蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

古い友 3

2012年07月31日 | 小説

卒業しても定職にありつけず、ようやくそれらしき職と出会ったのが20代が終わる29歳。前回、柴又で寅さん演技(=古い友2)でうつつをぬかして2年余が経過した。見まねで仕事を覚え30を迎える頃にはやっと人並み、忙しくなった。
学歴もない渡来部がこれほどなら友人達はそれ以上に忙しい有様で、年賀状やたまの電話で近況を語る程度の付き合いとなった。
そのうえ家庭諸般に休日の時間をとられる歳にもなってきている。
30歳代とは仕事、家庭生活で人生の節目をこえる時期だ。今でも、私が30歳代だった30年の昔も、この変化に耐えろと試練が待ちかまえる10年である。

サエキとも疎遠になったが、それが当然で「奴も仕事を山と抱え迅速に処理している」と自然に推測していた。事実、コーカン技師との米国出張でハクをつけ、良家才媛との結婚と人生の節目を着実にたどった。
不調が聞こえてきたのはその年代の半ば。友人から「奥さんとうまくいってない」と聞かされた。「一緒になってすぐに不和が始まった」から、その時すでに別居していた。
この状態でサエキにどのように連絡を入れるのかが思い浮かばなかった。別居事態が友人の言葉に慰められるなどないし、「カミさんに逃げられたって、驚いた」と電話入れるわけにはいかない。思いあぐねているうちに、入院中との続報が湘南のある地名とともに入った。
その名はアルコール依存を治療する専門医療機関の場所であるし、国府台に住むサエキがわざわざ湘南の地に入院におもむくのは、依存症の治療のためでしかないと知るべきだったが、そこに気付かなかった。友人は見舞いを計画し実行した。私は同行しなかった。
千住に住み松飛台(松戸市)に通う私には時間やり繰りが難しいと断ったが、これは言い訳。正しい理由は、依存症とは知らずただ安直から「奴のことだ、ちょっと身体をわるくしたのだ。年齢からしてすぐに快癒するはず」
全く誤解していたのだ。
しばらくして転院の連絡を受けた。場所は飯田橋近辺。今度は医療機関の名称から依存症とは分かった。その時嫌な記憶が蘇った。鴨せいろを楽しんだ一茶庵でのやりとりを思い出したのだ。
クボタでほろ酔い加減の渡来部はサエキとタカノのやりとりを聞いていた。
サエキが「どんなに酒を呑んでも酔わない」と自慢した。
「そんなことはないだろうよ。人は酒に酔うもんだ」とタカノ
いつの間にか「その証拠を見せてやる」となって、サエキが冷えたクボタの4合分をなみなみと大ジョッキに注いで一気に開けた。
「すごい、見事に一気に」とタカノが驚く。サエキは「まあこんな具合、少しも酔わない、この感じで何杯もいける」と涼しい顔が自慢げだった。

酔わない者が飲み続けるとどうなるか。酩酊を求めても覚醒のまま、もっとアルコールをと永遠に飲み続ける。頭脳は明晰のまま、しかし臓器が不可逆の不全を引き起こす、こうした依存症があると知った。

病棟で見たサエキはまったくの別人だった。彼が長く病んでいたと気付いた。

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夏は夜死ぬ(詩)

2012年07月27日 | 小説
夏は夜死ぬ
      

夏の夜、悲鳴が聞こえた
夜空を恨み、星を呪う寡婦の叫びだ。
南風が叫びを運ぶのだから
丘を越し谷にまわり呪いは街にさ迷う。
灯りに漂う笑いが悲しいのは
捨てられた寡婦の呪いがこもるからだ

あの悲鳴を知ると女が言う
はぐれ亡者のすすり泣きだ
二七㌔南の海浜に松が茂り
操車場が浜を丸く囲む。
レール下に幾首かの死体が埋められている。
浜風が砂に囁く、亡者ども立ち上がれ、
気動車に乗りあの世に行くのは今だと教えた

