蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

部族民通信HP更新の案内

2022年07月26日 | 小説
当部族民通信ブログに訪問している皆様に暑中お見舞い申します。暑さ激しい中、なにとぞご健勝にお過ごしください。
さて、
精神分析学ジャック・ラカン著セミナーIIの紹介、「ラカン精神分析快楽の果 、繰り返し」を本年(2022年)6月17日から24日、4回に分けて投稿しました。これを加筆訂正して部族民通信ホームサイトに上梓いたしました。の紹介を続けています。
HPアドレスはhttp://tribesman.net/
当該頁アドレスはhttp://tribesman.net/lacanplaisir.html
精神分析頁は http://tribesman.net/psycha.html
となります(2022年7月26日)。

ラカン先生のセミナー風景 写真ネットから
(著作セミナー連作は口語のタイプ起こしなのでおおむね易しい。しかし突然意味が分からない文節に出くわす。ーその難文を一回聞いて理解する参加者、聴衆は立派なレベルだ(フランスでは講義には資料などでない。聞き取るだけ)
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 6 最終

2022年07月18日 | 小説
(2022年7月18日)最終にあたりキルケゴールが今、哲学思潮の中でどのように評価されているか、実存主義との関連から小筆の理解を述べたい。


写真はDictionnaire de Philosophie (Nathan社版)の実存主義説明ページから拝借した図です。


中央 «Existence » の意味を「実存」とせず「存在」としたい。説明ページの趣旨を受けて「個の存在」と理解する。個はたしかに存在し活動を見せる。その生き様とはどのようにあるか、それぞれの思想家が成り立ち、理想を追求した。彼らが追求した主題を簡潔に一語にまとめ、展開図に収めている。
ニーチェ(右上)は « Volonté de puissance » 個が内に秘める「力漲る決意」を追求した。その通りかと。ショーペンハウアーには « Vouloir Vivre » が被される「生きる意志」となる。以下ハイデッカー「時間性」、ヘーゲル「歴史」、キルケゴール「概念」。サルトルには「実存主義、自由」が紐づけされ、彼にのみ « -isme » が付与される。
キルケゴールに冠される « concept »「概念」の意味合いが、本辞書が実存主義に向きあう立場を理解する鍵語となります。個の存在、キルケゴール定義は;他のいかなる主体(主義主張)とは独立して存在し、個の主体は存在そのものとなります。「主体としての個」を初めてキルケゴールが打ち出した所以です。すると図中、サルトルを除く他の思想家は「個の存在」を別の主体(思想)とつなぎ合わせて、思想の客体となる存在としての個、その生き様を語ったと受け止める(ハイデッガーなどの異論は承知のうえ)。
ニーチェでは意志の力が主体、ショーペンハウアーは生きる意志が主体となります。思想が主体、個の存在は客体となります。なお両の引用に於いては「存在する個の志向」がそれでも濃いので、生き様が主体と考える解釈はあるかもしれない。ヘーゲルを採り上げると、この主体・客体の関係はより分かりやすい。彼が唱える弁証法は思想であり、思弁に支配される。主体は思弁でありこれを内包する頭は単なる入れ物であり、客体です。主体は思考、デカルト以来、西洋思想の主流です。
キルケゴールは知を形成する理性(当時19世紀半ば、デンマークにあってはヘーゲルを旗手とする理性主義)を否定し、(教会が押し付ける教条に枠を嵌められる)信仰を排除した。理性と信心が剥ぎ取られた個は空虚となる。空虚な個が俗世を徘徊する様を綴ったのが著作「あれかこれか」での生き様です。教会教条を否定してもキルケゴールはキリスト者としての信仰を抱く。徘徊の果て個の本質は罪にあるとの真理にたどり着いた。彼の生き様の旅路をたどれば、第一舞台が耽美生活。瞬間に生きる個は罪を自覚しない。この第一の舞台をして « le monde païen » 異教徒の世界とラカンが定義した。異教徒ならば耶蘇根本原理の罪など自覚しない。これ以降の段階(2,3と続く)では空虚の個が罪を自覚し昇天するまでの旅路が控える。過去の投稿(1~5)で昇天に対峙するキルケゴールの姿勢を説明しました(彼は罪を自己の存在に取り込むことを拒んだ、故に昇天 « ascension » にはたどり着けなかったとラカンは分析した)。
この「空虚の個」の概念を借り入れたのがサルトルです。しかしサルトルは無神論者。本質が罪、信仰はそれを覚知する道、こんな有神論はサルトルに似つかわしくない。そこで空虚とは「実存」する、経験を経ない、無の個、外部世界での経験の果てに獲得する本質が「自由」と組み替えた。
この論理展開のおかげか、図で « existentialisme » をつけられるのはサルトルのみ。
キルケゴール含め他思想家は個の存在、すなわち個の生き様に思索を巡らせたが(個を主体として大系、すなわち主義に引き上げたのはサルトルが初にして(今のところ)終わり。それだけに彼の思想は遥かな地平に躍る。
この図を目にしての(部族民)解釈が以上です。本辞典から実存主義の説明、その幾文節かを引用する。
<C’est radicalement le fait d’être, de l’existence en soi, indépendamment de toute connaissance possible, et de l’existence dans l’expérience par opposition au néant. それは(存在は)詰まるところ生きている事実であり、個の存在であり、経験を貫いての存在で、それに対比する側(自由を獲得できない個)は無である。
<Déjà Kierckegaard remarque, en tant que tel, il (le sujet humain) est irréductibles à toute approche systématique. Pour Heidegger, cette existence est propre à la subjectivité, comme être dans le monde et projet d’un monde. Sartre en déduira que, pour l’homme, « existence précède l’essence » : indéfinissable a priori. L’être humain n’est rien d’autre que ce qu’il devient…>キルケゴールはすでにそれ(主体としての個)はかくあるべきと指摘していた。個はいかなる思想、大系的な取り組みに曝されても分解できないと。ハイデッガーにしても個の存在とは主体性そのもの、世界に生き世界の投影であるとした。サルトルは後に、人とは「存在が本質に先立つ」と個の位置を決めつけた。個はその存在のまま規定できないし、人とは、成るべくして成りうる存在そのものでしかない…>
(...はこの後はサルトルの実存主義に忠実な解説が続くとの意味)
<Dans ce sens large, c’est Kierckegaard qui est l’initiateur dans la philosophie moderne (même si on peut en trouver l’origine chez Pascal), par son insistance sur la subjectivité.
この意味の幅を広げると、パスカルにその濫觴は認められるけれど、主体性に対しての考察からして、キルケゴールが近代哲学の創始といえる。
実存主義を「近代哲学」としその核にサルトルを置く。幾分サルトルへの偏りは大きいが哲学者側からの解釈で実存主義が語られ、キルケゴールの立ち位置もそれに沿って説明されています。サルトルに重きをおきすぎるきらいはある、これが一般的解釈と見られる。
前の投稿(1~5)でラカンのキルケゴール論を紹介した。ラカンは精神分析の「現実原理」を応用してキルケゴールを解体した。サルトルがキルケゴールに向き合った姿勢と比べると、あまりにも大きな差に驚きます。哲学と精神分析の解析の差―と片付ければ簡単です。部族民はラカンとサルトルの距離と考えたい。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 6最終の了(2022年7月18日)


