蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ヘーゲル精神現象学紹介 導入章の1 Youtubeに投稿案内

2024年09月30日 | 小説
(2024年9月30日) 主題動画を本日Youtubeに投稿案内しました。前回(9月26日)はの前文に続いて章の本文に入ります。

2024年10月学期の投稿第一陣はヘーゲルの精神現象学紹介の第二回です。ドイツ語の原典をフランス語に翻訳したHyppolite版(1939年Aubier社刊)を元本に採り上げています。前回(9月26日)ではIntroduction導入章の主旨(現象、絶対、弁証法など)を説明いたしました。今回は精神特に認識と悟性を分析します。そもそもの認識は自己を律し、他者に惑わされないモノそのもの(la chose même )の性状であります。思考活動に入ると(考え始める)現象の野を形成します。そこにモノの概念やら悟性の介入が始まり、弁証法が進行する。なぜ弁証法なのか、悟性は検査対象を必ず「否定する」から、なぜなら現象であるから、現象の下での弁証法では真理にたどり着かない。


動画のサムネ


Youtube動画リンク https://youtu.be/r1XfTUO7ohA

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ヘーゲル精神現象学のYoutube案内

2024年09月26日 | 小説
部族民通信Youtube人類学講座、2024年10月~25年7月学期の開校を案内します。初日(9月26日)の演題はヘーゲル著の精神現象学となります。J. Hyppolite仏語訳。Gooグログに「ヘーゲル精神現象学の紹介」の表題で2024年8月14日予告から9月16日の第10回まで11の短文を投稿。そのYoutube版となります。

Youtube動画リンク  https://youtu.be/5JzC6p1e9B4 (Google Youtube の検索窓に複写)

これまで部族民のYoutube はレヴィストロース著作を紹介しておりましたが、本年7月に神話学第4巻「裸の男」の了にあたり、今学期は目先を変え哲学に挑戦いたします。本書はこれまで幾人かの哲学泰斗に(ドイツ語から)翻訳されています。今更の感を皆様抱くかと心配します。しかし原典に採り上げたのはHyppolite訳のフランス語版、書名は « La phénoménologie de l’esprit » (Aubier社、1939年刊)。仏語版の紹介には、確かに価値があると、これまでの訳本に目を通し比較し、確認しました。


本動画の挿画、絶対値の追求ヘーゲル哲学の原典


本書著者Hyppoliteは兄弟本にあたる « La genèse et structure … » も書き下ろしています。こちらは邦訳が刊行されています。しかし元本に当たる当該作品は翻訳が見当たりません。更に、訳者Hyppoliteの脚注が絶妙でして、部族民(蕃神ハカミ)が意味がつかめず立ち止まる行句に、多くの場合、脚注に行き当たり、解釈に助かりました。ドイツ語からの翻訳本と比べ、Hyppolite解釈を表に出せるだけでも、当方には至らなさも満杯ながら、皆様に紹介する労苦も労われるかと勝手に思っています。
導入章Introduction12頁を5回の投稿予定です。初回はヘーゲル思想の根幹、「思考作用とは現象」「現象である限り実質、真理にたどり着かない」「現象の野では悟性が経験=作用反作用、統合=の弁証法を展開する。幾回かの段階を経て(実質らしきモノ)を獲得する」本書700頁の訴えかけを紹介いたします。

(ブログ原稿は蕃神が書き下ろした。Youtube露出を避ける事情から動画は渡来部が担当いたします)


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NHK終焉 顛末を仔細に書くぜ

2024年09月19日 | 小説
オレ、渡来部とは顔見知りで部族民のブログを時々開ける。大したこと書いてない。でも言いたいのはそんな些末じゃなく、NHK国際放送の尖閣発言に憤ってある行動を取った。NHK契約を打ち切った。

1 Biglobeの契約からひかりTVだけを除外した
2 本日(19日)光が入らなくなった。テレビ画面の画像
3 NHK解約窓口に電話した。ウチの東京側(発信局)がある方向の小高い丘、七生丘陵があって電波を邪魔してる。ウチの状況はでっかいアンテナを立てるか光配信しかテレビ見れない。見えない状況だがチューナーテレビは使い続ける。
4 これバレたら3倍返しの請求が来るの?案内嬢(声からするとおばさん)そういうアコギなこと、例えると泥水を配水して請求する水道局(どっかの国の)みたいなマネしない。
5 オレ安心した
以上がNHK終了の顛末。



Biglobeからの案内、配信一止めは9月19日

8月までの請求内訳。NHKと光の打ち切りで月1850円が節約になる。2ヶ月でうな丼食える。

証拠写真。ちなみのオレの手計算でこの地で地デジみるには80メートルのアンテナを(オレが立てるか)NHKが3800メートルの発信タワーを立てるしかない。丘陵ににへばりついている家だ。


(投稿依頼は友人のK氏から。原文のママにしてくれで、断ろうかと思ったがオレもNHK国際放送の顛末には不満なので、やだけどノッケた。渡来部 2014年9月19日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 10 最終

2024年09月16日 | 小説
(2024年9月16日)« Ce mouvement dialectique que la conscience exerce en elle-même, en son savoir aussi bien qu'en son objet, en tant que devant elle le nouvel objet vrai en jaillit, est proprement ce qu'on nomme expérience* » (76頁)
悟性がかく活動し、あわせて知も対象も活動に連れ変化していく。悟性の前に新たな対象が、これら活動から湧き出る。これを経験と言う.
Hyppolite:*L'expérience et la dialectique se trouvent identifiées. ここに弁証法と経験が特定できた。
部族民:きっかけを節目moment、作用反作用そして統合を経験expérienceと言う。経験を経て節目の終了、すると新たな対象が湧き上がる。ヘーゲル弁証法。

