(2022年3月30日)前回投稿(3月28日)の文末にて「象徴能(symbolique)空想力(imaginaire)そして現実(réel)」に留意しようと申した。続く文にはそれらに関連しての自我が見える;
<Le moi, dans son aspect le plus essentiel, est une fonction imaginaire. C’est là une découverte de l’expérience, et non pas une catégorie que je qualifierais presque d’a priori, comme celle du symbolique>自我、その最も基本的部分とは空想力(une fonction imaginaire)である。そこにおいて、経験を、自己の内部に組み立てる事ができる。それは、前もってと規定するにやぶさかではない象徴の力(symbolique)とは、別個の働き様である。
上引用文には3用語(象徴、空想、現実)が、それら仕組みを説明する文脈の中で、揃い踏みで引用されている。深読みすると象徴のみが「前もってa priori」の働く力を(個の中に)蓄えている。ラカンはその働き方をa prioriとした。辞書ではEn partant de données antérieures à l’expérience体験以前に仮定をもって思考する(Robert)。スタンダードでは「先験」と割り切る。Transcendantalはカントが主唱する先験ですると「先験」には2用語を選べるのだが意味合い、使われ方で差異があると部族民は感じる。
カントの先験は思考する「道具一式」を生まれながらヒトが具有するーこんな意を受け止める。一方a prioriは思考を始める前に用意される「取り置きのメニュー」かと。2義として仮説(hypothèse)のを表す場合も(Robert)。スノッブ匂う会話でも頻繁に用いられ、その場合には軽く「前から決まっている事柄」を表す。こうした場合でも彼らは決してtranscendantalとは言わない。カント用語は重い語感を与えるためだろう。ともかく « a priori »がラカンの口から出た。
そして空想は象徴とは異なる動き方となり、現実を自己のものにする思考、分析と受け取る。現実は目の前の事象。
自然哲学への批判が続く。<En parlant de l’échec des différentes philosophies de la nature. Elle est bien décevante pour ce qu’il en est de la fonction imaginaire du moi>すべての他の流儀の自然哲学について述べよう。彼らが語る自然は、自我には空想する力が宿ると唱える者(ラカン派)にとり、幻滅以外何者でもない。
「他の流儀」(流儀は訳において挟んだ)はラカンが唱える心理学と異なる学派。それらは自然主義を取り込んで結局は失敗したーが彼の批判。自然主義心理学はゲシュタルト心理学をほのめかしている。確証はないので「自然」を理論の骨格とする心理学を指すとする。
<La structure fondamentale, centrale, de notre expérience, est proprement de l’ordre imaginaire. Et nous pouvons même saisir à quel point cette fonction est déjà distincte dans l’homme de ce qu’elle est l’ensemble de la nature>(同)我々(ヒト)にあって経験に向き合う仕組みは、精神の深部中央において、空想する手順の構造化にある。経験とは自然の集体であり、それと(構造化される)空想とは別物であると我々は認識できるのだ。
Nature自然をどのように理解しているかは<Ensemble des choses considéré comme obéissant à des lois générales>一般的法則に従うとされる物事の集体(Dictionnaire de Philosophie)。となります。哲学では事象とは「自然、何らかの摂理に統合される」結合体と捉える学派で、ゲシュタルト心理学がまさにこの志向を持つ。
対して精神分析では「構造体」を考えている、ここでラカンは構造を持ち出す。空想力は手順(ordre)を備えるから、錯綜している自然をそのままの状態で記憶しない。手順で持って処理して、それら事象を精神の内で「構造化」するーの主張となる。
この一文において精神と自我の捉え方が精神分析の哲学は、ゲシュタルト心理学とは相容れないのだと参加者(特にMannoniに、彼がこの話題を持ち込んだから)諭している。(心理学には門外漢だからこの説明に勘違いが混入していたらご容赦を)
ここでの自然をréel実態に置き換えると分かりやすい。空想力とは精神(自我)がréel実態と対峙する、その全容をつかみ空想域に落とし込む。空想は力(fonction)であって手順(ordre)に沿ってréelを構造に組み直す、これが深層心理を形成するのだーと部族民は読みます。
「個がいかにして自我を獲得」するかの説明が次節となります。
フロイトに主題が振れてその著作 « Au-delà du principe du plaisir»( 人間の行動における自己保存を快楽原則によって支配されたエロスのドライブ=Wikipedia) が話題になる。( duは原文通り、書名はde。細かいながらこの差異に拘泥する訳はdu plaisirの言い回しであれば喜びを一元化している。ラカンはそのように考えていると理解する)
ラカン曰く<Les derniers paragraphes sont littéralement demeurés lettre close et bouche fermée>本書肝心の最終節は文章的に停滞している。語句が閉ざされ、語りの口は結ばれたままと評し、その後文で « dualisme »を取り上げる。ラカンはこの二重を説明しないから広く膾炙している「表層、深層の二重心理」と目星をつける。
