蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

神話学「裸の男L’homme nu」フィナーレの最終から 下

2023年09月21日 | 小説
(2023年9月21日) « mais en même temps, réalité du non- être dont l’intuition accompagne indissolublement l'autre, puisqu'il incombe à l'homme de vivre et lutter, penser et croire, garder surtout courage, sans que jamais le quitte la certitude adverse qu'il n'était pas présent autrefois sur la terre et qu'il ne le sera pas toujours, et qu'avec sa disparition inéluctable de la surface d'une planète elle aussi vouée à la mort, ses labeurs, ses peines, ses joies, ses espoirs et ses œuvres »
同時に、存在しないモノの現実もある。それは直感の作用を生み相方(存在するモノ)と切り離せない関係を持つ。なぜなら直観から人には生きる、闘争、思考、確信、勇気を保つなどが課せられている。その真逆を仮定すると「存在しないモノなどなかった、今後も現れない」として人を闇に放り出すこととなってしまうが、それは起こらない。その(存在しないモノ)がある一つの星の地表から消えたら、地球(la terre)も死を迎える。労苦、苦痛も喜び、希望も作品もそれらは…
(冒頭でハムレットの名句を引用した。彼の自問は「存在するかしないかどちらを選ぶのか」。上の2引用文(仏語原典)はハムレットに重なる(réalité d l’être 存在するモノの現実ouあるいは réalité du non-être存在しないモノの現実) 。ここにも換喩が認められるが、一体何を言い換えているのか。存在するモノの現実は日常の動作、生活、政治選択など。存在しないモノの現実は生き死に、考えて信じると説明している。早計は避けるべきだが存在するモノを行動、存在しないモノを思考としたい)


神話学裸の男の表紙(ポール・デルボー)

« deviendront comme s'ils n'avaient pas existé, nulle conscience n'était plus là pour préserver, fut-ce le souvenir de ses mouvements éphémère sauf, par quelques traits vite effacés du monde au visage désormais impassible, le constat abrogé qu'ils eurent lieu c'est-à-dire rien »
前引用の労苦、苦痛も喜び、希望も作品も)存在しなかったかになってしまう。それらを残そうとする意欲などないとなってしまう。すると残るはただ一時の、様々な動きの思い出にすぎないか。世界の無感動な表情からたちどころに消え去るいくつかの足跡、それらかつての存在の影を残す廃絶証書を除いて。すなわち「何も残っていない」。

思想という存在しないモノを持っているからこそ、宇宙には労苦、苦痛も喜び、希望も作品も存在していた。そして、
地球の何もない風景が、かつて何かがあった廃絶証書として残る。何もない無が過去には何かがあったと証明する。有か無を人が選ぶ宇宙は無い。無が人を選ぶ。沙翁の問いかけにレヴィストロースが回答した瞬間です。

Paris, octobre 1968 -- Lignerolles, septembre 1970. (後付は裸の男の執筆期間)

追記:構造主義は「思想とモノ」の対峙を本質とするーこの解釈を部族民通信は幾度かSNS発信している。神話学においてもこの思想は顕在する。神話は3分節(articulation)。語、文、全体の分節構造において思想と実際が対峙する構造を説いた(生と調理の序文、Introduction)。この構造の発展が神話学4部作であって、神話の比較とはschème(伝えかけ、思想)とarmature(形、語り)の両の比較で臨み、伝播ではそれぞれに順列(踏襲)、逆列(反極)の作用が認められるーこれが神話4部作の主張です。

しかしレヴィストロースはこの最後の文で、そこから数段飛び越えの跳躍を披露した。神話世界から人間活動に乗り換えた。人の活動の「在る部分」、これが日常の仕草であり、行動、政治活動で、これらは見えている。それが実際 « réalité de l’être » です。ない部分の実際 « réalité du non-être » は「生き死に、考えて信じる」。「存在するモノ」などヒトが果てた後には跡形もない。しかしその無を廃絶証明として、それが請け負うのは「存在しないモノ」がかつて存在していた。


クロードレヴィストロースここに眠る( Lignerolles)

墓碑には名前生没年のみ。存在するモノのレヴィストロース廃絶証書は石板に刻字。しかしいずれはさざれ石に果てる。無に変貌した地上に、その無が存在しないモノ、レヴィストロース思想を証明する。人は無か有かなど選べない。

神話学裸の男L’homme nuフィナーレの最終の了(2023年9月21日)
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お報せ部族民通信ホームサイト改定

2023年09月20日 | 小説
ネットアドレス WWW.tribesman.net は変わりありません。トップ頁に新規の投稿を載せていたのですが、年月とともに多くなって、見た目が煩雑でした。
トップ頁はサイト紹介と人気の3~4投稿を載せるだけにした。


