蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert 2

2022年08月31日 | 小説
(2022年8月31日)C’est aujourd’hui à Rosine LeFort que je cède la parole. Elle ouvrira des questions auxquelles je m’efforcerai d’apporter …
今日はMme Rosine LeFort (女流精神分析医、1920~2007パリ)に講義を譲ります。質問があれば何なりと、私も参加します―ラカンからの紹介を受けた彼女は原稿を広げ狼少年ロベールの報告を始める;
Mme LeFort : ― Robert est né le 4 mars 1948. Son histoire a été constituée difficilement , et c’est surtout grâce au matériel apporté en séances qu’on a pu savoir les traumatismes subis. 訳:ロベールは1948年3月4日生まれ、生い立ちを再現するに困難を伴った。診断を通して彼の受けた心傷の深さが浮き上がった。
(セミナーの日付は1954年3月10日、このときは6歳なので学期が始まれば学童、少年といえる歳となる。Lefortが観察診断を初めたのは3歳から、この歳では幼年。「狼幼年」が正しいから少年は誤用です。語感から少年とした)


小児精神科医 Rosine LeFort Robert を診察治療したときは30歳前半だった (写真はWikipediaから)

Son père est inconnu. Sa mère est actuellement internée comme paranoïaque. Elle l’a gardé avec elle jusqu’à l’âge de cinq mois, errant de maison en maison. Elle négligea les soins essentiels jusqu’à oublier de le nourrir.
訳:父親は不明。母親は今の時点で偏執狂として入院している。母は5ヶ月までロベールを手元に置いていた。その間、彼女は曖昧宿(maison)を渡り歩いた。Robertの養育を無視していた、食べさせることまで忘れていた。
周囲は赤ちゃんに構うよう諫めるが彼女は無視する。見かねてその筋に通報して栄養不良(hypotrophie)と判断されロベールは施設に収容された。
(LeFort女史の報告は事実のみを語る。この調子で淡々と事情報告が続く。イタリック体での文字起こしが10頁(107~117頁)に及ぶ。全文の紹介は無理なので、一部の引用に留める)


イタリック体での報告(文字起こし)本書107~117頁に渡る

Là, il est isolé, et nourri à la sonde à cause de son anorexie. Il en sort neuf mois, rendu à sa mère presque de force. On ne sait rien des deux mois qu’il passe alors avec elle. On retrouve sa trace lors de son hospitalisation à onze mois où il est de nouveau dans un état de dénutrition marqué. Il sera définitivement et légitimement abandonné des mois plus tard sans avoir revu sa mère. 
訳:施設でロベールは孤独だった。食事には食意欠乏(anorexie)を見せていたからチューブを使った。生後9月で強制的に母親に戻し、施設を離れた。母と過ごした2ヶ月の状況は何もわからない。生後11月でロベールは入院することになった、重度の栄養失調が露見したからである。この数カ月後に、母親行方は分からずのまま、最終的に放棄幼児と法的に判定された。
Il arrive donc à trois ans et neuf mois à l’institution, dépendance du dépôt de Denfert, où je le pris en traitement. A ce moment, il se présentait de la manière suivante.
Au point de vue staturo-pondéral, il était en très bon état, à part une otorrhée bilatéral chronique… Il ne savait dire que deux mots qu’il criait ― Madame ! et Le loup ! Le loup , il le répétait à longueur de journée, ce qui fait que je l’ai surnommé l’infant-loup.
Au cours de la phase préliminaire, il gardait le comportement qu’il avait dans la vie. Cris gutturaux. Il entrait dans la pièce courant sans arrêt, hurlant, sautant en l’air…
訳:ダンフェール(地名パリ近郊)の収容施設に付属する当院(小児保護施設)に預けられたのは生後3歳9ヶ月だった。その時の状態は左右に耳漏が見られるが、身長体重はおおむね良。彼は2語しか口にしない。ほとんど叫びでマダム、そしてオオカミ。オオカミを一日中叫んでいた、それ故オオカミの子と命名した。問診準備の間中も彼はいつもどおりの行動を採る、大声で叫ぶ、部屋にはうめき声を出しては飛び跳ね、休むことなく駆け回ります。
Il ne savait pas descendre l’escalier tout seul. Dire, sur un ton pathétique, sur une tonalité très basse qui ne lui était pas habituelle, Maman, face au vide.
Un soir, après le coucher, debout sur son lit, avec des ciseaux en plastique, il a essayé de couper son pénis devant les autres enfants terrifiés.
そしてこんな出来事も。階段に向かって一人、しかし降りられない。悲しげな目つき、いつも騒ぎ回る声とはかけ離れたとても低い声で、顔面蒼白にしてママンと一言放った。ある夕べ、ベッドに入ってから立ち上がり、プラスチックのハサミで自身の男性器を斬る真似をした。他の子たちは怖がっていた。
狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert 2の了(2022年8月31日)次回9月2日予
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert 1 

