蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

イモリノーベル賞 外譚

2012年08月31日 | 小説
1934年にソ連の無名の農学者のルイセンコが「獲得形質は遺伝する」を発表した時には、これぞマルクス資本論ヘーゲル弁証法の遺伝学で実証、20世紀の自然科学の画期ともてはやされた。「冬小麦」を寒冷処置すれば「春小麦」になり、獲得形質(春小麦化した)が遺伝的に継承されるので、種籾は春小麦に変性したと彼は実例をあげた。
スターリンがこの説を取り上げた。この時期のソ連は弾圧・粛正があらゆる分野をむしばんでいた。と言うことはルイセンコが党お気に入りの「金科玉条」なんで「そんな馬鹿な」「遺伝学の概念を踏み外す」などと漏らしたら、その晩にも秘密警察にしょっ引かれラーゲリ行き。本人は春小麦パンすら喰えず餓死するし、一族離散の憂き目にあうからソ連の科学者全員が「ルイセンコが正しい」と大合唱した。

なんちゃって学説なのだが、ソ連・スターリンがもてはやした理由は3ある、
1 共産ドグマの強化。
当時の遺伝学はメンデル法則が主流で、優性劣性に分けて機械的に遺伝が発現する。いわば凍り付いた遺伝世界を解明した。しかしこの定型遺伝は弁証法を基盤とする共産ドグマにはあわない。そこで遺伝の基部に外的刺激をあたえれば新種を発生する。これぞまさに弁証法、その時すでに破綻していた集団農業、計画経済は正当だと理論化できる。

2 インチキでもごり押し。
無理を通せば、ブルジョワ的反論が噴出し反革命士をあぶり出せる。反対は反人民だとラーゲリに押し込める。反対すれば誰でもラーゲリ行きになるぞとの不安が人民を覆う。これがスターリン流強権統治。
毛沢東も同じ詐欺手段を何度も取った、文革前に百花斉放で言論をゆるめ(1966年)ホウシン一派などを反右派闘争でイブリ出し、三角帽子かぶせて(=文化大革命)「自己批判」の罠に落としたから、共産主義特有の姑息なやり方とも言える。

3 冬小麦の生産性(これは今は人口に膾炙されてないが一番のキモ)

春小麦(寒冷地に適化、ソ連で多く栽培されていた)に比べ冬小麦(こちらが日本なんかで普通の小麦)のほうが収穫が30%ほど多い。へたれの春小麦をルイセンコ式に(別名があってミチューリン主義農法)カツ入れして冬小麦化すれば収穫が30%増える。「全部をルイセンコ小麦にしてしまえ」とスターリンがコルホーズソホーズに命令した。

日本やアメリカなら自営農が一夏やって「収穫上がらない、ルイセンコ駄目じゃん」で忘れられる。ソ連はその明快さは攻撃される。「ルイセンコ小麦の収穫が悪いのは反国家サボタージュのせいだ。文句たれる農民どもをラーゲリに押し込めろ」で実際にそうなった。ソ連で百姓やるのは命がけなんで、ラーゲリに行ったら餓死、行けない農民は大不作になってこっちに残っても餓死(ウクライナ飢餓=1930年代、1000万人?=要検証=の死)

ルイセンコ説は今では「似非科学」として否定されている。しかし「獲得形質は遺伝する」を政策根本としている「とんでも国家」が今でもワタシとキミの近くにある。

中国、北朝鮮、韓国である。

中国では富農、反革命などを黒五類として、就学就職の機会を差別している。革命真っ盛りでは問答無用で撲殺、焼き殺しされてもいる(ブラックスワン、石平氏著作など)。富農本人だけではなく、郎党子孫も殲滅されたり、殺されずレッテル張られ差別され、乞食で飢えるのは運が良い。
中共および人民は、親(祖先)の獲得形質(富農、反革命)が子供にも遺伝すると信じているのだ.
投稿子は大躍進(1958-61)文革(1966-77)時代の記録を読んでいるので、21世紀の中国にこの差別があるかは知らないが、対局にある「紅五類」(黒と反対で厚遇される、太子党など)は健在。社会、政治で引き立てられ高官に就任する。幹部になって人民を搾取し甘い汁を吸うには「生まれる狭間に(高官を)親を選ばなければ一生うだつ上がらない」の閉塞空間が固まってしまった。重慶事件(英国人毒殺)の薄煕来(重慶市長、中共要人)は薄一波(元国務院副総理)の息子がその例。
要するに悪い(良い)獲得形質は遺伝するとのルイセンコ流の誤信である。