結語(12頁の導入章の最終頁。多くはこれまでの引用で語られているが、ヘーゲル先生はともかく念をいれる) « L'expérience que la conscience fait de soi ne peut, selon le concept de l 'expérience même, comprendre rien de moins en elle que le système total de la conscience ou le royaume total de la vérité de l’esprit ; cependant, les moments de la vérité s'y présentent dans cette déterminabilité particulière : ils ne sont pas des moments abstraits et purs, mais ils sont comme ils sont pour la conscience, ou comme cette conscience surgit dans son rapport à eux. C'est pourquoi les moments du tout sont des figures de la conscience* » (77頁)
悟性自らが演じる経験、その経験は、悟性の体系、あるいは精神の真理の全体王国を、経験概念の仕組みにより、理解するまで至るところはない。しかしながら、個別の段階での決定能力の中に、いくつもの真実の節目(弁証法の真の段階)は現れている。それらは抽象的、純粋な節目ではない。悟性に訴えかける節目、あるいは節目との連携でこの悟性が湧き上がるかの節目である。これをして節目の流れの全ては、悟性の具現といえる。
Hyppolite:*Distinction de la Phénoménologie et de la Logique.現象学の論理学からの区別。
部族民:節目の場で判定する能力がdéterminabilité、その節目での能力がparticulière、個別的判断能力。悟性が節目で決定する機会を体験しても、精神の真理にはたどり着かない。しかし節目の真理はあって、それは経験を重ねる。次文で弁証法の理性活動の根拠は本文最終節に説明される。
1悟性の形態、悟性概念の弁証法経験(作用反作用の節目)での活動 2しかしこの節目の場に異質物が混入し、真理と離れている概念が現象の野に形成されてしまう 3決定能(déterminabilité)悟性は作用反作用統合を思考作用にかける。
 
« En se poussant vers son existence vraie, la conscience atteindra un point où elle se libérera de l’apparence, l’apparence d'être entachée de quelque chose d'étranger qui est seulement pour elle et comme un autre ; elle atteindra ainsi le point où le phénomène devient égal à l'essence, où, en conséquence, la présentation de l'expérience coïncide avec la science authentique de l’esprit ; finalement, quand la conscience saisira cette essence qui lui est propre, elle désignera la nature du savoir absolu lui-même » (同)
それら節目とは悟性は形態(Figures)に他ならない。悟性は節目を通して、何やら馴染まないものの混じる外貌、悟性と知にまとわりつく外貌を脱ぎ捨て、ある一点、己の存在の真実をかちとる点、に到達する。現象が実質(Essence)に同等となる点である。この流れにおいて(弁証法の)経緯(Expérience)が精神の正統なる理性(Science)と一致する。最終的に悟性はこの、己にふさわしい実質を具有するとなり、絶対知savoir absoluを取り込む事となる。


精神は現象を克服し、真理に到達する


部族民:現象論の要は悟性、しかし現象の中であるが故、真実は捉えられない、対象を現象の舞台に持ち込む知は、それ自身の基準を持ち、その基準が対象に投影される。モノの実質とは離れてしまう。この知と対象(現象)の錯誤から悟性は対象の真実を捉えられない。節目に望む検査では異なる2の基準がすり合わされ、結果、作用と反作用を生む。
最後の最後: « finalement, quand la conscience saisira cette essence qui lui est propre, elle désignera la nature du savoir absolu lui-même* » (同、最終行) 最終に悟性が本来は自身のものである実質を獲得し、知の本性も絶対知に引き上げる。
Hyppolite:Cette introduction démontre l'immanence de la science à l'expérience. 本章は経験においての悟性の内在(優位)を証明する。
部族民:経験でない理性だl'immanence de la science à l'expérience=上文、ここに真理に至る道が成立する。
(これまでさんざ、真理を掴めないと理性腐しに熱を上げていたオレ部族民は、最後にヘーゲルにウッチャられた。ヘーゲルは狡猾、Hyppoliteは「理性の経験への内在、優位」なんて持ち上げているが、これも完璧です。12ページの要約における悟性理性知、現象の野のからくり、弁証法など個別を700ページ渡って詳細記述した力作が本書です。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 了 (9月16日) 
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 9

2024年09月14日 | 小説
(2024年9月14日)文節は続く « ces deux présentations coïncident ; mais l 'essentiel est de retenir fermement pendant toute la recherche ce fait que les deux moments, concept et objet, être-pour-un-autre et être-en-soi, tombent eux-mêmes à l 'intérieur du savoir que nous étudions, et donc que nous n 'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche ; c'est, au contraire, en les écartant que nous aboutirons à considérer la chose comme elle est en soi et pour soi-même » (74頁)
2つの説明(概念が先かモノが先か)は一致する。しかし重要なのはこれら調査において、概念と対象の両の(弁証法としての)節目moment、言い換えれば他者に向ける概念(思想として他者を考える)と対象(モノ、実質、自身を律する)のいずれもが、知の内部に入り込む関心を持ち続けるであることである(脇にいては真実を覚知できない)。そうなれば我々(理性)は調査に当たり、己の基準を持ち込むことも、個人的思考を使い回すことも必要がない。それら(基準、個人思考すなわち現象)を避けながら、律自であり覚自でもモノを思考するに到る。

Hyppolite:Le savoir phénoménal ayant en lui l'opposition du sujet et de l 'objet, de
la certitude et de la vérité, peut procéder lui-même à son propre examen, et cet examen se nomme expérience. On notera la réversibilité des termes de l'opposition (concept et objet).
現象の知は主体と対象、すなわち確実性と真理の対立を抱えている。よって自身内部で節目を検査できる。この検査を経験と呼ぶ(弁証法の一の節目がこれで終わる)。概念と対象の対立と上記対立(確実と真理)は裏表の対立、これを私は注目したい。

部族民:ヘーゲルの引用文は唯物弁証法を予告する一文と捉える。
知の内部に objet対象、モノすなわち実質は入り込まない。なぜなら知は現象の知で、対象はモノであるから、入り込むのは対象の概念(現象)である。現象の野での節目は真実に至らない。真実の弁証法とはモノとモノの対峙であって、それを上文で語っている。「être-pour-un-autre」とは他者を見つめる存在、「être-en-soiは自律する存在」。いずれもモノで、これらが知をとおして知の内側に入り込めば、理性は思考(現象)を駆動する要が消える。
その意味は人精神に現象の野が消える、知が絶対であれば理性の働きは必要なく、モノとモノ、見つめる存在と自律する存在の弁証法が展開する。人(理性)ただ観察するのみである。モノの弁証法が真の(唯物)弁証法である。しかしこれは実現しない絶対知の節目を語っている(部族民の解釈、ヘーゲルがこの一文で「観念の弁証法の外に唯物弁証法があると」予告し、マルクスに引き継がれたーと想像するのは楽しい)。


精神現象は外部のモノ宇宙を理解する方便、しかしモノの真理を掴めない

ヘーゲル精神現象学の主題を逆手に取ってモノ宇宙の真理を探ったマルクス

真実のモノは現象知の脇(外)に居残る。これは実現しないから、こうした状況を表す場合は仮定法を用いる(原文は直説法)はずとの指摘には、真理、実質は存在するがヒトの現象能(理性)は真理の高みにたどり着けない、故に動詞活用は直接法が正しいと答えたい。
こんな論文をネットで見つけた「ヘーゲルにとっては、彼が理念(Idee) という名称を付し てひとつの自立的主体に転化さえした思考過程(Denkprozeß ) が現実の形成者(Demiurg ) であって、それがまさに自分の外的現象を形成するのである。私にあっては反対に理念的 なもの(観念的なもの das Ideelle)は、人間の頭のなかで転換され、翻訳された物質的 なもの( das Materielle )にほかならない。」神秘的に見えるヘーゲル的「理念」が実は、物質的なものからの何らかの転化物であり、その反映であるにすぎない。マルクスによるヘーゲル哲学批判の再読 島崎 隆(ドイツ哲学、一橋大名誉教授)
「転換され、翻訳された」マルクスの言葉はまさに精神現象学の主題「現象」を語る。精神を選んだヘーゲルに対してマルクスはモノ世界(経済、歴史)を選んだ。

悟性の分析: « la conscience est d'un côté conscience de l 'objet, d'un autre côté conscience de soi-même : elle est conscience de ce qui lui est le vrai et conscience de son savoir de cette vérité. Puisque tous les deux sont pour elle, elle est elle-même leur comparaison » (同)
悟性は言ってみれば、対象あっての悟性であり、別の言い方では悟性のための悟性である。悟性は己に真実であるところの悟性であって、この真実を知る知の悟性である。なぜなら二通りの(悟性のあり方)は悟性のためであり、悟性はそれ自身で2通りを比較する。
部族民:真理は対象(モノ)、モノ世界に宿り、現象の精神世界にはない。現象の野には悟性と知が動く。部族民はこの理解で勧めているがHyppoliteは悟性の中にモノ対象が宿るとしている。

« Quand la conscience trouve donc dans son objet que son savoir ne correspond pas à cet objet, l 'objet non plus ne résiste pas ; ou la mesure de l'examen se change si ce dont elle devait être la mesure ne subsiste pas au cours de l 'examen ; et l'examen n 'est pas seulement un examen du savoir, mais aussi un examen de son unité de mesure* » (75頁)
悟性が対象を検分して(彼にもたらされた)知とこの対象が一致しないと、対象もそのままで落ち着くわけではない。あるいは検査の基準にしても、基準を形成した事情も変わるから、そのままではいない。検査とは知の一回だけの検査ではない、基準の総体の検査であろう。

Hyppolite : * Un savoir déterminé de la conscience constitue une totalité concrète ; si l'examen montre une disparité entre les deux moments, les deux moments changent en même temps, et la conscience, qui a fait une expérience, est conduite à une autre forme de savoir.
悟性と交信する知はしっかりした総体を形作る。対象の検査が前後の節目で異なるとしたら、両の節目が変わった訳で、悟性は、一度の経験(概念と基準の不整合)の後、知のあり方をも変える。
部族民:美に例えると悟性が抱く美と対象の美が噛み合わないのは、現象の仕組みからして必然。対象の美が変化することも(認識の内対象の美、実際のモノから知の概念に、すなわち非実際に変化している)、認識が抱く美の基準も変化する。曖昧さの全ては精神の内側での現象であるから。
わかりやすく美を例に;沢口やす子嬢はモノで、自身に美を具有しているから真理である。知が彼女を認め認識(現象の野)に映し出す。しかしそこでは美の概念(現象)となってしまう。もともとの美の概念は理性から悟性が引き継いでいる。現象であるやす子様美と己が元々持つ概念の美を悟性が比較する。かならず噛み合わない、理由は現象におで子とかカス子が侵入するから、(コイツラは美でない)反作用で撥ねられる。絶対美はこの検査の外に(確かに)存在するから幾度かの節目(moment)で経験(expérience)を積み上げ、いずれかに真理に達する。

やはりHyppolite解釈(悟性と知の交流)と部族民(現象の知はモノを持ってこない)は違う、いずれが正かは皆様のご判断で。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 9 了 (9月14日)

次回(9月16日予)が最終です。接近者が増えているからオレ(蕃神)も機嫌いいぜ。「Hyppoliteのヘーゲル」、最終回を楽しみにしてね~
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 8