トップ頁のスクショ。

月を読む、人は己から生まれる、サルトル批判ーなどが右のコラムに。ここの記事は月単位で替えていく。

左コラムは上から順に
人類学、哲学、神話学、読み物、精神分析(工事中)、料理、SNS活動の紹介のボタンを配置しています。

読み物ボタンを押すと上の画面に入れ替え。

記事は上から女狩人はいない、ムランの聖母子像、月を読む、Univoque/Equivoque が紹介されている。一文節だけを引用して更に詳しくロゴ
はその記事にリンクするからクリック。

パワーポイント(Youtube動画のプレゼン資料、PDF化している)
ショートムービー(XTwitter)使用、画面が小さく2分程度。
Youtube 動画へのリンクアドレス
が貼り付けられている。

このサイトのお薦めは 1レヴィストロース、構造主義、哲学人類学に関心を持つ方 2フランス語(人文科学系)の文章を読みこなしたい方 
3少々は時間をかけられる方(七面倒な説明もある)

以上です。よろしくご訪問を。

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古賀東京都議(故)の臓器狩り告発(番外投稿)

2023年09月19日 | 小説
中国共産党の人権おぞましい人権侵害「法輪功学習者に対する臓器狩り」への批判が汎世界的に広がっている。本年7月に「臓器狩り」された個人が最後の断末魔の動画をSNSに投稿して世界に拡散しました。臓器を取られても即死ではなく、1時間ほどを悶絶のまま過ごす。その苦しみ死に至る様がなんと臓器狩人(医師)の手で動画にされSNS発信された。
今こそ、中国での生体臓器略奪を10年前に告発した東京都議を思い出してほしい。
(部族民通信のブログ、2013年3月11日投稿を再掲します)

東京都議会議員古賀俊昭氏
自民党所属、日野市選出は3月9日(令和2年、2020年)に永眠なされた。享年72歳。故人の思い出を書きつづり氏のご冥福を祈りたい。カナダ人権弁護士マタス氏は、中国オルドスの強制収容所で拘束されている法輪功信者に実行されている「臓器狩り」を長年告発している。日本の関与も認められるので、世論の啓発を目的に
2013年9月に来日した。日本関与とは「移植技術の研修」「拒否反応の緩和薬剤」に限られる。当事者は善意で協力したのであろうが、これら技術なしには「臓器狩り」は成立しない。善意の協力が何ら罪のない法輪実践者を死に至らしめる、この悪辣な中共の国家的仕掛けに組み込まれた事実、一衣帯水の隣国でこれほどに非道な行為が現在進行形で、大規模に実行されている、これら事実を啓発したかった。
東京で講演会を開催する予定が立たない。


臓器狩りの告発講演を東京都議会会議場で開く段取りをまとめた古賀東京都議(故人)。このときすでに法輪功のみならずウイグル族へ魔手が伸びているとの発言もあった。
悲しいことにその展開を示す状況は観測されている。


受け皿がなかった。何しろ「生きている若者(法輪功実践者)をオルドスの強制収容所から瀋陽人民解放軍病院に移動させ、「生きたままベッドに縛り付け、腹を割いて心臓肝臓腎臓、狩りとる。扉隔てた隣室に移植希望者がベッドで待つ」とする講演はあまりにも衝撃内容がすぎ反中国キャンペーンに結びつくので、国会議員は与党も野党も尻込みした(と聞いた)。
市民人権派とされる団体も手を挙げなかった。
古賀都議が受け入れを肝いりした。都議会会議室で開かれた。この講演内容は新唐人テレビ「マタス弁護士訪日報告、今なお続く中国の臓器狩り」表題のビデオがネット観覧出来る(唐人テレビ2013年9月4日放映)古賀都議の挨拶では元気な姿を窺え、声も聞こえる。
氏の行動思想を推し量ると倫理である。


