蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

贖罪と許しの歌声、涼風真世エリザベートを歌う

2008年12月23日 | 精霊
話題のミュージカル「エリザベート」を観劇に行きました(12月22日、東京・帝劇)。目的は1にも2にもただ1つ。天使の声を持つ涼風真世さんの歌を聞かせてもらう事。宝塚を退団なさって以来ミュージカルでの本格出演はなかったので、今度こそ涼風節を堪能できるはずと片田舎(日野)から丸の内へと上京しました。結果は狙い通り、たっぷりと天にも昇る歌声を堪能しました。

この劇は神聖ローマ帝国の崩壊(1806年)の後の中欧の政治混乱、旧来勢力のハプスブルグ家がオーストリア帝国を創設し(後にオーストリアハンガリー2重帝国)旧体制の維持に執着する。しかし時代の流れは自由と民族主義、他民族国家の帝国では反乱テロが続発する。苦悩する皇帝フランツヨーゼフと妻のエリザベート皇后(愛称はシシー)そしてシシーの暗殺。
シシーは生涯の後半を旅行の継続という変わった習慣で知られていました。その理由は堅苦しい宮廷生活に嫌気がさしたと説明されていましたが、劇中で新解釈がでています。ウィーンをはなれ20年近く、放浪の果てにスイスジュネーブで無政府主義者(イタリア人ルケーニ)に針のような暗殺ナイフの1刺しで殺される。
この史実を背景にして、地獄に堕ちたルケーニが暗殺理由を釈明するシーンで始まる。それは「シシーが死を望んでいたのだ、彼女の人生とは死をいつ成就するのか、それを死に神トートと対話していたのだ。シシーの美は死に神トートすら魅せていたのだ」と驚くべき内容。シシーの心の彷徨を、皇帝との生活と帝国の歴史に重ね合わせて物語は流れていきます。

涼風真世氏、当時ヨーロッパ1の美しさと誉れ高かったシシーの再来もかくやと思わせる舞台映えでした。そして私の目的の歌声は、
張りのある高音部が帝劇の高天井をも突き抜け天に昇る勢い、劇空間の全域に鳴り渡り皆も私もうっとり。低音は独特の鼻にかかる甘い響き。聞かせどころでテンポをほんのすこし遅らせる節回し(これが涼風節)、天性の歌唱力でシシー内面を歌でも聞かせてくれました。カーテンコールは鳴りやまず、客席が総立ちのオベーションでした。
しかし若干の不満が残りました、それは死に神トート(山口裕一郎)を擬人化しすぎているという点。山口氏は浪々と生々しく歌っていたのですが、死に神らしさがなかった。これが小池氏一流の「大衆化」なのかと劇場では半分納得、しかしふと重要な事に気づきました、それは…

帰りの電車で気づいたのが小池修一郎さんの出世作、「天使の微笑み悪魔の涙」(宝塚歌劇、月組1989年)。この作品で小池氏は宝塚演出家の地位を不動のものにしたのですが、悪魔(メフィストフェレス)を演じた涼風真世(当時は20歳代)の迫真の歌唱力が一役(二役も)かっていました。今でもCDを聞くと、アルトの甘い声で迫る涼風に「こんな悪魔が出てきたら魂すぐに売ってしまう」と危なさを思わせる歌唱です。
電車に揺られての私の結論は、今回のエリザベートは小池氏の罪滅ぼし+悪魔探しです。宝塚の妖精との評判だった涼風を悪魔に売ってしまった悔悟から、20年たったいまエリザベートで天使に引き上げた贖罪の演出であった。涼風は小池氏を許し悔悛に応え、いま帝都の晴れ舞台で天使の歌声を浪々と響かせている。
劇中許しを請う皇帝、シシーは全てを忘れ許すと贖罪を受け入れる。贖罪への許しはシシーの心中でもあったし、エリザベートを得た涼風の気持ちでもあったのだ。彼女の声が高らかなのは歌いながら2重の許しを感じていたからだ。


小池氏のもう一つの狙い、新しい悪魔を創造する、生きる人間のように生々しく死の象徴なのでおどろおどろしい新しいキャラクターを涼風の替わりに。20年まえの涼風メフィストのような悪魔を帝都に生み出してやるーと。だがこちらはまだ途上の感がします。2兎を追うのは小池氏でも難しい。

私感として;
前回ブログ(人のアルマジロ化で恋愛は絶滅)で私(渡来部)は天女に遭遇出来ない不幸な人生を呪いましたが、昨日天使の声を持ち天女の姿に近い涼風に近づけた。本年最高の幸運だったと小池先生に感謝しています。
以下は悪のりで、
こうなっちゃったのでエリザベートをオハコにしている「一路真輝」のハレの舞台復活(育児休業)では「一路エリザベート」対「涼風トート」で演出してくれれば最高ですね。商業的には絶対成功する。でもまたカナメが悪魔になっちゃうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人のアルマジロ化で恋愛は絶滅する 2

