蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

レヴィストロース自ら語る夕日考 下

2019年08月29日 | 小説
(2019年8月29日)
本稿は28日投稿のレヴィストロース夕日考上の続き。部族民通信HPにて上下通しで一覧できます。

<Cette image n’est-elle pas celle de l’humanite même et par dela l’humanite, de toutes les manifestation de la vie…このイメージは人社会のそれのみではない、人を超えてすべての生命の活動であり…この後生命、鳥、蝶々、貝、獣、花植物などを羅列が続く。
さらには人の命と成り立ち、繊細で磨かれた作品、すなわち言葉、社会の成り立ち、風習、芸術作品など(まさに森羅万象を)あげてそれらが<quand ils auront tire leurs derniers feux d’artifice, rien ne subsiste ?>最後の(人工の)火を消してしまったら、何も残らないのか。
<mon analyse fait donc ressortir le caractere mythique des objets : l’univers, la nature, l’homme, qui aulong de milliers , de millions n’auront rien fait d’autre qu’a la façon d’un vaste système mytholoqique , deployer les ressources de leur combinatoire avant de s’aneantir dans l’evidence de leur caducite.
訳;私の研究は対象とする物から「神話的性格」を引き出したと言えよう。対象とは宇宙であり、自然、そして人間である。それらは、確実にあり目の前に見えている衰退、その果てに絶滅してしまう前に、手の内のすべての表現を幾千年、幾百万年に渡り展開している。

神話的性格とは彼が集成した南北アメリカ大陸原住民の神話叢そのものと言える。レヴィストロースの神話学に立ち入ろう。
それらを分析し、主題別にまとめるに当たってcodeを用いた。人に振り当てられるcodeとは社会(social)婚姻(alliance)創造などを設定し、性格、思考、行動規範をステレオタイプ化した。例えばM1神話(bororo族)では近親姦、父子の相克、主人公の死と復活、火の創造が社会コードの進展の様に伝えられるし、人をしてコードに決めて神話的性格(創造、そして喪失)に結びつけるのである。それら行動がcodeにまとまり、伝播していった様を解析した。
自然、天空、獣類などもコード化して(連続=放縦な自然対不連続=規制を定める文化など神話に収斂させている。獣にしてもジャガー(人に火を教えた)野ブタ(食物の起源)など存在をアイコンに替え、神話での立ち位置を決めている。
これらが「神話的性格」であり、女を語るには反逆、不服従、非周期性(やりたい放題)を前面にだしている。身長体重、胸囲腰回りなど(神話を喪失した)現代人的アイコンの肉付き偏重とは別の女世界を描いた。

小筆は夕日を「定点定時刻で観察する夕日はめまぐるしく相貌を変える。その変遷ぶりは「とある12時間の過程」で一日の生を描いていると解釈したら足を止めた農夫が漏らした吐息は、生の辛さ、労働の苦しさに他ならない。振り返り西に落日を目にした驚きを、過ぎゆく一日に敷延している。夕日は人生の裏鏡です。生きる落胆、レヴィストロースがかく語った」とした(夕日考の2019年5月30日投稿)。しかるに著者本人は「森羅万象の来し方と行く末を直感した」とある。
思索の眼差し、その広がりと奥行きの差が農夫と森羅、一日と何百万年。己の思考の牧歌さと暢気加減の源はきっと精神塩梅のbanalite(平凡さ)、頭の巡りのpauverete(貧困さ)にあったのだ!細身が震えました。
♪祇園精舎の鐘の音、諸行無常の~ゴ~ン♪ 了
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レヴィストロース自ら語る夕日考 上

2019年08月28日 | 小説
(2019年8月28日)本投稿は部族民通信のHP記事を同期しています。当ブログでは(長すぎるので)上下に分けました。下は明日出稿します。部族民通信HPには左コラムブックマークをクリック、あるいは部族民通信でググってください。