カナダ人弁護士マタス氏。幾度か来日していると聞く。

日本人が家庭、学校で受ける教育は「悪いことをしてはいけない」。悪いこととは他人に社会に迷惑をかけるに尽きる。法律は悪さを並べ、悪さの重さを刑期にはかる。法とは別に人としてまず行動するとは、目の前に何かが起きたら、悪ければ制し良ければ助ける。
古賀議員はまさに目の前の悪さを制する人だった。
若者が生きたまま解剖され臓器を抜き取られる。 悪いのは法輪功を信じた若者か、臓器を取る医師か、それを売りさばく中国共産党の政権側か。それを周囲、ネットで見て聞く人たち、沈黙するは有罪か無罪か。「安上がりの臓器移植」ツアーなるも企画されると聞く。移植希望者で若者の肝臓を買った病人老人は善か悪か。事実と見知っても沈黙する政治家、人権派と自称する団体が、臓器がりを告発した例を知らない。無知は善か悪か、知ってて声を上げないが許されるのか。 カナダ、アメリカでは罪の範囲を拡げている。 実行者、その外周ながら事実に触れている疑いがある中国人が入国を試みる際、通関にて査問される。知る筈の範囲をも語らない場合は入国を断られる=マグニツキー法。
これら事実を突きつけられたら、この仕組みを成立させた者が最もの悪人であると日本人誰もが決めつけられる。新唐人局のビデオにはこの実態が詳しい。古賀都議は 
妥協を知らず、
失うを怖れず
倫理を貫いた。
同世代人として頼もしかった方の永眠の報、ご冥福を祈ります。了
(部族民通信 渡来部須万男)3月11日 (再掲2023年9月19日)
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神話学「裸の男L’homme nu」フィナーレの最終から 上

2023年09月18日 | 小説
人は選ばない、無が人を選ぶ
(2023年9 月18日)ハムレットは選べない、無がハムレットを選ぶ。
レヴィストロース著裸の男の最終章フィナーレFinaleの最終節は、彼として著作の「最後の最後の」位置付けなので、即レヴィストロース渾身の訴えかけとなります。その文は « c’est-à-dire rien、that means nothing »「言ってみればそれは無」 (英語は部族民の付け足し)。虚無も響くこの句を持って神話学の、そして自己の著作活動の最終とした。この意味を考えたい。(その後も著作は刊行されるが、前作の上塗りの感は否めない)。
句が含まれる文はフィナーレの最終部、長文28行に渡る。文節ごとに区切り引用し、最後の最後で彼の終末思想に迫る (本書620~621頁) 。
« En démontrant l'agencement rigoureux des mythes et en leur conférant ainsi l'existence d'objets, mon analyse fait donc ressortir le caractère mythique des objets : l'univers, la nature, l'homme qui au long de milliers de millions, de milliards d'années, n'auront, somme toute, rien fait d’autre qu’à la façon d'un vaste système mythologique, déployer les ressources de leur combinatoire avant de s’involuer et de s’anéantir dans l'évidence de leur caducité »
神話を集め纏めるにあたり、一貫した整理式を採りいれ、神話に現れる対象物の意味づけを探した。このやり方を通して神話が対象とするモノの性格を引き出した。それは宇宙、自然、そして人である。それらに幾千年、幾百万年、幾十億年が降りかかるとしても、神話語りの慣習がこれほどにも衰退しているなか、それらがすっかり凋落してしまう前、神話の巨大系から各々の神話関連を引き出すには、この進め方でしか可能性はない。
(神話分析の手法、登場人物の性格付け、筋道の符丁合わせ、伝えかけ(スキームschème)の整合などは第一巻生と調理導入部Introductionで数頁を費やしている 。外形と中身を基盤にして新大陸神話は一の南米神話(ボロロ族火の起源)に起源を持つとの主張、幾分か述懐の口ぶりが読める)


夕焼け、昨日の17時45分、日野市丘陵から八王子方向を撮影

« L'opposition fondamentale génératrice de toutes les autres qui foisonnent dans les mythes et dont ces quatre tomes ont dressé l'inventaire, est celle même qu’énonce Hamlet sous la forme d'une encore trop crédule alternative. Car entre les être et non-être, il n'appartient pas à l'homme de choisir »
基本の対立がまず語られる、それをして他すべての対立の萌芽として働く。神話学全4巻がこの対立を目録にまとめている。ハムレットがより分かりやすい二択に強調しているものに繋がるのだ。畢竟、存在と非存在の選択となる、しかし選ぶのは人間ではないと。
« Un effort mental consubstantiel à son histoire, et qui ne cessera qu'avec son effacement de la scène de l'univers, lui impose d'assumer les deux évidences contradictoires dont le heurt met sa pensée en branle et, pour neutraliser leur opposition, engendre une série illimitée d'autres distinctions binaires qui, sans jamais résoudre cette antinomie première, ne font à des échelles de plus en plus réduites, que la reproduire et la perpétuer :
とある一つの心の努力と歴史、それは宇宙から消し去られるまで続く、努力があい対立する2の事象を引き受けよと歴史に強いる。衝撃で人の来し方の思考は揺れ動き、対立を融和せんがために、限界のない一の2極分離を生み出す。しかし、そもそもの矛盾は解決することなく、縮小された段階の中で矛盾の再生産と永続を試みるだけだ。
(上文は直訳、稚拙な訳には惑わせられる。クセジュ文庫化を避けるには、用いられる文言はmétonymie「換喩」の連なり、と閃く悟りが必須。閃いたらそれらが何を言い換えるかの換喩ヒントは、前引用「宇宙、自然、人」。ここに下線を引こう。