砂浜に気動車が立ち上がった
気動車は亡者を乗せて砂間に混じり
熱い海流にその身を投げ、光届かぬ海溝をめざす
しかしレールは砕け車輪は砂のわだちにはまった
黒い巨体が砂浜を進むものか
風に笑われ波に阻まれ松林に立ちつくした
おびえる気動車、すすり泣く亡者ども
海を逃した恨みを夏に伝えよと、
悔しさを夜風に託したのだ。

私はこたえた。松林の砂浜で 
女の死体が泣くのを見た
裸に剥かれ、波に肌を犯され
下腹部に垂れる血が浜を黒く穢した。
狂いの海鳴りが背を鞭で叩いた。
女の死体が泣いたのは屍肉をえぐる鞭の痛さではない
波に裸身を捨てられず、海の底に漂わず
風に吹かれ砂に責められ、松の陰で泣く屍を恥じたためだ。
砂浜に屍を曝す女の悲鳴が聞こえるのだ

死んだ女が砂にまみえたから私は女に迫った。勃起は夏の夜への献げ物だ、お前の身体で夏を祝福しろと。女は拒んだ。夏から逃れようと身をねじ曲げのたうち、狂う私をののしる。部屋に息がむせ私はむさぼり、女は黙った。
熱い息は冷たい汗と混じらない。肌が青く光ったので、のたうち拒み夏を罵る女は死体だと気付いた。

その時悲鳴が聞こえた。ブブブイーーン
女よ、あの悲鳴を聞いただろう。
はるかに遠い南の海原からの叫びだ。
風すさぶ波間に海獣が漂う。
波に溺れ力尽きて死ぬ。
最期の叫びが今部屋に届いた、
ブイイブイーン
海に沈み波に消え、海底におちた海獣。
女よ砂浜の亡者よ、路をさまような。
悲鳴はお前達旅立ちのはなむけなのだ。

夏が死んだ。          (了)




渡来部が住む多摩のイナカは安普請、掘っ立て仮居から撮った不気味な夕焼けです。夏が死ぬまでに幾週を待たなければなりません。そして夜の悲鳴は今年も聞こえます。





         



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古い友 2

2012年07月20日 | 小説

(黄ばんだ白黒写真、アルバムに貼り付けられたまま40年近くも経過した)

1回(7月15日投稿)は梅雨の最中であった。7月17日に関東では梅雨が明け、青の空に白い雲が飛ぶ夏の盛りに入っている。
上掲の写真は古い友2人と投稿子(渡来部)のありし日の姿である。マスクを掛けていない右に立つのが私、27歳の渡来部です。写真を掲載するかしないかでしばらく悩んだ。私の筆力では彼らの若い時の姿など描写できないので掲載すると決めた。マスクを入れるか入れないかでも悩んだ。私本人はマスクなしだけれど、2人には影像プライバシーがある。いや、彼らにはプライバシーはもうないのだ。二人は鬼籍に入っている。
死者の遺影にマスクを掛けるのは逆に死者への冒涜か、いろいろ考えているうちに夏になった。