L’homme nu裸の男(レヴィストロース神話学第4巻、1970年発行)の最終章Finaleフィナーレに「夕日考Le Coucher du Soleil、悲しき熱帯の一節」についての一節が載っている。書きつづった背景、雲の沸きたちと天啓、その後の著作を通しての思考の展開、思い起こすまま、とつとつとこれらを回顧している。
神話学4巻は1963年の「生と調理」に始まる一連の作品の最終巻で、レヴィストロースの思考(いわゆる構造主義)集大成である。本巻、裸の男は神話学としてのみならず哲学・人類学の著作においても「締めくくり」に当たる。これ以降の作品は思索というか批評への志向が強く多くは短編である。著述活動の、ある意味では終着点に立ったレヴィストロースの精神を探るにFinale解読は必須となるが、そこにおいて初期作品の軽いエッセイ風の一節をその章の名と共に引用していたとは驚きだった。
著述家として学職としての後のキャリアにおいて、レヴィストロースは「夕日考」を念頭に入れ執筆、活動していたかの疑念が生じた。読み進めてそれは真逆、夕日考が後々に表出した提題をすでに予言していたのであった。夕日現象の「解明」に取りかかるために「構造主義に則る神話学」をあらたに創出する必要、船上デッキチェアーに寄りかかりがそのためで、まさにこれを悟ったのだと。
後の著述が夕日考を語るのではなく、夕日考が後々著作を予告した。
この回顧は思想人の告白であると畏れ入った。
「夕日考」については本年(2019年)5月30日のホームページ部族民解釈はこちら(5月30日に本HPに投稿した)なお小筆は夕日を眺めるとは「一日の仕事の振り返り」と牧歌解釈した。すっかり勘違いだった。文末に彼我の落差を語る。

夕日考について語る。
「悲しき熱帯TristesTropiques1956年」第2部(feuilles de route旅の断片)の7章coucher du soleil(落日が直訳)。Ecrit en bateau(船上にて)と命題された書き流しの日記風語りが、この作品中でイタリック体となっている。午後の遅くからの一時をデッキで過ごす。船の周りが大西洋、波と空、水平線のみが目に入る。光と陰、雲の移ろい風のささやき、うねりと波の移り変わり。小さな雲の連なりが水平に横たわる。夕べは迫る、盛んな太陽が午後のかげりに曇る。雲はふくらみ、高く登ったその頂が西日を受けて輝いて暗がりの水平から浮かんだ。それでもなおも脈動する旺盛さを誇らしげに、天に君臨する巨大建造物(edifice)のごとく、最期に海を睥睨した。薄暗がりが闇に溶け、大伽藍がはたとその闇に消える。海は今、照明の消えた舞台。幕裏暗がりに着飾りを垂らすだけ、役目を終えた役者(portant)は居場所を失いたたずむだけ。
(川田訳はportantを(舞台装飾を支える)柱と正しく訳している。「着飾りを垂らす役者」は小筆の意図的誤訳である、沸きたつ雲を擬人化したかった)

引用しよう;
<(ce mythe supreme)….rejoint donc l’intuition qui, a mes debuts et comme je l’ai raconte dans Tristes Tropiques, me faisait chercher dans les pahses d’un coucher de soleil , guette depuis la mise en place d’un décor teleste qui se complique progressivement jusqu’a se defaire et s’abolir …>(L’homme nu 620頁)
この一文(そして後文)をして「後の著述が夕日考を語るのではなく、夕日考が彼の後々を予告した」根拠とする。
注)括弧内のce mythe supreme(この至高の神話)とはこの前の段で規定されている。「人間社会、その歴史のみならず(動物界、自然界など)森羅万象の来し方を含み人間が代表してそれ(森羅万象来し方行く末)を語る」神話であると、
訳:至高神話は(私の)直感に結びつき、著作活動の最初期の「悲しき熱帯夕日の状景」の文中で、それ(事柄のモデルle modele des faits)をして私に語らせるに及んだ。至高神話(なる主題)は天の舞台に潜み陽光ちりばむ装飾を一身に受け、身姿を変えながら消えていった…。
事柄のモデルとは、それ自身が夕日に浮かびそして消えゆく雲の情景だが、船上で眺めていたその時に<le modele des faits que j’allais etudier plus tard et des problemes qu’il me faudrait resoudre sur la mythologie「この事柄のモデルは後々に取り組んだ課題で、神話学で解決すべく提題であるとわかった」とある。上2の引用で理解できるのは;