2022年08月29日 | 小説
(2022年8月29日)ジャックラカン著セミナーIフロイド精神分析の解析(Les écrits techniques de Freud)の紹介を再開します(ラカン著としたが彼が開催したセミナーの文字起こし作品)。
第8章Le Loup, Le Loup オオカミオオカミロベール、生い立ちは悲惨の限り。父親は分からず、生まれ落ちてすぐに母親からの虐待、育児放棄とみなされ施設に収容された。生育は遅れ言葉を発することすらできない。幼児心理学者Rosine LeFort女史が精神状態を診断、かつ人社会に適応させるための治療を試みる。3 年に渡る観察と育成、その報告と質疑がかわされる。Lacan le séminaire livre IのVIII Loup ! Loup ! Le cas de Robert(105~123頁)を紹介する。Lefort女史はラカンの弟子筋に当たる。
イタリック体で記される報告は10頁に渡り、受け入れから順応まで、ロベールの行動と変化を仔細に示す内容となっている。この口頭報告の前にしてラカンは特に時間を割いて、精神分析用語の解釈を披露する。いつもながらのラカン節の炸裂だがそれら用語、概念がロベールの心情と行動とつながるので、この冒頭を素通りはできない。
採り上げた用語は « résistance » 及び « transfert » 。両語ともフロイト用語で精神分析の基本部分を形成する。ここではrésistanceを抵抗、transfert は転移とする(精神分析医が用いる定訳があるかと思うが私訳として)。