ラカン先生のセミナーは続きます。次回は「オオカミ少年ロベール」についての御高説を伺う予定です(8月初旬に投稿開始)

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ヌーガンバロン、私たちは負けない

2022年07月15日 | 小説
仏語を母国語に持つさる方から、日本語ガンバルが仏語圏で用いられている、遣われ方は本来用法と同じと聞いた。和仏辞典で調べると頑張るは « persister » « insister » 。前者は « demeurer inébranlable » ブレない。後者は « s’arrêter sur un point particulier » 固執する。いずれも動作の起点と行動に具体性を持つ。例文を挙げると « Je fais choix des choses dont il est plus besoin d’être instruit sur lesquelles j’insiste fort » 自身が強く関心を持ち、適宜に動静を知ることのできる事象を選ぶものだ。(La Bruyère, 辞典Robertから)
引用文では関心なる行為が選択という具体行動を誘発する。さらにそれら事象の成否の報せを求めている。事態に関与し行動のあり方を具体的に特定する。こうした考え方が仏人の「ガンバル」の正体であろう。

では日本語本来の用法は:
どこまでも忍耐してつとめる(広辞苑)。簡潔ながら具体性を持たない点は理解できる。
より詳しく定義づけを試みる。逆境にあっても成否に囚われず最善を尽くそう―精神を鼓舞し対処への能動性を維持する、与えられた境遇に打ち勝つ。苦境に呑み込まれたらそこで負ける。私的定義だがここに精神論が浮き出ている。広辞苑とも遠くはない。この精神性を仏人が認めて、仏語での用法も転用したかと推測する。« persister »では言い尽くせない姿勢をガンバルにこめたのだろう。

日本人の精神は「統合」に長け、日本語の語彙多くは(良い意味での)曖然性を伝えかける。この « opacité » 不透明さが理解された、と感じ入った。めでたし、しかし困った事に気が付いた。仏語の動詞活用conjugaisonが日本語には存在しない。そこを質すとその方は朗々と;
ジュ(je私)ガンバール、チュ(tu君)ガンバール、ヌー(nous私達)ガンバロン、ヴー(vousあなた)ガンバーレ。ガンバル活用を口にした。なんとこれは第一群規則動詞の活用そのものだ。「仏語の活用にひったり合う」は部族民の驚愕。


安倍氏はヴーガンバーレ(あなた達、頑張りなさい)と激励しているのかもしれない(12日葬儀の写真)


安倍氏が兇弾に倒れて(7月8日)1週間が経過した。安全保障の整備、憲法改正が急がれる今、私達がこの場に留まってしまったら、将来日本に黄信号が灯る。
私たちは負けない。今こそヌーガンバロン。(2022年7月15日)。 
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 5 

2022年07月15日 | 小説
(2022年7月15日)キルケゴールは神との対話と罪の自覚を語る。ラカンは彼を精神分析から解体する。
<L’inconscience est le discours de l’autre. Ce discours de l’autre, ce n’est pas le discours de l’autre abstrait, de l’autre dans la dyade, de mon correspondant, ni même simplement de mon esclave, c’est le discours du circuit dans lequel je suis intégré. J’en suis un de chaînons. Le discours de mon père, en tant que mon père a commis des fautes que je suis condamné à reproduire ― c’est ce que l’on appelle super-ego. Je suis condamné les reproduire parce qu’il faut que je reprenne le discours qu’il m’a légué, non pas simplement que je suis son fils, mais parce qu’on n’arrête pas la chaine du discours, et que je suis justement chargé de transmettre dans sa forme aberrante à quelqu’un d’autre.
訳:他者との対話が無意識に留められる。他者とは漠然とした他人ではなく、下僕でもなく, «dyade » 二重性に封じ込められている私の交信者であり、彼との対話は周回しその輪に私は取り込まれている。一つの歯車 « chaînon » にしか私は過ぎない。父が罪を犯したのなら、私はその罪を繰り返す運命に呪われるを知る。(知らされる前に気付いている自我)それが「超自我」である。「超自我」が強いる対話を私は続けなければならない。私が父の息子であるという単純な理由からではない。この連鎖を人が止めてはならない。この連鎖が辻褄の合わないものであろうと、誰かに引き継がせねばならないからだ(112頁)。
プラトンの前世記憶をラカンは巧みに応用する。ここでの交信者 « dyade » は当然、プラトン主唱の « âme » 心―の考えを踏襲しているが、精神分析の視点から精神の累層、自覚する心と(過去の記憶ではなく)自覚しない心の対話とラカンは説明する。すると « c’est le discours du circuit dans lequel je suis intégré » その内部に私が封じ込められている、周回する対話―の意味が理解できる。
自覚している側、私« égo » は、自覚されない側は « super-égo » と累層並立し、対話は無意識のままに成り立つ。私は連鎖の中の一つの歯車にしか過ぎない。私自身は自覚していない« super-égo »を入れる容器 « contenant » に過ぎない。私の精神の中身 « contenu » は« super-égo » が持つ。« super-égo » は私を乗り越えて(容器を替えて)継続する。その本質は「罪」である(この文節は部族民解釈)。
プロテスタント思索者のキルケゴールと精神分析者カソリックのラカンとの接点は、人の本質は「罪」でありそれを自覚して開放される(キルケゴール信仰舞台)。
改めてラカン思索の経路を探る、
フロイトは精神の活動原理に2の概念を提唱した。快楽と現実原理、フロイト自身はなぜそれが「原理」として精神を支配するかには言及していない(ラカンを読む限り)。快楽原理は身体系の機械的反応に支配されており、その運動は神経サイバネティックスに制御され、身体系の自律制御の動きを見せるとラカンは語る。ここでは精神分析が入り込む余地はすくない。
(一方でリビドーを一般的「実行意欲」とすると精神下層(イド)の動きも絡み、精神分析の視点から快楽原理の説明も可能になる。例えば精神系をサイバネティックスとして、自律回生のバックアップがあるとする。そうした記述にラカンでは出会っていない)
現実原理の一般的理解は「人精神は欲望をとっさに実現しようとする行動を押し止める制御機能を具有するが、それは « apprentissage» フロイトの用語「教育」の結果」となる。ラカンは「教育効果」など両断否定する。精神分析の立場から « capture… »の過程をとるとして、かつフロイトが語る「繰り返し」も重ねて、人は現実と自己の対峙のあり方を « apprentissage » 習得するとラカンは教える。この仕組の源泉を説明するにZeigarnik、プラトン、キルケゴールを採り上げた。正確を期すとキルケゴールの信条と実践行動を説明するために前2者の思想を引き出したと言ってよい。
現実 « réalité » に直面する人は未達成(あるいは失敗)を悔み、幻影 « mirage » に苛まれ幾度も挑戦するが、成功は叶わず、心傷トラウマを抱える。キルケゴールにあって未達成とは死と愛。さらに罪とは不信仰と耽美行動。心に隠れる罪を力に超自我 « super-égo » を持ち出す(=前述)。
幾度も挑戦し失敗を甘受する人の性向はフロイトが指摘したが、その論理付けとして幻影 « mirage » を持ち出している。成功していたならば生はかくあったはずと人は惑わせられる―とラカンが述べる。この幻影の概念をキルケゴールは著書「あれかこれか」で「段階」として展開している。3の段階での各舞台、実践と幻滅の有様、そして最終目標となる信仰舞台 « stade religieux » で罪を知り(克服し)、自由を得る。キルケゴールは第二段階には上昇し、信仰の世界の第三への昇天 « ascension » を目指し、ベルリンを旅した。しかし叶わなかった。
現実原理の精神分析学から形而上として、またラカン哲学としてのキルケゴール思考の説明がかく展開された。論理の流れは哲学の著としては破格に過ぎる。しかし筋立てに流れる起と結の一貫さに(部族民は)感銘を受けた。ラカンお見事と感心すべき一節だった。