考えても猿は構造主義を完璧に理解するまでに行かない。

1 普通の神話は(個人の担い手)が語るけれど、至高神話を語るのは「人間社会」である。人間社会が声を出すワケがないから、それは語られない。すると無言の神話か。あるいは普通の神話の総合体の中に森羅万象「来し方…」の主題がメッセージとして籠めているのだろうか。
2 その主題「事柄のモデル」を夕日の移り変わりを眺めてレヴィストロースが気づいた。雲の立ち上がりと、輝き影と旺盛さ、そして突然の消滅が移り変わりなのだが、そこに「森羅万象、事柄のモデル」が暗喩されている、それを知ったと解釈できる。
3 至高な神話は「始まりから隆興、消え去り」の筋があって、それが夕日に託され天上に描かれていた、夕日に潜む至高さをレヴィストロースが見つけたと理解できる。

(1~3)の前提として;未開人も西欧文明人も同じ思考論理を持つ。未開人が「経験的な言葉」を用い、神話を通して説明した「思考」と、文明人が抽象的言葉と修辞法で語る「思考」は根底において共通する思考である。ゆえに至高な神話とは未開文明を問わず人間社会が語り、全人類に共通の思想を訴えている。

<le modele des faits que j’allais étudier plus tard et qu’il me faudrait résoudre sur la mythologie : vaste complexe edifice, lui aussi irise de mille teintes , qui se deploie sous le regard de l’analyste, s’epanouit lentement et se referme pour s’abimer au loin comme s’il n’avait jamais existe.(620頁)
訳;(事柄のモデルはのちに学び始めたのだが、私にとってそれは神話学により解決されるものであった=この文は前出)。続いて;
複雑な大建造物で、解析者(レヴィストロースのこと)の目には(夕日と)同じく千の色彩に飾られ、緩やかに展開し、遠くで壊れあたかも実在していなかったかに完結してゆく。
雲が立ち上り闇に消える様を夕日に見て、物事の発生、興隆そして滅亡を感じ取った。夕日の雲は宇宙の成り立ち滅亡の換喩であったのだ。

自ら語る夕日考 上の了
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レヴィストロース自ら語る構造主義 下

2019年08月26日 | 小説
上(8月25日に投稿)に続く。(8月26日)


投稿子の歓声で胆を潰したウータン。タマ動物園に棲む。

(前回)構造主義の土台がカントの認識論、社会人類学へのレヴィストロース的展開とは

<Il decouvre en effet, derierre les choses, une unite et une coherence que ne pouvait reveler la simple description des faits, en quelque sorete mis a plats et eparpilles sans ordre sous le regard de la connaissance.>
訳;(il)構造主義は事象の裏に隠されている一体性、統一を曝いた。知っているだけの眼差しで物事を記述するに、ただにそこに置かれている、秩序も認められず、散らばるだけの(現実の)物事の裏に潜む一体性を曝いた。
(今までの民族学、民族誌学の解析手法は単に見えている事象を平坦に羅列し解釈するだけ。それらの内に潜む=一体性と統一:智で曝く”思想”です=こうした解析には至らなかった)

訳にあたりla connaissance=認識としその価値の「順位」を決めた。rationalite理性力、penseee思考が前引用にでるが、connaissanceはそれらの下位「知っているだけ、理解した(つもりになった)状態」とする。もともとそれがconnaitreの含意でもあるから、訳「知っているだけの眼差し」に納得いただけると信じる。

