蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

ヘーゲル精神現象学、最終節のYoutube動画の投稿案内

2024年11月27日 | 小説
(2024年11月27日)まだ暑さも抜けなかった本年9月14日、この日に始めたヘーゲル精神現象学(Phénoménologie de l’Esprit)、その導入章(Introduction)の紹介、本稿(Youtube動画)で最終となります。1本にまとめたところ30分近くとなり、長すぎるので2本動画に仕立てました。前半(5_1)を本日Youtubeに投稿。主題は真理追求の弁証法は2段ロケット。


Youtube動画野サムネイル


概要欄の一文は以下に:
前回(精神現象学4_2)ではサルトル実存主義を予告する「モノに思想(概念)が含まれる」を表現したそれまで「概念は現象の野」に知が投影するとしていた。この差をヘーゲルは「2の表現(モノは概念を含むか、概念は精神作用か=前回4_2)は実は一致する。基本は、これら調査において両の節目moments、その一は概念と対象(知)、別の一つは他者に向く存在と律自の存在(悟性)の、いずれもがここで取り組むとする「知る活動内部」に紛れ込んでいる事情を、理性 (我々)は心しておく。その意味するところは、理性は検査の場に己の基準も、個人思考をも持ち込む余地はない)と諭す。これをして弁証法の2段ロケットと部族民が理解した。更に「この2段仕掛けには」概念はモノ側に付属するーが必須となる。精神現象がモノの概念を理解する仕組みにDéterminabilitéを悟性が保有すると展開してゆく。

Youtube動画リンク:https://youtu.be/UgksTtzcmcg

部族民通信ホームサイトのIndex頁:https://tribesman.net/

ホームサイトでは哲学に分類されています。 https://tribesman.net/philo.html この頁からは動画、PDF(パワーポイントから改編)を開けます。

動画の元になっている文章はYoutube投稿そのものですが、改訂を入れています。新たな解釈も入った文はホームサイトのこちら頁に接近してください。 
https://tribesman.net/Hegel5.html

最終投稿(現象学5_2)は近々に動画化します。了

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 下

2024年11月21日 | 小説
(2024年11月21日)« En se poussant vers son existence vraie, la conscience atteindra un point où elle se libérera de l’apparence, l’apparence d'être entachée de quelque chose d'étranger qui est seulement pour elle et comme un autre ; elle atteindra ainsi le point où le phénomène devient égal à l'essence, où, en conséquence, la présentation de l'expérience coïncide avec la science authentique de l’esprit ; finalement, quand la conscience saisira cette essence qui lui est propre, elle désignera la nature du savoir absolu lui-même » (77頁)

節目の中身の全て、その存在の真実に、悟性は自らを向け己の表現から解き放たれる地点にたどり着く。その表現とは何某かの、悟性を別のものにしてしまう、異質なものが取り付いていた。そして現象が実質に同等な地点にたどり着き、その流れに沿いながら、経験があからさまにする表現が精神の正統なる理性と合致するに至る。最終的に悟性はこの、己に本来である実質を取り込むことになり、絶対知savoir absoluとは己と顕示できるに至る。


知と悟性に弁証法機構が内在している。それらが吟味して現象の野に提示する、基準と概念は再び検査に入る。2重の弁証法の仕組みをヘーゲルが説明する(前回、中、の2段ロケットのイメージ図)


部族民:その存在=は前文 « les moments du tout » を受ける、son(代名詞単数男性形)なのでle tout。その意味は幾度かの節目を通して、ようやく真実の存在になりうるに至った節目の中身(基準と概念)を指す。目を曇らせる異質を悟性が拭い、次に現象と実質が重なり…最後に絶対知を獲得する。