キュウリ、ミニトマト。今が旬の夏野菜。ご近所の市民菜園耕作者のおすそ分け。夏野菜と賭けて有神論実存主義と解く。ココロは「キウリガゴール」、オソマツ。

(本投稿ではフロイトの« principe » を原理と訳した。邦訳では「原則」が定番となっているようだ。辞書(スタンダード)は訳に原理原則を挙げるからどちらも可能となる。原則は例外が滑り込むのを甘受する―このような語感を感じ取る。2の « principe » をラカンが持ち出したのはHyppoliteが「フロイトもダーウインと同じく« principe » を立てて論を展開している」との指摘を受けたから。読む側の部族民はダーウインの淘汰原理にフロイト説をなぞらえるから、« principe »は例外を許さない原理に違いないと決めつける。この訳を用いた背景です。原則なる語は学説の大伽藍の構築には使われないしネ)

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 5の了(2022年7月15日、次回最終は18日)
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 4

2022年07月13日 | 小説
(2022年7月13日)前回投稿の最終部は「キルケゴールの心情の根底に「段階」がある」、段階について語ります;
ラカン指摘の段階とは「キリスト教的実存主義」の行き着いた人の生き様の3段階に他ならない。それは1 stade esthétique(耽美舞台)  2 stade éthique(倫理舞台) 3 stade religieux(信仰舞台)となります。それぞれの舞台は生き様に基準が設けられている。耽美では人は外観の様、行動の潔さなど目に見える「モノ」を重要とするなど、他の2舞台でもその題目通りに行動する、とキルケゴールが考えている訳です。理想は最終段階であり、そこに至りそれまでも経験し苛まれていた存在(罪)を克服する(自由を得る)に至る。
この考えは思想でも哲学でもなく信心のあるいは宗教の教条、その範疇です。ラカンが精神分析の対象にキルケゴールを採り上げた理由はこの信条とそれを実践する精神に関心があったからです。決してキルケゴールを哲学者として扱っていない。
段階それぞれの特質と次段階へ上昇する契機とは何か。ここを解説しあわせて彼の信条のキリスト教実存主義「罪の実存」を知って頂く機会にもなるかと。私はそこまで展開できないのでNathan版Dictionnaire Philoから引用します。


ラカンとフロイト、ネットから採取、再掲


段階とはなにか;
<La relation, par la Foi, que l’homme entretient avec Dieu, d’une manière singulière et sans passer par l’appareil de la raison, est en effet d’un cheminement en plusieurs étapes, qui correspondent aux épisodes successifs de la vie de Kierckegaard> (同書Kierckegaardの項)信仰に裏打ちされる神との対話とは、特別で理性装置(頭脳)が考えつくものではない。行程を形作るいくつかの段階(étapes) を持ち、それぞれにおいてキルケゴールの生き様となる出来事に結びつく(この解説では罪を自覚しない下層段階でもすでに神との対話が持たれるとなる。実存主義を意識した解説です)。
3に分かれる段階とは; 
1 stade esthétique(耽美舞台)は <Vivre dans l’instant, jouir de chaque moment qui passe, tel est le souci de l’esthéticien>刹那に生き、過ぎゆく瞬間を楽しみ、心配事とは耽美の実践者としての気がかりのみ…。しかしこの段階には陰りが生ずる。<Mais l’inassouvissement du désir toujours renaissant fait éclore une critique…exige le dépassement de ce premier état.不満はひっきりなしに心に疼いて一つの批判が生まれいでる。それが第一段階から逃避するきっかけになる。心に疼く不満とは耽美行為の繰り返したところで(良心から)限界を感じているから。
その不満を実感するために「繰り返し」は必須、次段階へ上昇する契機となる。キルケゴールは自由(信仰)を得るための原初の蹉跌と語るでしょうが、ラカンは « mirage » 幻影(現実原理の一行程)を見るからとしている。上段に落ち着けば自由が得られる、それは « mirage » 、精神分析の視点です。

2 stade éthique(倫理舞台)は<celui de devoir et de la bonne conscience>義務と良心の段階。一方で<Mais la vie de l’honnête homme, avec toutes les désillusions qui s’y attachent =中略= « humour » kierkegaardien conduit finalement au stade religieux > 正しき人の生にはあらゆる幻滅がつきまとう。感性を惑わさせるのは人の知恵 « sagesse humaine » の不安定 « précaire » を挙げる、レギーネ嬢への求婚と突然の破棄の実体験がここに現れている。知恵と倫理では自由は得られない。自由を求め次の段階にケルケゴールが向かう。

