野生思考と近代思考の図1枚目、左のコラム;
両者の差を語彙の豊かさ、貧しさから判定していた時期があった(らしい。レヴィブリュール20世紀初頭の民族学者、らの時代だったか)。とくに抽象語の多さ少なさで族民の精神発達の度合いを決めていた。頂点に立つのが西欧近代思想とのオチが用意される
抽象語とは様々な個体を統合する語で、カタバミ、ナズナなどの種々を「草」する思考です。草と木を統合すると「植物」となりその上位に「生物」が位置する。統合するとはこれら似かようモノを取りまとめる思考力が必要になるわけで、上位、さらに上位の統合を試みるとは、そうした思考の成熟がなければ不可とする考え。
未開人は個々の草に名称を与えている。その数は西欧の一般人よりも多いかも知れない。しかし「草」なる抽象語を持たない「植物」の語彙もない(小筆には民族誌に不明だから検証できない)。こうした事象は「関心の持ち方」の差であると「百科全書」の一節を引用し、思考能力の差を否定している。
この主張、先住民と文明人とに「考えを進める思考力に差はない」、これが本書「野生の思考」の底流思想として流れている。
右のコラム;
言語と思考を説明している。
自然は断絶など見せずに連続している。それを人は概念を持ち込んで分断する。概念は言葉に表れる。イヌといえばイヌでしかないが、実はこのイヌ世界は人が頭に描いた概念の世界である。ソシュールの意味論の構造性を用い、かつ思考的に大いに発展させて自然、概念、言葉、実態を(本書のそこかしこで)言い表している。その辺りに解説を入れた。
1枚目の伝えかけとは;
1 概念、あるいは思考、思想でも良いが、それは頭に宿り言葉として表現される。その仕組みには先住民と文明人には優位劣位の差別はない。
2 先住民の語彙に抽象語が少ない(事実かどうかは不明)理由は抽象化する必要はないし、使う場面もないから。そんな語を用いると不便になる場合が頻繁に出てくる。
3 Nambikwara族(ブラジルマトグロッソに居住)は毒草の利用に長け、当然個別の語彙も豊富だ。故に「毒草」なる抽象語を持たない。全ての毒草に固有の具体名称が当てられている。父親は「そこに生える「毒草」を採ってくれ」と命じたら、息子は目当てとは別の毒草を持ってくるかも知れない。必ず「生え丈も盛りで吠え猿なんかを鏃一塗りでマイラせる紅トリカブト=Nambikwara語で言ってもチンプンカンプンにしか聞こえないが=を採れ」と命ずる。
余談ながら;
本書の最終章「歴史と弁証法」でレヴィストロースはサルトルの「弁証法的理性批判」への批判を展開した。サルトルは1950~60年代に共産主義に傾き、その歴史観である「唯物弁証法」による歴史解釈を「実存主義」独特の言葉遣いで開陳した。この著で「人の歴史の究極は共産主義経済にあり、人間社会はその途上」であるとした。ここまではよろしかろうが「西欧社会が共産主義に向かう未来は確実で、なぜならこの社会は、未だ発展していない「未開社会」とは異なり、共産化に接近しているから」と述べた。
これにレヴィストロースが(文の調子からしてまさに)噛みついた訳です。
第一章の冒頭に百科全書でのDidrotの言を挿んで、最終章で展開した。この著作で当初からサルトル批判を念頭に置いていたのだ。
第2葉について;
本書中には野生の思考PenseeSauvageなる語は出てこない。sauvageに替わってconcret具体あるいは具体的を用いる。具体思考は近代思考PenseesModernes(複数)に対峙する。実はこの近代思考についての記述は少ないので、小筆は勝手に科学でいえばコペルニクス、哲学ではデカルト以降とした。
具体思考とは何か。
1 モノを通した宇宙観。宇宙はモノで出来ている。
2 モノは形を持つ。形(forme=全体の姿、morphologie=部分の形状)による植物の分類。
3 形状(形以外にも色、生息域、感情、思考などもモノの一部)は本質である。というか本質と属性の区別を持たない(部族民通信の解釈)
4 似通う本質のモノ同士の移動、交流など(魔術magieに通じる)
これに対する近代思考は
1 モノは属性を持つ。
2 属性が似通っても本質が同一に結びつかない。この原理を最初に発見したのはコペルニクスです。天動説は天空の動きを見てのまま、天空が動くと説明した。ここに形状の似通いは本質の同一と決めつける具体科学の考え方が表れている。中世までは西欧もモノを基盤とした具体思考の大陸でした。
