蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ラカンとレヴィストロースの接点5  象徴、空想、現実 

2022年03月30日 | 小説
(2022年3月30日)前回投稿(3月28日)の文末にて「象徴能(symbolique)空想力(imaginaire)そして現実(réel)」に留意しようと申した。続く文にはそれらに関連しての自我が見える;
<Le moi, dans son aspect le plus essentiel, est une fonction imaginaire. C’est là une découverte de l’expérience, et non pas une catégorie que je qualifierais presque d’a priori, comme celle du symbolique>自我、その最も基本的部分とは空想力(une fonction imaginaire)である。そこにおいて、経験を、自己の内部に組み立てる事ができる。それは、前もってと規定するにやぶさかではない象徴の力(symbolique)とは、別個の働き様である。
上引用文には3用語(象徴、空想、現実)が、それら仕組みを説明する文脈の中で、揃い踏みで引用されている。深読みすると象徴のみが「前もってa priori」の働く力を(個の中に)蓄えている。ラカンはその働き方をa prioriとした。辞書ではEn partant de données antérieures à l’expérience体験以前に仮定をもって思考する(Robert)。スタンダードでは「先験」と割り切る。Transcendantalはカントが主唱する先験ですると「先験」には2用語を選べるのだが意味合い、使われ方で差異があると部族民は感じる。
カントの先験は思考する「道具一式」を生まれながらヒトが具有するーこんな意を受け止める。一方a prioriは思考を始める前に用意される「取り置きのメニュー」かと。2義として仮説(hypothèse)のを表す場合も(Robert)。スノッブ匂う会話でも頻繁に用いられ、その場合には軽く「前から決まっている事柄」を表す。こうした場合でも彼らは決してtranscendantalとは言わない。カント用語は重い語感を与えるためだろう。ともかく « a priori »がラカンの口から出た。
そして空想は象徴とは異なる動き方となり、現実を自己のものにする思考、分析と受け取る。現実は目の前の事象。
自然哲学への批判が続く。<En parlant de l’échec des différentes philosophies de la nature. Elle est bien décevante pour ce qu’il en est de la fonction imaginaire du moi>すべての他の流儀の自然哲学について述べよう。彼らが語る自然は、自我には空想する力が宿ると唱える者(ラカン派)にとり、幻滅以外何者でもない。
「他の流儀」(流儀は訳において挟んだ)はラカンが唱える心理学と異なる学派。それらは自然主義を取り込んで結局は失敗したーが彼の批判。自然主義心理学はゲシュタルト心理学をほのめかしている。確証はないので「自然」を理論の骨格とする心理学を指すとする。
<La structure fondamentale, centrale, de notre expérience, est proprement de l’ordre imaginaire. Et nous pouvons même saisir à quel point cette fonction est déjà distincte dans l’homme de ce qu’elle est l’ensemble de la nature>(同)我々(ヒト)にあって経験に向き合う仕組みは、精神の深部中央において、空想する手順の構造化にある。経験とは自然の集体であり、それと(構造化される)空想とは別物であると我々は認識できるのだ。
Nature自然をどのように理解しているかは<Ensemble des choses considéré comme obéissant à des lois générales>一般的法則に従うとされる物事の集体(Dictionnaire de Philosophie)。となります。哲学では事象とは「自然、何らかの摂理に統合される」結合体と捉える学派で、ゲシュタルト心理学がまさにこの志向を持つ。
対して精神分析では「構造体」を考えている、ここでラカンは構造を持ち出す。空想力は手順(ordre)を備えるから、錯綜している自然をそのままの状態で記憶しない。手順で持って処理して、それら事象を精神の内で「構造化」するーの主張となる。
この一文において精神と自我の捉え方が精神分析の哲学は、ゲシュタルト心理学とは相容れないのだと参加者(特にMannoniに、彼がこの話題を持ち込んだから)諭している。(心理学には門外漢だからこの説明に勘違いが混入していたらご容赦を)
ここでの自然をréel実態に置き換えると分かりやすい。空想力とは精神(自我)がréel実態と対峙する、その全容をつかみ空想域に落とし込む。空想は力(fonction)であって手順(ordre)に沿ってréelを構造に組み直す、これが深層心理を形成するのだーと部族民は読みます。
「個がいかにして自我を獲得」するかの説明が次節となります。
フロイトに主題が振れてその著作 « Au-delà du principe du plaisir»( 人間の行動における自己保存を快楽原則によって支配されたエロスのドライブ=Wikipedia) が話題になる。( duは原文通り、書名はde。細かいながらこの差異に拘泥する訳はdu plaisirの言い回しであれば喜びを一元化している。ラカンはそのように考えていると理解する)
ラカン曰く<Les derniers paragraphes sont littéralement demeurés lettre close et bouche fermée>本書肝心の最終節は文章的に停滞している。語句が閉ざされ、語りの口は結ばれたままと評し、その後文で « dualisme »を取り上げる。ラカンはこの二重を説明しないから広く膾炙している「表層、深層の二重心理」と目星をつける。
<Ce dualisme n’est d’autre que ce dont je parle quand je mets en avant l’autonomie de symbolique. Ça, Freud ne l’a jamais formulé. Pour vous faire comprendre, il faudra une exégèse(51頁). この二重性は私が先に強調した象徴化の自律に他ならない。これについてフロイトはどんな理論化も試みていないから、私が「聖典解釈」を持ち込むしか(君たちは)理解できまい。
大見得を切ったが、舌鋒はすぐさま弱まる<Mais je crois que je pourrai vous démontrer que la catégorie de l’action symbolique est fondée>象徴化については確立している、いずれ君たちに説明できるよ。はぐらかし、逃げ文句が出てきた。ここでラカン舞台が暗転した。