北朝鮮では出身成分(金日成への忠誠度で51階層に分類しているらしい)が人格のすべてなので、成分が悪ければ一生下働き。あの北朝鮮で下働きは堪えるらしい。
この成分は獲得因子にすぎないが、親から子に果ては末代まで、キム王朝が続く限り遺伝する。中国では親を選べ、北朝鮮では祖先まで選べ!が生まれる際のテクニックだ。でも怖いねこの妄信は。

上記共産二カ国はルイセンコ農法を移入し、その失敗で飢饉蔓延、餓死者の山を築い手しまった(大躍進、主体農法)のだが、農業で成果あげられなくてもその学説の「獲得形質が遺伝する」には金もマオも魅了されたから、黒五とか成分とかの非科学的人権差別をいまでも真面目に(狂ったかに)制度化している。

第3番目は韓国、この共和国では「親日の祖先を持つ者」の「魔女狩り的」社会弾圧を続けるのだが、その起因は共産2カ国との共通、儒教しがらみのお馬鹿拘泥と見るべきだ。前置きが長かったがこれからが本文、

上記東アジア特定三カ国で(似非学問の)ルイセンコ説がもてはやされるのは、人民思考の底部に、儒教世界観が残るからと見ている。

儒教は個人の研鑽努力を認めない、五常(仁、義、礼、智、信)が個人を遙か越える所にある。ある個人が優に秀でれば、彼には「仁、徳…」を備えていたからと考える。「親から受け継いだ=仁=のおかげで試験で一番」こう考える。
五常は努力して修得するのではなく、遺伝なので生まれつき備わる(備わらない場合もある)。悪の形質も親から遺伝相伝する。儒教の封建的しがらみかから抜け出ていない。
これがルイセンコと結びついてかの国、かの地域を猖獗風靡する「親が悪けりゃ子も悪い」「親が良いから子は安泰」となった。

全く持って過去なごりの骨董品の劣性儒教遺伝。これら3カ国で自由と民主求める人外多として、彼が非人道、非民主を嘆いたとしても、彼には「あきらめてくれ」としか励ませない。では部族民渡来部が主張するイモリノーベル賞は、

こちらは部族信仰だからルイセンコ+儒教なんかとは異なる。あっちはすべてインチキだが、こちらはほぼ(大体、あるいは大まかにだが)正しい(と思ってる)。「獲得形質は己の形成細胞に積極的に影響する」ので遺伝するとかは別だ。
ルイセンコ説と若干だが似ているのは「似非科学」の印象を与えるのだが、これは反省している。そう疑う御仁に「うさんくさくない」と証明しなければならない。
そこで友人のタケイ氏の栄光と悲惨の実例を出すのだ。

次の投稿でタケイのあのおぞましい獲得形質を話してやろう。(続く)

PS:小さい友も続きがあるから、ウオッチを継続してください。
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イモリノーベル賞 後譚 1