2008年12月19日 | 小説
人のアルマジロ化が進むと恋愛が発生しないとは昨日の同じ主題ブログで。その理由は「献身」の心が無くなってしまったからだ。なぜ人はひたすら「悪しきアルマジロ」に進むのか、「良き天使」をなぜ目指さないのか。それは進化ではなく退化になるのに。
その理由に思いめぐらせ、私なりの結論は人が「空=そら」を失ったためなのです。空を神、超越者と置き換えてもよい。旧約聖書でのエデンの園を追われたアダムとイブ・失楽園の寓話が空を失った人間を象徴しているとも言えます。
アダムとイブはイチジクの葉1枚のために楽園を追われた。その時蛇に化した悪魔から知恵も授かったとは伝説です。その知恵とはこ賢しさ、計略、出し抜き貶めなどの悪知恵で、決して慈悲敬愛献身には繋がりません。楽園を出奔して以来こ賢しさで世を渡ってきた人がアルマジロを目指す理由は、そのいきさつからも明らかです。
失った空を取り戻したいという希求の心で「空」の詩3編をHPに載せます。そのうちの1編を以下に掲載します。全3編は左のブックマークの部族民通信HPをクリックしてください。

空よ帰れ(一部)

空を見るのを悪習とするは邪宗の欺き
神の救いと崇められる予言者は
死にいく老人の生眼をつぶした
祈祷者は空を怨み地に唾かけた。
死にいく人、いま目覚めるのだ
祈りの無駄響きに潜む偽りに
伽藍にこだまするのは魂の不協和だ

私は風、青年を見た。
傷口から血を垂れ流し
空に語りかけるのを。
血の色を見てくれ、黒いだろう
体を蝕む寄生虫が流す血だ
血の流れを見てくれ
どくどくと激しいだろう
病んだ肉が噴き出しているのだ
にぶく光る血糊を見てくれ
助けよぶ叫びの代わりなのだ。
青年は礼拝堂に呪をかけ
見上げる空に祈り捧げ
魂が果てる地に旅に出でようとした。

私は風、空に呼びかける
死に行く青年は明日に立つ。夕べには雲の飛ぶあの西のかなたに向かう旅行きだ。
残される屍は藪原に捨て置かれる。肉の腐敗を待つ。彼の死を知らない恋人を誘う甘いアンモニアの香りが立ちこめる。そのむせかえりは旅立ちを祝う没薬の祈りなのだ。腐敗の甘い香りを私が空にまで運ぼう。

以下は団塊子のぼやきなので読まないでも損しません。

=小百合様18歳=は地に降りた天女だったのですが、その時、松原で半裸の彼女を見つけられもせず、羽衣を隠すことすらできなかった私は、人生の不幸を呪いつつひたすらアルマジロ化を進めてしまった。
今朝鏡の前に立ちしみじみと自身の面を見ました。人間らしさはかろうじて残っている、しかしアルマジロに相当汚染されている顔つきに思わず鏡から目を背け、来し方の悪行を反省するまもなく、自分の悪顔に怯えてしまいました。人生残りは20年、アルマジロ化を止めて天使に近づくよう心替わりに努力します。せめて作品の中でも=
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人のアルマジロ化で恋愛が絶滅する(温暖化とは無関係)

2008年12月18日 | 小説
人間は美しい存在に心を惹かれます。美しさとは姿形見てくれであり、また精神の美しさでもあります。美しさに惹かれ感動し憧れ、時にはその物体に同化を願うこともあります。絵画彫刻音楽はもとより詩歌文芸作品に接し感動し、そのときめきが芸術を生みだす源と言えます。また恋愛も美しさへの憧憬から発しているといえます。

姿形の美しさに私たちは生まれながら雛形を持っています。それは天使天女です。彼らはおそらく雪のように白く花のように優しく羽のように軽やかで、穏やかで憎まず蔑まず他者へ尽くす心に充ちている。天女にあえば若者は恋をする、天使に出会う若い女性にも当てはまります。実際にはこの世に天使天女は降臨しません。しかし若さの過ち、相手を天使(天女)に見なしてしまう、たとえそこまで至らなくても天上の存在に近いと「錯覚」する。この美への憧憬と同体化したい心で恋愛が成り立つのだと思います。