行句を引用する;
<En changeant de niveau d’observation, et en considerant par deca les faits empiriques les relation qui les unissent, il constate et verifie ces relations plus simple et mieux intelligibles que les choses entre lesquelles s’etablissent et don’t la nature derierre peut rester insondable , sans que cette opacite provisoire ou definitive soit , comme auparavant , un obstacle a leur interpretation>(同)
訳;観察する目線の位置を変え、経験的に確認できるいろいろな事柄を通して、それら(事柄)を結びつけている紐付けに思考を巡らせる。すると、(現実として見えるままの)物事の突き合わせのなかに成り立つ(混乱した)関係よりも、(思考を巡らせ解釈する)関係のほうが単純でより理解しやすい事が判明する。ただし潜む背後が薄ぼんやりしているままで、(正しい)解釈の妨げになるままであったら、それら物事は覚知不能のままで残る。

この引用は、初めの引用を言い換えています。構造主義としての見方ととらえ方。従来手法のそれとの対比です。(思考を巡らせ解釈する)関係、この考え方が前回紹介した智の力(transcandantal先験)の要素のdialectique(弁証法)であるとは自明。

目線、あるいは思考点を(構造主義流に)変えれば、物事の背後に潜む事柄が覚知でき、その様態は(見るがままよりも)単純になるのだとレヴィストロースが教えてくれた。

写真:オーストラリアアボリジンが抱く交差イトコ婚の思想。縦線が父息子の財産委譲の流れ、斜め線は母娘。線は投稿子の追加。写真は親族の基本構造から採取。

この単純かつ分かりやすい背後を「思想」とする。すると事象(形状)は経験則で関知できる現実、物事となる。メルロポンティの現象論(カオスの場と神の意志の芸術、アラカルトに:HP内では紐付けがあり当該頁に飛ぶ)にも影響を受けた構造主義がここに見えてくる。「親族の基本構造」で交差イトコ婚を図式を用いて解説した(アラカルト参照)。図がオーストラリアアボリジンの抱く思想です。そして現実の形状とは日々、実践されている婚姻となる。全ての婚姻が交差イトコ間で締結するなどはあり得ない。相手の家族に適齢の嫁(婿)の候補が見つけられなければ成就しないし、若い男(娘)ならばしきたりで決められている交差イトコの娘(青年)に目もくれず、赤の他人の明子チャン義男君に首っ丈との恋愛ゲームだって発生する。一方で、父から息子に譲る財産(遺産;部族での地位、狩りの権利、狩り技術の伝承などか)、母から娘に渡す財産(土地、家屋、耕作権などか)は社会の規則として決まっているし、この制約は(今の日本の有様を見ても)かなり強固です。この財産委譲の規則に背くことは、どんな社会でも反逆と罰せられる(赤の他人に土地屋敷が相続されたら大騒ぎとなる)。
父が息子をさていて相続紛争発生などの軋轢なしで部族が継続するため、富の委譲の仕組みを婚姻規則に結びつける制度が交差イトコ婚の「思想」である。そして思想と実際が補完して、常日頃の言行に結びついている実体を「構造」とする。

構造人類学「anthropologie structurale」(1953年パリPlon社)では過剰な財物を隣接部族に贈りその部族は破産する。しかし時期を待てば、別部族からのそれに見合う贈り物をうけとる風習(メラネシアのKula、北米インディアンPotlatch)を汎部族社会の連帯維持との思想とし、現実の贈り物のやりとり行動・言辞を形状として、2者を対峙させて構造主義的に分析している。


もう一文を引用
<le structuralisme est teleologique , apres une longue proscription par une pensée scientifique encore imbue de mecanisme et d’empirisme, c’est lui qui a restitue sa place a la finalite et qui l’a rendue a nouveau respectable>(615頁)
訳;構造主義は目的論である。長いこと機械決定論と経験主義に浸透されていた名のみの科学思考のくびきをはねのけ、彼(構造主義)は己の立場をしっかと決め、その究極位置こそが彼をして新たな賞賛をうける根拠にもなった。

teleologie目的論を、幾分強い意訳ですが「思想革命」とすると分かりやすい。機械決定論、経験主義は後の文列に出現するPiaget(発生心理学)、Sartre(実存主義)を当てつけている。それら理論はあるメカニズム、外界からの刺激を想定し内部(心理、思考)が変質するとの機械的、経験主義を土台に置いている。またPiagetは「心理発達論」の観点からレヴィストロースへの批判を重ねていた(時期があった)。レヴィストロースはそもそも人に内包する智から人の思考と行動を出発させているので、(外界刺激を発達要因とする)彼らとは相容れない。
レヴィストロースのサルトル批判にも同様の亀裂(智の起源を本来とするか、個人経験とするかの差)を解き明かし、個人経験則から智は発生しないと批判しました。本ホームページの別投稿にあります。上の引用はまさに構造主義の勝利宣言です。

多くの論客(フランス語の文献にも)読み取れる「構造機能論」からの構造主義の解釈へ一矢を報わんと本文をまとめた次第です。(2019年8月末日) 了


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レヴィストロース自ら語る構造主義 上

2019年08月24日 | 小説
本稿は投稿子が主宰するホームページ「部族民通信」に書き下ろした同名の一文のブログ同時掲載です。ブログとHP同時投稿は今回が初めて、これからも続けようとがんばって下ります。なお本稿はブログ記事としては長すぎるので上下としました。下は近日に公開。部族民通信HPではすでに前文が投稿されている。「部族民通信」HPにアクセスは左コラムのブックマークをクリック、ないし「部族民通信」でググってください。(2019年8月25日)

裸の男L’homme nu(レヴィストロース神話学第4巻1970年発行)の最終章Finaleフィナーレに作者自らが構造主義を語る段落に出会った。
御大自らが「教える」内容は後記にするが、これまでの作品で「構造主義」についての解釈を述ぶる行句は著作のどこにも読みあたらず、まして己を「構造主義者」として標榜する(サルトルなんかが得意とする)思想の売り込みなどもなかった。

世間で語られるソシュール構造言語学を土台に「構造主義」なる思想を形成したなど、由来と概念の攻略本的説明も(小筆の知る限り)これまでの著作で一行もない。それゆえこの1頁は希有です。この辺りの外周から事を語ろう。
入門書として精読した「悲しき熱帯TrietesTropiques」のある一行(ポケット版169頁)を「手の内の証し」として小筆は留意していた。その一文を引用すると<le melentendu entre l’Occident et l’Orient est d’abord semantique : les formules que nous y colportons impliquent des signifies absents ou differents>
訳;西洋と東洋の誤解の原因は(言語の)意味論から納得できる。我々(西洋)があちら側(東洋)に売り込んだ公式(ソシュールの意味する・意味される対峙関係)が、そこでは(意味する言葉だけを訳して)意味される実体のモノ(signifie)が異なる、あるいは不在である。
これだけながら「構造主義」の全貌が掴めた。

裸の男は神話学4部作の最終巻、その最後の章となるフィナーレのそのまた最終部に「自ら語る構造主義」の幾行かがあった。

「signifieの不在」の指摘を小筆は自由liberteに当てはめた。
実はこの頁でも誤解の例証にliberteを用いているから、この語ほど西洋にて独自に発展し、他地域の文化人に蠱惑的に受け止められる言葉は他に無いのかも知れない。デカルトが説いたliberte(後にスピノザ、ヘーゲルそしてサルトルも説いた)を諭吉翁が「自由」と訳し、新しい言葉として流布する。しかるに対応する形(意味されるモノsignifie)が日本社会の概念には無い。レヴィストロースの指摘はまさに「思想」を導入しても土台を作れない東洋の限界に誤解の元があると指摘している。別の言い方では東洋独自の哲学体系を打ち崩せない西洋。誤解根源は両極の思考のあり方にある。
(ちなみにK氏がカツ丼を食う自由を実践するため苦難の昼食アワーを過ごした経緯は本ホームページに載せている。老人とはいえ令和の男、しかし彼が信ずる自由はデカルト、サルトルが説く西洋の自由とは大違いだった。未読の御仁はカツ丼の自由をクリック)