2012年08月30日 | 小説
昼寝してたので電話が鳴るのにも気づかなかったが、助手が取ってくれた「ヤマナカセンセーからです」との取り次ぎ。名前で儂はピンときた。
「やはり来たな、共同研究の申し入れだ」とはすぐに見当がつく。ブログ子(部族民・渡来部)が世間にあまねく提案した「イモリノーベル賞」(=イモリでノーベル賞確実、8月12日投稿を参照してくれ)のご当人から早速の反応に間違いがない。
ゴホンと咳を払っておもむろ受話器を取った。以下はセンセーと儂との会話じゃ。
「キミのブログは少しも面白くないな」
喧嘩売りの電話か~、センセーともあろう大人物が大人げないとは思っても口には出さない。なにせ相手は大教授だからな、部族民は上には弱いんだ。
「その上大間違いしてる」
教授は追求をゆるめない、頭に来たけどこれぐらいの勢いがなければノーベル賞級の成果は出せないんだと許してやって、
「ヤマナカセンセー、貴重なご指摘カンルイ物ですが、どこかが間違っていると」
「ヤマナカはやめてくれ、儂はヤマノナカだ。一字違いで似たようなモンだ」
「なんだすっかりヤマナカ教授かと誤解しちゃった。でもね一字違えばそれは全くの別の人ですよ」
「教授にはまだなってない、研究所はヤマノナカにあるけれど、今のところ設備は樽だけだ。論文は出てない。しかし立派な研究者なのだ、イモリとヤモリとトカゲの料理とか味にはウルサイ」
「ノーベル賞にはさぞかし遠いとこにいるんですね。あのヤマナカ教授とは段違いだ」
「取り次いだ者が聞き違えたのだ、二度と間違い起こさぬようにしっかり叱れ」

さっき助手と言ったがこれは格好つけすぎで、実は家人だ。家人を叱ったら儂が追い出されてしまう。何しろ著作活動に没頭するあまり三年間無収入で「いつ焼き鳥よっちゃんの下働きバイトに出るのですか」と脅されている身だからな。

「イモリを十年食いつづければイモリ手の再生力を獲得できる(=投稿を参照)、これがキミの言い分だが、根本的に間違いだぞ」
オットー、やっぱり来たな。あの研究テーマはこの点がキモなんだ。ここはガクジュツ的には微妙で、ツーカいまだ証明されず否定だけされている。それは誰も彼も、あの事実を知らないからだ。

ノーベル賞は絶対に取れない相手からだから迷惑電話だけれど、根が親切な儂はヤマノナカ氏に丁寧に答えた。

「ある種の食物を食べ続けると遺伝形質も変性する。これはあるのですよ、私は格好の例を知っている」
「それこそまさに儂ヤマノナカが探していたテーマだ、儂は、アァ、証明できなかった。部族民なるキミが証明したというなら、この場で聞いてやっても良いぞ」

うってかわった真剣ぶりは電話口からも感じられた。もしかしたらヤマノナカ氏は冒険的実験で手の一本くらい失っているかも知れない。イモリを10万匹集められなかったのだね、きっと。
そこで儂は友人の例を話し始めた。この例こそイモリでノーベル賞をとろうと意気込んだ原点なのだからな。
生きながら生命体が変化して、別生命体になってしまった友人の奇怪、驚愕の悲劇形態、おぞましさを今回世界で初めて、ヤマノナカセンセーに伝える任を自ら許した。彼の名はタケイ(仮名)、そのおどろしき身体変性、常人とは思えない挙動、恥じることもなく、かの生きる地、日野市なる田舎で公共の耳目にひけらかしている図々しさ。
「タケイの例を出せば納得するさ」
本当はヤマナカ大教授に話すつもりだったけれど、一字違いなので奴にも話してやった。タケイ(仮名)の見るも恐ろしく、しかしフンパンしちゃう変質の実体を。
「キャー」ヤマノナカの叫びが電話口で聞こえた。
(続く)
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小さい友1

2012年08月23日 | 小説

古い友1で述べたが、私はフランスに留学した。金はなかったが、18歳になった高校3年の暮れに「勧銀全国宝くじ」をモノは試しと一枚買って、これが見事二等賞(200万円)になった。それを元手に十九歳からフランスに遊学したのだが、町内の立石新聞に「勤労高校生、宝くじで留学」などともてはやされた。二年現地に滞在して200万円を使い切って、二十一歳で帰国した。
若さはなににもまして有効で、おかげでフランス語を少し修得でき友達も多く持てた。
掲載する写真の左は遊学中の友の一人「古い友」のパトリックである。私が二十二歳の夏に日本を訪問した記念の写真です。場所は新宿西口、京王デパート脇の坂道です。
今から43年前、1969年昭和44年です。
右のマスクかかる少女をパトリックに「小さい友」と紹介して、わだかまっていた困難を解消してしまった。