Hyppolite1907~68年。哲学教授、高等師範学校の学長など要職を歴任。(写真はネットから)


参加者Hyppoliteからこの機を逃すまいと衝撃の突っ込み。<La fonction symbolique est pour vous, si je comprends bien, une fonction de transcendance, en ce sens que, nous ne pouvons pas y rester, nous ne pouvons pas en sortir>象徴化する力とは、私が正しく理解しているとして、先験(transcendance)機能を意味としているのですね。それだったらそこに留まる(=それを説明する努力)はできず、またそこから離れること(無視する)も不能ですね。
ラカンはsymboliqueをa prioriと表現した。Hyppoliteはこの用語が気に入らない。哲学用語のtranscendanceに言い改めたらどうかとラカンに問いただした。A prioriなんて俗っぽい表現を用いるなとの諌めが感じられる。ラカンは<Bien sûr. C’est la présence dans l’absence et l’absence dans la présence>勿論ですよ、それって不在の中の存在で、かつ存在の中の不在だよね、すかさず返答した。
(Transcendanceの意義は「神が与え給えし」みたいな絶対能。それにdeを被せて形容詞として用いた。カント先験transcendantalは、形容詞化した語を名詞にした。両者は厳密には同じと言えない。しかしそれは同一と結びつけたのは部族民の解釈。これで行こう)
Hyppoliteが形容した「留まれないし逃げもできない…」は解釈できたから拙訳を入れた。それにしても小筆にはラカンの返答の意味が分からない。不在の存在…が理解できない。しかるに対話する両者にしても、居合わせる参加者にもこの問答は理解できたであろう。抽象な形而上の文言を散りばめ、これほどにも頭を捻らせるやり取りが、20世紀半ばに彼の地はフランスパリで交わされていた。禅問答でも聞いているかの錯覚を小筆は覚える。
Hyppolite氏、a prioriを耳にしてそれをtranscendanceに言い直すべく注意深くラカン講演を追っていたのだ。この御仁はスッゲーと感心したがそれもその筈。
ラカンとレヴィストロースの接点5  象徴、空想、事実 了 (2022年3月30日)
次回予定は4月1日。内容はHyppoliteの正体。ラカン、レヴィストロース、メルロポンティの三題噺。
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ラカンとレヴィストロースの接点4(2022年3月28日)神が裏口から下

2022年03月28日 | 小説
3月23日投稿のレヴィストロースとの接点の第3回<il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>追い出した神が裏口から…で終わっている。続く文は;
<Il ne veut pas que le symbole, et même sous la forme extraordinairement épurée sous laquelle lui-même nous le présente, ne soit qu’une réapparition de Dieu sous un masque. Voilà ce qui est à l’origine de l’oscillation qu’il a manifestée quand il a mis en cause la séparation méthodique du plan du symbolique d’avec le plan naturel(48頁).
訳:象徴に対しての彼(レヴィストロース)の態度は、それが本性をすっかり剥ぎ取った無垢の姿になろうと、その格好のもとで己身を我々に見せるわけだからマスクで本来姿を隠した神の忍び入りでは無いかと畏れる。ここに(彼レヴィストロースの)自然と象徴による宇宙の分割を主張する時に、隠し通せない動揺の源があるのだ。
象徴(symbole、symboliqueとも)はラカン用語、レヴィストロースが用いる思想(idée)に対応する。レヴィストロース主唱のいわゆる「構造主義」は「思想」対「形体forme」の対峙を宇宙原理とする、その片翼を担う。ラカンは「象徴」対「自然nature」とそれを言い換えた(精神分析を語る文脈ではréelとなる)。人が思想を形成する、その行為が思考過程(entendement)で人の自発そのものであるが、それが勘違いだったら思想はマスクを被る神の差し金に変身してしまう、彼の畏れがここにある。
レヴィストロースの思想形成の過程を見ると;
ソシュールの唱える意味論、「意味するもの対意味されるもの」に着想を得て、意味するを思想に、意味されるを形体と置き換えた。そのような思索の起動が可能である理論背景にカントの先験を「近代の知識人ならば当然」として受け入れた。この流れには無神論が漂歯、彼も無神論者と自己を標榜する。人が考え、人が分析、取りまとめる。ここに神の介在は無いとして構造主義を展開してきた。ラカンは「神に騙される」経路、そのあり得る裏側を指摘した。
この下りを読んだ小筆は驚きを越した。このようなラカンの指摘を聞くのは初めてで、レヴィストロースの反応に至ってはこれまで聞いても読んでもいなかった。20世紀、フランス言論界2の思想の巨人の対話となれば、主題は深淵にして壮大。かくも宇宙スケールなのかと感服した。
ちなみにラカンは経験な耶蘇教徒。彼が構築している精神分析学はフロイトとは異なり、個の発展に「先験」を置く。Fonctions symboliques(象徴化する力)が精神の源で、外部事象(réel) と内的整理(imaginations)を対比させている。人の精神作用は「神の設計」と考えていた(はずだ)。レヴィストロースとの対話に際し社会と個人、それらの全体設計を誰が担うのか、神か人の智か、で論争があったのかと推察した。
(神の裏口侵入は了)


本書の裏表紙。Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse (1954-1955) 自我、フロイト学説と精神分析での実際。


ラカンが語る精神分析での先験
本投稿1回目(3月18日)にて驚きの感想とした第3点「心理分析にも先験(transcendantal)がある。それが「Fonction symbolique」に入る。
フロイトにおける「自我moi」の説明には哲学的考察が底流をなすとラカンは語る。ラカン著作とはフロイト学説の紹介に尽きるのだが、それをラカン思考の流れのなかで読み取るにあたり「自我、思考する力それと外界との関わり(expériences)を見極める事が、フロイト全体解釈に最重要」と思うーとラカンがまず蘊蓄を垂れる。
よって自我moiとは何か、次に引用する文を皮切りとする一節にて解釈を取り組み、ラカン脳髄の核心を探ろう。


ラカンとフロイト。フロイトは臨床医師、故に学説なるは対象の状態を分析する実学。ラカンは二重性の精神に神の意思を探った。フロイト説を形而上学の裏打ちで確立した。と部族民は理解するのだが、実証するにはフロイトを読まねばならない。それは無理なので前記は戯言と笑ってくれ。

<Je pense pouvoir montrer que pour concevoir la fonction que Freud désigne sous le nom de moi, comme pour lire toute la métapsychologie freudienne, il est indispensable de se servir de cette distinction de plans et de relations qui est exprimée par le terme symbolique, d’imaginaire et de réel >(51頁). フロイトが自我(moi)の名のもとに定義した機能(力)が何たるかを、我は語れると思うぞ。彼が用いる3の用語、それは象徴能(symbolique)空想力(imaginaire)そして現実(réel)、これらを分別しさらに関連性を明瞭にする過程こそが、フロイト超心理学(métapsychologie)著作に接する心構えなのだ。
注:フロイトから抽出した1象徴能 2空想力(imaginaire)3現実(réel)が精神分析での3の形而上métaphysique要素である、とラカンが強調。これを記憶に止めて読文に進む。
ラカンとレヴィストロースの接点4神が裏口から下の了 (2022年3月28日)
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ラカンとレヴィストロースの接点 番外 表紙はモンテーニャ

2022年03月25日 | 小説
(2022年3月25日)本書表紙はルネッサンス期パドヴァ派巨匠モンテーニャ(1431~1506年マントヴァ,硬質な線描、彫刻的な人体把握などイタリア・ルネサンスの画家たちのなかでも異色の作風を示す=Wikipedia) の作Le Calvaire(キリストが磔刑となった丘、ゴルゴダともルーブル所蔵)作になるものです。聖書福音書マルコ伝l’Evangile selon Saint Marc, L’ensevelissement刑死から埋葬の事情をあたると、


本書の表紙


<Joseph d’Arimathie, membre notable du Conseil qui attendait lui aussi le Royaume de Dieu, s’en vint hardiment trouver Pilate et demanda le corps de Jésus. Pilate s’étonna qu’il fût déjà mort et, ayant fait appeler le centurion, il lui demanda s’il était déjà mort. Informé par le centurion il octroya le corps à Joseph. Celui-ci, ayant acheté un linceul, descendit Jésus de la croix, l’enveloppa dans le linceul et le déposa dans une tombe qui avait été taille dans le roc>(聖書、エルサレム聖書研究会編、Cerf出版)
訳:アリマタヤのヨセフが大胆にもピラトの所へ行き、イエスのからだの引取りかたを願った。彼は地位の高い議員であって、彼自身、神の国を待ち望んでいる人であった。ピラトは、イエスがもはや死んでしまったのかと不審に思い、百卒長を呼んで、もう死んだのかと尋ねた。そして、百卒長から確かめた上、死体をヨセフに渡した。ヨセフは亜麻布を買い求めておいた、そこで、イエスをとりおろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納め、墓の入口に石をころがしておいた。(ネットサイト、マルコによる福音書から、一部改)


本画の全体

全体画をネットから採取した。背景にエルサレム市街、そびえる岩山がLe Calvaire、頂きに至る道はキリストが十字架を背負い登った苦難の坂。中央の石舞台は、背景丘の頂上という設定。左端の洞窟はキリスト遺骸を安置した岩屋となるが、刑場の真横にあったとの記述はない。一幅の画に福音書が記録している受難から刑死の場すべてを描き見せている。
人々を観察しよう。
神の子は死んだ、神の王国は絶たれたと悲しむ人々に対比して、架上キリストを横にして一震えの嘆きを見せない無関心の人々に分かれる。
画右の騎士は茨冠のキリストを見上げる。放心しているかの後ろ様にこの瞬間、この場を覆う異変が見て取れる。中央の盾を構える兵士、軍装から百人隊の中隊長か、やはり見上げる目の向きの緊張振りに落胆が漂う。誰が何を失ったか、彼も気づいたのだ。画の左、嘆きに狂わんばかりの男、風体からして使徒の一人であろうか。それぞれが悲しみを超えた落胆を見せている。
中央の女性たちは更に深い悲しみに沈む、崩れる落ちる憔悴の体を両脇で支えられる老女は聖母マリア、涙垂らす後の女はマグダラのマリアである。
彼ら彼女らの所作、振る舞いには悲しさを越える絶望が滲む。苦しみの刹那に諦めの入り混じり、虚無放心の姿を見ると、見放されたのはキリストではない、人々が神に捨てられたと、これら人々が気づいた。