上記引用の解釈を拡大発展させて、小筆は構造主義とはなんぞやをこれまでにBlog、HPで開陳した(猿でも分かる構造主義、ジンジャンがカントに先験を教えた)をクリックご参照。部族民解釈の構造主義とは;
>存在に本質はない、モノが存在する形状はsignifieでしかない。人の持つ思想と存在が対峙する(ソシュール意味論的)構造の中に本質が宿る<。この例証をレヴィストロースは著作「親族の基本構造」「野生の思考」「構造人類学」で綿々と展開し、そのベクトルの向かう彼方に構造神話学が花と開いた。されど4部作を通じても「構造主義とは」の攻略本的解説はどこにも読めなかった。冊に冊、それらを読むに年余を越してようやく昨日(2019年8月ある夕べ)、最終4作目「裸の男」の最終章の最後尾、これだとぶち当たった。上記(部族民としての解釈)での論旨を行間に当てるとなんと、隠喩換喩だらけひねくりまくりのレヴィストロース修辞法がすっかり読み解けた。
「ヒャッホー」魂の叫び、慎ましながら雄々しさの裏声地なりの歓声が、裏山なるタマ丘陵に響き渡った。その動物園に棲むと伝わるウータンどもは胆でも潰したか。

<En acceptant ces postules , le structuralisme propose aux sciences humaines un modele epistemologique d’une puissance incomparable a ceux dont ells disposaient auparavant.>(同書614頁)
訳;上記の公式を展開するに辺り、構造主義は人文科学に一つの認識論モデル(modele epistemologique)を提供したのである。その効果たるや、これまで人文科学が展開していたそれらよりも強力だった。
上記の公式とは前文にある;
<une rationalite preexistante sous deux formes ; l’une immanente a l’univers, sans laquelle la pensee ne parviendrait pas a rejoinder les choses et aucune science ne serait possible ; et, incluse dans cet univers, une pensée objective qui fonctionnne de manierre autonome et rationelle avec meme de subjectiviter cette rationalite ambiante, et de se l’aservir pour la domestiquer>(同)
訳;理性力とは全人類(univers)にそもそも備わっており智として2の形態を見せる。一つの智は人に本来的(immanante)で、それ無しでは思考は物事を取り纏められず、科学の発生など考えられない。もう一つは人に内包(incluse)される智で、客観性を持ち自律に理性的に発展し、不確かな理性力に論理性を与えるうえに、思考を自家薬籠中のモノにするため手なずけてしまう。
本来的と内包を使い分けているが、これは繰り返しを避ける筆法と見て、実際は同じ。居場所は人の中で、働きが異なる。
rationaliteを理性力とした。これが人に潜む初原の智の能力で、2の働き様を見せる。1は事象を理解して紐付けて総括する。2は思考に客観方法を植え付け、それを自身の確立に利用する。この分析はまさにカント哲学です。小筆は以下に解釈する。
1 rationalite preexistante=>先験(transscandantal)
2 une immanente=>物事を取り纏める内在する智、これがdialectique弁証法または演繹思考。
3 une incluse=>自律する思考、これはanalitique分析思考または帰納思考。

レヴィストロースはカント云々を一言も漏らしていない、いわば拡大解釈であるが根拠は;
構造主義を形成するにあたり「近代知識人として自然にカント哲学をならった」(月の裏側のどっか)。ここまでを前提の理解としよう、初めの引用に戻る。
気になる語句のEpistemologiqueは認識論であるが、上記の流れでこれをカント認識論の敷衍としよう。(以前から小筆はBlogとHPでこの解釈を喧伝していた)

下に続く。

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信じやすさの機能、サンタクロースと死霊ダンス

2019年08月21日 | 小説
(2019年8月21日)
(本年4月29日投稿の)土俗医師の失敗を「信じやすさの機能」に衣替えして部族民通信のホームサイトに投稿しました。信じやすさ(cruidite naivete)には階層、世代を超えて社会を同質化する機能があるとする主張を、サンタクロース伝説と死霊のダンス(ボロロ族)を材料としてレヴィストロースが解き明かしています。信じやすさの対極が疑い深さ、この直線に直角交差するのが寛容と悪意。人の行動と心理はこの2線が形成する領域のいずこかに納まる。これこそがレヴィストロースが説きたかった(はず)主張でして、投稿子が斟酌して(あるいは拡大解釈して)、ネット界に図式として問うとしました。PDFにしているので一目瞭然です。マトリクス上に載せた人物にはイスラム教アフマディ教団カリフからスターリン、ドストエイフスキ、サルトル、独居老人まで網羅した。PDFはブログに載らないのでここに提示できないが残念。
部族民通信ホームサイトは左コラムのブックマークHPをクリック、あるいは「部族民通信」でググると首位にでてきます。とりあえず報告まで。

写真は信じやすく寛容な土俗医が、80年前にガラガラヘビに噛まれて死んだブラジル・マトグロッソのBurges村。立派な市に変容しています。
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世界戦争の世紀、20世紀知識人群像の紹介

2019年08月19日 | 小説
(2019年8月19日投稿)

桜井哲夫「世界戦争の世紀、20世紀知識人群像(2019年7月29日平凡社発行)を紹介する。その一部(レヴィストロースが除隊してからヴィシー政権文部省におもむき、パリのアンリ4世校に就業したいと申し出た経緯)をHP(部族民通信、悲しき熱帯の真実1)に引用しました(8月19投稿)。なお本投稿はHPのアラカルトと同文です。

力作です。ともかく面白い。
第一次大戦の勃発(1914年)から始めてパリ解放(1945年)の40年余のヨーロッパ、主としてフランス知識人の行動を、その場その時間に透明人間と変態して観察するかのごとく、経時経日、経年で描いている。登場人物はオーストリア大公暗殺者プリンツイップから取り上げ、ロマンロラン、トーマスマン、トロッキー、ケインズ、サルトル、ボーボワール、メルロポンティ等々、知識人のみならず、政治家軍人、中国人留学生(周恩来など)幅が広い。ケインズは二次大戦の終結(ブレトンウッズ体制)で活躍かと思っていたが、一次大戦の終結にも参画していた。小筆関心のレヴィストロースについては20歳代前半の本人が明らかにしていない政治活動にも筆が及んでいた。


市立図書館で見つけ805頁を一気に読了した。久しぶりに(購入ではないが)手に取る、面白くかつ読むに易しい本である。ヴァリアンフライ、セントルイス号事件について、20世紀歴史での重要な逸話も漏らさず記載されている。可能であれば先立つモノ(英世の7枚)を速やかに用意し購入する。


知識人の「行動」の記録である。
ボーボワールは「医者に診断書をもらって授業(リセ、フェヌロン校)を(ズル=小筆の注)休みして、アルザスの部隊に応召しているサルトルに逢いに行った」とある。交戦状態にありながら、ある村の宿に兵士の名でダブルベッドの予約を入れ兵営を抜け出したサルトルが、ボーボワールとの1週間の逢い引きを重ねていた。こんな事実があったとは。筆者も驚いているが「(サルトルは)戦闘は始まらない、殺戮行為のない現代的な戦争になるだろう」とボーボワールに語ったとある。
宣戦布告から半年の間フランス軍はベルギー国境で(ドイツ軍が怖いから)進軍もせず、戦術(戦車の運用、予備役兵の配置)も固めずひたすら待機するのみだった。市民はこれを「奇妙な戦争drole de guerre」と蔑んでいた。(droleには「笑わせる」的な侮蔑の意味が含まれる。ナンチャッテ戦争がくだけた訳となろう、筆者の解釈です)

サルトルのこの言動を知るのみで仏軍上層部にして、さらに前線の兵士達も「何となく終わるのだろうよ」弛みきった内部事情が分かる。
余談ながら;
小筆は「映画・人間の条件、五味川純平原作」を思い返した。夫梶(仲代達也)に会うべく妻美千子(新珠三千代)は北満国境チチハルの関東軍兵舎を訪れる。兵卒達のうらやみと冷やかしを全身に浴びせられても、二人だけの一夜一露を過ごしたかった。上官の判断で厩の脇、藁の褥で二人は最後の交歓を結んだ。翌早朝から、愛妻を置いて梶は壮絶な銃剣訓練に出る。この時期に関東軍はソ連との交戦が予測されていた。極限を迎える意識の彼我の差はなへんにこれほどデカイのか。