2024年09月11日 | 小説
(2024 年9月11日) « il semble alors que nous recherchons ce qu'il est en soi. Mais, dans cette recherche, le savoir est notre objet, il est pour nous ; et l 'en-soi du savoir, comme il en résulterait, serait ainsi plutôt son être pour-nous ; ce que nous affirmerions comme son essence, ce ne serait pas sa vérité, mais seulement notre savoir de lui. L 'essence ou la mesure tomberaient en nous, et ce qui devrait être comparé à la mesure, ce sur quoi une décision devrait être prise à la suite de cette comparaison, ne serait pas nécessairement tenu de reconnaître la mesure* » (73頁)
(Savoir知を論じる)知は律自で、その中身を探る試みに我々(理性と解釈する、部族民)が取り組むことになる。この流れで知は我々(理性とする、以下)の対象に変化する。律自である知は、その仕組みから、中身を理性に向けると言えよう。それを実質かと断定しようにも、知の真実ではないとしか言えない。理性が覚知できる単なる知である。理性は、知の実質もその基準も手の内に収める事ができ、それを理念(理性の基準)と対照できる。対照の後には何らかの決定に向かうが、それが理念を再認知するためでもない。
Hyppolite : il y a un en-soi du savoir phénoménal qui est sa vérité, mais cette vérité n 'est pas pour ce savoir et il n'est pas tenu alors de la reconnaître. C’est pourquoi le savoir phénoménal doit s’éprouver lui-même sans que nous intervenions. Nous devons être le spectateur de sa propre expérience. 現象の知に律自が宿り、それが知の真実である(かに見える)。しかしこの真実は、その知(現象知)をして、自らの真実を確認するための用意を与えるものではない。現象知は理性の介入なしに、自らを律する要に迫られる。知本来の経験(弁証法での段階成就)の振る舞いを、理性は確認する事となる。
部族民:知が律自であるとは、知は他者に視界を回さない。知は概念であり、その中身を理性に向ける。あるいは影が現象の野に映る。その影にしても知そのものではない、知の概念です。
« Mais la nature de l 'objet que nous examinons outrepasse cette séparation ou cette apparence de séparation et de présupposition. La conscience donne sa propre mesure en elle-même, et la recherche sera, de ce fait, une comparaison de la conscience avec elle-même ; car la distinction faite plus haut tombe en elle. Il y a en elle un pour un autre, où elle a en général la déterminabilité du moment du savoir en elle. En même temps, cet autre ne lui n’est pas seulement pour elle, mais il est aussi à l 'extérieur de ce rapport ou en soi, le moment de la vérité » (73頁)
しかし性質上、対象はこの分断状況(前文、現象の知と真実の知の差)、あるいは分断されている様相、前提としてのこの分断を、すり抜ける(現象の野に躍り出る)。悟性は己が本来として抱く基準を、この分断の相に投影する。この調査は、こうした状況のもと、悟性自身と分断との比較となる。なぜなら、より高い地点(理性)での分別(知の真実と現象)が悟性に渡されているから。悟性の内には他者に向いている一この能が潜む。その作用で知の節目を決めつけ、その機会での決定力(作用反作用の取り組み)を自己の内で取りまとめる。同時に、一の能(前述)は知を指ししめて、悟性のためのみではない。この関係(悟性と知、その外の律自)の存在にも向けられている、そこに真実の節目を垣間見る。
(オレ部族民、上の引用の文意含蓄の深淵に打たれる、この一文が本書の珠玉、天才ヘーゲルの天啓と感じる。代名詞の性と冠詞の定、不定を注意深く読み取って上訳に漕ぎ着いた)
部族民:悟性(考える力entendement)内の「un pour un autre、他者に向かう一つの能力」を覚自性と理解する。悟性は目を自己の外に向ける。そして節目機会の決定を司る。真理の相貌を知が捉え、悟性が真理に到達するには、知と対象の関係がすでに分断している、知と悟性の関係の脇に真実が隠れる、これに気付いた瞬間となる(オレ知、ヤベー、オレの持つこの概念は真実でない、外側に見えたあの知が真実なのだと気づく刹那)。ただし真理の節目moment de la véritéの意味合いは、それが弁証法として経緯する知と悟性のやり取りの外側の律自なので、知も悟性も「真理には到達しない」を知る節目でもある。ヤベーと知っても知は無力。
悟性のun pour un autre他者に向ける視線とは。沢口やす子嬢にお出ましを願う。手下の知が幾度かしくじってやせ子とかおで子なんかの写真を持ち込んだ。オレ本来の概念と合わせて(検査)不調だった。その度におで子なんかを跳ね除けた(déterminabilité)。これが可能なのはオレにun pour un autreが備わるから。こうした節目を経験しても真実には決して至らない、真実はこの作業(弁証法)の外à côté脇に座っているとは、今のオレは知らない。
« Nommons-nous le savoir le concept, nommons-nous, d 'autre part, l'essence ou le vrai l'étant ou l'objet, l'examen consiste alors à voir si le concept correspond à l’objet ; si, au contraire, nous nommons l'essence ou l'en-soi de l'objet le concept, et si nous entendons par contre par
l'objet lui comme objet, c'est-à-dire comme il est pour un autre, l 'examen consiste alors à voir si l'objet correspond à son concept » (74頁)
知を概念と呼ぼう。実質あるいは真理を、存在ないし対象と呼ぼう。よって(弁証法の)検査は概念が対象と合致するかを見るのだ。この反対で、実質あるいは対象の律自性を、概念と呼ぶ、すると対象を通して概念が対象と合致となるかを判断する。これが意味するところとは、対象は別のなにかに向けられる、検査は対象が概念と合致するかとなる。


部族民:概念が先か、モノが先か。


上文は「概念concept」の定義についての省察。弁証法ではモノ、実体は検査に組み入れない。概念を取りざたする。前半部では知が概念を形成する、それに対抗する実質を対象、存在とする。知が形成した概念を(そこに見える現象としての)対象に当てはめる。これはカント的で分かりやすい。これまでの解説もこの思想を元としている。しかしヘーゲルは逆も提示する。実質を概念とする。これは対象モノにはすでに概念が含まれると解釈する。知の作業とは対象が抱える概念を引き出して、その対象に合うのかーの検証となる。このままでは分かりにくい。そこで対象を存在、概念を思想と言い換えよう。存在は思想を宿す、その思想を経験するのが知である。後世の実存主義の主張となる。
この実存のくだりを申したくこの段を採り上げた。サルトルもこの一節を読み下したのではないかと想像する(本書は1939年、サルトル初の著は1946年)。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 8 了 (9月11日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 7

2024年09月09日 | 小説
4 精神現象と弁証法、真理追求の不能
(2024年9月9日) « il peut être encore utile de mentionner quelque chose sur la méthode du développement. Cette exposition est présentée comme un comportement de la science à
l 'égard du savoir phénoménal, et comme recherche et examen de la réalité de la connaissance ; mais elle ne paraît pas pouvoir avoir lieu sans une certaine présupposition, qui comme unité de mesure serait établie à la base » (72頁)
改めてこの発展の仕組みを語ろう。それは「現象の知」に関わる理性scienceの対処となる。認識は実在するのか否かの調査、吟味とも言える。認識がこの(現象法の)発展に出露する前提とは、根底として基準の組合せが備わる場合に限られる。
部族民:前引用(前回6日)は概念を検査する際の陥穽、言うなれば弁証法の欠点。次の文節となるこの引用では、精神側の現象の仕組みに入る。「この発展」とは理性の知への取り組みかた。
精神の根底は理性science(カントの先験に同じ)、理性が生成する能力を(考える力entendementの)悟性が真理を概念として創生する、これを基準mesureとする。両の基準が揃って、認識が実際化する、いわば現象の野が形成される。


精神現象を担保する理性活動をまとめた


現象の知とある、そもそも知は現象なので言い改めるべくもないが、絶対知savoir absoluに対比させている。現象とはあやふや、真理には遠いとの意義が加わると強調する。現象知はモノを概念化して認識に持ち込む、ここで2の基準が揃う。自己(悟性)の範囲(基準)と実際(モノ概念)をすり合わせ、(そもそも整合しないから)否定して、弁証法の過程(発展)を実践してゆく、この辺りを記した文。
理性scienceと認識connaissanceは組になって先験(カント)の働きを努める。優先は理性で認識を駆動し、現象の場(milieu)で弁証法を形成する。本文の冒頭で認識connaissanceは道具として、ないし舞台として弁証法で働くとした。本引用では認識を「野milieu」としたい。
前の引用文とこの解釈を重ねて、引用文の主題、弁証法の発展を語ろう;1まず理性の基準(理念といえるか)の自己形成、悟性への理念の引き渡し、2悟性は衝撃impulsionを受け基準を生成する、3悟性が認識の野=現象の舞台に登場、対象の検査(概念基準のすり合わせ)、4その不調、対象との差異を自己認識する、これで5節目momentでの経験expérienceが一旦終了―この仕組みの繰り返しが発展だーとヘーゲル先生が明らかにした。
それら現象運動の理性的担保として:1理性の判断(理念の形成)、2悟性による基準の表現、3知の律自、悟性の覚自 4知による対象の概念化 5必ず否定するその仕組 (概念は絶対がない) 5悟性déterminabilité決定能力=後述。 
上文に続いて弁証法個々の過程の仕組み、まずは検査examenとは…
« l'examen consiste en l'application à la chose à examiner d'une certaine mesure pour décider, d'après l 'égalité ou l'inégalité résultante, si la chose est juste ou non ; et la mesure en général, et aussi bien la science, si elle était cette mesure, sont acceptées alors comme l'essence ou comme l 'en-soi. Mais ici, où la science surgit seulement, ni elle-même ni quoi que ce soit ne se justifie comme l 'essence ou comme l'en-soi ; et sans quelque chose de tel, aucun examen ne paraît pouvoir avoir lieu* » (72頁)
検査とは検査対象に一つの基準を当て判断する。整合するか不整合かの結果に分かれ、そのモノの正、不当が決まる。一般としての基準、言うなれば理性についてだが、理性と基準(理念)が合致するとすれば、一般的にそれらは実質または律自であるはずだ。しかし理性はただ野(現象)に現れるのみで、ともに現れるなにかのモノ(悟性の基準)は実体として、また律自として規定されない。このなにか(理性と基準の合致)が欠けていると、いかなる検査も実現しない。
Hyppolite:*Le problème critique paraît se reposer ; Il s'agit en effet d'examiner le savoir phénoménal, en le comparant à la Science, mais la Science qui apparaît seulement ne saurait être ici posée comme l’essence. 重要な問題がここに潜む。それは現象的(実在でない)知(がもたらす対象)を、理性との関わり合いで「検査」に進む事に関する。理性は、ただこの場に現れるのみで(現象)、実質として記されていない。
部族民:弁証法の検査の過程で(部族民は)先のページで「基準mesure」を当てるとした。実はその前に理性の基準との関連が横たわる(基準の語はすでに悟性に当てているから、理性のmesureには理念としたい)。Hyppolite指摘は理性それ自体が実体ではない。故に検査は、常に、成就しない。検査を終えても、検査自体がそもそも不調なので結果は不整合である。これが重要問題と仕組みの不備を語る。
悟性に引き継がれる前の理性が創出する理念(カント流に言うと先験から考える力に引き継ぐ過程)、は実質でない。実質でない理念が悟性に渡され基準となって、これまた現象でしかないモノ概念を判定する。いわば「標準原器」が存在しない見比べである。
弁証法の判断、検査に纏い付く、現象の根本欠陥をヘーゲルが指摘し、Hyppoliteが上塗りしている。基盤の脆弱と目的達成の不能、弁証法を手段にして真理追求に挑むヒト精神の未熟をヘーゲルが教える。
次文で悟性に進む;  
« La conscience distingue précisément de soi quelque chose à quoi, en même temps, elle se rapporte ; comme on l 'exprime encore : ce quelque chose est quelque chose pour la conscience ; et le côté déterminé de ce processus de rapporter, ou de l’être de quelque chose pour une conscience est le savoir. Mais de cet être pour un autre nous distinguons l’être-en-soi ; ce qui est rapporté au savoir est aussi bien distinct de lui et posé comme étant aussi à
l'extérieur de ce rapport. Le côté de cet en-soi est dit vérité* » (72頁)
悟性は、何かに向けられる「何か」と、己自身とを峻別する。同時に己の中でそれらは交流する。ここを深く語ろう;この何かとは悟性のための何かである。予め決められている交流する過程の側面、言い換えると、悟性に何けられる何かの実体、それは知である。しかるに、我々(理性)は、他のなにか(悟性)に向けられるこの存在(知)と、自分を律する自身l’être-en-soiを区別している、そして、知に交流するモノは知とは区別され、この交流の外側に置かれる。この「律自」の側面(外側)は「真理とされるdit vérité」 となる。
部族民:この文にはヘーゲル流の修辞とHyppoliteの正確な翻訳が盛り込まれている。何かに向けられる、これは知、何かはモノ。言い換えると悟性は、モノを識別する知と、己を峻別する。自分を律する自身l’être-en-soiとは実体のモノ、知に概念化されていない真実とされるモノdit vérité、これらの関係を図式化している文です。「真実とされるモノdit vérité」の言い回しは奇妙だが、ヒトは真実を見抜けないから、実体のモノは真実らしいとの伝えかけと理解する。
単純化する。悟性には思考が具わる(基準mesure)。知は悟性に、某かのモノの概念を「ホイヨ」と差し出し、悟性は己の基準と見比べる(交流)。交流はするが融合しない。こうした外部現象に巻き込まれない律自(en-soi)とは真理のモノで、それは知の側面(外側)に位置する。易しく書かないのがヘーゲル修辞法です。Hyppolite訳は難しさをそのままに(仏独、両の言語を操るフランス知識層からは)より難しくしているとも(ネット情報)。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 7 了 (9月9日)

後記:本日9日には蕃神の特に近い者の命日にあり、指板を叩く指がしばし止まりました。私事で失礼しました。
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 6

2024年09月06日 | 小説
(2024年9月6日)« Au savoir, le but est fixé aussi nécessairement que la série de la progression. Il est là où le savoir n'a pas besoin d'aller au-delà de soi-même, où il se trouve soi-même et où le concept correspond à l'objet, l'objet au concept » (71頁)
知(savoir、知ること)を語ろう。その目的は確立している、知の進展のつながり様が決まっていると同様である。知は己の範囲を超える必要は無い。己の範囲で概念が対象に、対象が概念に合致する。
続く文は; « La progression vers ce but est donc aussi sans halte possible et ne se satisfait d'aucune station antérieure » この目的に休みなく突き進む進展には、前の段階の(検査結果に)いかなる満足も感じない。
部族民:前引用で悟性と対象objetが対峙(ヘーゲルはこの瞬間をmoment節目とする=後述)する弁証法の段取りを記した。知が外部の対象を認識に持ち込む、知るとは対象を概念化する思考で(対象の本来はモノ、実在)、対象は実体から離れてしまう。知において対象とその概念は常に合致する(そのように活動するから)。よって知は自身を超える(au-delà)冒険は必要がない。しかるに前段階に満足することのない発展を試みるーとしている。知の発展とつながり、目的には具体的な言及はない。

« la conscience est pour soi-même son propre concept, elle est donc immédiatement l 'acte
d 'outrepasser le limité, et quand ce limité lui appartient, l 'acte de s'outrepasser soi-même*. Avec l 'existence singulière, l'au-delà est en même temps posé dans la conscience, serait-ce encore seulement comme dans l 'intuition spatiale, à côté du limité. La conscience subit donc cette violence venant d'elle-même » (同)
悟性は、自身に向いている(pour soi-même)に加え、その本来は概念そのものである(知は概念ではない、概念を創生する思考)。故に限界を知り、それを越える試みに入る。これは自身を越える行為(概念を変えるのだから)となる。この個別の存在(悟性)には、外部が設定されている。それは空間的直感だろう、己の限界の脇にそれがあると知る悟性は、自身の内からの衝撃を受ける。

Hyppolite : *Le vivant singulier n 'est pas le « genre » pour soi, ce qu'est au contraire la conscience. 生ける個体は己を認識の対象としていない。この点が悟性(概念を持ち自覚しそれを乗り越える)との差異である。(Hyppoliteのこの脚注の理解できない。皆様からの批判を乞う。部族民)
部族民:この文はヒト精神に、弁証法が如何にして湧き上がり、突き進むかを、悟性の性状から説明している。前回、節目ごとに「形を変える」悟性の紹介があった。その仕組を「悟性は己を知る、故に己の限界を知り、そこを超える」と説明する。限界を知り限界を超えるとはー(前文の)形を変えることの言い換えです。悟性は己の概念を変えるーここで注目するのは、概念を変えるのは悟性のみ。知が持ち込んだモノの概念は変わらない。その仕組について、知は己の外au-delàに向かわないと、前段で言っている。
弁証法とは作用反作用の繰り返しだが、作用も反作用も悟性の一人芝居であると理解できる。

以上を分かりやすく説明:オレ悟性は美の絶対を追求している。手下の知に沢口やす子嬢のブロマイドをもってこいと命じた。「ヨウガス、ホイこれ~!」で差し出された写真を見つめる。何かが合わない。そこで自分の限界を超して(妥協して、変化して)「団子鼻でも我慢するか」もう一度「別の写真を出してくれ」「ほいきた、こっちだ」それでも合わない。なんか痩せぎす、貧相だね。やす子嬢はこれほどにも劣化かと、泣きながら写真をひっくり返すと沢口ヤセ子だった。
悟性がいくら頑張っても低脳なる知とコンビ(entendement考える力)を組んだら、精神現象の野で弁証法が廻せない。
用語の整理。L’en-soiとpour-soi(ヘーゲル的)意味を定める:l'en-soiは即自が定訳。ここでは「律自」と訳す。自己を律し他者との関心を持たない自己、知がこれに当たる。前引用でのau-delàはl’en-soi律自を囲む外側の律界、知は外側律とは相互作用を起こさない。Pour-soiは自身を覚知している存在、覚自と訳す(定訳は対自)。自身を知るとは他者を知ると同意義。故に自他の境界を知る、自己の領域がlimité境界、その内に収納する基準はmesure。悟性の基準と対象の概念が合わないから、己の境界を乗り越えようと悟性が試みる。前述ではこれを « la conscience naturelle qui subit une impulsion » (69頁) (まだ弁証法に進んでいない自然野)悟性は衝撃を受けるー弁証法の発動を説明している。


スライドは再掲。要素の性状と現象、弁証法の仕組み、それだけを本書は語る。

上引用は知と悟性の性状を述べている。
下引用は弁証法の仕組み、特にありがちな陥穽を記す。

« La crainte de la vérité peut bien se dissimuler à soi-même et aux autres derrière l 'apparence
d'être toujours plus avisée que ne le sont les pensées venant de soi-même et des autres, comme si le zèle ardent pour la vérité même lui rendait difficile et même impossible de trouver une autre vérité sinon uniquement celle de la vanité. Cette vanité s'entend à rendre vaine toute vérité pour retourner ensuite en soi-même ; elle se repaît de son propre entendement qui dissolvant toutes les pensées au lieu de trouver un contenu, ne sait que retrouver le moi dans son aridité. Mais cette vanité est une satisfaction qui doit être abandonnée à elle-même ; car elle fuit l'universel et cherche seulement l 'être-poursoi »
真実を掴んだとの陥穽はそれ自身の裏、そして他の陥穽の裏、常に検知している相貌の影に、沈潜してしまう。ありったけの思考、それだって陥穽に影響を受けているのだから。真実への熱望自体が真実を遠ざけ、別の真実に近づいてしまう空虚という現実。空虚が真実を台無しにし、空回りする。空虚はそもそも持ち合わせる「考える力entendement」を貪り、思考を溶解させ、「私」を不毛に貶める。空虚は一種の満足をもたらすが、それ自身に封じ込めなければならない。なぜなら空虚は普遍を避け、自分自身のみを探しているから。

部族民:crainte 陥穽は2度目の登場、最初si la crainte de tomber dans l’erreur…は第2回投稿。ありったけの思考(理性、認識、悟性、知)で概念を見比べても、真理に到達しない。その様を語っているが、沢口やす子嬢の例で説明する。オレ知性は危うく団子鼻のやせ子だって美と勘違いするとこだった。もし見直しにまずったら、そのままやせ子絶対美なんて結論してしまう陥穽に嵌まった。空虚に身を浸ってはならぬとヘーゲル先生が諌めている。
Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 6 了 (9月6日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 5Bis

2024年09月05日 | 小説
(2024年9月5日)これまで5回に分けてヘーゲル著、精神現象学(Hyppolite=フランス哲学者1967年没の訳、原典はフランス語)の導入Introduction章を紹介してきた。各投稿が細目になっているので、全体像がつかみにくいかと反省し、パワーポイントを作成した。


精神は実体を伴わない想像、架空の世界です。構成要素(本書に出現する用語)をまとめた。


対応する側は実質の世界、モノがあふれる宇宙です

左と右の用語が相応している。空虚に対する絶対、現象に対する実質...など

空虚側の要素の精神の内部での性状と現象の野での活動を本書が説明します

一方絶対、実質側の要素解説は(全く)ありません。

精神の「目的」としたが、使命、存在理由のほうが良かった。それは絶対を極める。本書では絶対知なる語が頻繁に出てくる。知という現象に絶対をつける。これでヒト精神の純化が達成できる

そんなことはありえない(のだが)、弁証法を理解し極めればみ可能となるのじゃ、ヘーゲル先生が我ら衆愚(一部例外はあります)を励ましてくれる

了(9月5日)
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Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 5

2024年09月04日 | 小説

(2024年9月4日) « La série des figures que la conscience parcourt sur ce chemin est plutôt l'histoire détaillée de la formation de la conscience elle-même à la science ; mais cette résolution présente le processus de formation sous la forme simple d'une résolution comme immédiatement achevée et actualisée. Au contraire, en face d'une telle non-vérité, ce chemin est le développement effectivement réel » (70頁)
真理追求は行程に例えられる。道なりを走る悟性は、経過する段階にあわせ形状を変える。一連の流れは悟性が理性に昇華する自己形成の現れと言える。かく説明するとこの解決策(形状を変えてゆく)は、たやすく達成できる単純旅程に思える。実際は逆で、この進展は一種のこんな非真理を前にしての、実際的な真理にたどり着く道のりなのである。
Hyppolite:A un doute général (comme celui de Descartes), Hegel oppose le « développement effectivement réel » de la conscience ; la Phénoménologie est ce chemin réel du doute. (同)ヘーゲルは(デカルトの唱える一般的、単に疑うのみ)疑いに対し、悟性の実際的発展を希求する「疑い」を主張する。現象学は疑いの実際への道のりである。


まとめスライド、否定の仕組みと内実


部族民:Hyppoliteは « effectivement réel » 「実際的な真理」に注目している。その意味は、真理に近いところまでには達するが、真理そのものにはなれない。弁証法とは精神現象(理性)が実在に達する工程であるとヘーゲルは諭すのだが、実在(真理)には達しない、これが初めからの大前提に控える。少なくとも1801年(本書の出版年)には前提―とHyppoliteは別ページで脚注している。また「実際的発展」は前文で紹介した「限定否定négation déterminée」に対応している。Hyppolite先生は現象学と弁証法の融和を指摘している。
段階に応じて形状を変えるーこの意味は悟性、己が抱く概念を節目ごとに変遷していく弁証法的進展の意味です。悟性は対象の概念を見極め、己の概念と比べる。しかし現象の仕組み(両者とも非実在)から、両の概念が同一になることは「絶対に」あり得ない。よって悟性は対称を必ず否定し、次段階に向かう。一の段階を経緯するとは「オレの概念と対象の概念が一致しなかったぞ。オレは概念を変えるべ~」と「形状」を変えて、改めて検査に入る。


ヘーゲル。オレ(部族民蕃神)、人を顔で判断する。この写真判断:彼は天才、意思が強い。合わせると文章がシツコイ。

3 非実在、知と悟性、弁証法の創生
« Le système complet des formes de la conscience non réelle résultera de la nécessité du processus et de la connexion même de ces formes. Pour rendre cela concevable, on peut remarquer en général, à titre préliminaire, que la présentation de la conscience non-vraie dans sa non-vérité n'est pas un mouvement seulement négatif, comme elle est selon la manière de voir unilatérale de la conscience naturelle » (同)
悟性は非実際である、その背景とは「流れ」を持ち、立ち止まる段階ごとに形を変える、その必要性を自らが持つ完結体系である。形状の変遷は一貫している。変遷の仕組みと形状前後つながりをもって、体系がその流れをまとめていると言える。本書主題(現象)が示すのは真理ではない悟性が、やはり真理ではない環境(精神)において何らかの表現をとること、そしてこの流れを掴むに、単にそれが「否定」だけではおさまらず、一定方向に向かう規則性を有すると気づく、そこに焦点を当てている。
部族民:形を変えるーは前文の注釈で既述。「完結体系」(système complet)は前文節で、懐疑主義Scepticismeでは真理に到達しないを受けている。限定疑問を通して弁証法が進展する様、この体系を表す。悟性にnon réelle. non-vraie, naturelle と3通りの形容詞(実際でない、非真理、自然な)が用いられるが、同じ意味で悟性はそもそもが非実在、その住まいも非真理の現象の野。
(弁証法の)繰り返しの否定運動を述べる文であり、その運動は一定の方向性を見せそれぞれの段階はつながる(限定否定=弁証法の鍵語、後文)。さて弁証法は1まず否定、2定方向性進展 3前段階を引き継ぎ後段階に渡す、この一文は全くもってヘーゲル弁証法の記述です。

« Le scepticisme, qui finit avec l 'abstraction du néant ou avec le vide, ne peut pas aller plus loin, mais il doit attendre jusqu’à ce que quelque chose de nouveau se présente à lui pour le
jeter dans le même abîme vide. Si, au contraire, le résultat est appréhendé, comme il est en vérité, c 'est-à-dire comme négation déterminée, alors immédiatement une nouvelle forme naît, et dans la négation est effectuée la transition par laquelle a lieu le processus spontané se réalisant à travers la série complète des figures de la conscience* » (71頁)
懐疑主義と比較しよう。それは無ないし空虚の抽象観念で終結し、それを超える進展はない。新たな某かが出現し、己を再び虚無に放り投げてくれと待つしか、懐疑主義に未来は残されない。その動きと真逆を考えてみよう、(前段階の)結果は(後段階に)、あたかも真理であるかに受け入れられる。その意味合いとは限定否定négation déterminéeで、何かがすぐさま新しく生まれる。この「限定」否定が節目momentの更新を生み、悟性の有り様を完結する。流れに沿って自発的に動き出すのである。

Hyppolite 1:*Hegel insiste particulièrement sur ce caractère de la négation qui est toujours négation déterminée et qui par conséquent n'est pas isolable du contenu nié. ヘーゲルはこの否定の有り様を強く主張する、それは限定の否定。限定であるからこそ、否定された内実と切り離されない。(脚注は69頁脚注に続いて2度目の「一般否定」への批判、こちらは « Hegel critique un doute général qui isolerait la négativité de son contenu, et ne serait pas le chemin du doute » ヘーゲルは一般的疑いを批判する。それは疑いを疑い中身から切り離す、これでは疑いを乗り越える道のりは形成されない。ここでは限定の語は用いられていないが、含意は共通する。限定否定は疑う行為と疑ぐる内容に断絶がない。弁証法の中心にこの限定の思考をヘーゲルが置くー Hyppoliteの主張です。

部族民:またHyppoliteはヘーゲル一世代前の哲学者、Shulze手法の懐疑主義と弁証法を比較している。(Schulze= 1761-1833フィヒテや新カント学派に影響を与えたNtakinetから=部族民は彼を語れない、ヘーゲルに戻る)弁証法の否定とは、一旦はそれを「真理か」と仮定して検査(examen)の後、悟性が抱える基準mesureと見比べ、それとは異なるから、必ず否定する。この過程をexpérience経験と呼ぶ。機械的、無省察な (何でもかんでも) 否定するとヘーゲル弁証法を決めつけるのは誤り。
ここで否定はなぜ「必然」なのかを省察したい。検査examenは取り込まれた対象性状を、(精神の)基準と比較する過程なのだが、両者ともに現象として活動している、実際 (réel) ではない。観念内のあやふやな2の基準が合致することは、そもそも実質を持たないのだから、絶対に、ない。たとえ同一と見えても、それだから合致とはいかない。標準原器を持たずして見比べているだけ。故に、悟性は「必ず」否定を選択する。その際に「対象objetよ、キミが抱える概念は真理に、これこれが一歩たりない」一定の基準を預け、対象とのつながりを残す。これが限定否定、これらの流れをHyppoliteは「toujours(常に)否定」と軽く教える。

精神活動を発展させ非実際non-réelの悟性が、réel=実際の存在、真理、絶対知savoir absolu ヒトが近づく。その可能性を与えてくれるのが「目的追求の方向性、前を引き継ぎ後に与える連続性、経験の時空を決められる自発性」弁証法です。ヘーゲル弁証法にヒト思考が潜むのだーが伺える一節である。
Hyppolite 2:Dialectique de l 'inquiétude humaine qui est peut-être une des intuitions fondamentales de l’hégélianisme. 不安に起源を求める弁証法は、ヒト直感の根源から発生しているといえる。Hyppoliteは思考を直感と伝えている。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学の紹介 5 了 (9月4日)
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