Hyppolite:Cette introduction démontre l'immanence de la science à l'expérience. 本章は経験(弁証法)においての理性の内在を証明する。
用語;Immanence内在とは:Caractère de ce qui est intérieur à un être ou à un objet des pensées (Dic. de philo. Nathan) 存在あるいは思考の客体に内在する性状。スピノザの自然に内在する「神」はその例と挙げられる。ここでは精神における理性の内在、弁証法における精神優位、モノ世界を敷衍する絶対知を表す。
部族民は理性をtranscendantalと理解していた。この語には対象から概念を形成するに経験を必要としない、即物即断性がうかがえる。一方immanence内在は常在する「原理」の意を感じる。先験の即物能が原理として弁証法に内在すると理解する。

まとめ:精神現象を当初は内向きに説明し、後半に知も悟性もモノ世界を見据えると外向きに変化した。現象の知は、概念からモノの実質を探り、悟性の決定力の駆動で、絶対知を獲得できると結論付けた。
悟性知理性のせめぎあい、弁証法過程の呻吟を12ページの要約にまとめたIntroduction導入章。まさにヘーゲル思想のすべてを詳細記述した力作が本書本章です。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介 改訂版 了 (11月21日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中

2024年11月17日 | 小説

(2024年11月17日)前文: 9月14日にGooblog 投稿した「精神現象学の紹介」の初回シリーズの最後半部を大きく改訂し、再投稿を試みている。改訂内容は前回(上)で報告している通り「1悟性、知、それぞれに概念と真理の拮抗、弁証法が発動する」。本稿でこの趣旨が更に展開する。精神の単性要素(知、悟性)それぞれの内で弁証法が展開する。悟性には「一つの何か」が備わり、内の弁証過程に湧き出て、精神外のモノ真理を掴む。これを決定力déterminabilitéと後に命名する。精神が外部の真理に肉薄する過程には内なる弁証法と、現象の野での知と悟性の拮抗が演じられていた(2段ロケット)。

前回上の最終文を一部紹介:
「悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象は一致しない。対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなって…」節目検査での不整合を記す文です。

以下本文:脚注Hyppolite : * Un savoir déterminé de la conscience constitue une totalité concrète ; si l'examen montre une disparité entre les deux moments, les deux moments changent en même temps, et la conscience, qui a fait une expérience, est conduite à une autre forme de savoir.
悟性から判断を受ける知は、確固とした総体を形成している。検査により前後節目の間に不整合が発覚すると、2の節目は同時に変化を見せ、悟性はこの経験を体現するのだから、己の知のあり様を変える。

部族民:脚注Hyppoliteの「確固とした総体」の意味は知が内部に弁証法の仕組みを所有するーと理解する。本章後半には基準、概念、実質に新たな考えを導入している。言ってみればそれは2段構えの弁証法を導くためと(部族民は)解釈する。Hyppoliteがそれを「確固…」と言い切る。現象を取り巻く思考の過程に複雑さが増した。
この2段構えとは「モノが思想を宿す」「モノ思想を精神が探り真実に至る」。この説明は現象の野での弁証法で、ここが初段=前回4_2。さらに「現象の知=Hyppolite」および悟性は、それ自身に主体と客体の対立を抱える。(知の)蓋然certitudeと真実vérité=前回 、(悟性の)内に抱える基準、外世界に存在する対象の概念。Hyppoliteがその内部性状を「確固」と指摘する。この確固思考の発露を判断力déterminabilitéとした。

« Ce mouvement dialectique que la conscience exerce en elle-même, en son savoir aussi bien qu'en son objet, en tant que devant elle le nouvel objet vrai en jaillit, est proprement ce qu'on nomme expérience* » (76頁)
悟性が自身としてかく活動し、あわせて知も対象も活動し変化する。悟性の前に新たな真実対象が、これら活動の中から湧き出る。これを経験と言う.
部族民:確固とした節目を経験する知と悟性、決断に導かれ外部世界を探査する悟性。もはや理性が入り込む余地はない(nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche=理性は思考を持ち込めない=前回4_2の句を裏付ける) 
追補:検査は必ず不整合に陥る。しかし知は確固とした総体(内部の弁証法)を持つから総体ごと変遷する(知内部では蓋然と真理、この対峙を経て概念を新たにする)。この変因律は悟性にあっても同じ。両者内部での弁証法は、精神現象にて2段目の弁証法が発起され、悟性が決断をもって裁定する。


弁証法は現象の野で進展する、しかし知と悟性の内部にも弁証法の過程(対立構造)は付帯されている。ヘーゲルが明かす2段ロケット弁証法。


Hyppolite:*L'expérience et la dialectique se trouvent identifiées. ここに弁証法と経験が特定できた。
結語(12頁の導入章の最終頁。多くはこれまでの引用で語られているが、ヘーゲル先生は念をいれる) « L'expérience que la conscience fait de soi ne peut, selon le concept de l 'expérience même, comprendre rien de moins en elle que le système total de la conscience ou le royaume total de la vérité de l’esprit ; cependant, les moments de la vérité s'y présentent dans cette déterminabilité particulière : ils ne sont pas des moments abstraits et purs, mais ils sont comme ils sont pour la conscience, ou comme cette conscience surgit dans son rapport à eux. C'est pourquoi les moments du tout sont des figures de la conscience* » (77頁)
悟性自からが体験する「経験」は、経験の概念の仕組みにより、悟性の体系、あるいは精神真理の王国を含まずに留まるものではない。個別的決定を実践する段階で、いくつもの真実の節目が現れる。それらは抽象的、単に純粋のみの節目ではない。悟性に訴えかけるかの節目、あるいは節目との連携でこの悟性が湧き上がるかとも思える節目である。これをして節目の流れの全ては、悟性の形態といえる。
(含まずに留まらないは2重否定、含み留まるがその意、蛇足ながら)

Hyppolite:*Distinction de la Phénoménologie et de la Logique.現象学の論理学からの区別。(精神活動の中心に悟性を据える。その悟性は「論理」の下僕ではない、弁証法の律則で動く。デカルト、カントなど哲学先人との差を指摘している)
部族民:外部真理を判定する能力déterminabilité、個別の節目でそれを発揮する機会はparticulière個別判断。悟性が節目の独自にあわせparticulière個別判断を実行し、節目の真理が体現される。弁証法発展では悟性が主導権を握る。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 中の了(11月17日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖ロカ病院って言ったら笑われた

2024年11月15日 | 小説
(2024年11月15日)本日のニュース、重篤な状態で聖路加病院にご入院中の三笠宮妃百合子様がご逝去なされた。御享年101歳。雑の身ながら御冥福を祈ります。

ここからが、どうでもいい話題シリーズ2弾の本文:ラジオ・テレビでは聖路加病院を「聖ロカ」と発音していた。聖ロカなる聖人は存在しない。新約聖書福音書ルカ伝は聖ルカ(Saint Luca)の口述による(自筆の説も)。ルカ(ラテン語)がリュック(仏)、ルークルーカス(英独語)と替わるが、ルはそのまま、ルから「ロ」への音韻変換は無い。聖路加病院も聖ルークを守護に掲げるので聖ルカと発音するはず。メディアの誤読みのみならず、同院関係者の皆様も聖ロカと発音していた(投稿子渡来部は一時、医療関係に職を得て、面談の機会を賜った)。


聖ルカ、ベリー公の時祷書(Wikiから拝借)


「路」が問題を引き起こしている。路にはロの音読みが当てられ「ル」は見当たらない(角川の大漢和など幾つかの漢和辞典での調べ)。聖路加とあるからセイロカと読むしかない。しかし大昔は明治、維新もその半ば、あらゆる文物事象を漢字に当てる作業に人々が勤しんだ。諭吉はlibertéを自由と、周がphilosophieを哲学と名訳をあてた頃と想定して、仏王ルイ14世を「路易14世」とした。14世に限らずあらゆるルイLouisには路易が用いられていた。またLuc読みはリュック、路来と書いた。ちなみにルイーズは路易子と書く。
誰が路を持ち込んだのか、なぜルと読ませる漢字を当てなかったかは不明。ルの漢字には留(進歩なし)、流(ながされる)、襤褸(ランル、ボロ服)など碌でもない字が並ぶ。ルイ14世に褸衣は当てられない。こんな事情があったと推測します。