<Ce dualisme n’est d’autre que ce dont je parle quand je mets en avant l’autonomie de symbolique. Ça, Freud ne l’a jamais formulé. Pour vous faire comprendre, il faudra une exégèse(51頁). この二重性は私が先に強調した象徴化の自律に他ならない。これについてフロイトはどんな理論化も試みていないから、私が「聖典解釈」を持ち込むしか(君たちは)理解できまい。
大見得を切ったが、舌鋒はすぐさま弱まる<Mais je crois que je pourrai vous démontrer que la catégorie de l’action symbolique est fondée>象徴化については確立している、いずれ君たちに説明できるよ。はぐらかし、逃げ文句が出てきた。ここでラカン舞台が暗転した。
Hyppolite1907~68年。哲学教授、高等師範学校の学長など要職を歴任。(写真はネットから)
参加者Hyppoliteからこの機を逃すまいと衝撃の突っ込み。<La fonction symbolique est pour vous, si je comprends bien, une fonction de transcendance, en ce sens que, nous ne pouvons pas y rester, nous ne pouvons pas en sortir>象徴化する力とは、私が正しく理解しているとして、先験(transcendance)機能を意味としているのですね。それだったらそこに留まる(=それを説明する努力)はできず、またそこから離れること(無視する)も不能ですね。
ラカンはsymboliqueをa prioriと表現した。Hyppoliteはこの用語が気に入らない。哲学用語のtranscendanceに言い改めたらどうかとラカンに問いただした。A prioriなんて俗っぽい表現を用いるなとの諌めが感じられる。ラカンは<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>勿論ですよ、それって不在の中の存在で、かつ存在の中の不在だよね、すかさず返答した。
(Transcendanceの意義は「神が与え給えし」みたいな絶対能。それにdeを被せて形容詞として用いた。カント先験transcendantalは、形容詞化した語を名詞にした。両者は厳密には同じと言えない。しかしそれは同一と結びつけたのは部族民の解釈。これで行こう)
Hyppoliteが形容した「留まれないし逃げもできない…」は解釈できたから拙訳を入れた。それにしても小筆にはラカンの返答の意味が分からない。不在の存在…が理解できない。しかるに対話する両者にしても、居合わせる参加者にもこの問答は理解できたであろう。抽象な形而上の文言を散りばめ、これほどにも頭を捻らせるやり取りが、20世紀半ばに彼の地はフランスパリで交わされていた。禅問答でも聞いているかの錯覚を小筆は覚える。
Hyppolite氏、a prioriを耳にしてそれをtranscendanceに言い直すべく注意深くラカン講演を追っていたのだ。この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈。
ラカンとレヴィストロースの接点5 象徴、空想、事実 了 (2022年3月30日)
次回予定は4月1日。内容はHyppoliteの正体。ラカン、レヴィストロース、メルロポンティの三題噺。
<Le moi, dans son aspect le plus essentiel, est une fonction imaginaire. C’est là une découverte de l’expérience, et non pas une catégorie que je qualifierais presque d’a priori, comme celle du symbolique>自我、その最も基本的部分とは空想力(une fonction imaginaire)である。そこにおいて、経験を、自己の内部に組み立てる事ができる。それは、前もってと規定するにやぶさかではない象徴の力(symbolique)とは、別個の働き様である。
上引用文には3用語(象徴、空想、現実)が、それら仕組みを説明する文脈の中で、揃い踏みで引用されている。深読みすると象徴のみが「前もってa priori」の働く力を(個の中に)蓄えている。ラカンはその働き方をa prioriとした。辞書ではEn partant de données antérieures à l’expérience体験以前に仮定をもって思考する(Robert)。スタンダードでは「先験」と割り切る。Transcendantalはカントが主唱する先験ですると「先験」には2用語を選べるのだが意味合い、使われ方で差異があると部族民は感じる。
カントの先験は思考する「道具一式」を生まれながらヒトが具有するーこんな意を受け止める。一方a prioriは思考を始める前に用意される「取り置きのメニュー」かと。2義として仮説(hypothèse)のを表す場合も(Robert)。スノッブ匂う会話でも頻繁に用いられ、その場合には軽く「前から決まっている事柄」を表す。こうした場合でも彼らは決してtranscendantalとは言わない。カント用語は重い語感を与えるためだろう。ともかく « a priori »がラカンの口から出た。
そして空想は象徴とは異なる動き方となり、現実を自己のものにする思考、分析と受け取る。現実は目の前の事象。
自然哲学への批判が続く。<En parlant de l’échec des différentes philosophies de la nature. Elle est bien décevante pour ce qu’il en est de la fonction imaginaire du moi>すべての他の流儀の自然哲学について述べよう。彼らが語る自然は、自我には空想する力が宿ると唱える者(ラカン派)にとり、幻滅以外何者でもない。
「他の流儀」(流儀は訳において挟んだ)はラカンが唱える心理学と異なる学派。それらは自然主義を取り込んで結局は失敗したーが彼の批判。自然主義心理学はゲシュタルト心理学をほのめかしている。確証はないので「自然」を理論の骨格とする心理学を指すとする。