文言に当てはめると:「一つの心」は人の知恵の獲得過程、人類は知恵を獲得しつつ、矛盾する2の事象を取り込み、矛盾を解決すべく努力を続けていた。「対立」とは人に対する自然の位置。前者は分断と双極観念の導入で自然を断ち切り制度を確立した。後者は連続と放縦のままの「自然性」を保つ。両者の相克模様を新大陸神話群が地域、大陸を乗り越え語っている。対立と相克には衝撃が伴う。「人の来し方の~限界のないまでは」で言い表す中身は、神話が語る文化確立までの「跛行、蛇行、揺り戻し」です)。そこでクセジュ文庫式から離れる意訳を:
人は神話に「自然から文化への人間歴史」託す。連続の自然と分断の文化は相容れない、その矛盾をなだめすかしても、人が文化を取得するまでの工程を、再現し永続させむ(la reproduire et la perpétuer )とする族民の希求を神話が語るのだ。

« réalité de l'être, que l'homme épreuve au plus profond de lui-même comme seule capable de donner raison et sens à ses gestes quotidiens, à sa vie morale et sentimentale, à ses choix politiques, à son engagement dans le monde social et naturel, à ces entreprises pratiques et à ses conquêtes de scientifiques ; »
存在するモノの現実、人は(存在するから)その存在の最深部でそれが、日日の仕草に、倫理精神と感情生活に、理性と判断を与えていると知る。政治判断も社会活動も自然を尊ぶ気持ちも、存在する現実の最深部で感じ取れるのだ。さらには科学活動も実践活動も、存在するから発現するのだ。

神話学「裸の男L’homme nu」フィナーレの最終から 上の了 (9月18日)

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Le rôle du philosophe 哲学者の役割 (Le Magazine Littéraire 1985年12月号より)下

2023年09月14日 | 小説
« Car, aussi en avance que soit la réflexion scientifique sur la réflexion philosophique traditionnelle, à chaque pas elle nous pose de gigantesques problèmes, d'immenses interrogations, et nous ne pouvons évidemment pas nous croiser les bras en espérant que cela se résoudra tout seul » 自然科学の省察と伝統的哲学の思考を重ね比べる前に、哲学の思考は巨魁なる問題と責め苦で我々を抑え込んでいる。そんな問題などは自然と解決すると思い込んで腕組み油断して、歩みを止めてはならないのだ。
伝統哲学が、今に孕む問題と質問責めの巨魁さとは何か、レヴィストロースは語らない。この当時(1985年)そのような論議が公に交わされていたかと思う。それが何かは想像するしかない。前引用で幾つもの自然科学はある一つの成果を獲得した。そして哲学が孕む巨魁な問題は複数、対比するとレヴィストロースの心情が理解できる。
物理学、自然科学、人文科学で「ある一つの何が取得され、何なのか」を哲学が知らねばならぬ、心情理解の鍵はここにある。
20世紀の自然科学成果は何か?宇宙論、分子生物学でしょうか。アインシュタインの相対性理論、クリックらのDNA二重螺旋の発見を(部族民は)想定します。人文科学はどの分野がその何かを獲得したのか。フロイトの精神二重構造か、いや、ここでは割り切って「構造主義」としましょう。なぜって本人が喋っているから。しかし彼の口から、構造主義は20世紀の大発見と大見得を切るわけにはいきません。彼は慎み深い « discret » なので。
自然科学が20世紀で体得した何か、ここの発見を上記したが、それらを統一する何かは?コペルニクス、ニュートン、ダーウイン以来の近代科学の「直進先鋭的発展」を考えている。
ニュートンに対するアインシュタイン、ダーウインに対するクリック、これら対峙を見るにつけ「直進先鋭」に理解が至るかと思います。自然科学の20世紀運動系はまさに先鋭のベクトルでした。ここに哲学の位置はなかった。
ここまでの流れを意訳する ;
哲学教授だったが人類学を志向した。哲学が実存主義で袋小路にさまよい込んだ、サルトル批判を展開した。しかし科学は発展を続け哲学は停滞するままだ。哲学が袋小路を抜け出る選択は :
1 (デカルト・カントを超える)哲学理論を打ち出す。それは相対性理論やDNAを裏打ちする形而上的展開です。なぜ異なる場で個別の現象に相対性があるのか、4の塩基が200~2000に螺旋に二重絡みすると無限の遺伝可能性が、なぜ生まれるのかー形而上での根拠です。
2 野生の思考 (Pensée Sauvage) で近代科学なる範疇を開示した。それまでの具体科学(Science du concret)から抜け出し、属性分解の手法で天文学、物理学、生物学が確固たる分野を築いた。哲学は近代科学の形成に十分協力した。デカルト、カントの功績が挙げられる。 しかしその後、哲学は足踏して自然科学は長足の進歩を見せた。
3 今や(科学者から)哲学は相手にされない。


DNAの二重螺旋発見(1953年)はダーウイン生物学の鋭角的発展であろう。写真は右クリックが同時発見者のワトソンに二重構造を指しているところ。クリックは研究室では常に大声で喋り続けていた。紙に数式をノートしている間も、数式に話しかけていた。数学の天才で同僚が3年かかっても数式解を探せない(気象学的)課題を、相談を受けたその場で、スラスラと数式を書き連ねた。彼らの発見に結びつく資料は、女流X線解析家のロザリンド・フランクリンが秘匿していた「遺伝子」X線写真。これを垣間見た(盗み見た)。フランクリンはノーベル賞(1962年)発表前に死亡した。哲学はクリックに後押ししていない、数式は大いに助けた。

« Il faut convenir que s'il y a eu par le passé un primat de la philosophie, celui-ci aujourd'hui n'est plus imaginable. Désormais, la science a une fonction métaphysique beaucoup plus efficace que n'importe quelle philosophie. Non seulement elle accroit notre champ de connaissances, mais dans cet effort d'accroissement elle nous fait aussi comprendre que notre connaissance a des limites. Il nous fait aussi comprendre que notre connaissance avait des limites » かつては哲学が主役、女プリマ歌手だった。今は想像するに能わない。以来、形而上思考を(人に)与える役目を担い、いかなる哲学よりも科学は有効です。我々の知識の領域を広めるのみならず、我々の知識には限界が控えると教えてくれる。
« Finalement la philosophie. Je dirais ceci de son rôle : comme les leçons de la science ne sont pas formulées par les savants, c'est donc à elle qu'il incombe de se pencher sur le matériau, de suivre patiemment son évolution et d'en tirer tous les enseignements qu'il contient. En ce sens, le philosophe devient un interprète.
最後に哲学に申す。その役割とは、以下を伝えたい。(自然)科学から学んだ事柄を哲学者が体系付けしていない。故に、哲学そのものが素材(自然科学などの成果)に向かい合う必要に迫られている。素材を辛抱強く追い、素材が内包する教え全てを引き出す。この意味において哲学者は(科学と形而上の)仲介役(interprète)になる。
デカルト・カントの逆張り、哲学が森羅を翻訳する、それがないと哲学は廃れる。 
Le rôle du philosophe 哲学者の役割 (Le Magazine Littéraire 1985年12月号より)下 の了
(2023年9月15日)
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Le rôle du philosophe 哲学者の役割 (Le Magazine Littéraire 1985年12月号より)上

2023年09月13日 | 小説
(2023年9月13日)レヴィストロースが表題についてインタビューを受け、回答をまとめた雑誌の記事。内容がいたく興味深く紹介する。(年月は少々古いが科学史、哲学史、野生の思考との絡まりが記されている。レヴィストロースの現代認識を読める)
(御歳76、現役は退いていたがかくしゃく論理整然)科学全盛の今の時代、哲学の存在価値をレヴィストロースが述べている。「哲学が廃れたのは一時の(アンチ科学の)哲学がもてはやされたからだ。今こそ、科学分野での知見を取り入れ、新たな役割を担うべき」が趣旨。