天使天女の属性を問えば以下になるでしょう。
姿形が美しい、心が純真である妬まない蔑まない、自我自欲的でなく献身的。それと滅多に会えない。いや私含めて今の世に生きる人は絶対に天使天女には会えません。
これが美の典型です。美とはこれしかない。醜さの典型はそこいらに転がっています。醜さはいっぱいあります、豚モグラネズミ…
私はここでアルマジロが醜さの典型ではないかと信じています。先ほどの天使の属性をアルマジロのそれと比較すると、
姿形は醜さで情けなくなりますね、心は純真ではない縄張り意識が極端に発達している、同種がテリトリに踏み込もうなら脅し唸り噛み付きで大騒ぎ、極端に自我欲が発達している。献身なんて考えられない、日本でこそ滅多に会えないがメソアメリカ、南米の乾燥地帯に行けばうろちょろしています。

アルマジロは恋愛をするか、たとえば雄が雌に出会うと、雄は錯覚して「天女アルマジロがやってくる、彼女に恋する」との感情を持つか。それは絶対にない、なぜかというと生殖行動を見ればわかる。雄は繁殖期になると生殖器がなんと身体の「半分」の長さに膨れあがる。これをもてあましながら縄張りを夜に日に朝から晩までうろつく。うまい具合に雌にであうとここで問答無用、絡め手抱え手押さえ手で無理矢理に雌の生殖器に入れてしまう。恋愛感情とは正反対の本能、欲望むき出し、無理やり手当たり次第にメイティングする。

人は天使とアルマジロの間にいる。どんなに高みにあがろうとしても天使にはなれない。どんなに堕ちてもアルマジロほどにはならないだろう。

しかし、今人間は確実にアルマジロ化に向かっていると私は思う。人間全体、日本人でもいいし東京首都圏に住む住民でもいい、天使率VSアルマジロ率を統計してみると明確になる筈だがそのような資料はないので、独断と偏見の自己暗示もからめていくと。
ここ数年日本人のアルマジロ化には恐るべきほど顕著です。まず女性が美しくない(男もしかり)、アロマジロ面があちこちで出現している。出会いで即男女のつきあいが頻繁、恋愛亜感情なんてどこにもない。そして最後のとどめが「献身」がない。自己中心、自己の欲望第一、自己主張は大声で他人の意見は聞かない。人間離れしたアルマジロ率95%みたいな顔した御仁だって見うけます。

今の世恋愛大恋愛が発生しなくなったのはアルマジロ化が昂進しているからだ。子供殺し、子殺し、大量通り魔殺人が猖獗しているのも同根。人々が献身の心を忘れたからです。

良い話も。天女がまだ健在であること伝えなければ。
若き能面師新井達也氏の打ちあげた「増女」の写真をつけます。増女は能楽「羽衣」に使用されます、ご存じ天女が降りるあら筋です。この面をつけ観世流シテ方中所宣夫師が演じた羽衣を本年11月1日の府中市(東京)文化祭で見る機会を得ることができました。まさに天女に遭遇した気分です。

以下は団塊の独り言です:
それにしても「18歳の小百合様」は限りなく天女に近かった、いや天女そのものでした。その天女に遭遇できなかった私の運命を呪うが、時の同時代人として「生ける天女」があの時地上に降りたと今でも確信している。
今どき天女に近いのは優ちゃんかね、小百合様よりは落ちるけど。あとは皆かなりアルマジロが混じっているようだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

悪人は天国、善人は地獄と決まってるのだ

2008年12月15日 | 小説
オリジナル作品の「鬼灯を遠くに投げて」の6回目の掲載です。部族民通信のHPに入ってください。左のブックマークをクリックしてください。

少年井田林太郎が不慮の事故で落命、三途の川を渡って地獄の入り口エンマ裁きのお白砂にたどり着きました。エンマと林太郎少年の対話を通して新しい「あの世観」を出しました。一つが表題通りの「悪人は天国」
もう一つは「霊と生」ですが、全体のテーマでも。

以下は内容の抜粋、エンマが林太郎に引導渡しの場

>「亡者小僧、従者どもが宣ったとおりだ。此処は地獄天国の入り口だ。
ここに着いたが命の果て、娑婆でどれほど功徳積んでも悪行重ねて憎まれようと、地獄天国指図はこの場、三途の川のドンつまり、白州お裁きはおいらエンマが裁量だ。悪は天国、善は地獄と決めたらそれで後ろに控えしが二匹がデモン、情け容赦の手心なしでしょっ引きまわされ、虚仮にされよが小突かれようが、その引導の先とはネバネバリタンの黄泉の国。おめえら亡者には娑婆に帰れる訳がねえ。
ただ稀には五百年に三匹くれえ不届き亡者がでてくる。今すぐ娑婆に戻せだの、ビルゲイツみたいな金持ちの赤ちゃんに転生させろだの勝手のわがまま言うから、そいつら亡者は迷わず天国に引導渡ししてやった」<
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする