前回はつまらん話しになった。話しがおもしろくないとビジットも少ない。不味い食い物屋の零落ぶりを幻想体験してるみたいで、身にしみた。今回も面白くはないから読まれる方も少ないと覚悟している。
日本人には飢餓は幻想ではなく過去の事実である。賢治は大正期に「寒さの夏はおろおろ歩き」と飢餓におびえた。東北で夏が寒いのは「ヤマセ」(オホーツクの寒さを運ぶ東風)が吹くからで、コメの収穫が極端におちる。
最近では1993年にヤマセが吹き荒れ6月にドテラを着て寒さを凌いだ(投稿子の経験)。よく年94年には庶民の米びつが春に払底した。米がない買えない騒乱のその1年、たった19年前なので記憶に残す読者も多いと思う。日本は外貨があったのでタイ米を買いまくった。外米が流通して庶民の飢餓は防げた、しかし案の定、恩知らずが「マズイ食えない」などとネをあげ、東南アジアの農民から顰蹙をかった。
食糧自給40%以下の日本で飢餓は過去の現実であり未来の悪夢である。しかし首題の「幻想」は未来の飢餓を語るのではない。必ず来る飢餓、それに目をつぶり「飽食」に価値があるとするグルメ論的自己陶酔を「飢餓の共同幻想」と言う。
上、中で料理本の氾濫(百家斉放)と美味追求の技術論(百花繚乱)を述べた。その思潮は食の野放図な礼賛でしかなく、古来日本人が美徳として忘れなかった節度、「食べられるだけで幸せ」「食材と農民への感謝」がみじんもない。
料理をこう作れば旨くなるこのように飾り盛りつけろなどで、全てが技術論である。根底には「おいしいもの食べたい」の欺瞞が潜んでいるのだ。前回記述したように「おいしい」とは食べた本人のみが決める「官能」なので、旨く作ろうとどれほど努力しても、これらの商業的技術論的努力は、個人的一時の「おいしい!」のまえにには無駄無意味である。
金にあかして材料を吟味し手間暇かけて調理して、贅をこらしたテーブル内装でもてなしても、美味とは結びつかない。食べる方は、その店の調理技術の卓越さや、配膳の雰囲気、目の玉飛び出る値段などで「きっとおいしいに違いない」自らを欺瞞して期待するが、いくら技をの洗練させても食べる個人の「官能、おいしい」とは関係がない。
料理技術で追求する美味も、金払って期待する尊大な美味しさも同じ穴のムジナ。空想の「美味」に金と努力を払っているだけ。
謙遜な空腹者、食への感謝者、が持つ崇高な官能とは異質である。食べて感想するのがおいしさで、技術と金が食卓に供するのは装飾と傲岸でしかない。
グルメ氏よ、君たちは食を勘違いしている、美味を幻想しているのだ。
料理技術論を振りかざし、旨い料理を「作れる」の信条でいるかぎり、永久にただ見果てぬ虚飾を追求するだけで、美味の迷路に落ちこむ。銀座の寿司屋のカウンターが天国に一番近いと確信しても、翌日行って同じモノ喰らって「今日は旨くない昨日より天国から遠ざかったな」と思えば、天国よりの寿司屋は別のどこかにあると疑う。この関係は見果てぬ飽食で、実はこれが飢餓なので、グルメ的飽食は飢餓の共同幻想なのだ。
天国に近い寿司屋に戻るが、投稿子(渡来部)は最近魚のナマが食えなくなってきた。その上、皆さんは知らないだろうが3年にわたって無収入なのだ。流動性の僅少化が顕著(金がない)という宿痾に重篤感染している(幻想ではない飢餓で死にそう)。
だから私めが死ぬ前に「天国に行きたいけど断られる。天国に一番近い場所でメシ食おう」と決心して、ジローなる銀座寿司屋におそるおそる足を踏んだら、味(生もの食えない)と値段(座って一人3万円らしい)で地獄の餓鬼道苦を先取りしてしまう。クワバラクワバラ。
もし天国は寿司の楽園で、行けるのは金持ちのみなら「カウンターが天国に…」の論評は頷けるけど、天国もそこまでは落ちぶれていないだろう。
老人が死ぬ間際に何が食べたいかと尋ねられた。彼は「白いマンマと豆腐汁」と言って息絶えた。それは老人が天国に近寄った瞬間だった(越後民話)。これほど食への感謝を持つ老人であれば、天国に旅たっただろうと祈る。空腹、飢餓が現実にあって、グルメ的欺瞞など知らず
食べられる幸せを祈る人々の時代であった。
(題名は思想家吉本隆明氏の著作に強く影響を受けています。合掌)
日本人には飢餓は幻想ではなく過去の事実である。賢治は大正期に「寒さの夏はおろおろ歩き」と飢餓におびえた。東北で夏が寒いのは「ヤマセ」(オホーツクの寒さを運ぶ東風)が吹くからで、コメの収穫が極端におちる。
最近では1993年にヤマセが吹き荒れ6月にドテラを着て寒さを凌いだ(投稿子の経験)。よく年94年には庶民の米びつが春に払底した。米がない買えない騒乱のその1年、たった19年前なので記憶に残す読者も多いと思う。日本は外貨があったのでタイ米を買いまくった。外米が流通して庶民の飢餓は防げた、しかし案の定、恩知らずが「マズイ食えない」などとネをあげ、東南アジアの農民から顰蹙をかった。
食糧自給40%以下の日本で飢餓は過去の現実であり未来の悪夢である。しかし首題の「幻想」は未来の飢餓を語るのではない。必ず来る飢餓、それに目をつぶり「飽食」に価値があるとするグルメ論的自己陶酔を「飢餓の共同幻想」と言う。
上、中で料理本の氾濫(百家斉放)と美味追求の技術論(百花繚乱)を述べた。その思潮は食の野放図な礼賛でしかなく、古来日本人が美徳として忘れなかった節度、「食べられるだけで幸せ」「食材と農民への感謝」がみじんもない。
料理をこう作れば旨くなるこのように飾り盛りつけろなどで、全てが技術論である。根底には「おいしいもの食べたい」の欺瞞が潜んでいるのだ。前回記述したように「おいしい」とは食べた本人のみが決める「官能」なので、旨く作ろうとどれほど努力しても、これらの商業的技術論的努力は、個人的一時の「おいしい!」のまえにには無駄無意味である。
金にあかして材料を吟味し手間暇かけて調理して、贅をこらしたテーブル内装でもてなしても、美味とは結びつかない。食べる方は、その店の調理技術の卓越さや、配膳の雰囲気、目の玉飛び出る値段などで「きっとおいしいに違いない」自らを欺瞞して期待するが、いくら技をの洗練させても食べる個人の「官能、おいしい」とは関係がない。
料理技術で追求する美味も、金払って期待する尊大な美味しさも同じ穴のムジナ。空想の「美味」に金と努力を払っているだけ。
謙遜な空腹者、食への感謝者、が持つ崇高な官能とは異質である。食べて感想するのがおいしさで、技術と金が食卓に供するのは装飾と傲岸でしかない。
グルメ氏よ、君たちは食を勘違いしている、美味を幻想しているのだ。
料理技術論を振りかざし、旨い料理を「作れる」の信条でいるかぎり、永久にただ見果てぬ虚飾を追求するだけで、美味の迷路に落ちこむ。銀座の寿司屋のカウンターが天国に一番近いと確信しても、翌日行って同じモノ喰らって「今日は旨くない昨日より天国から遠ざかったな」と思えば、天国よりの寿司屋は別のどこかにあると疑う。この関係は見果てぬ飽食で、実はこれが飢餓なので、グルメ的飽食は飢餓の共同幻想なのだ。
天国に近い寿司屋に戻るが、投稿子(渡来部)は最近魚のナマが食えなくなってきた。その上、皆さんは知らないだろうが3年にわたって無収入なのだ。流動性の僅少化が顕著(金がない)という宿痾に重篤感染している(幻想ではない飢餓で死にそう)。
だから私めが死ぬ前に「天国に行きたいけど断られる。天国に一番近い場所でメシ食おう」と決心して、ジローなる銀座寿司屋におそるおそる足を踏んだら、味(生もの食えない)と値段(座って一人3万円らしい)で地獄の餓鬼道苦を先取りしてしまう。クワバラクワバラ。
もし天国は寿司の楽園で、行けるのは金持ちのみなら「カウンターが天国に…」の論評は頷けるけど、天国もそこまでは落ちぶれていないだろう。
老人が死ぬ間際に何が食べたいかと尋ねられた。彼は「白いマンマと豆腐汁」と言って息絶えた。それは老人が天国に近寄った瞬間だった(越後民話)。これほど食への感謝を持つ老人であれば、天国に旅たっただろうと祈る。空腹、飢餓が現実にあって、グルメ的欺瞞など知らず
食べられる幸せを祈る人々の時代であった。
(題名は思想家吉本隆明氏の著作に強く影響を受けています。合掌)