話題のミュージカル「エリザベート」を観劇に行きました(12月22日、東京・帝劇)。目的は1にも2にもただ1つ。天使の声を持つ涼風真世さんの歌を聞かせてもらう事。宝塚を退団なさって以来ミュージカルでの本格出演はなかったので、今度こそ涼風節を堪能できるはずと片田舎(日野)から丸の内へと上京しました。結果は狙い通り、たっぷりと天にも昇る歌声を堪能しました。
この劇は神聖ローマ帝国の崩壊(1806年)の後の中欧の政治混乱、旧来勢力のハプスブルグ家がオーストリア帝国を創設し(後にオーストリアハンガリー2重帝国)旧体制の維持に執着する。しかし時代の流れは自由と民族主義、他民族国家の帝国では反乱テロが続発する。苦悩する皇帝フランツヨーゼフと妻のエリザベート皇后(愛称はシシー)そしてシシーの暗殺。
シシーは生涯の後半を旅行の継続という変わった習慣で知られていました。その理由は堅苦しい宮廷生活に嫌気がさしたと説明されていましたが、劇中で新解釈がでています。ウィーンをはなれ20年近く、放浪の果てにスイスジュネーブで無政府主義者(イタリア人ルケーニ)に針のような暗殺ナイフの1刺しで殺される。
この史実を背景にして、地獄に堕ちたルケーニが暗殺理由を釈明するシーンで始まる。それは「シシーが死を望んでいたのだ、彼女の人生とは死をいつ成就するのか、それを死に神トートと対話していたのだ。シシーの美は死に神トートすら魅せていたのだ」と驚くべき内容。シシーの心の彷徨を、皇帝との生活と帝国の歴史に重ね合わせて物語は流れていきます。
涼風真世氏、当時ヨーロッパ1の美しさと誉れ高かったシシーの再来もかくやと思わせる舞台映えでした。そして私の目的の歌声は、
張りのある高音部が帝劇の高天井をも突き抜け天に昇る勢い、劇空間の全域に鳴り渡り皆も私もうっとり。低音は独特の鼻にかかる甘い響き。聞かせどころでテンポをほんのすこし遅らせる節回し(これが涼風節)、天性の歌唱力でシシー内面を歌でも聞かせてくれました。カーテンコールは鳴りやまず、客席が総立ちのオベーションでした。
しかし若干の不満が残りました、それは死に神トート(山口裕一郎)を擬人化しすぎているという点。山口氏は浪々と生々しく歌っていたのですが、死に神らしさがなかった。これが小池氏一流の「大衆化」なのかと劇場では半分納得、しかしふと重要な事に気づきました、それは…
帰りの電車で気づいたのが小池修一郎さんの出世作、「天使の微笑み悪魔の涙」(宝塚歌劇、月組1989年)。この作品で小池氏は宝塚演出家の地位を不動のものにしたのですが、悪魔(メフィストフェレス)を演じた涼風真世(当時は20歳代)の迫真の歌唱力が一役(二役も)かっていました。今でもCDを聞くと、アルトの甘い声で迫る涼風に「こんな悪魔が出てきたら魂すぐに売ってしまう」と危なさを思わせる歌唱です。
電車に揺られての私の結論は、今回のエリザベートは小池氏の罪滅ぼし+悪魔探しです。宝塚の妖精との評判だった涼風を悪魔に売ってしまった悔悟から、20年たったいまエリザベートで天使に引き上げた贖罪の演出であった。涼風は小池氏を許し悔悛に応え、いま帝都の晴れ舞台で天使の歌声を浪々と響かせている。
劇中許しを請う皇帝、シシーは全てを忘れ許すと贖罪を受け入れる。贖罪への許しはシシーの心中でもあったし、エリザベートを得た涼風の気持ちでもあったのだ。彼女の声が高らかなのは歌いながら2重の許しを感じていたからだ。
小池氏のもう一つの狙い、新しい悪魔を創造する、生きる人間のように生々しく死の象徴なのでおどろおどろしい新しいキャラクターを涼風の替わりに。20年まえの涼風メフィストのような悪魔を帝都に生み出してやるーと。だがこちらはまだ途上の感がします。2兎を追うのは小池氏でも難しい。
私感として;
前回ブログ(人のアルマジロ化で恋愛は絶滅)で私(渡来部)は天女に遭遇出来ない不幸な人生を呪いましたが、昨日天使の声を持ち天女の姿に近い涼風に近づけた。本年最高の幸運だったと小池先生に感謝しています。
以下は悪のりで、
こうなっちゃったのでエリザベートをオハコにしている「一路真輝」のハレの舞台復活(育児休業)では「一路エリザベート」対「涼風トート」で演出してくれれば最高ですね。商業的には絶対成功する。でもまたカナメが悪魔になっちゃうか。
この劇は神聖ローマ帝国の崩壊(1806年)の後の中欧の政治混乱、旧来勢力のハプスブルグ家がオーストリア帝国を創設し(後にオーストリアハンガリー2重帝国)旧体制の維持に執着する。しかし時代の流れは自由と民族主義、他民族国家の帝国では反乱テロが続発する。苦悩する皇帝フランツヨーゼフと妻のエリザベート皇后(愛称はシシー)そしてシシーの暗殺。
シシーは生涯の後半を旅行の継続という変わった習慣で知られていました。その理由は堅苦しい宮廷生活に嫌気がさしたと説明されていましたが、劇中で新解釈がでています。ウィーンをはなれ20年近く、放浪の果てにスイスジュネーブで無政府主義者(イタリア人ルケーニ)に針のような暗殺ナイフの1刺しで殺される。
この史実を背景にして、地獄に堕ちたルケーニが暗殺理由を釈明するシーンで始まる。それは「シシーが死を望んでいたのだ、彼女の人生とは死をいつ成就するのか、それを死に神トートと対話していたのだ。シシーの美は死に神トートすら魅せていたのだ」と驚くべき内容。シシーの心の彷徨を、皇帝との生活と帝国の歴史に重ね合わせて物語は流れていきます。
涼風真世氏、当時ヨーロッパ1の美しさと誉れ高かったシシーの再来もかくやと思わせる舞台映えでした。そして私の目的の歌声は、
張りのある高音部が帝劇の高天井をも突き抜け天に昇る勢い、劇空間の全域に鳴り渡り皆も私もうっとり。低音は独特の鼻にかかる甘い響き。聞かせどころでテンポをほんのすこし遅らせる節回し(これが涼風節)、天性の歌唱力でシシー内面を歌でも聞かせてくれました。カーテンコールは鳴りやまず、客席が総立ちのオベーションでした。
しかし若干の不満が残りました、それは死に神トート(山口裕一郎)を擬人化しすぎているという点。山口氏は浪々と生々しく歌っていたのですが、死に神らしさがなかった。これが小池氏一流の「大衆化」なのかと劇場では半分納得、しかしふと重要な事に気づきました、それは…
帰りの電車で気づいたのが小池修一郎さんの出世作、「天使の微笑み悪魔の涙」(宝塚歌劇、月組1989年)。この作品で小池氏は宝塚演出家の地位を不動のものにしたのですが、悪魔(メフィストフェレス)を演じた涼風真世(当時は20歳代)の迫真の歌唱力が一役(二役も)かっていました。今でもCDを聞くと、アルトの甘い声で迫る涼風に「こんな悪魔が出てきたら魂すぐに売ってしまう」と危なさを思わせる歌唱です。
電車に揺られての私の結論は、今回のエリザベートは小池氏の罪滅ぼし+悪魔探しです。宝塚の妖精との評判だった涼風を悪魔に売ってしまった悔悟から、20年たったいまエリザベートで天使に引き上げた贖罪の演出であった。涼風は小池氏を許し悔悛に応え、いま帝都の晴れ舞台で天使の歌声を浪々と響かせている。
劇中許しを請う皇帝、シシーは全てを忘れ許すと贖罪を受け入れる。贖罪への許しはシシーの心中でもあったし、エリザベートを得た涼風の気持ちでもあったのだ。彼女の声が高らかなのは歌いながら2重の許しを感じていたからだ。
小池氏のもう一つの狙い、新しい悪魔を創造する、生きる人間のように生々しく死の象徴なのでおどろおどろしい新しいキャラクターを涼風の替わりに。20年まえの涼風メフィストのような悪魔を帝都に生み出してやるーと。だがこちらはまだ途上の感がします。2兎を追うのは小池氏でも難しい。
私感として;
前回ブログ(人のアルマジロ化で恋愛は絶滅)で私(渡来部)は天女に遭遇出来ない不幸な人生を呪いましたが、昨日天使の声を持ち天女の姿に近い涼風に近づけた。本年最高の幸運だったと小池先生に感謝しています。
以下は悪のりで、
こうなっちゃったのでエリザベートをオハコにしている「一路真輝」のハレの舞台復活(育児休業)では「一路エリザベート」対「涼風トート」で演出してくれれば最高ですね。商業的には絶対成功する。でもまたカナメが悪魔になっちゃうか。