リュックが路来ならルカは路加、同病院の創立の1901年(明治34年)ならば路をルと読むに抵抗はなかった(はず)。しかし昭和に入って、定着しなかった。ルカ伝など知らない人々がセイロカと言い出して、この読みが定位置に着地した感がある。
なおGoogleでは聖ルカ病院、聖ロカ病院、検索窓にいずれを入れても聖路加病院に行き着く。右肩のショートWikiには「せい=ろか=こくさいびょういん」は正式な読みではない」の但しが文頭に見える。行外に「聖ルカと読むのだ」「聖ロカなんてのは存在しないんだから」悲痛な叫びが聞こえる。了
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上

2024年11月14日 | 小説
前文:本稿はYoutubeに動画投稿されているヘーゲル「精神現象学」の最終節にあたり、近々にも動画化する予定です。実はこの部分は本年9月14日にGooblog投稿されています。その後、動画化での読み返しで、初稿の至らない内容が気になって、かなり変えた。書き直しは 1悟性、知、それらの内部に概念と真理の拮抗、すなわち弁証法が発動する 2すなわち基準と概念のすり合わせの弁証法(これが精神現象)の前に、精神内部でソト世界を見つめてソトと内の弁証法が拮抗する 3悟性がモノ世界の真理を見極める「一つの何か」を所有し、それを決定力déterminabilitéとする。これをしてモノ世界の真理を精神が掴み、ヒトが絶対値を修得するーなどです。このあたりが本書の肝心カナメ、(初稿は)そこが弱かった。ほとんどの書き換えとなり改定版としてGooblog再投稿を決めました。

ヘーゲルのYoutube動画はこれまで6幕投稿しています、それらはBlogとの内容差異はありませんので、楽しんでください。最近の動画(4_2モノは精神を宿し個がそれを経験する)のリンクを貼ります
https://youtu.be/4qlu27dSuHU
ホームサイト内のそのページリンクは https://tribesman.net/Hegel4_2.html 
部族民通信の哲学ページはhttps://tribesman.net/philo.html  動画(サイト内でのリンク)PDF資料に接近できます。

ヘーゲル先生「ヒトの思考は現象にすぎない。実質、真理はモノ世界にあるので、ヒトは真理に到達できない。しかし儂の理論を理解して、持ち前の決定力を実践すれば、かなり近くまで到達できる。決定力の無いヒト、俗には頭悪い、は絶対に近づけない」


改訂版本文(2024年11月14日、前回ブログ投稿9月14日) « ces deux présentations coïncident ; mais l'essentiel est de retenir fermement pendant toute la recherche ce fait que les deux moments, concept et objet, être-pour-un-autre et être-en-soi, tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir que nous étudions, et donc que nous n'avons pas besoin d'apporter avec nous nos mesures, d'utiliser nos idées personnelles et nos pensées au cours de la recherche ; c'est, au contraire, en les écartant que nous aboutirons à considérer la chose comme elle est en soi et pour soi-même » (74頁)
2の表現(モノは概念を含むか、概念は精神作用か=前回4_2)は実は一致する。基本は、これら調査において両の節目moment、その一は概念と対象、別の一つは他者に向く存在と律自の存在の、いずれもがここで取り組むとする「知る活動」に紛れ込んでいる事情を、理性 (我々)は心しておく。その意味するところは、理性は検査の場に己の基準も、個人思考をも持ち込む余地はない。なすべきはその反対で、それら(理性の基準、思考など)を検査から引き離すことでモノの律自性及び覚自性(実質)の理解に近づく。

