都立多摩図書館(東京・立川市)で開催している企画展「おいしいものが好き」(5月9日までhttp://www.library.metro.tokyo.jp/event/tabid/1225/Default.aspx)を訪問する機会があった。同図書館には一万冊の雑誌蔵書を誇る「マガジンハウス」が並立している。自慢の雑誌コレクションから「食」に関連する専門誌、特集記事など約400冊を選り出しての意欲展示、その多様さと量に圧倒されました。(写真は会場風景およびB級グルメコーナー)
企画し実作業した担当者様の奮闘ぶりが想像できます。手に取るとそれらの多くは「料理の紹介」、定番料理の味付けのヒントやら、各地の名物料理、あるいは紹介されてないイナカ料理。さらに視野を広げ世界各国の特産料理や新鮮名素材などもある。
紹介にとどまらず「レシピ」というのですか、作り方の説明、材料の蘊蓄やら包丁の切れ味自慢、どう切るか叩くか、弱火強火の使い分け、味付けの極意など細にわたる調理技術の解説も大きなジャンル。極めつけは料理人たる心構えの精神論、こうなると料理技術至上主義に至たる。食い手の都合も勘定具合もどうでも構わん金払え的「食い物ラジカル」の思潮ですな。
食い物記事を読むのは、頭使うわけでないし肩もこらない。しかも小投稿子は生まれつきに「喰い地が張っている」ので立ち読みをつづけると、自分がそれを食うため、今どっかの食堂に座っているかの錯覚を覚えてきた。グーと空腹を感じてしまった。腹が減ってくるともっと旨そうな料理は他にないかと渉猟する。行き着いたのは身の程相応のB級グルメ。デミグラ豆腐丼に感心し塩タコ焼にはびっくり、頁をどんどんめくると、げんこつチャーシュー麺にぶつかった。店主がデッカイチャーシュー塊を前にニヤリしている悪態を見せつけられたその時ハット我に戻った。
B級が鬼門だったのだ、デミグラなりゲンコツなりにゆだれ垂らし読み、浅ましくも食いたくなって悲しくそして虚しくなった。
悲しい理由はすぐに分かった。場所柄わきまえずよだれ垂らして「カツ丼くいてえ、天丼はまだか、うな丼もいい」などと、B級に見果てぬ耽溺で喜んでいる己のB級知性を嘆いているからだ。B級な知性は生まれつきなので自覚するたびに悲しくなるけど、今度はついでに「虚しい」と感じた。ナゼだろうか。楽しいはずの食い物なのに虚しさこみ上げるこの展示が不思議だ。原因は?と思いをめぐらせるうちに、本来私は美味、グルメなど信じていない人間だったと、それがグルメ本などに耽溺している。展示の豪華さに引きつられた自身が、展示内容と合わせて虚しかった、それに気づいた。
グルメ嫌いがグルメ=美味の紹介のグルメ本を読んでいたのだ。倒錯が虚しさを呼んだ。グルメの倒錯とはどの辺りにか、それを確かめるべく、展示に怪しき目を走らせぐるりと見回した。
美味礼賛の食い物雑誌は百家斉放、そこに「おいしいもの食べたい」程度では癒やされない深刻な乖離があった。
そこの全ての雑誌、記事、写真が食を礼賛している。読者は今の同時代の日本人で、皆が一様に、
「もっと喰いたい、美味しい料理もっと喰いた、まだ知らぬすごい料理がどっかにある、それも食いたい」と食への欲望を持つと前提している。どの雑誌を摘んでも、ページを開いて写真を見て、記事に目を通せば編集者の魂胆は丸見えで、「お前さん、まだ空腹だろう、これではどうだ。こんな食い物見たこと無いだろう。他にもあるぞ」と小馬鹿にされて、その罠にはまりこんでいる。
雑誌は世相を反映する、とあれば「男(女も)だれもかも食い意地汚いのが今の世。食いしん坊をグルメだと僭称させて、世の中の全員がグルメとなれば平和だ」なんて世相を悪し様に教導する、これがこれらの料理雑誌だった。
食への尊厳は見えない食う感謝喰える祈りも無い、喰えない未来の不安なんて全くない。一皮むけばノー天気な食の礼賛に過ぎないし、一級品を書き尽くしたらB級グルメだって。こいつはごく普通の食い物を「グルメ」的陰謀側に引っ張り込んだだけだ。
おぞましい程のグルメ展開なのだが、これが戦後の雑誌文化食文化である。
(上の了 連載三回予定次回に続く)