ラカン先生、久しぶりの登場

それら概念、ラカン解釈は如何に;
抵抗とは―精神分析治療では被験者の病理(精神疾患)の原因は本人が自覚しない(記憶を封鎖した)過去の心傷に拠る。分析医との対話で根本原因である心傷をさぐるところから治療が始まるのだが、この進め方に被験者が抵抗し否定の口調、態度を顕にする。これが「抵抗」。この言動も無自覚域からの発端があると(分析医)は見る。
転移は―被験者が自己感情を分析医に移入する。フロイトが報告したO嬢の例を挙げる。友人の精神治療医から相談を受けた患者O嬢の病例がこれに当たる。精神疾患(拒食、失語、昏睡など)が認められるがある日、妊娠したと精神治療医をO嬢が訴えた。治療医とO嬢とにそうした交渉があったとラカンは仄めかしているのだが、訴え内容は妊娠。これが « pseudosyésis » 想像妊娠だった。想像にとどまらず腹部の腫張と月経の停止まで伴うらしい。俗語で « petit ballon » 小さな風船。
医師は妻を伴ってイタリアに近々旅行する、目的は今で言うところの「妊活」。それを知った彼女は子を望む医師に自身の身を「転移」し、医師の希望を実現せむとした。妊娠したのは(あなたの妻ではなく)私と主張した。
上記を予備知識としてラカン節のページに目を落とす;
Vous sentez bien toute la distance qu’il y a entre ― la résistance, qui sépare le sujet de la parole pleine que l’analyse attend de lui, et qui est fonction de cet infléchissement anxiogène que constitue dans son mode le plus radical, au niveau de l’échange symbolique, le transfert ― et qui nous paraît être le ressort énergétique , comme Freud s’exprime, du transfert, à savoir l’amour. (106頁)
抵抗と転移の差異を君たち(セミナー参加者、精神分析医)はしっかり認識していると思う。抵抗とは主体(患者)を言葉から隔離する(沈黙反応が多い)。主体が発するはずのその返事こそ分析医が望んでいるのだが。このときの心理状態はどのような仕組みかを探ると、(実情が暴かれてしまう)不安から精神屈折に押し込まれ、転移がもたらす「象徴的な交換」、その流れの極端に至った亢進の中でそれ(抵抗)が発現する。この転移なる現象は分析治療を通して、君たちも確認していると思う。それは勢い盛んに(患者に)現われるのだ。フロイトは性愛に起因が宿るとしている(括弧は部族民)。
意訳を心がけたがよりかいつまんで;抵抗と転移は、同じく、無自覚の心理の中で心傷と現実の葛藤から発現するが、様態は異なる。抵抗は多く無言、転移は医師への感情移入なので言葉を持つと理解する(前述、ラカンの説明)。この差異を君たちは臨床で経験しているね、とラカンが確認している。
一語 « l’échange symbolique » は分かりにくい。「象徴的な交換」としたが何のことか。説明はないから解釈しなければ先に進まない。ラカンは別著作で « fonction symbolique » なる概念を生み出している。小筆は「象徴の力」と訳した。Hyppolite(哲学、高等師範学校長)から「それは超越的 « transcendance » 力か」と問いただされたラカンは「超越」に同意する(Livre II 51頁)。すると心の中で何かを象徴として崇める行為は人に備わる先験能力であり、無意識の域に潜む。潜むだけではなく心情、行為に発露する。能動的行為 « affection » と位置付けされ、フロイトによればそれはLibido、性愛起源が源泉である(2022年3月30日ブログ投稿)。
上解釈を採り入れると、抵抗を見せながら感情移入に移る被験者はその時、象徴力と対話するのだ。Libidoに関わるからその原初はエディプスコンプレックス、母への欲望となる。医師と患者の対話に淀む葛藤、抵抗が転移に昇華する仕組みを語っている。
上に引用したO嬢は「エレクトラ」コンプレックスの例とみなされる。父の子を孕みたいとの願望を精神治療医に「転移」させたと捉えられる。フロイトは友人医師に « ça, c’est le transfert » それこそ転移だと諭した。
狼少年ロベール Le loup ! Le cas de Robert1の了(2022年8月29日、次回は8月31日)

余話:3週間のBlog休み、幾冊かの本を読んだ。関心高く読み込んだのは「生命の系統樹はからみあう」ディヴィッド・クォメン著、作品社刊。「生物学者はクジラは象に近いかサイにより近いかなどに関心を持たない。微小なバクテリアの構造と分類に血道を上げる人種」。ノーベル賞に生物学賞は設けられない、これまで授与された生物学者はクリックとワトソン(DNA構造)とマクリントック(跳躍遺伝子、とうもろこしの胚解析)のみ(本書では利根川進、免疫学のノーベル賞受賞には触れていない)。最もノーベル賞に近づいた生物学者カール・ウーズ(Carl Woese1928~2012年アメリカ、業績は古細菌アーキアドメインを発見、それまで生物は真核生物、原核生物の2ドメインのみだった)は2003年にクラフォード賞


生物学の巨人カール・ウーズ目つきが鋭い。写真は本書からデジカメ。

(数学、天文学、生物学などノーベル賞対象から外れる科学者にスエーデン国王が授与する)を授与された―これらを知った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野富太郎、シーボルト、お滝 4 最終回 

2022年08月15日 | 小説
(2022年8月15日)本書Makino(高知新聞社編北隆館発行、初版平成26年)を借り出した目的は昭和天皇とのつながりを確認したかったから。思わずシーボルトに筆先が向かったが、本筋となるべきくだりは;
昭和23年の秋、富太郎の自宅に宮内庁から電話が入った「お父さん宮内庁から電話ですよ、天皇陛下がお召しですって博士は左手を耳に当てて「陛下がこの私に…」ゆっくりうなずいた」(163頁)


山と積まれた蔵書から一冊を取り出し真剣に調べる富太郎(Makinoからデジカメ)


吹上御所を歩きながらのご進講となった。博士は武蔵野の植物についてご説明を申し上げた。陛下は興味深くお聞きになり、御苑の植物について専門的なご説明をなさった。ご進講の終わった博士に昭和天皇は「あなたは国の宝です、長生きしてください」励ましの言葉をさしのべなられた(同)昭和23年10月7日。
侍従談話が新聞に載った「陛下はいつも牧野博士の著作に親しんでおられ旅行先にも必ず携行される。博士の権威には大いに敬服しておられる」(165頁原文)
植物採取で健脚、生まれつきの強壮を富太郎は自慢するが加齢にともない体調が思わしくない。
「病状は深刻となっていた。7月には陛下から魔法瓶に入れられた見舞いのアイスクリームが届いた。12月に急性心不全の発作」これをやっと乗り越えて昭和32年の正月を迎えた。1月18日3時、命が尽きた。94歳。死去の18日付けで国は文化勲章を贈った。ひ孫の一オキ(氵に孛)氏は当時幼年、ご下賜アイスのご相伴に預かった「バニラ風味で美味しく頂いた」の記憶は懐かしげだった。
ある植物和名の決定に昭和天皇が関与した逸話は巷間に流れている。
世間に広まっていたのはムラサキダイコン、地方名でハナダイコン、ムラサキナナナ、シキンソウ。そして有力対抗馬がショカツサイ。この多年草は中国から渡来した、大陸に進駐した兵士が種を持ち帰ったから戦後に急速に広まったとも伝わる(あくまで一説)。大陸渡来の所以を和名に残す一派の謳い文句はかの諸葛孔明が愛でた「だからショカツサイ」(ネットなどからの情報)。こちらが和名に定着するかの勢いを得た、何しろ孔明なのだ。


和名オオアラセイトウの元になったアラセイトウ(ストック)。命名のこの経緯から両草の分類上の近縁が理解できる。原色牧野植物図鑑からデジカメ

孔明との縁はない、古く江戸期から広まっていたと知る昭和天皇は「牧野がそれと言うならそれが和名に適切」と侍従に漏らした。その名がオオアラセイトウ(大紫羅欄花)。天皇の一言で決着した。以上は人も知る話で、書籍ネットなどでその旨が語られるが、原典をいずれも出していない。侍従がどこかの新聞記者に語ったのなら記事が残るはず。部族民(渡来部)は未だその記事を見つけられない。この本ならばその原典を明らかにしている、本書を借りだす狙いはそこにもあった。しかし命名の経緯も昭和天皇の「お差し金」なる顛末も記載されていない。推察するに高知新聞としてもこの話を採り上げたかったが、原典を見つけられなかったのであろう。都市伝説に風化させたくないものだ。(渡来部須磨男の投稿)

元祖部族民トライブスマンこと渡来部須磨男の近影

牧野富太郎、シーボルト、お滝 4 最終回の了(2022年8月15日)
次の連載投稿はラカンに戻り「オオカミ少年ロベール」、8月29日から(予定)。

補記:本日は77回目の終戦記念日、戦死した将官兵士の方々、お亡くなりになった犠牲者様へ部族民通信より哀悼を捧げます
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野富太郎、シーボルト、お滝 3  