Hyppolite:Le savoir phénoménal ayant en lui l'opposition du sujet et de l'objet, de la certitude et de la vérité, peut procéder lui-même à son propre examen, et cet examen se nomme expérience. On notera la réversibilité des termes de l'opposition.
現象の知は主体と対象、すなわち蓋然性certitudeと真理の向き合いを抱えている。よって自身内部で知としての本来の検査を遂行できる。この検査を経験(弁証法)と言う。上記対立(主体と対象)は裏表逆立も想定される。これを私は注目したい。
部族民:引用文で留意する2点。1は節目においての調査に1(概念と対象)と2他者に向く…のいずれもが融和して「紛れ込む」。もう一点が「知る活動=拙訳」の実態。Hyppoliteはを現象の知と明確にしている。その正体を「certitude蓋然」と定義する。
実質を現象化する過程の「不確実さ」、正しいかもしれないが間違いもあり得る、を意味する。さらには主体客体の逆立もあると指摘する。現象の知がモノ真理の対象になってしまう、なぜなら概念を具有するのはモノであるから。知る活動の振幅乱れの実態を表している。
2点目: « tombent eux-mêmes à l'intérieur du savoir » 知る活動に紛れ込む、この句こそヘーゲル思想の転換点を暗示する。これまでの説明では、精神活動は現象の野(認識connaissance)で展開する、しかし知と悟性の内部に対立が入り込む(落ち込む)、これは両の内部に弁証法機構が備わり、モノ真理に向かう進展が生ずると言っている。結果は「理性には弁証活動に入り込む余地はない」につながる(後文で詳述)。
悟性の分析 « la conscience est d'un côté conscience de l'objet, d'un autre côté conscience de soi-même : elle est conscience de ce qui lui est le vrai et conscience de son savoir de cette vérité. Puisque tous les deux sont pour elle, elle est elle-même leur comparaison » (74頁)

悟性の一側面は対象(モノ)に向く悟性であり、もう一方の側面は己を知る悟性である。言い換えると己にとっての真実の悟性であり、真実を知ろうとする自身の知の悟性である。二通りの(悟性のあり方)は悟性のためであり、悟性はその2通りを比較する自身である。
部族民:前文の知内部の2面性(蓋然性と真理=Hyppolite)と同様の2面性を悟性にも向ける。悟性はモノを見つめる(対象の悟性、上訳文)、内なる精神作用から真理を探る悟性。前者はモノ世界を探る。後者は現象の野に活動する(de ce qui lui est le vraiは現象内部での活動、de son savoir de cette vérité がモノ世界に目を向ける悟性)。対立し逆立も有りうる悟性、弁証法が精神内部にせめぐ。


« Quand la conscience trouve donc dans son objet que son savoir ne correspond pas à cet objet, l'objet non plus ne résiste pas ; ou la mesure de l'examen se change si ce dont elle devait être la mesure ne subsiste pas au cours de l 'examen ; et l'examen n 'est pas seulement un examen du savoir, mais aussi un examen de son unité de mesure* » (75頁)
悟性が対象を検分して(彼が知る)知とこの対象が一致しない、対象もその事実に抗わないとする。それはその検査に持ち出した基準が、検査流れにおいてもはや立場を失しなっている、あるいはこの検査は知の検査ではなく、基準の一体(摺り合わせから判断まで)の見直しにつながる。

Hyppolite訳、ヘーゲル精神現象学 導入章の最終節 再投稿 上の了(11月14日)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

暇なネットオタクに読んでもらいたい、どうでもいい話、読み切り

2024年11月12日 | 小説
(2024年11月12日)山本由伸投手(MLBドジャーズ)の活躍振りをYoutubeで見ている。素晴らしい投球に目が画面に釘付け。2024年のPSでの活躍は4試合出場2勝0敗、球団のワールドシリーズ制覇に貢献した。

(昔の話)部族民(渡来部)が留学していた頃、山本クンと友人になった。彼をオレの学校仲間にヤマモトだと紹介すると、真ん前の女子生がクスッと笑った。なんで笑われるかオレ分かんなかった。山本クンは「また笑われた」慣れた様子だが、その理由を知るまでに至ってない。自分から「なぜ笑うのか」と問い質すのも億劫であるからか。そこでオレ