小さい友とはフランス語の(une petite amie=女性形、プティッタミー)をそのまま訳したのだが、翻訳者はこんな言い回しはしない。専門家に笑われる誤訳覚悟で意訳すると、これは「かわいこちゃん」に他ならない。この訳には自信がある、パリで友達にある小粋な女の子を(ma petite amie=私の小さい友達)と紹介されたからで、その時の印象は二人はつきあい永い恋人同士と見えた。その時友人はしっかりと音節を区切って発音した。小さい友であって、それ以外では絶対になからなと伝えたかったようだ。

恋人を指す語は(mon amour=モナムール)でこれは映画やシャンソンで頻繁に聞きます。しかし厚かましいフランス人でも社交的な場では、この語を使って恋人を紹介することはない。妻、婚約者にはしっかりと対応語があるけれど、身分的にはそうなっていない恋人をどう紹介するか、その時に「小さい友」を用いる。恋人のamourは端的に行為をさし、肉感に直接的なので社交の場には合わない。(渡来部的誤解かもしれないが)
フランス人の性格ですが、最初の紹介をしっかりしておかないと、紹介した相手が恋人にアタックする怖れがあります。彼(彼女)らの手の早さは口達者以上ですから。こう紹介されたら「手を出さない」が決まりです。

写真の「小さい友」の彼女は、夏の旅行で偶然に「フツーの友」になった方です。なぜ古い友に偽りの紹介をしたか、ある悩みを解決するためで、その結果別の問題を背負い込んでしまいました。

パトリックは学生仲間で、パリに着いて早々に知り合いました。学生寮の中庭に卓球台が置かれていて、気晴らし運動をする仲間です。
知り合って半年あたりで、何となく鬱陶しくなってきた。本人にはそのつもりはないだろうけれど、つきまとわれている、それが迷惑となるほどに感じていた。毎日毎夕、学生寮に来ては話しかけてくる。夕食を一緒にしないか、映画見に行かないか、次の休暇はどこに行くのか、こんな話しかけを頻繁に受けて、好いやつだけど嫌になった。
帰国するときは夏だったので、彼はバカンスでどこかに行っていた。これ幸いで、知らせずに帰った。二十一歳の夏です。一年もたてばパトリックもなにもすっかり忘れた。
しかし友人からの電話には驚いた。パトリックが旅行に来ている、今東京で、お前に会いたい、会わせろと大騒ぎだ。(小さい友2に続く)
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人間とイモリの相似、ノーベル賞確実

2012年08月12日 | 小説
お盆向けの肩のこらない話、しかしガンチクはシンエンです!

当ブログにアクセスする方でノーベル賞(それも医学賞、過去日本からは1人=利根川博士免疫メカニズムの世紀的解明=しかいない)を狙う人がいたら耳よりの話しです。

とある本で格好の研究テーマを拾った。

H:トカゲでは尻尾が切られたら戻る。きれいに再生される。それからプラナリア(扁形動物)は、切っても切っても元にもどる。再生という点では上手くやっている。
Y:先生、トカゲは尻尾は生えますが骨は戻らない。
H:ひゃあなるほど。
Y:イモリは手をきったら骨まで再生する。ちょっとした違い(トカゲVSイモリ)でイモリは再生能力がすごいんです。それにイモリは結構人間と遺伝子が一緒なんです。
H:イモリとトカゲの差異、イモリ遺伝子と人間の相似、そこまで調べているとは~
Y:ハイ(当然の顔つき)。イモリにできて、なぜ人間ができないのか。人間も手足切断して骨まで再生したら、こんな良いことはない。=中略=究極の再生医学はプラナリアのように移植しなくても生えてくる。人間を研究していてもダメでイモリをもっと調べないと。=以下略=
出典はiPS細胞ができた=96ページ、集英社2008年5月出版)
H=畑中正二京大名誉教授
Y=山中伸弥京大教授(iPS研究センター長)

山中教授は、皆さんご存じの通り、iPS(人口多能性幹細胞)開発者です。その成果は生成医療に画期を拓く偉業でノーベル賞は確実ともされている。たいする畑中名誉教授もウイルスの世界的権威です。2人の叡智の対談は専門用語も少なく読みやすく、特に人間とイモリが似ているなんて、さすが天才学者は目の付け所が違うと感じ入った。
読み終わって投稿子(渡来部)は目から鱗が落ち、感涙はらり袖まで濡らすを禁じ得なかった。鱗落ちの意は「マンセー、これでノーベル賞が取れるニダー」の気分です。

研究者は研究内容を細に至って公表しない。競争者に盗まれるのを用心するためです。渡来部は心が広いので、あえてその内容をビサイに解説すると;
(フツー的にはイモリを分子生物学的に分析して、骨再生DNAを突き詰めるのだけれど、ここの読者がその設備と知識(脳ミソ構造含めて)を持つわけ無いのでクラシックに行く)
鍵は
イモリです!トカゲでは絶対にダメです!!トカゲめは欠陥再生です、何しろ尻尾に骨が出てこないんだ。
イモリを大量に、15万匹ほど飼育する。毎日10-15匹すりつぶして丸薬にして呑む。およそ10年くらい続ける、根気が要るのだ。15万で怖じ気づく者はノーベル賞から見放される。下村博士(GFPの発見で受賞)は100万匹のオワンクラゲを採取したぞ。

晴れて10年目の朝、エイヤと己の手を潔く切断しよう。ノーベル賞がかかっているからな。
痛いだろうが我慢してくれ。痛さに泣いたらジェンナー(息子に牛痘を接種した)や花岡青州の妻(日本初の麻酔手術、結果は盲目となった)を思い出してくれ。医学進歩には自己(ツーカ迷惑視されても家族)の犠牲が必須なのです。翌朝、目覚めて手が生えてこない、あ~!ダメだと失敗してもへこたれるな、もう一つの手があるから再挑戦できる。
ノーベル賞よりも自分の手足に未練があるヘタレの方には、まず愛犬愛猫のたぐいで動物実験して、次ぎに奥さんとか息子での実証実験をへてください。奥さんの了解は取ってください。イモリでとの理由はトカゲで同じ事やって成功しても、骨なしのフニャ手が再生される。これでは箸を持つ位しかできないから、実生活で不便だ。

上手く行けば山中教授との共同受賞のノーベル賞が転がり込む。
(もちろんまずく行って、両手失いノーベル賞から声かからないなんてヒサン結果も可能性としてあるので、自己責任でやってください)

(=渡来部はお盆モードなのでいろいろと書きかけをそのままにしていますが、来週後半から絶賛投稿!を再開します=)

PS:投稿してからすでにイモリのDNA解析など進展していると知った。(熊本市尚絅学園理事長江口吾朗博士の眼球再生研究など)ノーベル賞狙うなら今すぐ開始だ。
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古い友 5(了)

2012年08月06日 | 小説
サエキの死に顔に安心して翌朝、私は大阪に赴任した。40歳の手前、時期はバブルの最盛期といえば見当はつくかと思います。
大阪ではバブルに遭遇したのですが、経済のすさまじい伸長でした。結局はポシャンと萎んで、それ以前よりも衰退してしまうので破裂が正しいかも知れない。例えば土地建物価格の膨張。私が住んだ豊中春日町のアパート近く、45坪の土地に30坪くらいの新築、1億2千万円には驚いた。それでも買い手が付いて、1月住んで再販売し「濡れ手に粟」で2千万を儲けたとの噂。
私がなじめなかったのは浮かれて騒ぐだけの浪速的風潮ですが、さらに耐えられなかったのは夏の暑さでした。3年で逃げるかに東京に戻った(平成2年、1989年)。無理矢理の戻り、当然に職を失った。葛飾四ツ木で一部屋のアパートを借りて、仕事探しからやり直し。この年にバブルが弾け、仕事の口が減って見つかるまで5年かかった。
新しい職場は平和島の倉庫、物流の管理職。とは言っても必要がなくなれば翌年は更新なしの年契約の身分は変わらずでした。
事務所に友人からタカノの病状を伝える電話が入った。「人工呼吸器をつけている。明日、見舞いにいく」と。
私はその時人工呼吸器なる器具の意味を全く理解せず、飛行機の座席にするすると降りてくる酸素マスクを想像していた。タカノが胃ガンで入院したのは聞いていたので、術後にちょいと呼吸が苦しくなっているから「補助マスクをしている」程度だと聞き流した。
「お前一緒に行かないか」と友人が訊ねたので、私は「明日と言われても無理だ。呼吸器を外せるまでに快復してから見舞いに行く」と答えた。電話先で友人はきっと絶句したのだろう、電話はそのまま静かに切れた。

ベッドに座り込んで天井から降りている酸素マスクを鼻先につけて、週刊誌を読んでいるタカノが、私を見るとマスクを外し「よく来たな」といつもの調子の一言二言が出る。そんな状況を想像した。無知のなせる悲しい誤解でした。

人工呼吸器は呼吸を補助する医療器具で、呼吸が出来ないとは生きるのに必須の不随運動が不可能になっている。脳幹に損傷が入った不可逆の重篤症状を意味する。
友人から電話を受けた日、タカノは死にかけていたのだ。3日後友人から訃報を知らせる電話を受けて、私は自身の無知を恥じ、死に行く友人を見舞わなかった間抜けさと非情を悔やんだ。

タカノは10年15年も病んだのではない。3ヶ月前に定期検診でガンと知らされた。早期発見ならば今の医療では完治は間違いないと、悲壮とは正反対の安心した気分で手術に臨んだ、そう聞いていた。術後の経緯は一向に入ってこなかったが、無事に患部摘出だと勝手に判断して気にかけなかった。最期の別れがあったなら、呼吸器の脇で眠るタカノを見る事になっただろうが、それがかなわず、人生の心残りをまたしても感じ入った。
通夜に駆けつけご母堂から死に顔を見せていただいた。
それはなんとも無念。50を前に死に果てる悔しさを閉じた硬い目と大きく開いた口で語っていた。

死んでからの年を数えるとサエキは25年の前、タカノが15年前。薄れゆく自我と記憶混濁にさまよう死に際、38年前の柴又帝釈天の寅さん写真(=古い友2)を私は見ながら、最期に彼らが何を思ったかを考えた。

きっと人生だろう。人生とは父と母そして子、生まれと成長、学び仕事を選び結婚して家庭をつくる。喜びと悲しみ、いがみ罵り融和して相克を残す、疎外と孤独孤立。一人でそして伴侶と二人で生きた言葉と思いの流れだろう。

寅さん写真のあの一日は帝釈天としだれ桜、鴨せいろとクボタと語りだったれど、死に際に、二人があの1日を思い出したとは思わない。人生で寅さん帝釈天など些細な一日であるし、私だってアルバムを整理しなければ忘れたままだった。
安らかな顔で人生を終えたサエキ、もっと生きたいと死を恨むかのタカノ。二人があの日を思い出さなくても、あの日3人が写真の面で現したのは平和な20歳代であるし、それはきっと思いが湧き出た筈だ。
青春の締めくくりの日、3人とも独身、病む事仕事と家庭の悩みなど知らなかった日。やり切れない生もやり残す人生もあるとは想像もしない一日。あの輝かしい一日は平和な20歳代の締めくくりだった。二人の成仏を願う。

(次回は小さい友、こちらも人生、でも深刻ではない)
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古い友 4

2012年08月03日 | 小説
治療院のロビー、ビニール張りの長椅子、一人座って待っていた友人。黒ずんだ額と窪んだ頬、口元を小刻みに震わせながら小さく語った。
「ちょっとだけの休養のつもりでここに来ているんだ。酒の方はきっぱり縁を切った、一滴も口にしない。ただ体調が思わしくないので、しばらく、2-3週かな、居残る」と。私はもっぱら聞く役だった。彼が語る周囲は、

「会社は療養休暇を受け付けている、来月には現役で復帰する。やりかけの仕事は手つかず、やはり俺でないとあのオーギ島のシステムは処理できない。
啓子(奥さん=仮名)は一人で住むのも不用心なので実家に戻っているけど、帰宅すれば国府台から芝に通うことになっている」
聞きながら私は安心した。しかし心底ではこの彼の環境を信じていなかった。疑いを残しながら疑念と不安を押し込めていたのだ。その場で私が異を持ち出せようか。仕事も家庭もそんな風には回らないとでも反論するのか。
そこまで踏み込む人情と突き放す非情も持たない。その通りだと信ずるフリして、今しばらく身体を休めて社会復帰を祈念するとしか返答できない。前向きに、しかし少しも思いやりを込めず返答しただけだ。

湘南から飯田橋への転院、あわせれば4カ月をこえる。復帰は可能だろうけれど、やり残した仕事はとっくに誰かが処理している。担当者が休んだからと言って、仕事を中断する会社など存在しない。復帰してから仕事が与えられるのかも不明だ。再び突然に休養するとなったら、2度目の混乱を招く。その時は私は30歳代半ば、私なりに仕事経験を積んで入るので、否応なくも悲観判断に傾いてしまう。

そして家庭は。
奥さんは彼の状態をどう受け止めているのだろうか。その後、別の友人からは彼が語った説明とは異なる後退の事態を聞いた。「もう復縁は無い、離婚の協議はすでに決まった」と。
一時間ほどの見舞い、サエキを信じ復帰を励まして別れた。
それからの5年、私はサエキと会ってはいない。しかしかなり頻繁に電話で話した。夜遅く、寝につこうとする時刻に電話が入る。サエキだ。彼はオーディオに凝っていたので機器の更新や新譜の批評をした、コンサート、テニス、旅行、カメラなど。初めの数回はそれなりに対応した。しかしそれを越すと話す内容に新鮮さがなくなった。ことごとく同じ展開となる。そしてそれらは10年前、あるいはそれ以前の出来事、事象だったと、私なりに思いついた。その10年とは、サエキには凍結した時間だったのだ。行動も環境も何も変化していない、記憶が10年前で固定して、10年前の自身の世界を語っていたのだ。病の10年を忘れるために。
同じ話、過去の繰り返しに相づちを打つのも億劫で、電話がとても憂鬱になった。着信ベルを鳴るに任せた。

私にも危機が発生した。29歳でかろうじて見つけた仕事が終焉し、39歳で契約の更改が止まった。上司に当たった方が心配して、系列企業で近似した職種を探してきた。ただし大阪。
仕事場所を選択するなどの余裕は私にはなかった。大阪は嫌いだろうと、関西弁が気持ち悪いと嘆く贅沢など無い。赴任する日が決まり、転居の準備全て終わった日に、友人からサエキが死んだと聞かされた。尋ねるもなく彼は「自分で決めた死」と伝えた。
葬式は転居の日になる。ととのった日取りを変えず、通夜だけに彼を弔った。友人の葬式よりも大阪引っ越しが大事だった。
彼の自宅はその時は国府台ではない、都内、私鉄沿線。小さな家だった。ご母堂の取り計らいで最期の別れ、死に顔を見ることが出来た。棺桶の窓を通して5年ぶりに見たサエキは、顔色は青く黒く、頬と額に抉られた傷があった。

レオンは15年も病んでいた(=古い友1を参照)。ブラッサンスは彼の病態を理解できず、その古めかしいアコーデオン演奏が自分のスタイルと合わないからと距離をおいた。病の噂も気に置かず、自身の作詞作曲、独演の活動を進めていった。疎遠の15年、死んでからレオンは「古い友」だったと気付いた。哀悼の唄(Le Vieux Leon)でブラッサンスが懺悔したのは、病に苦しむ友を見舞わず、放擲した己の冷たさである。
サエキは10年を病んだ。私は見舞いロビーの出会いでその病態を知ったので、彼への支援も介入も面倒になると気付き、距離を置いた。
彼が描いた周囲環境を私は無理矢理に信じ、サエキなら復帰できると己に思いこませた。最期の5年間には、サエキからの電話と知れば受話器を取らなかった。関わりから逃げたいと。こんな状況では誰でもそれを選択するし、やはり私もそうした。自分が大事、それは非情さだ。

棺桶のなか眠っているかにサエキは見えた。病の終わりに安らぎを覚えたのか、27歳春の柴又帝釈天と国府台の桜を思い出したのか、成仏するだろう静かな死に顔を見て私は疎遠の10年を反省し、そして救われた。3人仲間のもう一人、タカノは全く違っていた。(次回は=古い友と小さい友=に続く)
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