3 stade religieux(信仰舞台)は<C’est la situation existentielle du chevalier de la foi, qui se découvre lui-même, non pas acceptant les dogmes de l’Eglise…ou l’existence du péché sera reconnue> それは信仰の実践者(le chevalier=騎士)の実存的立場となります。教会が説く信条など、智の哲学も受け入れず、信仰にすがる。信仰への帰依が己の中から湧き、罪と向き合い自由を得る。
(以上は原本はDictionnaire Philo、著作「あれかこれか」の主題、ラカンの講義中身などを部族民が重層して、勝手に解釈した)
ラカンは続ける、キルケゴールは自由を得られない;
Kierkegaard veut échapper à des problèmes qui sont précisément ceux de son ascension à un ordre nouveau, et il rencontre le barrage de ses réminiscences, de ce qu’il croit être et de ce qu’il sait qu’il ne pourra pas devenir. Il essaie alors de faire l’expérience de la répétition> (110頁) 訳:キルケゴールは問題からの逃避を望んだ。その取り組みがなにより、新しい段階への上昇 « ascension » を約するものであったのだし。そうした存在であるべきこうなってはならないと想起 « réminiscences » が教えるが、障害が必ず立ちはだかる。故に(進歩なし、同じ段階で)蹉跌を繰り返し失敗を重ねる。
著作 « Répétition » 繰り返し、で綴られるベルリン再訪したキルケゴールの苦い体験をラカンは第2舞台での失敗としかく表現した。
引用したDictionnaire Philo.は「実存主義」からの解釈で罪を経験し自由を得る過程を説明するが、ラカンは「想起」を持ち出している。精神分析の手法です。
このラカン解釈ではキルケゴールは「1を経て2の段階」には進めた、3に上昇は至らなかった。用いた言葉 « ascension » からして(部族民)はそうと理解する。この語の意味は上昇よりも「昇天」に近い。大文字で始まる « Ascension » は「昇天祭」キリストが天に帰った日です。その語感を含めて用いているはずだから、これをして第2段階でうごめき、蹉跌を繰り返し第3には上昇できなかった根拠とします。概ねの解釈とも整合するかと。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 4の了(2022年7月13日)
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 3 

2022年07月11日 | 小説
(2022年7月11日)<Si l’objet naturel, le correspondant harmonique du vivant, est reconnaissable, c’est parce que déjà sa figure se dessine. Et pour qu’elle se dessine, il faut qu’elle ait été déjà dans celui qui va s’y conjoindre> 調和ある交流を保てる対象の、そうとあるべき本来の姿を、生きる者が覚知できるのだとすれば、(人が覚知する)以前からその形は形成されていた訳で、それが形成されるためにはその者の中にすでにその姿が固定されていなければならない。<C’est le rapport de la dyade. Toute la théorie de la connaissance dans Platon>それが二重性で、プラトンの思考の根底思想となっている。(110頁)
上引用がはプラトン二重論(Dyade)のラカン解釈です。魂のみならず形体を見て確証する行為にも« la réminiscence » 想起が働く。ではキルケゴールとの繋がりとは。
<Il y a désormais le péché comme troisième terme, et c’est dans la voie de la répétition, que l’homme trouve son chemin. Voilà ce qui met justement Kierkegaard sur la voie de nos intuitions freudiennes, dans un petit livre qui s’appelle La Répétition >しかしながら(キルケゴールにおいては)第3の概念が出てくる。それが「罪」である。罪の記憶を繰り返し思い起こしながら人は生を続ける。著作「繰り返し」内容にある通り、キルケゴールはフロイトの直観と重なり合うのだ(LivreII,110頁)
キルケゴール「心に留めた記憶を思い出し、人を苛む」と伝える。思い起こしには3の過程があるとラカンは言う。文脈からそれら3を探すと第一は未達成(失敗)など後ろ向きの結果の記憶。心理学者Zeigarnikが「より長く悔みが続く、繰り返し思い出す」を証明した。第2にプラトンが説く心理の奥の前世の記憶。これは « réminiscence » 想起とされ、人は気づかなくとも精神に宿るのである。生涯に渡って彼を苛み、それと向かい合う生き様を決めつけた「罪」が3番目にあたる。己には罪が宿るとキルケゴールが受けとめたのは、父が神を呪ったと知ったから。Wikipediaからその一節を;
<ミカエル(キルケゴール父)は不遇を呪ったことから神の怒りを買ったと信じ込み、どの子供もキリストが磔刑に処せられた34歳までしか生きられないと思い=中略=七人の子供のうち五人までが34歳までに亡くなっている。己も34歳までに死ぬだろうと確信していたキルケゴールは34歳の誕生日を迎えた日を信じることができず …>
もう一つの出来事は、