悲しむ聖母マリア、マグダラのマリア

一方、無関心の人々とは。十字架下でサイコロ賭けに興じる歩卒3人、後景には刑執行も終わり兵営に戻らんとする騎士、兵士たち。画下には槍を手にして自慢気に、誰やらに話しかける兵卒。架下で槍を持つ兵士ならばロンギヌス、それが持つ槍は聖槍「ロンギヌスの槍」である。ヨハネが引き連れた従者の一人に槍を見せびらかし「百人隊長が許しても、儂があの腹に槍を突かなければ降ろせない」と語っている。
磔刑受刑者の死を確認するに降架前、腹を抉る手順が設けられていた。聖書正典には語られていないが外典(ピラト伝など)でロンギヌスがキリストの脇腹を抉って、傷口から白い液体がほとばしったと伝わる。長く身体苦痛を受ける刑者は腹腔にリンパ液を溜める、白濁液のほとばしりは解剖学的に正しい。一般には知られていない身体変化のこの記述をして、キリスト磔刑は事実、その証左とする方もいるとか。
ヨセフの交渉がまとまれば、キリストを架からともかく降ろせる。
しかしそれは一人二人の仕事ではない。釘を抜いたら神の子を落ちるままに、架からドスンと地に投げるなどできはしまい。左の肩を一人が抱える間、右の釘を外して右肩を抱える者が必要。崩れてならぬと胴を背から支える者も。止める釘を抜いたら脚を抱える者。降ろされたキリストを地にて受け取る側にはLinceul屍衣、亜麻布を広げる者、それら作業を指図する者。4~5の者がこの作業で必要だろう。ジョセフはこれら合わせて5人の従者に梯子二丁と屍衣を抱えさせ、Calvaireゴルゴダの丘に連れてきた。
中央の本書表紙を飾る3人の男。



羽飾り兜の男が百人隊長(centurion)右に髭を蓄える青服はヨセフ、その奥に顔だけ見えるピラト。福音書の筋では早すぎる処刑を疑うピラトが隊長を呼び出したとあるが、画ではピラトが刑場に出向いている。ヨセフは布を広げている。これが聖骸を包む布の解釈が正道だが、何やら気配がおかしい。布は亜麻に見えない、薄い赤色と照りからして上級毛織のようだ。ヨセフの手付きは贈り物を差し出すかのよう、隊長は端を握り「これを儂に呉れるのだな」確認を入れる口元に見える。遺骸を買う交渉である。ピラトの訝しげな目つきにも納得が行く(彼にしてもお礼をたっぷりもらっている、ヨセフが隊長に差し出す贈り物の品定めをしている)と読んだのだが。
架上のキリスト、その周囲の人々の動き。放心、悲しみ、自慢、無関心、そして金銭交渉。この風景こそ神が見捨てた地上である。しかし全体画に戻り上を見よう。空は青い、白い雲がたなびく。これはCieuxである(空cielの複数形、神の居場所、天国の意味)。遥かの高み、そこには到達できないけれど神の国が見えているのだ。
ラカンは敬虔な耶蘇教徒と知る。当著作の表紙をLe Calvaireで飾った背景に、何がしかの寓意が潜むと勘ぐり草稿を打ち始めたが、能わず作品紹介にとどまった。了
(次回は3月28日 神が裏口から忍び込むに戻ります)

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ラカンとレヴィストロースの接点3 追い出した神が裏口に忍び込む上

2022年03月23日 | 小説
(2022年3月23日)参加者Mannoniの質問に対するラカンの講釈;
<Toute une tradition humaine, qui s’appelle la philosophie de la nature, s’est employée à cette sorte de lecture . Nous savons ce que ça donne. Cela ne va jamais très loin>(48頁)人社会の伝統なのか、それを自然の哲学と名付けるが、この手の講義(cette sorte de lecture)には引き出されるものだが、それがどのような効能を及ぼすかに我々は知る。決して多くに影響を与える流れなど形成しない。(セミナー参加者M.Mannoni、精神分析医、1923ベルギー~89年パリ)
Mannoni 質問はこの文脈では触れていない。推察するしかない。試みるに引用文には不明箇所が残る。不明は1この手の講義とは何か 2自然の科学とはー2点


本書表紙裏の頁


1については前文<Il y a un réel, un donné. Ce donné est structuré d’une certaine façon>を解いてから推測しよう。一つの現実、一つの実態は在る。実態は何がしかの様態で構造化されている。こうした思想が盛り込まれている、あるいはそれを解説する講義と目星をつけた。Mannoniがそれを引き合いに出したと読む。すると2の自然の科学との関連に理解が至る。哲学で「自然」をして現実、実態の一の集合として捉える。集合体が抱える様々な要素は因果に結ばれるを旨とする。神の意思がそこに具現されると耶蘇教条をあからさまにする場合もあるとか。
これを「自然哲学」とする。1と2の不明点が連結した。
すると上引用文は以下にくだけて訳される;
<Mannoni君、君が引用した講座は自然哲学を語ったもので、森羅は一つの構造を有する集合体で、構成要素はそれぞれに因果律(causalité)が、いわば機械的に、応用されるとする。それだけの哲学、発展性など持たないのだよ>
ちなみに別文節でラカンは「ゲシュタルト心理学」を否定的に解説している。自然哲学との繋がりに思い当たるが妄想に近いので、ゲシュタルトとラカンの論評は別にする。

Maud Mannoni セミナー参加時点では32歳、少壮の分析医であった。写真はネットから。


一元論、因果律を否定した。これがレヴィストロースに繋がる;
<La seconde chose est de savoir si c’est ce point que visait Lévi-Strauss quand il nous a dit hier soir qu’en fin de compte il était là, au bord de la nature, saisi d’un vertige, à se demander si ce n’était pas en elle qu’il fallait retrouver les racines de son arbre symbolique>(同) その次だが。レヴィストロースは結局、昨夕ここにやって来て語ったのだが、(その言葉を理解するに)彼が視野に置いたのこの事ではないか。自然に身を委ね、目眩すら覚えたあの刹那に、己の象徴の樹(ラカン独自の言い方、思考と言い換える)の根っこを「自然」の中に求めるべきでないと。
この「自然」とは自然哲学、それを社会科学に応用すれば「経験主義」「機能主義」の科学となる。すなわちとある事象を取り出して、別の言葉で置き換える実利の思想となる。その単一性に依らず、二元論に向かうレヴィストロースを決心させたのが「vertige、目眩」。
そして部族民にはこの情景にとある書の読み覚えを感じてしまう。Tristes tropiques悲しき熱帯12章Bons Sauvages(良き野生人)の章頭、ボロロ族の村落を探り当てた一文。
脇に逸れるが同書から<après des heures passées sur les pieds et les mains à me hisser le long des pentes, transformées en boue glissante ~ (中略)~ faim, soif et trouble mentale, certes : mais ce vertige d’origine organique est tout illuminé…>(悲しき熱帯249頁)足立ち手つきの這いずり数時間、滑る泥と化した急斜面をよじ登る。飢え、渇き、それにも増しての気落ち、しかしその時、目眩に襲われた。それは身体起因であるのだが、私は「光」に照らされたのだ。
理由はボロロ族村落をようやく発見、崖下に見下したから。這いつくばいが報われ、光lumièreに照らされた。光学現象にすぎない光ながら西洋語系で、天啓、啓蒙(ce qui rend clair, Le Robertから)の義をも帯びる。疲れ果てた崖淵のレヴィストロースが天啓を全身に浴び、目眩の彷徨のさなか自然哲学に決別した。その体験をラカンに語ったとラカンが、皆も聞いたよねのドヤ顔ノリで(小筆の主観)、報告した。
レヴィストロースはラカンを訪ねたのだ。日付はこのセミナー、1954年12月1日に開催されその昨夕なので11月30日火曜日となる(セミナー日付は章末に記載される)。
(同書の刊行は1955年、時系列は合わない。一方でレヴィストロースが同書を起稿した日付は1954年10月12日。ボロロ集落を発見した下りは同書の圧巻であるから(故に物覚え劣悪の部族民蕃神もvertige, lumièreは記憶していた)レヴィストロースとして、11月末には天啓の文脈は出来上がっていたと思える。とっておきの予告編としてこの挿話をラカンに伝えた。そう解釈すればvertigeとlumièreとの相乗のあり様から自然哲学、一元論、因果律を遠ざけた経緯に納得がいく。信ずる者は救われる、古の格言は大事と心しよう)
レヴィストロースはどこに行くのか。ラカン講釈に耳を傾けよう、
<Lévi-Strauss est en train de reculer devant la bipartition très tranchante qu’il fait entre la nature et le symbole, et dont il sent bien pourtant la valeur créative, car c’est une méthode qui permet de distinguer entre les registres, et du même coup entre les ordres de faits>レヴィストロースは事象を自然と象徴とで分断する2元論に今、取り組んでいる。その論法こそ高い価値を生み出すと自ら信じている。なぜならそれは事象(registres)と秩序(les ordres de faits)を分別しているから。
ラカンは事象と秩序の対峙、これこそレヴィストロースが諭すforme形体に対する思想idéeの対峙と同列と理解できる。対峙とは自然(nature)と象徴(symbole)とも言いかえている。レヴィストロース構造主義をラカンの言葉で解析したそのものです。
レヴィストロースの著作(1954年時点で学術論文を除き「親族の基本構造」のみ)に当てはめると自然とは「人は小集団バンド生活を維持し系統内での婚姻を禁止し族外婚を実践していた。旧石器時代」を指し、文化を獲得して後に「嫁、婿を交換する婚姻の制度」を設けた。ここで事象に退治する象徴(規則)を創生した。本章に見られる象徴化(symbolique)の意味はレヴィストロースにおける思想(idée)である。
ラカンはレヴィストロースの構造主義をかく正確に理解し、それが自然哲学、一元論を排除し、同時に神を葬ったと解析したのである。この後に衝撃の一文、
<il craint qu’après nous avons fait sortir Dieu par une porte, nous ne le fassions entrer par l’autre>彼(レヴィストロース)は我々が1の出入り口から追い出した神が、もう一方の口から入りこむを見逃しているのでないかと怖れている。
1954年11月30日のサントアンヌ病院、講義室で有神対無神の論者、構造主義の原点とラカンの確信、火花沸き上がる論交がレヴィストロースとの間に交わされた。
ラカンとレヴィストロースの接点 3  了(2022年3月23日)次回3月25日神が裏口の下を予定。

追:ちょっと文法。上の引用 « nous ne fassions »neは虚辞(explétif)、肯定を表現する。虚辞は段々と用いられなくなっているが、動詞craindreを受ける接続法では頻繁に用いられるーとの解説を文法書 « Le bon usage » で得た。ラカンの口説はその典型であろう。セミナー日付は1954年12月。70年近く以前の発言であるから現代フランス語explétif用法とは異なるか。
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ラカンとレヴィストロースの接点2 嬰児殺しで社会に、ご褒美

2022年03月21日 | 小説
(2022年3月21 日)前回投稿(18日)で本章(セミナー第二巻、第3章)での驚き3論法を挙げた。その1、女児嬰児殺し(infanticide)の風習(かつてのネパール、チベットなど)から社会が受取る代償(compensationの原義はご褒美)を採り上げます。


本章l'univers symboliquesの章題ページ。Dialogues sur Lévi-Straussが読める


文頭<Comment pouvez-vous attacher tellement d’importance au fait que Lévi-Strauss fasse intervenir dans son langage des mots comme compensation> (本書40頁=前出)レヴィストロースがcompensation代償なる語を自身の文脈に潜り込ませている事実を、どれほどに重要かを説明できるだろうか。
このラカン注釈はセミナー参加者Anzieuからの報告<il s’agit des tribus thibétaines ou népalaises, où on se met à tuer les petites filles, ce qui fait qu’il y a plus d’hommes que de femmes> チベット、ネパールのいくつかの部族では女児殺しが実践されている。結果、これら部族の人口は男が多く女が少ない。これをしてcompensation代償なる語を用いるは理解し難いに返答するものであった。(Didier Anzieu、精神分析医、ディディエアンジューはフランスの著名な精神分析医でした。1923~1999年パリWikipédiaから)

Didier Anzieu、写真はネットから。しかめっ面は地顔かもしれない、他の写真すべては落ち着いた風情を見せています。

この文を読んでまず初めの理解は「嬰児殺しが起因となって社会には<支払う代償>が科せられる」だった。支払う代償は人口の男女偏位、個の悪行が社会に転嫁して代償compensationとなった、その不道理を文列に読み取ったのだが。これが大違い、社会は「ご褒美」を受けている。誤読、勘違いの理由はcompensation意義の取り違えで、根源には私、蕃神が日本人であるから。「悪習には罰が課される」仏教が教える懲悪の摂理が土着脳に無条件反射を引き起こさせて勘違い解釈に至った。
そもそもこの解釈では次節の<Nous ne pouvons pas ne pas accorder à Lévi-Strauss que les éléments numériques interviennent dans la constitution d’une collectivité >(同)レヴィストロースの主張「集合体における数値要素が社会を規定する」これを認めざるを得ないーこの文意と整合しない。

引用は二重否定、言い回しは理解がいささか難しい。以下に上引用文を意訳解釈する;
拙訳:社会が成立するためには数のバランス(élémentsの意訳)が不可欠で、人口比をそれに当てると男女1対1が通常。しかし対等均衡を崩しても、その社会に最適化するバランスはあるのだとレヴィストロースが言うのだが、それは正しいと認めざるを得ない。とラカンがAnzieuに諭した。

前引用文の勝手解釈(支払う代償)と上文の意味(最適化される)は文脈として整合しない。勝手解釈が誤りと気付くも、どこでマズッた?

辞書ではcompensationに<Avantage qui compense un désavantage>不利益を保障(補填)する利益。例文<Compensation reçue pour des dommages>損害に対してもたらされた代償とある(Petit Robert)。CompensationをAnzieuにしてもラカンにしても勿論、それを受け取る報酬として理解する。
すなわち嬰児殺しを実行すると社会が利益、保障を受取る。レヴィストロースはその仕組みをしてcompensationと説明した。Anzieuはその語義を知っての上で、社会が利益を受ける構図は理解しにくいとラカンに説明を求めた。これが引用文の流れです。
社会が享受する利益とは;
<Vous voyez le sens que le mot de compensation peut avoir dans ce cas-là ― s’il y a moins de femmes, il y aura forcément plus d’hommes>(41頁)。代償なる語の、この文脈での用い方でのその真の意味に気付くと思う。もし女が数少なければ、男がより多い(社会への褒美)となる。
男女比の不均衡こそ社会が受取るご褒美なのだ。
ネパール山間地域は地の生産性が低く行商、季節労働などインドへの出稼ぎで生計を維持してきた。兄弟が3人揃えば協力して一の家計を賄う、一人は家屋、田畑を守り、二人は出稼ぎに。これを周回させながらの生活形体を保つ。しかし主婦は一人。一妻多夫(polyandrie)婚姻が実践されている(いた)。生産性に寄与する男を多くすれば、女はより少なくなる。その数的不均衡が家族形態であり、les éléments numériques(数的要素、数値バランスの最適化)が社会のあり方(constitution)に伸延されてゆく。男女比不均衡はcompensationである(infanticideの風習は廃絶されていると思うが。いつまで継承されたかは不明)
生産性に寄与する男が多くなった、社会は報奨を得た。
Anzieu氏はこの年(1954年)31歳、少壮の精神分析医として活躍していたと推測する。人道を超える人智には思い至らなかったのか。ラカンにして人道なる感傷現象をすっかり排して乾燥しきるレヴィストロース論理を暴いた。これをして究極律(finalité)と規定するが、因果律を超えるからくりを見抜いた。
ラカンとレヴィストロースの接点 2  了(2022年3月21 日)



セミナーが開催されたSainte Anne病院。第一回目は1954年1月13日、ラカンその歳53歳、絶頂期でした。

次回予告:追い出したはずの神が裏口から忍び込んだ、神を怖れるレヴィストロース(2月23日予)。

追記:女児の嬰児殺しは手口を替えて東アジアで実践されている。中国で一人っ子政策が蔓延した時期(1960~2010年代)には、簡便な(手持ちできる)超音波診断装置が大いに普及した。助産師が出張して妊婦の腹に当て胎児性別を判断する。男子の徴候(睾丸)が見られなければその場で堕胎する(以上は中国留学生からの部族民の又聞き、一次資料はない)。なぜこの話を持ち出したか、こうした社会事象は因果律(causalité)か究極律(finalite)かについてラカンとレヴィストロースが論じ、両者とも究極律(finalité)で一致している(本書)。中国社会では男系での世代再生産が社会強制(contraintes)として個人にのしかかる。ネパール山村の数値要素の最適化(これもcontraintes)との共通性から、究極律の傍証として提示した。インドにおいても、今もかくなる風習は実行されているとnetで見える。
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ラカン、レヴィストロースの交差 1

2022年03月18日 | 小説
(2022年3月18日)Jacques Lacan(ジャック・ラカン、哲学精神分析、1901~81年パリ)に取り組んでいます(状況の仔細は文末追記に)。セミナー第一作、二作、六作をネット販売で購入。内容確認のためそれぞれのtable目次に目を通しました。
第二作(Le moi dans la théorie de Freud et dans la technique de la psychanalyse,フロイトの精神分析技法における「私」の扱い)に興味深い内容(III章)を見つけ出しました。章題はL’univers symboliqueシンボル化の宇宙。副題Dialogues sur Lévi-Straussとあります。39から53頁までは14頁の分量、短い。多くの方が「ラカン解釈は難しい」と評しているので、この章の「ツマミ読み」から入ればラカンの理解に半歩一歩が近づくか。狙いはラカンを読むにLévi-Straussを脇本として控えてもらう、おのずと理解が早い。こんなコスイ計算を先に立てた魂胆であります。
この手口は、レヴィストロースの力を借りてラカンを探る、ラカン大学を裏口入学せむとする姦計です。これが大正解でした。ドヤ顔(幾分かを許せ)の成果を脇に置いて、本章を紹介します。その底流は;
文頭<Comment pouvez-vous attacher tellement d’importance au fait que Lévi-Strauss fasse intervenir dans son langage des mots comme compensation> (本書40頁)レヴィストロースがcompensation代償なる語を自身の文脈に潜り込ませている事実を、どれほどに重要かをあなた達は説明できるだろうか。これに始まり
<Après Lévi-Strauss on a l’impression qu’on ne peut plus employer les notion de culture et de nature. Il les détruit>(参加者Octave Mannoni精神分析医1899~1989パリの発言、52頁)レヴィストロースが出てからは人は文化と自然を語れなくなった。レヴィストロースはことごとくそれを破壊した。
この文末に至るまで、おおよそ全の行句に彼の影が重苦しくのし掛かっている(小筆感想)章でした。

ジャックラカン(ネットから)

内容は;
ラカン著作を紐解いた方にはお分かりですが、実際のセミナー(初期には勤務するサントアンヌ病院の教室、のちに高等師範学校校長の要請その講義室)での講話を活字化しており、あわせて11巻のセミナー叢書として構成される。
第一回セミナーから速記タイピスト(sténotype)を用意していた。それらを草稿としてJacques-Alain Miller(精神分析医、1944年シャルトーラカン女婿)の校閲をへて刊行された。文の流れは特定課題をとり上げ、参加する若手の精神分析医の理解を尋ね、質問指摘など採り上げてのちラカンから注釈あるいは訂正が開陳される。言い回しは口語であるから軽いノリで終始する。主語にça、cela、ceciなど学術系文章では見かけない語が出てくる。仏語では論文をDissertation形式で書き下すとする。主語を繰り返す場合にはil、elle、lequel、laquelleなど(関係)代名詞で表され、性と数の突合せで特定できる。この文調であれば理解できるかの保証は無いが、文脈は掴める(これまで取り上げてきたレヴィストロースの書体がそれである)。ラカンを読み始めて若干の違和が生ずる。
軽いノリに大家風の断定、独善も感じられる。プラトンの「対話篇」を意識しているわけで、本人もプラトン、ソクラテスに言及している。
口語であるも迂遠高尚な思考を展開しているから、軽く読み進めるとグサリ、理解を途絶する比喩(多くは換喩)が挟まれている。この言い換えの様がトンデモナイ方向に飛ぶから分かりにくい。ラカンが難しいとは換喩の攻略に手こずるに尽きる。Dissertation 調にまとめればより理解が深まるはずだなんて妄想する。


本書、セミナーIII

さてセミナー風プラトン対話流で採り上げられる課題は;
1 ネパール、チベットなどの辺境での嬰児殺しの風習、対象は女児。その代償は人口の男女比の歪さ。この風習に対し「代償compensation=前出」を説明として用いるレヴィストロースに異議を定ずる参加者に、ラカンが私見を披露する。するとそれは明らかに「代償」なのである、まったくもってレヴィストロース思考を再現できる。
2 因果律(causalité)と究極律(finalité)
3 シンボル化機能(fonction symbolique)
4 個と集団は「全く同一」ラカンからの指摘に対するレヴィストロースの返答
5 エディプスコンプレックスに対するレヴィストロースの返答
6 近親相姦(の禁止律)に対する精神分析からの解釈
など盛りだくさん。順を追ってこれらの解説をしていきます。次回はそれら解説の前に、全体をとおしてチョー驚きの感想を述べたい。3点あって;
1 嬰児殺しの風習(前述)には社会へ代償が用意される。別の言い回しで「君たち、頑張って女児を殺したよね。これが褒美だよ」。人道など無視したあっけらかん、乾燥しきった解釈にレヴィストロースとラカンが一致している。
2 (構造主義から)神を追い出したら裏口からマスクを被った神が忍び込んできたーと怯えるレヴィストロース。
3 心理分析にも先験(transcendantal、カントの概念)がある。それがFonction symbolique。
次回(3月21日)をお楽しみに。(2022年3月18日、19日加筆あり)


追:ラカンに取り組むとした部族民的背景とは彼こそが、20世紀のフランス思想界においてレヴィストロースに比肩できる哲学者ではないかと直感したからです。実は幾人かのフランス語圏の思想家を探った、固有名詞は出さないが言語系哲学、啓蒙哲学系など著書を取り寄せたが、レヴィストロースと比較すると思考回路が浅い(と感じた)。浅いとは理解にすぐに至り、その内容にしては「ミーハー的思考奈落に嵌る」を感じさせる。ラカンで3年を食いつなげるかな(蕃神)。

追の補遺:部族民の最終投稿はサッカーの無回転シュート考でした(2月23日~3月2日)おかげさまでスゴック読者の接近が多い(としておきます)。空気の壁と後ろのキャビティの理論は大谷選手(MLBエンジェルス)の決め球、打者コロシのスプリットの威力も説明できます。速度135キロ、回転数800。MLB平均では回転数は2500ほど。ナックルを別にしてこれほどの低回転であればキャビティが絶対に発生している。ホームベース上でストンと落ちる球筋の説明でした。



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カエル伝授の弓術と無回転シュートの共通 4 最終

2022年03月02日 | 小説
(2022年3月2日)前回投稿の趣旨はサッカーで無回転ボールの威力は後方に真空キャビティを発生させ、ボール速度を急速に低下させるに尽きる。これをパワーポイントに図式化した。


回転ボールと無回転ボールの軌道要因(空気の壁と引張の塩梅)を図式化


両の軌道を見比べて下さい


キーパーの予測アンティシパシオンは:
ボーン、すごい衝撃音でボールが宙に舞い上がった。「この高さならゴール枠の上を抜ける」油断した。この油断を誘うキックの名手が無回転シュートを放ったのなら。ボールを高く上げるが作戦、無回転飛ばしは戦術。軌跡がその半ば過ぎたらなんと、急速に落ち始めた。落ちる方向とはいつも下に向く、すると落下速度に重力が加算される。放物落下の軌跡とは
1中空飛ばし
2突然の落下
3ネットを揺らす姑息軌道
「アッ、球が下降した」気づいたときには手遅れ。ボールを止めるどころかカスリもできなかった呆然キーパーはゴールポストに一人ポツン、佇む。キーパーの油断、野ブタのうっかり。これらを招いた悲劇要因は騙しの軌跡でありました。本田圭佑選手は無回転の達人、中村俊輔選手は回転高速の天才ときいてます。

(カエル神話の後譚:Adabaは妹の婿に入り、兄弟達は猟に恵まれ、一家は幸福な生活を満喫していたが、ちょっとした行き違いでAdabaは森に帰った。それ以来、人は猟に出るも貧果に泣く日々を過ごすのであったさ)

無回転シュートの共通 4 最終 了 (2022年3月2日)
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