではヒーローの彷徨、部族の破滅(ヒーローが霊に化けて父母を殺す)。最終には「不連続の社会の創造」となる。これが骨格(armature)でschemeは自然から文化への移行である。
一方、野豚の起源では非礼な行動をあからさまにした姻族側が豚と果てる。人間が動物に、それは社会から自然への逆転である。
異質とする処とはその発端が(母系内部の放縦性=対=姻族同盟を要求する俗神)に分かれている点である。そして同形の結晶体とは(連続性を否定し常に分断を意識するschemeスキームである)これが異質同形。
では同質異形をなんと説明するのか?

神話と音楽第二楽章良き作法のソナタ5の了
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ4

2017年11月05日 | 小説
(11月5日)
全体350頁の本書Le cru et le cuit、その100頁まで進みました。選ばれた神話は21、全体では187を数えるので9分の1ですが、神話の引用のない序曲が37頁占めたので、頁数に比例してはやや少ない。しかし鳥の巣あらし野豚の起源の神話群は原住民の思想を解き明かすに重要です。
レヴィストロースは提案します
<Marquons ici un temps d’arret, pour reflechir sur notre demarche>
訳:ここで小休止してこれまでの論点を整理してみようと(105頁)。
この行の前後の数頁は、投稿子が規定するところのdiscours(本論)です。ようやくレヴィストロースが手の内を明かすかの予兆に震えます。

この105頁の直前ではM16~21の比較を表にしています。
手順はelements要素を引き出し、思想であるpropriete(属性、特質)を特定したうえで比較する。従来の「登場人物と筋道」すなわちformeの似通いで近遠を判定する神話学とは大きく異なります。
M16では主要なelementとしてヒーロー俗神が狩る鳥を取り上げている。
デジカメ化した104頁を掲載しています、参考に。
Gibier鳥=airUterreと判定しています。=としたが本文では3の-が縦に並ぶ。ただの=はidentite同一ですが、一本追加の3本縦置きの記号はcongruenceです。辞書を開くと「整数(図形)の合同」<deux nombres dont la difference est divisible par le troisieme>。数学用語で「2の数字(図形)は近似しており、第3の数字(図形)と対照してその差異を判別する」とある(辞書はスタンダード、robert)。尊師は解説を当然、加えません。よって勝手ながら自己解釈の独断を下さないと進まない。

俗神カルサカイベはウズラと豚の交換を要求した(挿入の図は本書から)

本書は「構造神話学」なので、それらしき解釈を試みる。それは「形態formeは異なるが思想たる特質proprieteが同一」とします。例として「伏し目の女性」「空を見つめる女性」は異なる図形ながら、表現する悲しみという思想で同等、この2はcongruenceと言える。

続く記号のUはunion同盟です。M16で俗神が狩り野豚と交換を求めるのはウズラに似た鳥。地を這い空を飛ぶのは確か、ウズラを持ってして地と空という資源を示している。さらにM16は→M21とあり、→とは転換の記号。M16が伝播してM21に変換した意味。M21では漁がelementに取り上げられている。魚は水とcongruenceの同等性を持つとしている。ウズラと魚はelement(=forme)として異なるものの、天地と水、いずれも天然資源を表現する思想、ウズラが魚に思想として転換した。さらにこの同一性は、elementの上の言い切りsequenceで同一方向に働き、最上層のarmature=schemeにもそれを継続させる。

表を追っていこう。

本書104頁、ピンクの下線部を本文で説明している。

Mundurucu族では男と姉妹の関係に//がかぶさる。破局である、兄弟姉妹の諍いがsequenceシーン、場面となる。M16の冒頭で俗神(カルサカイベ)が姉妹嫁ぎ先のキャンプに居を構えウズラと野豚との交換を姉妹に要求して断られた。この顛末シーンを△―//―○=△血族の破局、姻族は同盟維持とした。一方Bororo族のM21は姻族、妻と夫の破局○=//=△がelementだが、両者間には→変換があったとしている。
ちなみにM21の要約を上げると「夫が漁に出ても魚一匹取れない、妻が出ると大漁で夫はバカにされる。しかし妻はカワウソと同盟しているとバレ、夫に詰られた。復讐に妻は芥子たっぷりの食事を与え、夫は「グウブウ」と大変苦しんで豚に変身する」まさに夫婦の破局です。
これらをレヴィストロースは嫁のやり取りにつきまとう破局とした。「donneur嫁の出し手対prenneurもらい手」の軋轢をcodeとして展開している。これは前回に取り上げたテーマです。
いずれのケースでも本来、同盟として機能すべき結合が破局する。「破局」がcodeで、展開(codage)するという共通性をM16~21が共有している。

sequences単位でM16,20,21を比較した表が最終です。M16では自然資源とは天地がcongruence、M20では文化財(金剛インコが水から拾い妹のもらい手に送った石)と水空気、M21では自然資源は天地と同一と読めます。
資源(文化財)と天水、空気を数式で結んでいるその理由は?105頁に移ります。

神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ4の了
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ3

2017年11月03日 | 小説
(11月3日)

レヴィストロースの文章の特徴とは特殊な用語がポツリと、行に埋もれる様で出てきて、解説もなしに先に展開する。その概念は何かと、見切り発車でも考えなくては、前も後も、理解できない。構造主義=structuralisme=との言葉が出ても意味する処を語らない。背景を彼なりに以下に説明しています;
<Le savant n’est pas l’homme qui fournit les vraies reponces; c’est celui qui propose les vraies questions> (本書Le cru et le cuit 序曲15頁)
訳;学者はあらゆる正しい答えを用意する人ではない、それはあらゆる正しい質問を提案する人なのだ。
訳注。学者(savant)にしても人(homme)にも、答え質問(複数)にも定冠詞(le)がかぶさります。全ての名詞に定冠詞を付けるとは、全てに断定していると読める。そして文意は「学者は答えない」と。普通は質問するのが弟子で、学者先生は答える。故にこの文は反語です。フランス語の文章書きとして定評あるレヴィストロースは、評判とおりに反語を多く用いるのですが、このケースは学者は「彼自身」と捉えると、反語の落としどころが創作でき、後々が分かりやすい。引用文の正しい訳は「私が問いかけるから、答えは自分で考えてくれ」

前回(11月1日良き作法のソナタ2)は嫁のやり取りを巡る軋轢の話でした。良き作法を守り相手にも礼儀正しさを要求する側に対して、作法を踏み外した側は野生豚に変身させられる筋でした。これら3(M16,18, 20)の神話にはelements/propriete(神話要素と属性)の共通性から伝播(transformation)が明確とレヴィストロースはしている。しかし最後(M20、ボロロ族)には特異性が目立ちます。
「非礼側が礼儀遵守側に大勝利する」、M20はM16,18と正反対です。
噛み合わせの不整合、それをあえて伝播していると並列表示した真意は、学者savantの「問いかけ」です。何故かは自身で考えてくれとの。

投稿子(蕃神)としての答え、その鍵はボロロ族の社会制度にあります。
ブラジル、マトグロッソ・アマゾニアの原住民はほとんどが母系社会、引用される神話には採取した部族名が記載されますが、sherente族(ジェ語族アマゾニアに住む)のみが父系とされる。ボロロ族は母系(matriarcal)かつ母系居住(matrilocal)、厳格にこの風習を受け継いでいる。(レヴィストロースの現地調査は1935年、kejara邑自体の存続とあわせ、この風習を現在も維持しているかは疑問)
ボロロ社会での男の地位をみると、母系ゆえの「父」の厳格な否定です;
社会は2の部、8の支族で構成されると前の投稿で述べました(10月10日)。男がボロロに生まれたとすると;
生まれをcera部のbokodori支族、その中層(上中下の階層がある)とする。成人の通過儀礼をへて生家(母の家)から離れ、男屋で活動、寝泊まりする。婚姻の相手は(対向する)tugare部arore支族に属する中層の娘と決まっている。そして対向するaore支族の男にして、boodori支族に婿入りする。婚姻関係はかく、相互依存(endogamie)となる。
女屋に「婿入り」するが、自分が住む場はそこに無い。女屋には娘の母、叔母、時には祖母、姉妹、未成年の男子など母系集団が生活する。夜にも夫婦での生活は満足に送れない。子が生まれても父と所属する部が異なるから「母の子」であり、父権はない。
動産、不動産なる価値を所有し相続するのは女であり、母から娘へとつながる。
彼が所有するのは儀礼に用いる飾り、装飾法、弓矢などの飾り付け、それらの模様のみである。より正確に述べれば、飾りの形態(特に金剛インコの尾羽の数や高さなど)、手足などをどの様に塗るのか「規定の相続」だけである。(=悲しき熱帯、Bororo章を参照した)

写真:ボロロ族壮丁の表情、尾羽の数、高さから権力者と推定できる。厳しい表情である。(同氏の著作からコピー。10月20日に掲載した全身者と同一)

M20ではdonneur(嫁の贈り手)は金剛インコである。prenneur受け手はインコから妻のみならず、相続となる規定(尾羽の数など)も受け取っている。全人格、財産を金剛インコに負う関係になっている。
prenneurはこの一方的な依存関係を終局させて、相互依存の新たな関係を構築するため、恩のある規範を踏み外してもいないdonneurを殺戮した。相互依存による新たな関係とは、レヴィストロースが観察したボロロ族の社会、邑落の構造に他ならない。
M16,M18にはこの一方的依存は認められない。M20だけの変形、乖離をレヴィストロースはかく語る;

(102頁)
訳;M20を分析すると、私(たち)の仮説を肯定する方向で、この神話はジェ語族、チュピ語族の同等の神話(例:M16,M18)が用いる符号(code)を採用していると確信するが、メッセージの伝え方にある種のねじ曲がり(distortion) の代価を払っている。
このねじ曲がりが「嫁と文化を負う」彼らを火刑にする忘恩の仕打ちである。
読者は投稿子の前投稿、(ボロロ族の歌4 10月20日)で「贈り物が少ないとは、弱小(の支族)なのでボコドリ(殺戮者)が期待する質と数をまとめきれなかった」ため皆殺しの引用をいれた。贈り物が少なくとも、多くても火刑に処するやっかいな部族がボロロなのだ。

神話と音楽第二楽章良き作法のソナタ3の了
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レヴィストロースを読む 神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ2

2017年11月01日 | 小説
(11月1日)
用語について少々語ります。
投稿子(蕃神ハガミ)は日本的感覚で「血族」「姻族」を用いた。レヴィストロースもこれに近い用語germain/affilieを用いるが、語が意味するところは少々異なる。germainは同父母の兄弟、あるいは同祖父母の従兄弟姉妹を意味する。marriage germainとはドイツ人の結婚ではなく、父と母が兄弟姉妹の関係にある従兄弟姉妹同士の結婚を意味する。
日本語で血族は「血族集団」として使われる。それは一族郎党の族でありgermainより範囲が広い。affilieにも同様の差異があり、姻族の範囲はaffilieより広い。
レヴィストロースが頻繁に用いる用語はdonneur de femme/prenneur de femmeである。前者は妻を差し出す側(人)、後者が妻を取る(娶る)側(人)である。この用語法に血族姻族の意味合いを重ねると理解が深まる(と考える)ので使った。

本文に戻ります。
M16~20,これら3の神話を伝える部族(Mundurucu,Kayapo,Bororo)はいずれも母系社会です。父親となる男の系は出身、すなわち母の系なので自身の妻、娘や息子とは系が異なる。Donneur、娘を差し出す主体は母の系なので娘の父にはその権利はなく、娘の兄弟がそれを有する。必ず妻の兄弟であるし、多くのばあい長兄。娶るprenneurは別の系の同世代の壮丁。娘のやり取りを通して系の異なる個人、若者の間に対立、軋轢が必ず生じる世界とも理解できる。レヴィストロースは以下に解説している;
dont la nature lui parrait etre irreductible a la sienne>(105頁)
訳;姉妹あるいは娘を所有する男とは、彼の立場と相入れない男との連携を形成する運命に呪われている。
訳注、natureを立場と訳した。父系社会では娘は父親の所有と見なされるのでfille(娘)がsoeur(姉妹)の後に付いた。(所有するとはあくまでブラジル原住民の話)