キルケゴール、ネットから採取


<17歳のレギーネに求婚し彼女は受諾するのだが、一年後、彼は一方的に婚約を破棄している。婚約破棄の理由についてキェルケゴール自身、「この秘密を知るものは、私の全思想の鍵を得るものである」という台詞を自身の日記に綴っている…>
2の罪と未達成が見える。
1父親が呪った罪を連鎖として己もを抱えるから34歳で死ぬはずが生き続けた、しかし罪は消えない。死は未達成のまま生を続けた。
2レギーネとの婚約。そもそも婚約が若気の無分別の罪(耽美段階での無分別行動=罪、後述)。一方的に破棄したにもかかわらず未練は残り、レギーネが結婚しても夫への気付で手紙を送る、手紙は封を切らず返送された。42歳の死で呪いの罪は浄化されるも、無分別婚約は未達成のまま生涯に残った。
罪の思い返しの様はプラトンが説く« la réminiscence » と同列であり、罪である故、繰り返し表出してはキルケゴールを苦しめる。現実原理が発動する過程は « la capture, la forme, la saisie, le jeu, la prise, le mirage, la vie » であり、キルケゴールの精神はまさにこの原理に支配されている。そして « mirage » 蜃気楼は苦しい黒い蜃気楼と変わっている。
フロイトが説くコンプレックスとこの悔悟の流れがつながる。キリスト教徒としてのキルケゴールの心情はプラトンに同調し、かつフロイト説の実証であるとラカンは指摘する。
時系列としてはキルケゴールが没した翌年(1856年)にフロイトが生まれているから、フロイトがキルケゴールの思想、行動をつぶさに分析して、現実原理に採り入れた―が妥当だが、そうした解説には(罪の実存、プラトンの想起説)部族民の寡聞かもしれぬが、ラカン以外には出会っていない。
前述したがラカンが関心をもつのは行動であってキルケゴールの思想ではない。彼の行動を精神分析の手法にかけて、その「病理」を解析するために「多感な諧謔家」を選んだのだと感じ入る。
トラウマの固定には「繰り返し」が必要とされる(フロイトの臨床報告)。キルケゴールはフロイト学説に先駆けて、繰り返し体験を「実践」していた(著作Répétitions)。Zeigarnikはその理由を「未達成」なる故とし、プラトンは前世の記憶の蘇りと語った。ラカンは何を暴くか。達成に昇華すべく未達成を繰り返しても至らない、キルケゴールの根底に「段階」があると教える。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体 3の了(7月11日、次回は13日)
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部族民通信から深い哀悼

2022年07月09日 | 小説
安倍晋三元首相の訃報に接し(2022年7月8日夕刻)、部族民通信は深い哀悼の意を申し上げます。日本の改革、建て直しの道半ばにして凶弾に倒れた安倍氏のご冥福を祈るとともに、ご令閨昭恵様のご心痛を察し、渡来部蕃神より心よりの慰めを送りいたします。お気持ちが落ち着きましたらこれまで同様に社会活動に励んでください。

安倍氏の功績にはネットにても著名な方々が各各と語られますが、部族民(渡来部)として若者の就業機会の拡大を挙げたく、体験例を述べます。

縁戚の子息は2010年に大学を卒業予定でした。就職活動が思わしくなく、就職浪人を選び、一年伸ばして2011年3月に卒業した。この年も卒業学生数と比べ求人数は少なかった。結局、子息は就業を勝ち取れず2011年4月1日を迎えた。テレビでは恒例の入社式風景が流れたが、ニュース画面を眺めてはため息をつく姿も2回目、親としてもいたたまれなかったと縁戚から伺った。アルバイト先を探した。量販店客扱い、大手スーパー荷捌き…これらは単純作業だがそれなりの待遇は保証される(契約社員になれる可能性)。しかしそうした職場は競争が激しく決められない。待遇としては更によくない職場(時給アルバイト、スーパーに卸す個人経営店舗)を探しだした。仕事しながらも自身が収めた学業(経済)と仕事実態の差異に苛まれて年を越した2012年。いまだ就活失敗者には追い風が吹かない。12月になってとある求人に応じて翌年1月、内定を取った(渡来部の縁戚からの聞き起こし)。


最後の街頭演説活動の安倍晋三元首相。ネット採取、遺影。


第2次安倍内閣の発足は2012年12月、とたんに経済の風向きが変わった。企業の活動が活発化した風潮は、街に出てトラック数の増大で分かった。縁戚子息の就業も安倍内閣がなかったら(前民主党政権が継続していたら)実現していなかったと冷や汗を垂らします。

4月1日の入社式のテレビ風景をうつろ目に悲しむ卒業生が消えただけでも安倍氏の功績は偉大です。(7月9日)

部族民通信はいかなるテロに反対します。いわれない情報をまくり立てて個人を攻撃するのはテロです。主義によっては攻撃、妨害、工作活動を是認する党派もあると聞きます。主張を通すには個人攻撃ではない弁舌で、論理をもってなすべきです。(渡来部須麻男の投稿)
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 2

2022年07月08日 | 小説
(2022年7月8日)前回(6日)では<Kierckegaard, qui était, comme vous le savez, un humoriste, a bien parlé de la différence du monde païen...>を引用、拙訳をはさみました。キルケゴールを « humoriste » 諧謔家とする。引用文の後半では彼の考え方を « une pensée » 「とある思考」としているし、形容詞に « théoriale » なる造語を当てている。この語は辞書にはないから「理論みたいなもの」と理解する。ラカンのキルケゴール評価は思想家というより宗教家、信仰実践家である―と見る。