3人並んだ写真はこれ一枚しかない。撮影の年月、日時は思いだせる。
私(渡来部)は東京の下町、立石で育った。26歳の時ある事情で練馬区に引っ越した。その地の風土が合わなかった。4カ月で下町に戻った。戻ったのは立石ではなく北千住の小さなアパート。
それが昭和49年(1974)27歳。戻りの年を覚えていたから写真の記憶が蘇った。
その年、4月14日は日曜、朝10時に、高校以来の友人から電話を受けた。
「国府台のしだれ桜が見頃だから」千住でくすぶる私に勇気づけを考えてくれたのかも知れない。こもるだけの私は二つ返事で承諾。ついでに「あいつもドーセ暇なんだから」呼ぼうとなった。電話をかけた友はサエキ写真左、中央がドーセ暇なご人のタカノ。(名はいずれも仮称)
「柴又で1時半集合」と決まった。
参道のダンゴ屋さんを冷やかして、帝釈天で笠置衆みたいな御前(映画男はつらいよ)をさがしだして、江戸川土手に出る。矢切の渡しで市川に渡り、国府台で花見、サエキの自宅でコーヒーを愉しむとなった。
上掲写真は参拝の小粋なお姉さんに撮影ボタンを押してもらった。帝釈天境内、時は14時、寅さん風に粋がれるかを競った実況である。サエキとタカノはそれなりに雰囲気があるが、渡来部は「手前生国は葛飾です…」の啖呵切りだが、すこしも寅さんではなかった。
笠置衆の御前様は見つからず、満員の渡しに乗り込んで対岸の市川。頃合い適い満開の八重に一重、花叢を重ねる枝々がしだれてなびいて、渡来部は花吹雪を全身に浴びて、この春うれしい気分にやっと浸れた。花を後にしてサエキの自宅に案内された。国府台の静かな屋敷街、その中央に位置する敷地は200坪を越す。総檜で総瓦、破風の窪み深い昔ながらの造り。通された居間には檜の香りがあふれていた。
サエキは青砥の育ち、出会った高校は江東橋。引っ越したとはその日初めて聞いたので、青砥の家(これも立派な門構えだった)は売ったのかと聞くと「残してある、祖父祖母(ジイサンなどと口語で述べたが)が向こうに住んでいる」との返事だった。「この土地は昔から持っていたので、いずれ所帯持つから上屋を建てた」すなわちこれは27歳の彼の自宅、すこし羨ましかった。
挽き立て香り豊かなコーヒーを出してくれたのが御母堂。「一人では何も出来ないから食事の面倒を見に」青砥から寄ってきたとのことだった。
鈍いのでその時は詮索しなかったが「いずれ所帯」とまで言ったのは、話しは具体的に進んでいると気付くべきだった。新屋で伴侶として住む方は1月後に紹介された。耶蘇系の女子大出、大手の外資製薬会社で働く、思わず目を見張るキャリアレディ。
コーヒー飲んで暇をすると「駅前に旨いそば屋があるから」と誘われた。そば屋は一茶庵、タカノも合わせて3人で「板ワサ、天抜き」でクボタをちびりちびりやって鴨セイロで閉めて、帰りは10時を回った。
サエキは大岡山の工業大学を卒業、コンピュータソフト開発会社に入社した。頭の切れが早かったのは見事で、第一回目のSE試験を一級に合格している。電子交換機のソフト開発、化学プラントのプロセスコントロール、そしてこの時期には国家的プロジェクトともてはやされた「オーギ島」のプロセスコントロールにチーフデザイナーとして参画した。
自身の城としての自宅確保、才媛キャリアレディとの婚約、仕事は順風満帆、来週にコーカン技術者を本場米国のプロコン現場に案内すると張り切っていた。
27歳のサエキのこの環境は、渡来部が営々と40年くらい掛けて達成したい究極目標みたいな高みだ。たとえ目的としたところでたどり着くわけがない。渡来部、今の状況、家と土地、伴侶、仕事をみれば、サエキの27歳に劣っている。
しかしなぜか彼は元気が無かった。春の日曜の半日を共にしたのだが、婚約していた才媛女子との連絡は無かった。(古い友3に続く)

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古い友 1

2012年07月15日 | 小説
「友」も「古い」も日本語なのでこの(首題)言い回しは当然ある。しかし意味が伝わらない。無理矢理に解釈すれば「古く=昔=からの友」かも知れない。でもその言い方を日常で使うかとなると滅多にないだろう。この語があらわれるシーンを想像するとたとえば夫婦の会話。嫁が夫に「山田さんから電話あったけれど、最近に友人になった方なの?」夫答えて「いや昔からの古い友達だよ」
このやりとりでは「古い」がしっくり理解できる。「昔から」の時間的長さが規定されているので、今も親しく付き合っているとのは語感はない。古いの本来の意=古ぼけた=にも結びつく。親しさを表すには「親友」がある。
この「親友」はしかし使いにくくて、その意味は間接的です。どういう事かというと面と向かって=キミは私の親友だ=とはフツーは言わない。では日常でどんな使われ方するかをかんがえると、先ほどの夫婦の話「山田さんて気味が悪いわ、あなたが何時に帰るのかをしつこく聞くのよ」「言い方が乱暴だからな、しかしヤツは親友だから適当に」こんな状況です。山田さんがそこにいないから「親友」と語るので、山田氏に「ボクのシンユーよ元気かね」とは言わない。この語が借り物(漢語)なので日常会話では異質な意味と音の響きを感じるためと思う。

「古くから」と「親しい」を合わせ持つ言葉は日本語には存在しない。「竹馬の友」は子供の時期からの知り合いで、きっと親友だろうが意味としてはあくまで「タケウマ遊び」からの友、これも時間的な尺度を表すだけです。いわくある政商氏を「フンケイの友」と呼んだ宰相がいたが、フンケイ=首切り刑=されても付き合いを守るとの意味らしいが、この語はフツーは使わないし、そもそも日本語になっていない。

突然フランス語になって恐縮だが「古い」と「親しい」を合わせ持つ言い回しがある。古いはヴィユー(女性形ヴィエイユ)でこれが友=アミ=を形容すれば、古い友となる、しかし意味合いは「気心しれた」が勝る。そして日常会話でも詩でも頻繁に出てくる。フランス人がこれをどう使うのかを知りたい方は、ブラッサンス(Georges Brassens=フランスの詩人、歌手1981年に60歳で物故)が唄うヴィユーレオン(le vieux Leon)を聞いてください。(YouTubeで拾ってください)
歌詞は:15年間病気だった「私の古い」レオン、今天国にアコーデオンを携え旅立った。天国でバストラングとジャバ(=いずれも古いダンス音楽らしい)はジェオバの元でも奏でられるのを知るだろう…(出だし部分、全訳は私の仏語力では無理)
アコーデオン奏者のレオンが実在したかどうかは調べられなかったが、Brassensの音楽仲間で幾分古風なアコーデオン奏者と臭わせている。天国ジェオバのもとにとあるから、ユダヤ教徒であるかもしれぬ。仲間ではあるがスタイルの差などで共にステージに立つ機会はそのうちになくなった(前はあったらしい)、15年も病んでいた。レオンは「古い友」だった。

ブラッサンスはこの自作曲を悲しみに流されず朗々と歌う。その状景は埋葬に霧が流れ、その霧につつまれるレオンが天国に立つかに見えた。古い友との惜別、共に仕事した思い出、死後の無事なる昇天、そして病身の友を疎遠に扱った悔悟、これらが歌を聞く者に伝わる。この歌が悲しく響くとしたらレオンが「古い友」だからだ。「古い」にこれほど多くの感興がこめられているかに驚く。

古い友とは:昔から、最近出会った友でも気心知れた、仲間内だからハメはずせる、異なる信条違う宗教思想でも構わない(レオンはユダヤ教徒)、昔はよく付き合った、今は付き合い減っても気持ちの上では友だ!
などの奥深い含蓄がありそうだ。
日本語の「昔からの友+親友+フンケイ」よりも幅も奥行きも果てしなく大きいのだ。そんな男同士の付き合い方がフランスにはあるのだと知ると、日本人の私は矮小さにおびえる。

 このヴィユー古いがすごいのは、日常の会話で使われる気安さも持つのだ。モンヴィユーと初めて言われて時は困った。直訳すると「私の老人」、2日前に知り合った学生仲間からこう気安く声をかけられた。私を「老人」とは一体なんだ、一瞬とまどって返事出来なかったが横から親しい知り合いが「ヴィユーとはサンパの意味になるわよ」と助けをだしてくれた。サンパとは親しいの口語である。
この話しは渡来部が若かりし頃パリに留学していた時の1シーンである。それ以来、耳をすまして仲間の会話を聞いていると古いヴィユーがなんともよく出てくる。日本語の古いにまつわる「古めかしい」「古ぼけた」の意味はなく、気心しれた、親しいだけに使っていた。
モンヴィユー、マヴィエイユ(女友達にはこう言う)が私からもすんなり出てくるころには、いっぱしのボーガァ(ボーは美しい、ガァはギャルソン、このボーを字義通りに信じないでください)となってカルティエラタンに住んでいた(40年以上前です)

私には2人の古い友がいた。梅雨にはなぜか2人を思い出す。(続く)

ブラッサンスのCD写真を添付しました。物故して32年が経過した。渋い声、わかり難い歌詞(というか全く分からないのもある)で人生を唄った歌手だと思います。30年間3枚のCDを聞いていた。
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