レヴィストロースに関してはベルギー共産党の細胞と連絡を取り、社会党議員の秘書をしていたとある。著書「悲しき熱帯」ではアグレガシオン(教授資格)取得の後、26歳からの話で、この時期20歳代前半の行動は一切触れていない。それ故、貴重な記録であり興味深く読めた。後の(1961年校了)「野生の思考」9章(サルトル批判)では「ヘーゲルマルクス的歴史弁証法=共産主義の教条」を完全に否定している。社会主義と共産主義を分ける唯一点がこの「歴史必然の弁証法」を認めるか否かにあるので、その分岐を理解した上での政治参加であったのだろう。

経緯がよくは分からないが「事実」とされ、わだかまりが残るけれどその事実を受け入れていた事例。この本でそれらの幾つかの経緯が露呈した。例としてサルトルとメルロポンティの決別である。多く書籍で「共産主義に対しての評価の差」には接するが、ポールニザンが絡んでいたとは知らなかった。独ソ不可侵条約(1938年)を批判してニザン(共産党系新聞の編集長)は離党した。コミンテルンはニザンを「裏切り者、警察の犬」と攻撃して、フランス知識人の多くが共産党の罵りを倣った。戦後にニザン遺児がコミュニケを発表し(1947年)、共産党に対して名誉回復を求めた。メルロポンティ、ボーボワール、モーリアックなどがこれに署名、サルトルも同意の論陣を一時期張った。しかし結局、ソ連共産党コミンテルン側の意向「ニザンはスパイ」をサルトルが受け入れた。この決断に同意しないメルロポンティをサルトルは強く批判した(ようだ)。ポンティからの反論の手紙を読むと「君(サルトル)は僕が君でないと批判しているのだ」(743頁)とある。他者を貶める性向をとるサルトル、その悲しみがこの手紙に集約される。なお行動は思考の裏返しであれば、サルトルは共産主義へ傾倒していたワケで、それがCritique de la reaison dialectique弁証法的理性批判に集約されている(はず、小筆は入手していない)。その辺りの注釈は読めなかった。

畢竟、本書はフランス「知識人」の心理、苦しみが主題である。苦しみとは相克、論争、結婚離婚と姦通に愛憎。(フランス人得意の)多夫と多妻。心理とはごまかしおべっか裏切りと殺害の教唆。ゴシップ、スキャンダル、裏話。一言で述ぶれば足の引っ張り合い。まさに「週刊実話」の表紙の書きまとめが本書である。潔くも一語一行も「思想」への言及はない。

レイモンアロンと食事をしたサルトルは彼から「君が現象学者ならこのカクテルコップについて語れるのだ。それが今の哲学なのだ」と指摘を受け、早速フッサール現象学の攻略本を買い込んだ。現象学が実存主義に与えた影響についての一行一句が、しかし、本著では記述されない。
サルトル、メルロポンティ、レヴィストロースと役者を揃えているのであれば60年代の一大事件、野生の思考9章「歴史と弁証法」について解説を述べてほしかった。アカデミーに属する方(東京経済大学で長らく教鞭をとっていたと聞く)には、9章の、ボーボワール(論争ではサルトル代弁者)もサルトルすらも沈黙さしめた、レヴィストロース一流の修辞術の策術絡め文体解釈は(独断を伴うから)難しいと思う。

これだけの分量を書いたと感心する。本書は出版界、本年の偉大著作である。

末尾に;皆様にはご健康にお過ごしかと喜び申し上げます。小筆は7月末の梅雨明け以来、多湿高温の土用陽気に悩まされました。本日(19日)からは高温もおさまると予報に接し、安心しました。皆様の秋の飛躍を祈念します。
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