現実原理の一般的解釈を真っ向否定するラカン、その論説にプラトン、キルケゴールを持ち出すなどの筋立ては見事。

本書(セミナーII、110頁。現実原理 principe de réalité の立ち位置はの文などが見える。

引用文でのもう一の注目点は « le monde païen » の実体。直訳は異教徒の世界。実はキルケゴールが「あれかこれか」で展開する« stade esthétique » 、耽美段階がこの異教徒世界にあたる。人は外見(esthétique)を気にかけて行動する。そして行動の起点に存在(=罪)を経験(覚知)するまでに至らない、ここは最下層の世界と規定される。最下に対比される最上層世界は « le monde de la grâce, que le christianisme introduit » キリスト教が導く恩寵の世界。この段階で人は存在(罪)を克服し自由(神の恩寵)を獲得する。キルケゴールの生き方は己が主張するキリスト教実存主義によるとされるが、無信心(異教徒)から信仰の世界への上昇―とラカンは簡潔に正確に述べています(人の生き様段階とサルトル実存主義との比較は本連載投降の後半に)。
もう一点、同引用文の « objet naturel » 正しい対象とはなにか。
認識論である、ラカンは動物を引き合いに出す。その文節の引用は省く、内容は「対象を正しく認識するのは動物にとってお手のもの」である。この意味は、ライオンがシカを見つけたら獲物と正しく、対象の存在意義を認識する。ライオンにとりシカはそれ以上でも以下でもない。この理解が « naturel » で「対象が持つ本来の特性、価値」を見分ける認識となる。この本来が次の語の « quelque chose » と対照される。人は「何か」を動物的認識能力に付け加えている。「対象をその本来naturelとしてみていないと」キルケゴールを例に出してラカンが曰うのだ。
人が外界を認識する(現実原理)の手順は « la capture, la forme, la saisie, le jeu, la prise, le mirage, la vie »には定冠詞(la, le)が被されている。この文脈では、定冠詞は一般性を持つ定冠詞の用い方ではなく、それぞれは「見て認識する個体が感じている、個別の形態、連続性、蜃気楼」と受け止める。この認識では個の人の意識が取り憑く。個が「何か」対象に感じ取り、それは亢進の果に « mirage » 蜃気楼までかすめ眺めてしまう、これが人の「何か」である。
例を挙げよう。君がキルケゴールに劣らず多感だったら。
靖子嬢の顔(カムバセ)を見てなんともキレイ« forme » と感動する« capture »。感動する際にそれ自体の本来の形体に何がしかを加味している « la saisie » のだ。「文子様の若かりしに劣らない」としてないか。そこに連続 « jeu » の罠が隠れている。「さゆり様の鼻筋を彷彿とさせる」と思い込んだら、その顔の本来の特性 « objet naturel »(目と鼻と口の人の面)なんかすっかり忘れ、靖子嬢の背後に隠れる蜃気楼 « le mirage » 見ているのだ。
余計な何かしらが加わる人の外界認識、その発起点にラカンはプラトンの想起説 « la réminiscence »を重ねる。
「人は地上に生きる前に天上で生をおくり、自覚のないまま記憶思考を抱え込む。時にそれを彷彿と思い出す」の意味。メノンでこの仕組を論じている。部族民の付け焼き刃ではなく格式高い辞書からプラトンに入る;
<Platon explique la chute de l’âme humaine qui , après avoir vécu dans le monde d’ « en haut », est tombée dans celui du sensible en unissant à un corp. Cependant, à la vue des choses sensibles, l’âme est capable de rentrer en elle-même pour retrouver, à la manière d’un souvenir oublié, l’essence intelligible contemplée lors de son existence antérieure : c’est la théorie de « réminiscence » >(Nathan版Dictionnaire de philo.から)
訳:天上界で生を過ごした「心âme」は地に降りて感性に取り付き人の中で一体化する。感知されうるモノを見た時に精神は、記憶としては残していないものの、前世での叡智と思弁からなる本質を取り戻すこととなる。これをして« la réminiscence » 想起とする。
人の本質は叡智にあり、その源は天上界を過ごした心にあった。心が体験した風景、判断、思弁思索などが、その人が気の付かないまま心に抱え込み、あるきっかけで「想起」されるのだった。思い起こしするは形態のみではない。思索、思考も天上界からの引き継ぎである。ここがその後のプラトン理論の発展につながる。
Cogitoを人の本質とするデカルト、人が考える力はどこからもたらせられたか。天上界(神)からと決まっている。カントの先験 « Transcendantal » も天上に知の濫觴が求められる(両の哲人はこの点、知の本貫に説明を入れていない)。
君の別個体(アルターエゴ)が天上で生活していたのではない。天上に住まうは« âme » 心なのだ。
ラカン精神分析によるキルケゴール解体 2 の了 (7月8日 次回は11日)
蛇足:君と靖子嬢との因縁とは:天上でとある âme心が靖子嬢に出会った、その感性が君の心に降りてきて、靖子嬢の美形に地上でまたも惚れる。その様を蜃気楼に浮かべてしまうほどベタ惚れ原因は、天上でフラレたから。この世でもフラレてしまうかもしれないから用心。この忠告は部族民ヤッカミ邪心ではない、キルケゴールとプラトン、Zeigarnikがかく教えているのだ
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ラカン精神分析によるキルケゴール解体 1

2022年07月06日 | 小説
(2022年7月6日)ジャック・ラカン(精神分析学)セミナーII第7章 « Circuit » 周回を紹介しております。前回投稿は「分析快楽の果 、繰り返し1~4」(ブログ投稿6月17日~24日)。ここではフロイト説の快楽原理 « le principe du plaisir » と 現実原理 « le principe de réalité » の比較をラカン解釈を元にして紹介しました。人間身体を緊張伝達の機械と見て、リビドー(フロイトは性欲を当てるが、幅広い行動欲とする見方も)の亢進で人は快楽に突き進み、愉悦頂点に行き着いた途端、緊張の最下点 « au plus bas de la tension » に戻る、これが快楽原理となります。この緊張情報交流の仕組みを « cybernétique » サイバネチック、下点復帰の機能が« homéostat »として、身体系に固有の機械的働きであるとした。サイバネチック、ホメオスタット共に1948年に発表された(米国ウィナー)定義なので、フロイトはそれ以前(1890年代)に名称はつけず概念を確立して身体系に応用した―がラカンの説明です。
愉悦最上点と緊張下落は行ったり来たりの繰り返し« répétitive »を見せる。この自律系をラカンは « dialectique circulaire »「巡回弁証法」なる言葉で表した。弁証法は含意として「機械的」含みますが、働くのは人体神経系に限るので精神分析家としても抵抗はなし。
一方、現実原理とはどのような運動を見せるのか。これが今回投稿の主題です、ラカンは7章3部106頁の以降112頁までを現実原理の説明に費やしている。
快楽(本来は性的衝動に限定されるが行動欲、広い意味のリビドーとする見方も優勢)を望むも、すぐさまの行動を取らない原理であるとは(精神分析、心理学)で定義される。しかしラカンはこうした解釈に真っ向反対する。この原理を説明する用語 « apprentissage »(修得)の意義の捉え方で、ラカン(およびラカン派とされる集団)と一般精神分析側に対立を認めることできる。
一般側(反ラカン)を主流とすると解釈は;それを教育とする。ラカンが言い換えるとその仕組は« adaptation, par approximation… » 社会規範の採用、あらまし妥協などと説明されるが、これらの意味合いは普通の教育過程です。全く「精神分析的でない」。一方、ラカンが唱える« apprentissage » の仕組みは « トラウマle trauma固定la fixation再侵入la reproduction転移le transfert » と分解される。内省的かつ精神分析学と風合いが似通う仕組みとなっている。証明にMonsieur Gribouilleうっかり氏2度の失敗を挙げている。ここまでが前回投稿、おさらいです。
今回投稿はこの後文(106頁以降)となる。現実原理の作動解説となる。


キルケゴール(1813~1855年デンマークコペンハーゲン)を採り上げるラカンの理由はその学説を紹介するのではなく、彼の生き様と心象風景を解体するためです。写真はネットから


ラカンは自説の証明に3の先人を引き出した。彼らは:
1 プラトン。著作メノンなどで開陳した « réminiscence » 前世の記憶の生得観念説を持ち込む。
2 キルケゴールにお出ましを願う。著作 « Ou bien…ou bien » (あれかこれか)、 « Répétitions » (繰り返し)を引用する。彼の思想を採り上げるのではなく、生き様に焦点を当てフロイトの現実原理の典型例として語る。
3 心理学者Zeigarnik(1901~1988ソ連)の未達成効果。クルト・レヴィン(ドイツゲシュタルト心理学者)の説を心理実験で証明した。
Wikipediaを借りると「人は達成できなかった失敗や中断している事柄のほうを、達成できた成功体験よりも強く覚えているという現象。 ツァイガルニック効果、ゼイガルニク効果とも表記する」。映画予告編を見せると本編を見たくなる、箸を付ける前に皿を下げられると食せばよかったと悔やむーなどの説明に用いられる。未達成の恋愛、振られた相手に未練が残る、これもZeigarnik博士が証明したらしい。
本文、
<Kierckegaard, qui était, comme vous le savez, un humoriste, a bien parlé de la différence du monde païen et du monde de la grâce, que le christianisme introduit. De la capacite à reconnaitre son objet naturel, qui est manifeste chez l’animal, il y a quelque chose dans l’homme. Il y a la capture dans la forme, la saisie dans le jeu, la prise dans le mirage de la vie. C’est à quoi se réfère une pensée théorique, ou théoriale, ou contemplative, ou platonienne, et ce n’est pas pour rien qu’au centre de toute sa théorie de la connaissance, Platon met la réminiscence.>(Séminaire livre II,110頁)
訳:キルケゴールは君たち知っての通りで多感、諧謔の人であり異教世界とキリストがもたらす恩寵世界の隔絶を大いに語った。対象をそのものとして把握する能力、これは動物において顕著なわけだが、人はその能力に何かを加える。その何かとは形態を把握する能力であり、それを流れの中で掴み、生きる蜃気楼に重ね合わせることである。この絡繰りが彼の理論の、あるいは理論の皮をかぶった考えの、思弁的あるいはプラトン的理論を採り入れ基準点を形作っている。プラトンはすべて認識の中心にこの « la réminiscence » 想起を置いた。それはそれなりに意味があるのだ。

ラカン精神分析によるキルケゴール解体  1の了(7月6日)
(本連載投稿は全4回となります、次回は7月8日)
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