Tu as eu un petit air de sourire, pourquoi ? 笑ったよね、なぜ。
Geneviève女子生の名前。Parce que…, yamamoto  なぜってヤマモト
横にいたPaul が qu’a capoté と受け止めた。あわせて « yamamoto qu’a capoté » ヤマモトカカポテ。 


ヤマモトカカポテ


こっちがド軍エース山本由伸

写真はネットから

オレ、この意味が全く掴めなかった。山本クンは「また来た」と怪訝な不満顔、彼にも分かっていないようだ。Genevièveが種明かししてくれた。
« C’est une locution vulgaire, dans la parole sociale on dira... » 卑語の言い回しね、正しくはこう言う 
横のPaulが « Il y a ma moto qui a capoté » このひっくり返った私のオートバイ。
理解できなかった理由、

その1 Il y aをY aと短縮する喋り方。
2仲間内、あるいは卑語ではquiは用いられない。Queに取って代わる、a(過去を表す動詞)が後ろなのでqu’aに変換した。

3 capoterひっくり返るも知らなかった。Robert辞書に入ると無印、あまり遣われない(あるいは用いてはならない、特に文章に)。
この種の語彙、変則な遣い回しのフランス語はカネを払って(アテネフランセ授業料)、労力(予習復習、カバン下げての通学)注いで習得する類に入らない。正反の意味では、美しくもないこんなフランス語を自在に振り回す東洋人がやってきて、授業なんかについて行けなかったら « Certainement on se moque de moi » オレ、きっと誰からも相手にされないよーに陥る。 
Genevièveはcapoter の意味も教えてくれた。すべてに合点がいったオレは、笑いの状況を要約して山本クンに伝えた。それなりに納得した彼は、しかし相好を崩すには至らずしかめっ面を戻さなかった。

反れるがGeneviève、彼女はオレにいたく親切だった。その素振りも見せてくれたが、オレには合わなかったからそこまでで終わった。

以上がヤマモト単話のどうでも良い内容。了


 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘーゲル精神現象学 導入章の紹介4_2Youtube投稿案内

2024年11月05日 | 小説
まとめ(2024年11月5日)人の理性(精神)活動は現象の野、悟性と知はその場で対峙し交信としている。これまでこのようにヘーゲルが説明してきた。本投稿から「現象活動とは知が差し出す己の真実(sa vérité)を、悟性が見つめているだけに過ぎない」。この仕組みは真理を探れない。これから「知の真実」を語ると前置きして、知の概念と悟性の基準の正反対をヘーゲルは説明する。「概念はモノに付属する。モノは現象の外にある、故に(現象の野に住む)悟性が、(現象の野に見える)対象を通して(現象の外の)モノ概念を掴むのだ」と教える。悟性には、現象外のモノ概念(真実)を覚知できる「一つの何か」を持つと、我ら凡人を励ます」。この思想を発展させると「モノが思想を持つ、精神はそれを経験する」実存主義の魁となります。


動画のサムネイル


Youtube動画リンク https://youtu.be/4qlu27dSuHU

本投稿のホームページリンクは https://tribesman.net/Hegel4.html

本投稿のページ http://tribesman.net/Hegel4_2.html

部族民通信ホームページは http://tribesman.net/
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

課税103万円枠の撤廃を熱烈支持

2024年11月02日 | 小説
(2024年11月2日)国民民主党は先の総選挙(10月27日投開票)で躍進した(議席数が7から28と4倍の増)。躍進の理由は色々取り沙汰されている、なかでも非課税限度を現行103万円から178万円に嵩上げする、この政策が子育て世代に大きな共感を得たとの見方がネット空間に広まっている。投稿子(K)もその評価を受け入れ、政策実現にこぎつけてほしいと願う。
この件で1の感想と1の指摘をしたい。感想とは個人のささやかな思いでしかないが、それを前段にして次文では俗に言う「財務オカルト教徒の乱暴狼藉」を語りたい。
小老の住むこの辺り(東京都日野市の浅川東側)は世代交代が始まっている。ご近隣の方々には子育て世代が多い、子の多くは高校、大学に通うまでに成長している。子にかける手間も減って主婦、奥さんは働く機会を探している。職種を問わなければ、東京の近郊、就業は速い。短時間労働に従事する職を選ぶ。