2022年08月12日 | 小説
(2022年8月12日)シーボルトが日本で発見し西洋に持ち帰った植物新種のなかで、紫陽花が西洋植物学者や園芸好事家の注目を最も集めたと、花姿と花弁の色変化から部族民は想像している。シーボルト命名の学名Hydrangea Otaksaに戻る。3年の蜜年を長崎鳴滝でお滝と過ごしたシーボルト。彼女を「オタキサン」と呼んでいた。富太郎が長崎旅行で確かめたのは謎のOtaksaの意味が彼の妻、というか愛人の呼び名に由来していた驚き発見だった。命名にあたっての私情を紛れ入れたシーボルト事情は富太郎を怒らせた。この経緯を学会雑誌に発表し義憤を晴らした。
この年を同書の暦年図録の長崎旅行から推測すると明治41年(1907年)富太郎45歳。しかし後のどんでん返しに富太郎が襲われる。
(シーボルトが申請したHydrangea Otaksaは以前に申請されていたHydrangea Macrophilla水辺を好む大きな葉と同種とみなされ受理に至らず、Hydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと認定された。Otaksaをより高位に置くシーボルト命名が受理されていると富太郎は、その時、勘違いしたらしい。後の「牧野植物図鑑」では上記の正しい学名でアジサイが紹介されている。本投稿は二の碩学心理の動きを対象とするので、以上は参考までに)
どんでん返しを時系列で読むと。
発見した経緯は「昭和2年(1927年)札幌からの帰途の仙台で植物学者木村有香(富太郎の弟子)の案内を受け新種のササを発見した」(Makino136頁から)その時の富太郎は65歳、「東京帝国大学で理学博士の学位を得て全国各地を飛び回って充実した1年を過ごした」(137頁)
私生活ではこの年は苦労が重なる。妻の寿衛(スエ)の病状が悪化して東大病院に入院となった。一旦退院、帰宅はあったが翌年(3年)に再入院となった。この退院の背景を本書は詳しくは語らないが、入院費が支払えない事情をほのめかす。再入院してまもなく蓄えが底をつき費用を払えず、強制退院の騒動を横に見て寿衛は息を引き取る。
前年、仙台で発見した新種のササを「54歳で亡くなった妻の寿衛を偲んで」スエコザサSasa Suwekoana Makinoと命名した。おや、シーボルトへの非難と比べると富太郎だって私情を入れてる、これは筋が通らないぞ。富太郎の変節ぶりへの説明を本書は「シーボルトのことを忘れていたのか、そんなことはどうでも良くなっていたのか。それとも、シーボルトの思いと重なる己を理解したのか」(141頁)と結論を持ち越す。


富太郎が発見、命名したスエコ笹。ネットから採取


「シーボルトがお滝さんの名を学名として献名したのは少々プライベートすぎる。寿衛子夫人は立派に研究を援助した研究関係者である」こうした見方も本書に紹介されている(元高知学園短大学長上村登)。上村氏は富太郎の弟子筋にあたる。好意の解釈が日本植物学の界隈では一般であろう。
ジャック・ラカン(哲学精神分析学)は何と説明するか。
親しい者の死を見届けるとは現実原理 ( Principe de réalité )の心理である。その受け止めとは « apprentissage » 修練の仕組みであり « トラウマle trauma、固定la fixation、再生産la reproduction、転移le transfert » に分解される。(GooBlog2022年7月6キルケゴール解体)部族民通信ホームサイトではhttp://tribesman.net/lacanrealite1.html)。
日本人の心理傾向からこれを言い換えるとまず心傷トラウマを抱える。哀しみと固定してfixation幾度も偲び返すreproduction。そうした哀しみ状態を乗り越えるとして心の転移(transfert)を試みる。ラカン著のセミナーIIではmirage 蜃気楼を求めるとも記載される。日本語はそれを面影と伝える。面影を追い求める行為が追憶となり、幾度も幾度も、見果てぬ影を追う。
富太郎にあって妻の寿衛の追憶の証が学名への献呈であったのかもしれない。同じ苦悩をシーボルトが抱えていたはずだ。追放、再入国まかりならぬの処分を受けて1829年の別れの出国。オランダライデンに居を構えても1830~50年代には日本は厳しい鎖国としか情報を得られない。二度と長崎の地を踏めないとの覚悟が生き別れ、シーボルトの苦悩。

お滝の面影を学名に移し替えたとは現実原理の為せる心理行為からであろう。富太郎と同じ心理の流れtransfertをシーボルトが一世紀前に経験していた。否、彼の苦しさは富太郎のそれ以上であろう。寿衛と富太郎は死に別れ、シーボルトを襲った運命がお滝との生き別れ。生き別れが死に別れに比べ何層も辛いとは古く伊勢、源氏物語にも参照できる。
♪世の中にあらん限りやスエコ笹♪(寿衛の墓碑、本書から)
シーボルトの苦悩、アジサイにも思いを巡らそう。


アジサイ、牧野原色植物図鑑からデジカメ。正しくHydrangea Macrophilla Seringe Otaksaと記される。

牧野富太郎、シーボルト、お滝 3 の了 (次回は8月15日、昭和天皇と富太郎、最終)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野富太郎、シーボルト、お滝 2 

2022年08月10日 | 小説
(2022年8月10日)高知新聞社編のMakino紹介を続けます。
前回は「お滝がシーボルトに接近できた」経緯は遊女だったからの通説を排して、蘭学を学びたいために遊女に身をやつしたなる珍妙な江戸期「元祖リケジョ」説を述べた。裏打ち証拠を部族民(渡来部)は持つわけはないが、思いつきとして切り捨てるに我ながら惜しい。間接状況はお滝の素性が並大抵ではないことを教える。
シーボルトは1828年に日本を離れた。オランダ船でオランダ領バタビヤ(ジャカルタ)に向かい、その先ライデンには東インド会社定期船に乗り込む計画であった。このオランダ船が長崎離港の直後、暴風にあおられ積荷が海岸に漂着した。この籠中にご禁制の日本地図(伊能縮図の写し)が入っていた。顛末は従来から流布されている難破説をもとにした。近年になって、越後屋長崎代理店支配人が幕府に垂れたご注進が発端との説が有力と聞く。前説をとると乗船離日の後に「日本追放」処分された。後説では出発前に追放処分を受けたとの流れ二通りが設定できる。
なぜこの順に拘るか、別れに際して二人の心境事情が異なるからである。シーボルトは3年を目処に帰国する腹積もりだった。お滝にもそれを言い含めての帰国計画であっただろう。出港前の処分であれば悲しきも重層する別れであったろう。シーボルトはお滝に寄港地パタビアから3通の手紙を出している。お滝の返信が近年発見された。シーボルトはこの手紙を肌見放さず保管していたのだ(この事情はデジタル朝日のネットで調べられる)。
手紙写真には同サイトから接近できるが、コピー転載は不可なので注釈のみを。巻の長さは3メートルを越す長文、お滝心情が崩れ女文字の達筆でルルと書き込まれている。一部を引用する;
「3通の手紙は届きました。ありがたく思っています。お元気でいらっしゃると聞いて、とてもめでたく思っています。私とおいねも無事に暮らしています。船の旅を心配していましたが、滞りなくバタビアにお着きになって安心しました。不思議なご縁で数年間おなじみになっていたところ、日本でいろいろと心配事が起こり、あなたは去年帰られました。涙が出ない日はありません。お手紙をもらい、あなたのお顔を見た気持ちになり、とてもゆかしく思います。この手紙をあなたと思って、毎日忘れることはありません。おいねはなんでもわかるようになりました。毎日あなたのことばかり尋ねます。私もあなたへの思いを焦がしています(原本はライデン大学図書館、発見(1997年)した宮崎克則西南大学教授の提供、デジタル朝日から孫引き)
「不思議なご縁」「数年のなじみ」「日本で色々と心配事が」に拘りが生じた。


手紙に記されている何でも分かるいねは3歳だった。日本で始めての女医、長崎の医院を閉じて上京した晩年の写真。ネットから採取。


3の拘り、その最後の「心配事が…」の意味合いをして、追放に至った事情を二人が再確認しているかに受け止められる。別れにはすでに「国外追放、日本再上陸禁止」が決まっていた。「もう二度と会えない」をひしと感じていた別れであった、文面は二人が悲しみを分かち合っていた事情を伝えている。越後屋の幕府ご注進に真実味が帯びる。
難破説によると3年の後の再開を確認する希望に包まれる別れであった。それに対して越後屋仕掛けでは二度と会えない覚悟の別れ、いずれが悲しいのだろうか。悲しさの軽重を問えないけれど、もはや会えない別れには諦めが悲しみに重なり襲う。お滝にしてもシーボルトも悲しみが副層した心情を内に秘めて別れに望んだ。これがシーボルトの長崎船出であった。学名にOtaksaを配した彼の心境を牧野富太郎に後にする。
前の2の拘り「不思議なご縁」「数年のなじみ」に戻る。なじみは「なじみ客」に通じる。同じ遊女に久しく通う客、その遊女の意味合い。しかしこれは第二義である。第一義は「長年月馴れ親しむ」(大野晋編岩波古語辞典から)。男女、夫婦関係に用いられる。幼なじみは昔からの友人を言う、仏語mon vieuxにあたる。ご縁に関しては「夫婦、親子など人間のつながり」(岩波古語辞典)。「縁を結ぶ」「縁は異なもの」などナジミの格言に用いられる、こっちはdestinか。
接した文は一部であるが、文調を通して睦み合う夫婦の様が読み取れる。しかしこれらをして遊女ではないは速すぎる。
さて手紙は1830年(天保元年)12月の日付が書き入れられている。
当時の女性の教養の程度を小筆は知らないが、遊女であっても読み書きはモノにしていたかもしれない。寄席小話で足が遠のいた上客に遊女が来ておくれな、催促の手紙を出す逸話も聞かれる。そうした端文と長文の作文能力は別である。手紙ならばまず時候の挨拶、相手と家族への思い図り、そして己と家族などの近況報告、続けて懐かしみと恋慕の心情の吐露、締めくくりの祈り。こうした構成で3メートル文を書きこなすには相応の教育を受けなければ難しい。
それをこなしたお滝の才能は一時の寺子屋教育では難しい。女子の読み書きそろばん教育には2~3年が平均だったとも読んだ。
3年期限で再来日するとの約束は本気であった。シーボルトの再入国禁止は日蘭友好条約の締結(1858年)で解除になって、翌年彼は来日した。3年が30年に伸ばされたけれど約束どおりに長崎に戻ってお滝との生活を再開した。やはりお滝への恋慕をそれほどに強くもっていたのである。このような状況をしてお滝は遊女ではないと思うのですが。


自由民権の闘士富太郎(中央)、写真はMakinoからデジカメ。

牧野富太郎、シーボルト、お滝 2  の了(次回は8月12日)

ピンカートンはお蝶に手紙を送っていないし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

牧野富太郎、シーボルト、お滝 1 

2022年08月08日 | 小説
(渡来部須磨男の投稿,2022年8月8日)
本投稿に立ち寄る皆様に残暑お見舞い申し上げます。北陸、東北の集中豪雨の被害を被った方々に部族民通信からのお見舞いを申し上げます。渡来部が起稿する居場所の陋屋は東京日野市、昨日までは一時の暑さが和らいだ日々を、快適とは言わないけれどそれなりに数日を過ごしていた。本日になって、朝から夏の暑さが再来した。皆様のお住いの地はいかがでしょうか。
これほどの暑さにあっては草ムシリ、チャリ巡行は叶わず、部屋にこもって読書をもっぱらにしています。市立図書館を訪れ、棚に目をやるとMAKINOなる書題を見つけた。マキノであれば富太郎とひらめき借り入れ、さっそく頁をめくり読みふけった。(高知新聞社編、平成26年初版、北隆館発行)。植物分類における彼の功績、発見、その採集旅行を経時的にまとめ、かつ小学中退の事情、結婚、家族、困窮などの私生活を挟んだ洒脱な文の運び、名著です。
しかしこんな一節に戸惑った。


富太郎20歳の写真(本書からデジカメ)


「植物を命名するに私情を挟むことを牧野は嫌悪した。シーボルトが日本のアジサイに学名を付けて発表した。学名(Hydrangea Otaksa)、HydrangeaとはHydro水に由来するから「水気の」の意味となり植生を伝えている、しかしオタクサなる語はなにか。日本の植物学者にとって謎だった。牧野は調べる。初めはシーボルトが住んでいた長崎での地方名ではと推測した。長崎への採集旅行の折に調査してもそのような事情は見つけられなかった。そして、シーボルトの愛人楠本滝の通称「お滝さん」にちなむと分かった」(本書140頁)牧野は怒った。学会誌でシーボルトを激しく非難した。「清浄な花姿が名前で汚されている」と。(長崎に旅行したのは明治41年1908年、富太郎46歳とある=本書から。学会雑誌投稿もその年かと)


本書MAKINO

怒りは学に関わる人としてもっともであると理解する反面、余りにも人の心情、哀慕など心の動きを押さえつけた「学術至上」の原理主義かと部族民は理解してしまった。この頑なさは富太郎(晩年の)好々爺の風情とはかけ離れていると迷った、戸惑いの理由がここにある。
シーボルトと滝(楠本)の情報をネットで探ると;
彼が来日したのは1823年、通詞からオランダ発音の不正確さを指摘されると「オランダ高地人」としてドイツ訛りをごまかして、追放処分を切り抜けたなどの挿話は愉快(オランダの別名はPay bas、低地の国。山も丘も高台すら見えない、そんな国での高地人、ありえない人種を創造してしまった)。滝と知り合い、滝はシーボルトの子イネ(1828~1903年)を生む。滝の素性を「遊女」とする見方が一般である。出島には女性の出入りが禁じられて遊女のみが許されていた事情からの推察である。また其扇(ソノギ)なる遊女名( ?)を用いていた事実も残る。
渡来部は別の推測もあって然るべきと感じる。
出島に監禁同然に監視されていたオランダ人であるが、医者は別待遇。病者を診察する理由が立てば長崎市内への外出は可能。この条件、誰を診立てられるのか、頻度は、謝礼に決まりはなどの情報はネットでは不可能だった。しかし肥前藩高官、裕福な商人に限られているかとは容易に理解できる。武家商人らを通して「シーボルトはタダの医師あらず、博学に長じた学者」なる評判が立ち、鳴滝に塾を構えるまでに至ったのであろう。
鳴滝では日本人子弟に学問を教授し高野長英,伊東玄朴など後に日本医学を牽引する俊才が排出した。しかし全員が男。封建時代にあって女は読み書きそろばんで十分、学は要らない、まして蘭学など。滝に鳴滝に参加は能わず、やむを得ず遊女に身をやつし、出島にシーボルトを突撃したのではないだろうか。今のリケジョの元祖だったかもしれない(このあたりは推察)。シーボルトと滝が居を構えたのは塾の近辺であった。シーボルトは滝をなんと呼んだか。オタキサンに決まっている。
牧野富太郎、シーボルト、お滝 1 の了(次回は8月10日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする