私の心に画伯の言葉が重く沈潜したのだった。その「小説はトンカツと絵画の中間」「トンカツ並みに小説を書けば売れるのだ」それは貴重な助言でもあった。横で大声を出している元編集長の主張「底流としての時代精神を共同幻想に転換させ作家個性を展開」なんかよりは遙かに分かりやすい。そこでトンカツ画伯に再度尋ねました「トンカツを揚げるとはいかに」と。
その質問を画伯も待っていた。画伯の独自のトンカツ論を怒濤のごとく、別の言い方では酔っぱらいの戯れ文句のごとくに聞くことができた。しかしこれが私には非常な驚きだったのだ。驚いた理由は後にしてまずは画伯のトンカツ論、なにせこれを実践すれば小説が売れるというのだから。
「まずトンカツが旨くなるには美人の配偶者を持たなければならない」と理解不能の珍説が再び。トンカツ味がなぜお上さんの面構えに左右されるのだ。この無理難題にはお手上げだ。「手遅れだ」と叫びたい私を無視して画伯は話を続ける。
「君は私のワイフを見たことがない。それは幸福者だ。今日もワイフを連れてこなかったのは、君やここの主人がワイフを見るとどうしても自身の配偶者と比べて、その結果、面造作の差異にガクゼンとして相対不幸を感じてしまう。君たちが正月から不幸にならんよう心配りしているのだ」そこまでの配慮、画伯は心優しい人だったのだと感心した。
「カミさんが美人であれば、どうせ口漱ぎのアルバイト仕事なんだ、どうでもいいやと投げやりになれる、結果トンカツプロセスを固定化する。そこが大事だ。いったんプロセスを決めたら変えないのが味を保つコツなのだ。どうせトンカツ一枚、せいぜいトンカツキャベツの一皿なのだの投げやり気分、しかしその限定仕事で最善をつくす。トンカツ命なんて真剣に取り組んだらプロセスをちょくちょく変えて、最後にはトンカツ泥沼にはまり込む。これを避けなければ玄人にはなれない」
アルバイトのトンカツ仕事でも玄人化を目指しているのだ。心優しいだけでない、画伯はえらいのだ!と再度感心した。画伯の言葉を続ける。
「トンカツ味を決めるのが三角形だ。トンカツ料理の三角形とも言う、かのレビストロースの料理の三角形とは異なるからよく聞け。構成は水・油・温度である。油は膏と相関している。トンカツの主原料の豚肉は水と膏、これを熱い油に浸し水油(すいゆ)転換を促進する。それが温度管理の極意なのだ」
これではトンカツ構造主義ではないか、しかし聞き慣れない言葉「水油転換」が出た、知らないのはトンカツ素人の私だけで、トンカツイーター仲間内ではなじみの技術かも知れない。恥を忍んで質問すると、
「君が知らないのも許そう、トンカツ玄人仲間内では知られている技法じゃ。ウチでは90%を設定している。
豚肉はタンパク質と水、膏でできている。旨いのはタンパク質であるが生では食えない。水、膏が生臭いからだ。これを油の高熱でじわりじわりといぶり出すのが料理となる。水気を出して揚げ油を肉内に浸み入らせる、膏身も本来の膏を滲み出して油に転換させる。しかし全てを油転換しては駄目だ、幾分の水分、膏分を残す。あたかも一枚の豚肉片なれど、その豚が豚舎でオカラや残飯を旨そうに食っていた昨日、いや殺戮まえの一昨日の楽しかった豚記憶を残すために、元々の水と膏をトンカツに封じこめる、それが秘伝なのだ」
「トンカツ師匠いや間違えた画伯、質問ですが」と私はあわててしまった。どうしても確認しなければならない「温度管理が秘伝は分かったが、豚のロース肉の水と膏にはその親豚が生きていた記憶、ぶーぶー鼻を鳴らしてオカラを喰っていた記憶が残っているのですか」
「その通りよ、その記憶の多くを揚げ油に排出させる、これは言うなれば人に喰われよとの引導渡し。しかし全て転換したら旨くない、ほんの少し豚の記憶を残すのが味で、それが90対10%なのだ。喰われいく豚への哀悼でもあるのだ、合掌」
画伯の説はかの帝都線駅前で「沿線随一」と看板を掛けている焼き鳥サブちゃんの「業火地獄焼き」と同じではないか。サブちゃんの主人も、炭火をカンカンに熾し焼き鳥串の鶏肉をジュウジュウいわせているが、その目的は水と膏をいぶりだし、生きていた鶏の記憶を排出するためだった。
トンカツと焼き鳥、技法の差はあるが「生きた記憶、水と膏」を取り出すのが秘伝だった。私事にはいるが、となると「生きる今の記憶を殺し、私の身体の水と膏をじわりじわりと炙りだして、10%くらい自分の個性で」小説を書けばよろしいのか。
この疑問を解決するには画伯の作品に触れなければならない。美人のお上さんを見てしまうこの身の不幸を我慢する一つの勇気を持てば良い、いざ行かんと十五日の(旧)藪入りに京成お花茶屋はトンカツ工房を訪ねました。
なおサブちゃんの焼き鳥技法は09年10月19日のブログ「サブちゃん焼き鳥…」に説明しています。
その質問を画伯も待っていた。画伯の独自のトンカツ論を怒濤のごとく、別の言い方では酔っぱらいの戯れ文句のごとくに聞くことができた。しかしこれが私には非常な驚きだったのだ。驚いた理由は後にしてまずは画伯のトンカツ論、なにせこれを実践すれば小説が売れるというのだから。
「まずトンカツが旨くなるには美人の配偶者を持たなければならない」と理解不能の珍説が再び。トンカツ味がなぜお上さんの面構えに左右されるのだ。この無理難題にはお手上げだ。「手遅れだ」と叫びたい私を無視して画伯は話を続ける。
「君は私のワイフを見たことがない。それは幸福者だ。今日もワイフを連れてこなかったのは、君やここの主人がワイフを見るとどうしても自身の配偶者と比べて、その結果、面造作の差異にガクゼンとして相対不幸を感じてしまう。君たちが正月から不幸にならんよう心配りしているのだ」そこまでの配慮、画伯は心優しい人だったのだと感心した。
「カミさんが美人であれば、どうせ口漱ぎのアルバイト仕事なんだ、どうでもいいやと投げやりになれる、結果トンカツプロセスを固定化する。そこが大事だ。いったんプロセスを決めたら変えないのが味を保つコツなのだ。どうせトンカツ一枚、せいぜいトンカツキャベツの一皿なのだの投げやり気分、しかしその限定仕事で最善をつくす。トンカツ命なんて真剣に取り組んだらプロセスをちょくちょく変えて、最後にはトンカツ泥沼にはまり込む。これを避けなければ玄人にはなれない」
アルバイトのトンカツ仕事でも玄人化を目指しているのだ。心優しいだけでない、画伯はえらいのだ!と再度感心した。画伯の言葉を続ける。
「トンカツ味を決めるのが三角形だ。トンカツ料理の三角形とも言う、かのレビストロースの料理の三角形とは異なるからよく聞け。構成は水・油・温度である。油は膏と相関している。トンカツの主原料の豚肉は水と膏、これを熱い油に浸し水油(すいゆ)転換を促進する。それが温度管理の極意なのだ」
これではトンカツ構造主義ではないか、しかし聞き慣れない言葉「水油転換」が出た、知らないのはトンカツ素人の私だけで、トンカツイーター仲間内ではなじみの技術かも知れない。恥を忍んで質問すると、
「君が知らないのも許そう、トンカツ玄人仲間内では知られている技法じゃ。ウチでは90%を設定している。
豚肉はタンパク質と水、膏でできている。旨いのはタンパク質であるが生では食えない。水、膏が生臭いからだ。これを油の高熱でじわりじわりといぶり出すのが料理となる。水気を出して揚げ油を肉内に浸み入らせる、膏身も本来の膏を滲み出して油に転換させる。しかし全てを油転換しては駄目だ、幾分の水分、膏分を残す。あたかも一枚の豚肉片なれど、その豚が豚舎でオカラや残飯を旨そうに食っていた昨日、いや殺戮まえの一昨日の楽しかった豚記憶を残すために、元々の水と膏をトンカツに封じこめる、それが秘伝なのだ」
「トンカツ師匠いや間違えた画伯、質問ですが」と私はあわててしまった。どうしても確認しなければならない「温度管理が秘伝は分かったが、豚のロース肉の水と膏にはその親豚が生きていた記憶、ぶーぶー鼻を鳴らしてオカラを喰っていた記憶が残っているのですか」
「その通りよ、その記憶の多くを揚げ油に排出させる、これは言うなれば人に喰われよとの引導渡し。しかし全て転換したら旨くない、ほんの少し豚の記憶を残すのが味で、それが90対10%なのだ。喰われいく豚への哀悼でもあるのだ、合掌」
画伯の説はかの帝都線駅前で「沿線随一」と看板を掛けている焼き鳥サブちゃんの「業火地獄焼き」と同じではないか。サブちゃんの主人も、炭火をカンカンに熾し焼き鳥串の鶏肉をジュウジュウいわせているが、その目的は水と膏をいぶりだし、生きていた鶏の記憶を排出するためだった。
トンカツと焼き鳥、技法の差はあるが「生きた記憶、水と膏」を取り出すのが秘伝だった。私事にはいるが、となると「生きる今の記憶を殺し、私の身体の水と膏をじわりじわりと炙りだして、10%くらい自分の個性で」小説を書けばよろしいのか。
この疑問を解決するには画伯の作品に触れなければならない。美人のお上さんを見てしまうこの身の不幸を我慢する一つの勇気を持てば良い、いざ行かんと十五日の(旧)藪入りに京成お花茶屋はトンカツ工房を訪ねました。
なおサブちゃんの焼き鳥技法は09年10月19日のブログ「サブちゃん焼き鳥…」に説明しています。