3枚目については後日に。続く
両者の差を語彙の豊かさ、貧しさから判定していた時期があった(らしい。レヴィブリュール20世紀初頭の民族学者、らの時代だったか)。とくに抽象語の多さ少なさで族民の精神発達の度合いを決めていた。頂点に立つのが西欧近代思想とのオチが用意される
抽象語とは様々な個体を統合する語で、カタバミ、ナズナなどの種々を「草」する思考です。草と木を統合すると「植物」となりその上位に「生物」が位置する。統合するとはこれら似かようモノを取りまとめる思考力が必要になるわけで、上位、さらに上位の統合を試みるとは、そうした思考の成熟がなければ不可とする考え。
未開人は個々の草に名称を与えている。その数は西欧の一般人よりも多いかも知れない。しかし「草」なる抽象語を持たない「植物」の語彙もない(小筆には民族誌に不明だから検証できない)。こうした事象は「関心の持ち方」の差であると「百科全書」の一節を引用し、思考能力の差を否定している。
この主張、先住民と文明人とに「考えを進める思考力に差はない」、これが本書「野生の思考」の底流思想として流れている。
右のコラム;
言語と思考を説明している。
自然は断絶など見せずに連続している。それを人は概念を持ち込んで分断する。概念は言葉に表れる。イヌといえばイヌでしかないが、実はこのイヌ世界は人が頭に描いた概念の世界である。ソシュールの意味論の構造性を用い、かつ思考的に大いに発展させて自然、概念、言葉、実態を(本書のそこかしこで)言い表している。その辺りに解説を入れた。
1枚目の伝えかけとは;
1 概念、あるいは思考、思想でも良いが、それは頭に宿り言葉として表現される。その仕組みには先住民と文明人には優位劣位の差別はない。
2 先住民の語彙に抽象語が少ない(事実かどうかは不明)理由は抽象化する必要はないし、使う場面もないから。そんな語を用いると不便になる場合が頻繁に出てくる。
3 Nambikwara族(ブラジルマトグロッソに居住)は毒草の利用に長け、当然個別の語彙も豊富だ。故に「毒草」なる抽象語を持たない。全ての毒草に固有の具体名称が当てられている。父親は「そこに生える「毒草」を採ってくれ」と命じたら、息子は目当てとは別の毒草を持ってくるかも知れない。必ず「生え丈も盛りで吠え猿なんかを鏃一塗りでマイラせる紅トリカブト=Nambikwara語で言ってもチンプンカンプンにしか聞こえないが=を採れ」と命ずる。
余談ながら;
本書の最終章「歴史と弁証法」でレヴィストロースはサルトルの「弁証法的理性批判」への批判を展開した。サルトルは1950~60年代に共産主義に傾き、その歴史観である「唯物弁証法」による歴史解釈を「実存主義」独特の言葉遣いで開陳した。この著で「人の歴史の究極は共産主義経済にあり、人間社会はその途上」であるとした。ここまではよろしかろうが「西欧社会が共産主義に向かう未来は確実で、なぜならこの社会は、未だ発展していない「未開社会」とは異なり、共産化に接近しているから」と述べた。
これにレヴィストロースが(文の調子からしてまさに)噛みついた訳です。
第一章の冒頭に百科全書でのDidrotの言を挿んで、最終章で展開した。この著作で当初からサルトル批判を念頭に置いていたのだ。
第2葉について;
本書中には野生の思考PenseeSauvageなる語は出てこない。sauvageに替わってconcret具体あるいは具体的を用いる。具体思考は近代思考PenseesModernes(複数)に対峙する。実はこの近代思考についての記述は少ないので、小筆は勝手に科学でいえばコペルニクス、哲学ではデカルト以降とした。
具体思考とは何か。
1 モノを通した宇宙観。宇宙はモノで出来ている。
2 モノは形を持つ。形(forme=全体の姿、morphologie=部分の形状)による植物の分類。
3 形状(形以外にも色、生息域、感情、思考などもモノの一部)は本質である。というか本質と属性の区別を持たない(部族民通信の解釈)
4 似通う本質のモノ同士の移動、交流など(魔術magieに通じる)
これに対する近代思考は
1 モノは属性を持つ。
2 属性が似通っても本質が同一に結びつかない。この原理を最初に発見したのはコペルニクスです。天動説は天空の動きを見てのまま、天空が動くと説明した。ここに形状の似通いは本質の同一と決めつける具体科学の考え方が表れている。中世までは西欧もモノを基盤とした具体思考の大陸でした。
3枚目については後日に。続く