雑誌記事、写しなので不鮮明をご容赦


出だしは:La philosophie, son rapport avec les sciences: la question m'apparaît fondamentale, et pourtant je me trouve bien embarrassé pour en parler. Il y a chez moi trop d'aspects biographiques qui interfèrent avec elle. Ainsi le fait que j'ai été professeur de philosophie et que je me suis dégoûté de sa pratique parce que, à l'époque, les choix se limitaient à trois orientations dont aucune ne convenait vraiment »
哲学、科学との関係、私には根源的な質問となる。それを語るに戸惑いを覚える。哲学との関わり合いは私の人生そのものでもある。関わり合いを第一期、二期に分けている。一期は(文脈から類推するに)哲学教授資格agrégationを取得した(1931年22歳)から南米先住民の調査、アメリカ亡命をへて帰国まで(1945年)。この時期の姿勢は; « je me suis dégouté de sa pratique, parce que les choix se limitaient à trois directions »
あの時期には哲学には3の選択しか採れなかった。
« philosophie fixée sur des abstractions, une autre fixée sur moi et l’expérience intime, ou bien une troisième, une vaste expérience humaine et en fait la mutilait »
1 抽象観念を弄ぶ哲学に携わる(哲学者の道、カッコは訳者)
2 自身の内面から思考する道(思索家の方向)
3 人間として幅広く経験を得る、しかし哲学実践を台無しにしてしまう。
この選択は実業家政治家となって幅広く社会で活躍する道だろうか。実際、彼は政治家を志した。議員に当選しいずれ大臣を目指す同僚を羨む気持ちを隠していない(悲しき熱帯)。3のいずれも選ばず民族学を指向してサンパウロ大学社会学教授の席を得た。悲しき熱帯の「旅の始まり章」に詳しい。
第二期を, 亡命から戻って、戦後の活動期とすれば1947年(親族の基本構造)~70年(神話4部作の最終裸の男homme nu出版)23年の間である。何が起こったのか。
« j’ai traversé une seconde période, que je qualifierai de résistance à la philosophie lors de l’existentialisme » 第2期に入った。それは実存主義が勃興した、その反抗であった。
« j’ai adopté une attitude polémique vis-à-vis de ses conceptions parce que j’estimais qu’elles étaient une manière de poser les problèmes qui tournait trop radicalement le dos à la scientifique »
訳;(前文:サルトルの考え方には尊敬と敬服>を抱くものの)彼の考えを前にすると論争の姿勢をとってしまう。なぜなら、それら考えは科学的思考にたいして、突如、背を向けてしまう大問題を提起していたのだから。
なぜ実存主義が反科学となるのか。その思想に由来する。「存在は思考に先立つ、思考は存在に規定される」、存在を経験して人は思考を形成でき、自由を獲得する。突き詰めると人の知は世界(存在)に規定される。この仕組では人は世界(自然科学も人文科学も)を学べない。
この記事の主題副題の3題のうち2題、それが「哲学者の選択、実存主義への反発」が前段として記されている。彼は「私は抽象論に立脚する哲学者ではない」「実存主義が哲学と科学の関係を破壊した」これらが前段の伝えかけ。
ここから「哲学者の役割」本論に入る。
« Je conviens qu'elle fut l'attitude d'un moment, mais je persiste à penser qu’elle a été nécessaire. Je crois convenable que la philosophie retrouve un rôle et une place, à condition qu’elle accepte de prendre en compte ce qui est obtenu, et dans les sciences physiques, et dans les sciences naturelles, et dans les sciences humaines » 実存主義への論戦(elle=attitude polémique)は一時の対応だと思う。でもその姿勢は必要だった。今に至り、哲学は役割と居場所を見つけられる。その条件は物理学、自然科学、人文科学で、この間、何が取得されたか、知識に入れる必要がある。
ここで、
レヴィストロースは科学が獲得した何か(ce)を単数にしている。その主体である物理学も自然科学複数である。色々な科学が何か一つのモノを獲得したとしている。
Le rôle du philosophe 哲学者の役割 (Le Magazine Littéraire 1985年12月号より)上 了
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Cogitoの自由 下

2023年09月06日 | 小説
哲学者ともなると書き回しにそれぞれ癖が感じられる。その癖は「修辞」そのもので、デカルトの修辞は論理を段階的に積み上げない、あえてバラしているーと感じいる。
上の例文を部族民流に段階整理すると ;
1 自由とは無関心を持って旨とする。しかし無関心の自由とは神だけが実践できる。なぜなら神は全知全能、判断選択の場に臨んで、その事象の選択結末に無関心でいても、最善の選択をする(最善は宇宙にとっての最善で、人に最良などは問えない)
2 人の選択判断も無関心でなければ自由とは言えない。ここで問題が、人は予め神から「判断して選択する能力」を与えられている(デカルトの第2の、前向きの自由能)、無関心で判断すると人は神の全知全能を備えないから、必ず誤る(これが最下位の自由)。
3 もし私、デカルトがすべての良きことを知った上で無関心の自由を行使したら、必ずや良き選択を取ることになる。しかしそれは無理だ。
4 故に考えて神に近づくしかない(Cogitoの自由)
訳を探すに諭吉はlibertéなる語にまといつく、デカルトの教え「無関心」を知っていただろうか。知っていたはずだ。それ故に訳語の選択に悩んだ。デカルトの自由が本邦で遣われる「自由」とは正反の意に当たるもと諭吉は「知っていた」、と部族民蕃神は信じる。明治期知識人は令和SNS者など足元にも及ばないハイパー博聞強記である。デカルトもカントも自在に通読していたはずだ。
証左となる一文をここに;
<福沢の西洋事情にはlibertyを日本語訳することの困難さを述べており、自主・自尊・自得・自若・自主宰・任意・寛容・従容などといった漢訳はあるが、(いずれも)原語の意義を尽くさないとする>(Wikipediaから引用)。