<La structure fondamentale, centrale, de notre expérience, est proprement de l’ordre imaginaire. Et nous pouvons même saisir à quel point cette fonction est déjà distincte dans l’homme de ce qu’elle est l’ensemble de la nature>(同)我々(ヒト)にあって経験に向き合う仕組みは、精神の深部中央において、空想する手順の構造化にある。経験とは自然の集体であり、それと(構造化される)空想とは別物であると我々は認識できるのだ。
Nature自然をどのように理解しているかは<Ensemble des choses considéré comme obéissant à des lois générales>一般的法則に従うとされる物事の集体(Dictionnaire de Philosophie)。となります。哲学では事象とは「自然、何らかの摂理に統合される」結合体と捉える学派で、ゲシュタルト心理学がまさにこの志向を持つ。
対して精神分析では「構造体」を考えている、ここでラカンは構造を持ち出す。空想力は手順(ordre)を備えるから、錯綜している自然をそのままの状態で記憶しない。手順で持って処理して、それら事象を精神の内で「構造化」するーの主張となる。
この一文において精神と自我の捉え方が精神分析の哲学は、ゲシュタルト心理学とは相容れないのだと参加者(特にMannoniに、彼がこの話題を持ち込んだから)諭している。(心理学には門外漢だからこの説明に勘違いが混入していたらご容赦を)
ここでの自然をréel実態に置き換えると分かりやすい。空想力とは精神(自我)がréel実態と対峙する、その全容をつかみ空想域に落とし込む。空想は力(fonction)であって手順(ordre)に沿ってréelを構造に組み直す、これが深層心理を形成するのだーと部族民は読みます。
「個がいかにして自我を獲得」するかの説明が次節となります。
フロイトに主題が振れてその著作 « Au-delà du principe du plaisir»( 人間の行動における自己保存を快楽原則によって支配されたエロスのドライブ=Wikipedia) が話題になる。( duは原文通り、書名はde。細かいながらこの差異に拘泥する訳はdu plaisirの言い回しであれば喜びを一元化している。ラカンはそのように考えていると理解する)
ラカン曰く<Les derniers paragraphes sont littéralement demeurés lettre close et bouche fermée>本書肝心の最終節は文章的に停滞している。語句が閉ざされ、語りの口は結ばれたままと評し、その後文で « dualisme »を取り上げる。ラカンはこの二重を説明しないから広く膾炙している「表層、深層の二重心理」と目星をつける。
<Ce dualisme n’est d’autre que ce dont je parle quand je mets en avant l’autonomie de symbolique. Ça, Freud ne l’a jamais formulé. Pour vous faire comprendre, il faudra une exégèse(51頁). この二重性は私が先に強調した象徴化の自律に他ならない。これについてフロイトはどんな理論化も試みていないから、私が「聖典解釈」を持ち込むしか(君たちは)理解できまい。
大見得を切ったが、舌鋒はすぐさま弱まる<Mais je crois que je pourrai vous démontrer que la catégorie de l’action symbolique est fondée>象徴化については確立している、いずれ君たちに説明できるよ。はぐらかし、逃げ文句が出てきた。ここでラカン舞台が暗転した。
Hyppolite1907~68年。哲学教授、高等師範学校の学長など要職を歴任。(写真はネットから)
参加者Hyppoliteからこの機を逃すまいと衝撃の突っ込み。<La fonction symbolique est pour vous, si je comprends bien, une fonction de transcendance, en ce sens que, nous ne pouvons pas y rester, nous ne pouvons pas en sortir>象徴化する力とは、私が正しく理解しているとして、先験(transcendance)機能を意味としているのですね。それだったらそこに留まる(=それを説明する努力)はできず、またそこから離れること(無視する)も不能ですね。
ラカンはsymboliqueをa prioriと表現した。Hyppoliteはこの用語が気に入らない。哲学用語のtranscendanceに言い改めたらどうかとラカンに問いただした。A prioriなんて俗っぽい表現を用いるなとの諌めが感じられる。ラカンは<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>勿論ですよ、それって不在の中の存在で、かつ存在の中の不在だよね、すかさず返答した。
(Transcendanceの意義は「神が与え給えし」みたいな絶対能。それにdeを被せて形容詞として用いた。カント先験transcendantalは、形容詞化した語を名詞にした。両者は厳密には同じと言えない。しかしそれは同一と結びつけたのは部族民の解釈。これで行こう)
Hyppoliteが形容した「留まれないし逃げもできない…」は解釈できたから拙訳を入れた。それにしても小筆にはラカンの返答の意味が分からない。不在の存在…が理解できない。しかるに対話する両者にしても、居合わせる参加者にもこの問答は理解できたであろう。抽象な形而上の文言を散りばめ、これほどにも頭を捻らせるやり取りが、20世紀半ばに彼の地はフランスパリで交わされていた。禅問答でも聞いているかの錯覚を小筆は覚える。
Hyppolite氏、a prioriを耳にしてそれをtranscendanceに言い直すべく注意深くラカン講演を追っていたのだ。この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈。
ラカンとレヴィストロースの接点5 象徴、空想、事実 了 (2022年3月30日)
次回予定は4月1日。内容はHyppoliteの正体。ラカン、レヴィストロース、メルロポンティの三題噺。