M16でヒーローのカルサカイベが不等価交換を要求するのは血族(姉妹)、M18のヒーローオインベは自身の姻族、妻側に食物を無心する。いずれも断られる。
不当な要求する行為が非礼か、断るのが非礼なのかに前回、疑問符を入れた。そしてM20では
>妹を出した兄弟が義理の兄(弟)の収穫を「当然の取り分」として妹に要求している<
婚姻関係を結んだ相手側に代償(食物)を要求する行為はブラジル先住民にとって規範から外れない。すると、断る行為が非礼となる。

女をやり取りしての姻戚関係、遣る側も取る側も同性の同世代、そして属する系(あるいは部、支族)は異なる。もとより対立(irreductible=妥協できない=)を孕む同盟なので、こちらが当然と要求しても、相手はそれに応えず、規範から外れた行動を返した。義理の兄弟の同盟関係に報復が渦巻くと予測できる。
続きを引用すると;
<Toujours assimilables a des animaux, ces etres se repartissent en deux categories: celle du jagar, beau-frere bienfaisant et secourable, donateur de la civilisaion : et celle du cochon beau-frere malfaisant,utilizable comme gibier>(105頁)
訳;これら(妻を娶った側)人物は動物に比定される。その1がジャガーで、好意的、義理の兄となってヒーローを助け文明をもたらした。もう一方が野生豚、義理の兄弟ながら悪意を持ち、狩りの獲物としての価値しかない。
訳注:ジャガーの神話は前の楽章(テーマと変奏)でのM2~5の挿話。鳥の巣あらしで父親にハシゴを外され、絶壁(高木)で飢えるヒーローをジャガーが助ける。ちなみにジャガーはヒーローの義父となる。>義理の兄=beau-frere=で人に文明をもたらした<と原文ママに訳したが、これは尊師の誤り(彼にはこの手の「うっかり」は滅多にない。偶にそれらしきとぶつかれば、ねじ曲げ解釈を試みる。この一文は「ねじ曲げ)が通用しない、ここは父=pere=に正そう)


写真解説:ボロロ族、夕方に男は集まって必ず宗教儀礼を行う。夜半まで続き、寝静まるのは夜明けに近い(同氏の著作から)

さて、悪い作法とは血族あるいは姻族間(donneur/prenneur間でもある)の規範の無視。それを犯した本人達は、M16,18で野生豚に化けさせられた。Mundurucu(tupi語族),Kayapo(ge語族)いずれの部族もマトグロッソで有力部族です=分布域は10月10日投稿地図をご参考に=この言い伝えが野生豚神話の主流です。各神話がその考え方をschemeとしている。しかしM20(ボロロ族)は異なる。
1 donneur,妻を与えたのは金剛インコ。娶った側の食客となって、歌い笑って楽しく生活していた。2 prenneur娶った側、インコの義兄が無礼を加えた。義兄はdonneurを歓待しなければいけないとの規範を無視し、禁忌を犯して(採取の前に性交する)採取した蜂蜜を与え、金剛インコを侮辱し妻、金剛インコの妹、を介してさらなる屈辱(男屋を盗み見させる)をあたえた。その上に文明(飾り物、服飾など)を創成させて貢がせた。しかし提供者にして恩人の金剛インコを火刑にかけるまでの仕打ち。悪い作法を犯した側の大勝利。
この倫理はボロロ族社会の特性なのか「神話は自身で考える」(=本書の序曲)例なのか。

神話と音楽 第二楽章良き作法のソナタ2 の了

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