Ruwen Ogien (1947~2017パリ)哲学者。1968の学生運動と後の社会変化の申し子。個人の位置を対社会・制度では最小限に捉え、周囲との関係を最大に捉える。個人は何事も許される、他者(周囲)への迷惑をかけない限り。大麻、同性愛、同性婚ーなんでもOK。だって周囲に迷惑をかけないから。普遍性を否定し個別性を褒め称える、これが68年騒動の結末です。デカルトの自由が社会にもてはやされていたのは、せいぜいジッドまで(狭き門のアリサ)。今の世フランスで「無関心が自由」なんて云う御仁は一人もいません。


レヴィストロースは「悲しき熱帯」で、西洋東洋の思想の交流においては根本において欠落があるとしている。意味論の絡繰りから欠落を説明している。
« le malentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord sémantique » (Tristes Tropiques、悲しき熱帯169頁)西洋と東洋の誤解はまず意味論においてである。
« ce sont les formes d’existence qui donnent un sens aux idéologies qui les expriment : ces signes ne constituent un langage qu’en présence des objets auxquels ils se rapportent »(同)現実の形体が思想に一種の方向性を与えた。すると思想はその形体を表象として表出する。この相互関係は思想が表象する主体が、客体として存在する形と結びついた時にのみ、言語となりうる。
説明;思想(idéologie)に形体が対峙することをもって意味関係が成り立つ。
言葉が形成されるとは思想と形体が結びつくからで、片一方しか存在しなければ、意味論の構造が崩れる。意味をなさない。
Libertéに対応する実体、自己の利得と離れて何事かを選択する心構えと実行、この「自由」を日本人は当時も、今も持ち合わせていない。諭吉が「自由とは無関心の自由」と叫んでも、その自由を日本人はイメージできない(実体が無いから理解できない)。自由とは己の利得に沿う選択を実行できる状態―これが日本人の自由である。
例えばK老人(部族民通信参加者)が「カツ丼」を食いたい、食いたいモノを食らうが自由だと主張し、昼飯にかつ屋に入って大盛りを注文した。食い終わって満足した彼は、同時に自由も満喫した。しかし彼は自由だったろうか、彼は食欲の下僕、脂の乗った豚肉の食感を楽しみたいグルメの奴隷でしかなかった。
美食を堪能したい自我、これが「自らの由しとする」自由なので、K老人は、日本人だから、自由とは昼飯カツ丼と信じ切っている。もし彼が一旦、カツ丼拘泥を振り払い、天丼でも親子丼、たこ焼きだって構わぬ「無関心」の心境にたどり着いて、なんとなく、なにかをぱくつく。この姿勢が重要だ。
(上司)「キミ、昼飯に何を選ぶのかい」(ボク)「カツ丼とか吉野家とかの選択は特に持ち合わせません。何でもいいし、何でもよくない。無関心なのです」「勝手にしろ、一人でどっかで食ってこい」。
仲間に入れてもらえません。
Cogitoの自由 了 (2023年9月5日)
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Cogitoの自由 上

2023年09月04日 | 小説
(2023年9月4日)デカルトの自由は « liberté d’indifférence » 無関心の自由と定義されている。無関心の意味は「選択において己に利得があるかないか」への無関心であり、他者強制もはねのけて、過程においても結果にも、後々の悔いを覚えてはならないとする心境(volonté) と、実行(vertu)、それら絡まり心情の生きる等身行動であるとする。
明治初期。文明開化、富国興産は国家の課題であり、これら計画を促進するために欧米の文明技術工業の導入は活発だった。インフラを導入するにはシュープラを知らねば効率が悪い。思想、思考も大いに勉強した。其の中で;
libertéなる概念に出くわし先達が自由と訳した。自由の含意は元なるフランス語の用法と正反対の概念を打ち出しているのだが、ここに落ち着いた。この博識が誰かには各意見あるが福沢諭吉との指摘は多い。この語は漢籍に用いられ用法は字面通り、己の気まま思うまま(大字源)とある。原義と訳語の乖離が気になるので、まずはデカルトを読もう ;
« La liberté d'indifférence, pouvoir de se décider indépendamment des motifs ou sans raison. Le terme est pris en 2 sens ainsi exposé par Descartes : L'indifférence me semble signifier proprement cet état dans lequel la volonté se trouve, lorsqu'elle n'est point portée, par la connaissance de ce qui est vrai, ou tout ce qui est bien, à suivre un parti plutôt que l'autre ; et c'est en ce sens que je l'ai prise quand j'ai dit que le plus bas degré de la liberté consistait à se pouvoir déterminer aux choses auxquelles nous sommes tout à fait indifférents »
(無関心の選択、低い程度の自由を説明します)無関心の自由、理性目的から独立して決められる能力。この語はデカルトによって2の方向性が暴かれている。
(ここからデカルト)無関心とは以下の状態であると強調したい。発心(行動を促す意思)が真実は何か正しいのは何かの認識の支えを受けないまま、こちらかあちらかを選ぶ状態、これをして最下位の自由とした、言い換えれば我々がそれら事象に何も知らずに決定を下している状態です。
上文をしてー何も知らない粗忽者が闇雲に決め事に向かうーこの状況ではない。知徳の高い方、自分は全て知っている、だからこれが最善だと決める。しかしその知識が間違っているーこれが最下位の自由。もう一つの自由は:


現代の吟遊詩人ムスタキ(1934エジプト~2013ニース)彼の自由は「自由を求め友人も祖国も失った。残ったモノは監獄の我が身、そして美しい女監獄使=et sa belle géolière= シャンソン私の自由」なんのことはない、結婚して嫁がきれいだよ~とノロケている。


Mais peut-être que par ce mot d'indifférence, il y en a d'autres qui entendent cette faculté positive que nous avons de nous déterminer, à un ou à l'autre de deux contraires, c'est-à-dire à poursuivre ou à fuir, à affirmer ou à nier une même chose.
この無関心の語には別の可能性がある。前向きの無関心の力で、それは前述にしているが、対立する一か他かを選択する力であり、一の事象にたいして突き詰めるか逃げるか、肯定するか否定するかのきめる能動性です。
(選択する力=自由をヒトは持つ、これは前向きの能力とデカルトが曰う)

« Une entière indifférence en Dieu est une preuve très grande de sa toute-puissance. Mais il n’en est pas ainsi de l'homme, lequel, trouvant déjà la nature de la bonté et la vérité établie et déterminée de Dieu, et la volonté étant telle qu'elle ne peut se porter que vers ce qui est bon, il est manifeste qu’il embrasse d'autant plus volontiers, et par conséquent d'autant plus librement, le bon et le vrai, qu'il le connaît plus évidemment ; et que jamais il n'est indifférent que lorsqu’il ignore ce qui est de mieux et ou de plus véritable. Et ainsi l'indifférence qui convient à la liberté de l'homme est fort différente de celle qui convient de la liberté de Dieu »
神の持つ究極の自由は彼の絶対性のあかしです。しかし人はその力など持ち合わせない。人は神のご加護で良心、真実の性質をすでに持つ。故に発心は良きあれ、とする方向にしか発せられないから、人は自由意志を抱え、言い換えれば自由のもとで、明確に知っている真実と良きことを(無関心のままに)希求するのだ。人はより正しい、より良いとは何かを知らない時には無関心ではない。故に人の無関心の自由は神のご都合の無関心自由とは異なる。(良い、正しいと知るとき、人は無関心の心情で選ぶ)

« Cette indifférence que je sens、lorsque je ne suis pas emporté vers un côté plutôt que vers un autre par le poids d'aucune raison, est le plus bas degré de la liberté, et fait apparaître plutôt un défaut dans la connaissance qu'une perfection dans la volonté ; car si je connaissais toujours clairement ce qui est vrai et ce qui est bon, je ne serai jamais en peine de délibérer quel jugement et quel choix je devrais faire ; et ainsi je serais entièrement libre, sans jamais être indifférent »
私が受け止める自由のなかで、いかなる理性にも裏付けられず、こちらを取るかあちらかを選ぶ局面でしか決断できないは、自由の最低位であり、そこには発心の精緻さどころか知識の欠陥が露呈されるだけだ。なぜならもし(ここからは仮定法、デカルトでさえ到達していない神の世界)私がいつでも明確に、正しい事と良い事を知るならば、いかなる決断もいかなる選択も私は身に課せるはずだ。そうなれば私は完璧に自由になれる、決して一度ならず無関心のままで。(引用文はDescartes Méditations IV)

上の了

暫く投稿を休んでいました。過去の原稿を見直し訂正加筆していた。読み返せば返すほど、文章の至らなさに額に汗がたれます。
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