そうした奥さんに「年収の壁」がそびえ立つのだそうだ。1に103万円を越えると課税対象となる。 2国民年金の3号資格の停止(130万円だがとりあえず本投稿では100万円壁として一括する) 3夫の収入への配偶者特別控除(133万円を越す場合)資格停止 4健康保険の被扶養認定の停止(同じく130万円)。
国民民主の提案を知らないが、これら年収制限をすべからく178万円に引き上げるものとする。すると奥さんとその家庭では、178万円分を働き、75万円の増収の恩恵をうけ、年金を払わずに(3号のまま)配偶特別控除は残り、保険を同一世帯で維持できる。まさに大ボーナスの恩恵かと喜ぶ。

近所奥さんの働きぶりを垣間見ると、週に3~4日出勤と見受けられる。私(K)は団塊年金なので家、庭にいる機会が多い。奥さんたちを通りで見るにつけ「収入壁の調整で毎日は働いていない」のかと疑う、その通りだそうです(家人の話)。より長く、より日数を多く働く意欲はあるし、受け入れ側も歓迎するはずだけど、国税当局が定めた年収の壁が邪魔するかに立ち上がっているーまさに経済循環の活性化を妨害する図式が浮かぶ。ぜひ今国会で国民民主法案の通過を実現してもらいたいと願う一人です。

ここで第2題。妨害勢力。この案が発表されるやいなや財務省から横槍が入った。178万まで無税にすると7. 6兆円の税収減になる。オレ首をひねった。
ご近所の奥さんたちのささやかな税対策、家族配慮が改善されると、総額11~12兆円に登る所得税総額の6~7割が減るのだと(メディアが)騒ぐ。これは理屈に合わない。
調べた。


メディアも官房長官も7.6兆円の減収と騒ぐ、しかし根拠はない

もし非課税400万人(文中)が粛々と課税組に入って、国税5%課税を受けて、年金3号が消え別払いになって、配偶特別も消え夫の課税が増えて、健保を別払いにするなどと計算したのだとしたら公務倫理違反だ。そこに乗り込まないために主婦が103万円で呻吟しているのだ。

1 図は国税庁の公開データ。年所得100万円以下は332万人(千以下は捨象)納税者(57万人)を除く274万人が非課税(青下線)。主婦奥さんたちが課税対策(103万円以下に抑える)している苦労が如実に見えている。
2 年所得100~200万円の方は481万人、うち納税者は347万人。非課税の134万人は103万円意識の奥さんたちと想定できる。
3 これに274万人を加えた400万人強の奥さんたちが103万円枠で呻吟している。
4 年所得100~200万円の納税者は347万人の総所得は5兆4633億円(左赤楕円)、その総税収は1482億円(右赤楕円)。
5 結論~!178万円課税限度を嵩上げしても、1482億円(おそらくこれ以下)の実減にしかならない(200と178万円の差分があるから)。100万円以下の非課税者274万人が178万円枠に移る。4兆9000億円の増収につながる。400万人奥さんたちの4兆円(今の非課税総額)を差し引いて、9000億円の雇用拡大が実現できる。配偶者(夫)の収入に純増で加算されるから9000億円の大部分が消費に回される。

さて本題、国税側は1482億円の減収、国民側は9000億円の増収。やっぱり実行すべきだ。でも ;
財務省が国民民主党案潰しに必死漕いて、メディアに流した7.6兆円の減収はどうやって計算したの、まさか捏造でないよね。上(図の真下の説明、粛々と課税組に...などと計算した)に見えるありえない状況を想定しているなら、それが獲らぬタヌキの皮算用、捏造と言うぜ。
(部族民通信に賛同している日野市在住のK氏、名誉部族民の投稿です)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする