蕃神義雄 部族民通信

レヴィストロース著作悲しき熱帯、神話学4部作を紹介している。

「歴史と弁証法、サルトル批判」部族民ホームサイト投稿

2021年04月30日 | 小説
3月19日から4月12日まで10回に分けて投稿した「歴史と弁証法、サルトル批判」を一部書き換えで部族民ホームサイト(www.tribesman.net)に投稿しました。5回に分けています。
新しい点は投稿の要旨をパワーポイントで作成PDFとしてIndex頁からアクセスできます。ブログ案内では全5葉の紹介は難しいけれど、一部を;




弁証法とされる思想を4に分け、サルトルは思弁的弁証法を理性に取り入れ、かつマルクスの歴史弁証法を神としています。レーニン毛沢東主義とは歴史弁証法への積極参加をヒトに押し付ける教条ですが、これをマルクス派生の弁証法として別立てにして、サルトルはこの方法論(暴力的協賛革命)を肯定しています。
一方、レヴィストロースはカントが教える「分析思考の補完」としての弁証法を取り入れています。


理性論、歴史観、未開文化考は本章解釈の原点として(部族民が)提案するものです。両者の相違を書いています。

よろしくホームサイトにもご訪問を。
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親族の基本構造 限定交換L’échange restreint 2

2021年04月26日 | 小説
(2021年4月26日)レヴィストロースは世代再生産(子を生む)行動における自然要素と、社会(文化)として制度化されている「婚姻」を比較する ;
<la nature et la culture opère selon le double rythme de recevoir et de donner. Mais les deux moments de ce rythme, tel que le reproduit la nature , ne sont pas indiférents aux yeux de la culture : devant la première période , celle de recevoir , qui s’exprime à travers la parenté biologique , la culture est impuissante : l’hérédité d’un enfant est integralement inscrite au sein des vehicules par les parents> (36頁)
訳:自然も文化も受ける与える、この2拍子で展開する。しかし自然での拍子2の展開の様を観察すると文化のそれとは異なっていると気づく。一拍子目、すなわち自然での「受ける」を前にすると、それは親の生物的資質の伝承そのものだが、文化は無力感に打たれる。子の形質は親からの引き継ぎであって、それ以上のもの(社会的)ではない。
以上が系統への自然と文化の差、その説明である。「同盟=文化が作った婚姻形体」の機能を考えると….、
<l’alience est aussi exigée par la nature que la filiation.(同) 同盟にしても系統と同様に自然に制約を受けるのではあるが(以下は原文なし)、その活動は同じ様態(maniére)でも同じ尺度(mesure)でもない。なぜならば自然での同盟を選び方とは、種の枠の制約は受けるものの、規定なしである。自然は個体おのおのに両親から引き継ぐ決定因子を決めるだけである。自然は同盟選びの規定に「制約なし」を課している。

パワーポイントで作成した図をJpeg化。

自然とは「子を親が生む」「子は親に似る」しかない。文化は自然のその連続性から抜け出るために「番う行為」を同盟に、「形質遺伝」を系列に昇華させた。

<L’hérédité est envisagée du point de vue de la nature , doublement nécessaire :d’abord comme la loi – il n’y a pas de génération spontanée – ensuite comme la spécification de la loi : car la nature ne dit pas seulement qu’il faut avoir des parents mais aussi que vous serez semblables à eux.(同)
訳:遺伝とは2重の必要性に成り立つ。その1は法則、突然に出現する世代はない(必ず親を必要とする)。2番は子が親に似るという法の取り決めである。
<Au contraire en ce qui concerne l’alience, la nature se contente d’affirmer la loi, mais elle est indifférente à son contenu>(36頁)(自然における)同盟の意味合いとは自然は法則を実行するのみに満足し、その内容には無頓着である。
この後;
(原文なし)両親と子の関係とは子が両親の資質を受け継ぐけれど、男と女(=原文はmale et femelle雄と雌。femelleは滅多に用いられない侮蔑語だけれど、生物学の法則を語っているので許される)の関係は偶然と慨然可能性に支配される。
さて確認の意味で;
ここで用いられる「自然」はゴリラとかライオンの番(つがい)行動を意味しているのではない。生殖行動、世代再生産にまつわる、人がそこから抜け出られない「自然性」をレヴィストロースは問いかけている。人の生殖を「つがう」として分析しているとも解釈できる。
Allienceについて解説する前述(内容に無頓着とある)のくだりは、自然の観点から見た同盟(男女間)の評価である。遺伝と次世代の出現(子が生まれる)は生物学法則に規定される。同盟(男と女の結びつき)の中身は自然としては「種の制約」以外にはどうでも良い、男も女も子への期待はあろうが、子は親に似ているかもしない。これのみで子の遺伝中身を制御する技能を人(文化)は持たないーと伝え掛けている。
<le caractère arbitraire de l’alience qu’il (ilはle rapport entre mâle et femelle) se manifeste>(同)男と女の関係の偶発性、の句を加えている。
なぜ本章(規則の宇宙)にて世代再生産での自然的側面をことさら述べたのだろうか。これまで(序章Introduction)の記載に基づき文化面から再生産活動をまとめると;
1 近親婚の禁止を社会の規則に定めている。すなわち個はかならず系統に属し、系統内での婚姻は許されないーこれを規則化した。(本書解読基準点の1)
2 婚姻は特定の同盟間でのみ結ばれる(限定交換の公理)。
1,2の結論とは文化は自然が踏み込めない同盟allienceを社会制度化したのである。続けよう、
<Or, si on admet, en accord avec l’évidence, une antériorité historique de la nature par rapport à la culture , ce peut être seulemet grâce aux possibilités laissées ouvertes par la première que la seconde a pu inserer sa marque et introduire ses exigences propres> (36頁)
訳:自然が文化よりも先に存在している事実は確かだから、このこと自体を突き詰めると前者が後者に可能性を残していたと言える。それが後者の表象(sa marque)を自然に織り込むを許し、かつそれ自身の仕組み(ses exigences propres)を導入するを可能さしめたのである。
クセジュ文庫に劣らない堅苦しい訳になったが、自然から文化が抜け出したのならその誕生には文化としての意味合いと仕掛けがあるはずだ。もし文化に独自性がなく、前者自然と似通っているならば、文化存立の価値はない。こんな至極当然を言っているのだが、御大からのご託宣ならば何がしかの深い意味があるはずだ。次回に乞うご期待。

親族の基本構造 限定交換L’échange restraint 2 了(2021年4月26日)
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親族の基本構造(La structure élémentaire de la parenté)限定交換1

2021年04月23日 | 小説
(2021年4月23日)レヴィストロース著の親族の基本構造(La structure élémentaire de la parenté)の紹介を続けます。本書の序章(Introduction自然と文化、近親婚の問題)について本年(2021年)1月5日から3月8日に14回に分け本ブログサイトに投稿しています。未読の方にはぜひ左コラムカレンダーからご訪問を。概要を本投稿の末尾に補遺として取り上げています。


親族の基本構造表紙(第2版)

さて序章から本文に入る前に。前回「野生の思考9章、歴史と弁証法サルトル批判」の投稿(3月19日~4月12日10回)では基準点(原点とした)を設定し、文句の解釈にあたり基準点に回帰して文裏の主張をはかる手順を用いた。難文のひしめき合いの第9章ながら解読できたと(部族民として)信ずるに至った。本書再取り組みにあたり同じ手法を取ることにした。個々が種明かしになるが本書での基準点は、
1 近親婚禁止が文化を形成
2 交換は必ず不等価
上2を設けた。
ここで本文に入る。
交換を限定(restreint)と一般化(généralisé)の2形態分けている。レヴィストロースは社会事象について歴史変遷を語りません。しかるに限定交換は仕組みが単純で、「交換」の機能を直鋭的に残していることから、原初形態と(部族民は)理解します。一般交換に入ると、例証の素材として中国やビルマ(当時の名称)諸族を選んでいるので「どちらかといえば」大きな、文明により近い集団での慣習と思えて、関心が高まらなかった。本投稿では限定交換のみを取り上げます。一般交換の面白さは、限定で培った「交換の理念」を複雑系社会に、いかに定着させたか。人の知のゲーム展開で、このあたりが著者の頭脳の見せ所、読者には読みどころなので、本投稿の後に取り上げます。
限定交換の精緻とも評されるオーストラリア先住民(アボリジン)の一部族Murnginの交換制度、婚姻(女の交換)を子の交換に絡めた社会制度を個別例として紹介します。

限定交換とは:
<A côté , et au delà , de l’échange étendu au sens restraint – c’est-à-dire ou deux partenaires interviennent exclusivement -on peut conceveoir un cycle moins immédiatement perceptible , précisement parce qu’il fait appel à une structure d’une plus grande complexicité : c’est à lui que nous donnons le nom d’échange généralisé.>(270頁)
訳:限定されている交換の意味合い、すなわち2 の排他的な協力集団が相対している場、その横、あるいは上部に、より複雑さを有する構造体である故、直ちに認識できるわけはないけれど、一種の循環相(cycle)が仕掛けられる。それをして「一般化した交換」と名付ける。
上引用は「一般化交換echange generalise」の部の書き出しです。この一文で限定及びそれに対峙する一般化交換のあらましが理解できる。この文意から限定交換の意味が捉えられる。それは(特に女を)交換の対象物として;
1 2の相対集団で実施される。いくつかの相対集団を組み合わせて交換過程を多層化する例も見られる。決められた相対集団を外れての女交換は有り得ない。交換相手の限定。
2 交換対称の女の地位は明確に定められる。系統での姉妹、娘であり、母や叔母は交換対称ではない。交換女は相手の男(婿)とも親族関係が認められる(交差イトコなど)。交換物の限定。
3 交換の循環相は頻繁である、観察者にも仕組みとして認知される。社会制度による限定。

一般化とは交換の理念(不等価、不均衡が生ずる。それを経時で補償、補正)を踏襲するものの、相対する集団を規定しない。不特定集団間でのやり取りとなる。上述の通り今回はこちらを取り上げない。

「限定交換L’echange restreint」の部は8の章で構成される。
副題に交換の基礎le fondement d l’echange、各章の章題は「規則の宇宙l’univers de regle」、以下「族内婚、族外婚」「相互性の原理」….と続く。

限定交換の部のIndex頁から、族内婚と族外婚、相互性の原理、2重構造、古代なる幻想、同盟と系統の章題が読める

初めの章「規則の宇宙」紹介に入ります。
序章(Introduction)での伝えかけ(メッセージ)である「近親婚の禁止が文化の魁」についての書き出しから始まる。禁止するに至った理由は遺伝劣化でも心理的圧迫でもない、「社会(文化)が成り立つため」に必要なので制度化したーを繰り返す文となります。
書き出し文を引用;
<Si la racine de la prohibition de l’inceste est dans la nature , ce n’est jamais, cependant、 que par son terme , c’est-à- dire comme règle sociale que nous pouvons l’apprehender.(34頁)訳:近親婚の禁止が自然律として定められるとして、しかしながら、その表現(terme)、すなわち社会の制度を通してでは、それを(近親婚禁止を)捉えられない。
続いて近親婚の定義は世界各地、多様であるとの文が続く。
この第一行は訳の通り、序章Introductionでレヴィストロースが主張する「自然律としての発生」「社会制度として運用」を確認している内容となります。
次頁で<Envisagé du point de vue le plus général , la prohibition de l’enceste exprime le passage du fait naturel de la consanguité au fait culturel de l’allience(35頁)訳:より包括的視点で見ると、近親婚の禁止は遺伝形質の継続なる自然法則への拘泥を諦め、同盟を選ぶという文化への移行であると示している。
若干難しい内容になった。「遺伝形質….自然法則」とは何を意味するのか。続く段落でこのあたり、自然律であるheredite consanguiniteの説明が入るのでそちらで「自然律=この語は部族民創作」を解説する。
次に;
<l’individu recoit toujours plus ce qu’il donne , et en même temps il donne plus qu’il ne recoit.(同)人とは与えるよりも多く受け取り、同時に受け取るよりも多く与えるものである。
常に不等価である、これが交換の公理。

先に示した近親婚とあわせてこれを本書解読の2の基準点とする。前述の繰り返しながら再掲;
1 近親婚の禁止が文化を形成した
2 交換とは不等価で行われる。共時での不等価が不均衡を招き、経時で均衡に是正される(与えるより多くもらうが、次の展開でもらうより多く与える)。

親族の基本構造(La structure élémentaire de la parenté)限定交換1了(2021年4月23日)
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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判10(最終)

2021年04月12日 | 小説
(2021年4月12日)前回(第9回)では機能社会学に脱線したが、その理念はサルトルの弁証法とも重なるところがある点と、それをしてレヴィストロースがマリノフスキー機能論を「不足」と評した裏(思考とは何かの対立)を理解してほしい。サルトル批判に戻る;
<A force de faire la raison analytique une anticompréhension , Satre en vient souvent à lui refuser toute réalite comme partie intégrante de l’objet de compréhension. Ce paralogisme est dèja apparent dans sa facon d’invoquer une hisotoire dont on a du mal à decouvrir si cette histoire que font les hommes sans le savoir ; ou l’histoire des hommes telle que les historiens la font , en schant ; ou enfin l’interpretation , par le philosophe, ou de l’histore des historiens.(299頁)
>分析理性をして物事を理解出来ない思考とするに急ぐあまり、サルトルは理解対象物と現実をすっかり引き裂いてしまった。この誤謬推理(paralogisme)は歴史についての彼の語り口にもあからさまに聞こえる。それの言い分は全く理解し難いとなっている。それと気付かずに人々が創っている歴史なのか、承知しながら説明する歴史家の歴史なのか、歴史家の歴史を自己流に解釈する哲学者の歴史なのか、いずれかを判定するは困難である。


100歳の誕生日を祝うお孫さんとレヴィストロース(2008年、雑誌からデジカメ)

およそ哲学者で100歳の長寿を全うした例は彼以外にはいない。梅原猛が二人目の候補だったが96歳(2019年)で世を去った。哲学者は真理以上に100歳の壁に思索を阻まれている。

ここでは原点の1と2の理性と世界観、そしてそれら跛行を述べている。サルトルの弁証法理性を歴史に適用すると;ストライキ、バス停車場などでの直接行動が人々の弁証法理性の発露であるとする。しかしそれは<理解する対象物と現実をすっかり引き裂いている>に過ぎない。対象物とは地理的、経時的に独立している事柄(=anecdote挿話、前出)であり、それを理解するとは<意図(intention)と原則(principe)を生活の律動(rythme)=前出>の中で解釈しなければならない。
この対称物と現実を捻じ曲げている誤謬は、彼の世界観(歴史)でも見て取れる。その誤りの3通りを羅列するが、この記述の繰り回しの場合は、最後の言い分がその主因と読みたい。すなわち<歴史を自己流に解釈する哲学者(サルトル)の歴史>である。勝手解釈(誤謬)のサルトル流の歴史であると。

<Il croit que son effort de compréhension n’a de chance d’aboutir qu’à la condition d’être dialectique ; et il a tort que le rapport, a la pensée indigene, de la connaissance qu’il en a est celui d’une dialectique constituée à une dialectique constituante, reprenant ainsi à son compte, par un detour imprévu, toute les illusions des théoriciens de la mentalité primitive.(同)
彼(サルトル)は己の理解とは弁証法的でなければ進められないと気づいた。そして先住民の思考について、ありったけの知識を持って、構成されている弁証法と構成を担う弁証法という対比に思いついたが、それは先住民の思考方法を幻想しながら解釈する理論家の説を寄せ集めた物に過ぎない。

先住民社会とは単周回(ショートサイクル)の弁証法歴史しか持たない(=前出)の出どころを続く文章で明かしている。
<Que le sauvage possède des connaisances complexes et soit capable d’analyse et de démonstration lui parait moins supportable encore qu’à un Revy-Bruhl.
先住民には複雑思考を持ち、分析は達者で一端の説明もできるという事実は、彼(サルトル)にとって、あのレビブリュールとやらよりも受け入れがたかった。
レビブリュールはレヴィストロースよりも2世代ほど先の民族学者。白人至上主義の観点から「未開人」劣等説を唱えた。名前にun不定冠詞を被せるのは「軽蔑」の意味が含まれる。レヴィストロースがレビブリュールをいかに判定しているかを語る。
しかしその理論はサルトルの原典「Lacritique....」に引用され、「生半可な弁証法(dialectique constitue)しか展開できない」との結語に行き着く根拠になっている(小筆はサルトル原典を読まないから推測が混じる)

<Sartre affirme:il va de soi que cette construction n’est pas une pensée : c’est un travail manuel contrôlé par une connaissance synthetique qu’il n’exprime pas. (299頁)
訳の前に。前文でDeacon(民族誌学)のAmbrym族の報告を紹介している。彼の求めに応じた一先住民が砂の上に婚姻制度の仕組みを堂々と、淀みもなく書き上げた事情についてのサルトルの見解、
訳:(先住民の説明ぶりは)思考から発したものではないとは明確だ。彼はそれが何かを表出しないが、総合した一つの知識に統制された作業で、手仕事である。
レヴィストロースはその分析を否定する。
<Soit : mais alors , il faudra en dire autant du professeur à l’Ecole Polytechnique faisant une démonstration au tableau , car chaque ethnographe capable de compréhension dialectique est intimement perduadé que la situation est exactement la même dans les deux cas.>(299頁)
それならば理工科学院の教授の行動を持ち出さなければならない。黒板に向かって説明を滞りなく書き上げる。弁証法を大事とする民族誌学者にしても、両者(Ambym族民と教授)の行為は全く同じと心の内で思っている。
EcolePolitechniqueはフランス屈指の理工系教育機関。その教授の授業内容と先住民が砂に画く様の知的水準は同一であるとしている。何処が同一かとは両者ともに頭の思想を表現しているから。さらにその思想とは彼らが具体的に見ている「現実réalité」を理念化した表象に他ならない。
比較には説得力が強い、社会科学系文章に幾度か引用されている。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判10了(最終回)(2021年4月12日)

本稿の終わりにあたり:本章(Histoire et dialectique)の全体(20頁)のおよそ半分の紹介でした。全文を取り上げない理由には「繰り返し」が読めるため。ただし文章表現での重複ではなく、思考の繰り返しです。その度に前の内容を深化させていくのですが、そこまで掘り下げない。出発点となる3の原点を理解すれば全文を理解できます。原点の原点とも言えるのが、サルトルの唯物弁証法への帰依となります。彼自身、あるいはその紹介者達はこの事実に触れませんが、彼が共産(暴力手段による)革命を達成したソ連、中国、キューバを訪問し、共産党体制を礼賛した事実は隠しようがありません。
共産主義を政治的、経済の立場から批判する陣論は多い。レヴィストロースは本文で理性論から批判した。「モノが思考を支配する」マルクス理論は誤りだと。この論調で実存主義をも葬り去った。サルトルが反論できなかった背景とは、ハリケーンに出会ってしまい、破壊された住処(思考)の「土台と建屋」の惨状を目の辺りにしたからかと推測します。
日本のサルトル紹介者の多くは「レヴィストロースは何も分かっていない」なる反論を展開した(らしい、ネット調べ)。この批判こそ、多くは文学系の彼らが哲学を知らない証です。哲学書を読むとは「理解」ではなく「解釈」です。書に盛られる語句、文言、言い回し、多重否定、関係詩のつながり(フランス語特有)、暗喩換喩の謎を解いて、修辞に隠れる思想をあばく。その解釈に辻褄が合えば文論を読み解いたことになる。サルトルは「こう言いたいはず」金科玉条は哲学書には似合いません。
追:今週には本稿をサイト(www.tribesman.net)に上梓して、書きかけの「親族の基本構造」を19日から取り上げます。春の陽気、皆様にご健勝を祈念します。
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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判9

2021年04月09日 | 小説
(2021年4月9日)幾分か脱線するがマリノフスキー機能論に入る。レヴィストロースはこの先達に敬意を表すが必ずしも高い評価を与えてはいない。本文に記載される背景をまとめてみると;
機能主義とされる民族学の主唱者ブロニスワフ・マイノフスキー(1884ポーランド~1942アメリカ)。機能の意味は<現存する文化を、相互に関係して働いている諸要素の集合体として捉え、それら諸要素が文化形成に及ぼす機能を分析する手法>(Wikipedia)
文化とはそこにあるモノ、実態と見ている。建物に喩えるとそびえるモノとして目の前に存在し、支えるための柱や屋根など諸要素で構成される。
制度、習俗、慣習など、機能因となるべくモノを特定し現地調査を進める進め方がマリノフスキー民族学といえる。トロブリアンド諸島の全域を巻き込み実行される贈り物の慣習「クラ」に注目し、部族社会の「交易」機能を超えて部族の集合体の特定、すなわち文化として自己認識(identite)を得る仕掛けとした。
クラを慣習と見るだけに終わらず、文化に収束する機能を有する要素、社会を支える柱とした。ここに「統括化」の思考が認められる
1 文化を諸要素に分け、それらが文化形成を担うとする分析思考。


クラとは真珠の腕飾り。その社会機能とは;それは多数の人びとを結びつけ、たがいに関係しあった諸活動の巨大な合成物をその内容とし、一つの有機的全体を形成する。島と島を結ぶ社会秩序の形成と持続の機能も果たす制度でもあるのだ。トロブリアンドでは交換(交易)は、呪術、威信、冒険などの社会活動からは切り離されない。(ネットサイト文化人類学から経済を考えるから、写真はネット採取)


2 個々の要素を取りまとめ文化自己認識の全体像を画く統括(totalisation弁証法)思考。
マリノフスキー機能論に見られるtotalisationは、実体文化に参画する現実行動としている。サルトルが意味するtotalisation、実体がある歴史(弁証法)に実体として参加する(praxis)と同一の思考である。マルクスが教える「唯物弁証法」にも通じる。かく考えると文化を思想とする「構造主義」との異なりは明確となり、次の引用も理解できる。
<les insuffisances de Malinowski nous ont appris que la n’était pas la fin de l’explication ; celle-ci commence seulement quand nous sommes parvenus à constituer notre objet> (298頁)マリノフキーが不足(insuffisances)している面から我々は以下を学べる。そこ(laはアクサングラーブが被さる、場所を表す副詞)で説明が終わるのではない。我ら自身の目的を探るに至って後に、説明がようやく始まるのだ。
<Le rôle de la raison dialectique est de mettre les sciences humaines en possession d’une réalité qu’elle est seule capable de leur fournir, mais que l’effort proprement scinetifique consiste à decomposer, puis recomposer suivant un autre plan.>(298頁)
訳:弁証法本来は人間科学にとある現実を所有させる役割を持つ。弁証法のみが人間科学にとある一つの現実(une realite)を与えられるのである。なぜならば(mais)科学の本来的努力とは、物事を分解(=分析手法)し、分解をもっぱらとするその思考とは別の理念で再結合する処にある。
=本来はしかしの意味maisを「なぜならば」と訳した理由はレヴィストロースにあって、この用法を常習するから。会話ではmais oui(そうだとも、強調)に用いられるのだ。越路吹雪だってメーウィと歌った=

2の引用文をまとめると;
1機能民族学の誤りは「機能の解析を最終目的とした」点に尽きる。その機能を解明してのち文化の解釈が始まるのだ。2科学本来の理性は「分析」で前訳の「分解し再結合」に当てはまる。その理性作業とは別系統の理性があって、それは「とある現実」を統合し、科学全般にその所有者たらしめる。
社会学を実学とすると、社会という「モノ」を説明する学である。こうした進め方は実際に多数である。モノはモノで構成されるから、構成するモノを語ればよろしい。マリノフスキーはモノをモノに託して語り、そこで止まった。ここが不足(insuffisances)とされた。
しかし厄介な文言が出ている。弁証法のおかげで人文科学が所有できることとなる「une realiteとある一つの現実」が分かりにくい。
現実とは目の前にあるので一般的にはla realiteと定冠詞をつける。Uneなる意味は数多い「現実」の一つとなる。その言いかたを正しく回せばune des realitesとなるがその組み合わせもとっていない。色々の可能性はあるかも知れないが、ともかく目の前に「なんとなく出来上がっている現実」が見えている。こんな意味と取りたい。でもそのune realiteは何処にあるのか。
小筆は前の文にある「objet」とこのune realiteを結びつけます。民族学の目的は共時的に同一ながら地理的に離れる文化を結びつける思想(=原点2の世界観, 歴史と対称関係)。この思想が形成するのは「とある一つの現実」で、その現実こそ民族学の目的であるとレヴィストロースが諭している。原点2の世界観を強調する一文と受け止める。
統括totalisation思考をモノに展開するのではなく、思想を土俵をする。諸要素をそこに実際の存在する実体として統括するのは、出発点であって目的地とはならない。
レヴィストロースが語る「彼のdialectique」とはカントが主唱する弁証法である。本投稿一回目(3月19日)にその解説を入れている。一部をコピーすると「réfutationで知られる。動詞réfuterの名詞で意味として:repousser (un raisonnement, une proposition, une opinion) en démonstrant sa fausseté誤謬を指摘しその説明(提案、意見)を再び取り上げる。主題を吟味して、誤りを訂正するための否定手順」。
ヘーゲル弁証法の如く「脳髄反射的」にアンティテーゼを持ち出さず、思索判断する理性を介すると説明した。
さて脱線しても訴えたかった事情とは、サルトルはモノ「実体」の棲む世界観を語る。マリノフスキーにしてもしかり。一方、レヴィストロースはモノを語らない、思想を語る。その差異を説明したかったから。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判9了(2021年4月9日)

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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判8

2021年04月07日 | 小説
(2021年4月7日)前回(4月5日)でレヴィストロースはサルトルとデカルトを比較した。「知」、考えるを人存在の根底に共に置くのだけれど、「個」の知に拘るサルトルは「知の監獄」に入っていると揶揄した。この論調は続く、
<Descartes , qui voulait fonder une physique , coupait l’Homme de la Societe. Sartre , qui preéend fonder une anthropologie , coupe sa société des autres societes. Retranché dans l’individualisme et dans l’empirisme, un Cogito – qui veut être naif et bru – se perd dans les impasses de la psychologie sociale. Car il est frappant que les situations à partir desquelles Sartre cherche à dégager les conditions formelles de la réalite sociale : grève ,combat de boxe , match de football…soient toute des incidences secondaires de la vie en sociétés ; elles ne peuvent donc servir à dégager ses fondements.(298頁)
訳:デカルトは人間を社会から分け、物理学を確立しようとした。サルトルは何をしたか、己の社会(西欧)を他社会から分断し人類学を確立したと言い張るが、それは一種の人類学にすぎない。愚直で荒々しいCogito(知)を個人主義、経験主義に移植すると試みたあげく、社会心理学の袋小路に迷い込んでしまった。なぜなら、彼が社会の真実と数えあげる例とは、驚いてしまうのだが、ストライキ、ボクシング試合、サッカー試合…などだがそれらは社会生活の2次活動(incidences secondaires)でしかない。2次故にそれらを集めても生活を形作る根底を引き出す事にはならない。
引用文の意味を考える;デカルトが物理学を…探ると:
個が知を持つ、それは社会から与えられた訳でも、社会を考える為の知でもない。物質の中味(本質)は何かを探る知である。これをして「一種の物理学」と性格づけた。
サルトルにしても知は個が獲得するとする。レヴィストロースの表現では過程は存在を知る事であり、内実は個人主義、経験主義である。実存主義が知を獲得する手段を、かく表現した。この喩えは言い得て妙、確かに理解できる処であります。皆様にあっても同様かと思います。
実存の「知」が社会心理の行き止まりに彷徨った。実存主義の理念を生かしつつ弁証法を説明する試み、しかし「己が納まる穴を見つけられないボタン」、そんな焦りがここに見える、とレヴィストロースが指摘している。
ストライキ…などはそうした状況に置かれた市民が、弁証法の公理(人の理性を支配する)に動じさせられ「反主題、アンチテーゼ」を感じ取り(ここに社会心理学が働く)、praxis(革命行動)を起こすとのサルトル説明です。
原点の1でヘーゲルの智弁的弁証法に実存主義での「個の知恵」を植え付け、原点2ではマルクス弁証法の唯物性取り込む二重の絡繰りをレヴィストロースが見破って、上引用の一文「知恵が社会心理学の袋小路」となったと解釈します。
それら示威行動は生活においては2次行動で、その底に真の起因につながる1次行動があるとレヴィストロースは考えます。それが「思想」であるとは彼の分析進め方に接すれば想定できる。praxisに至るマルクス弁証法の公式は袋小路に消えた。

サルトル批判は続く、
<Pour l’ethnoloque , cette axiomatique si éloignee de la siennne est d’autant plus décevante qu’il se sent très près de Sartre, chaque fois que celui-ci s’applique, avec un art incomparable, à saisir dans son mouvement dialectique une experience sociale actuelle ou ancienne , mais intérieure à notre culture>(同)
一民族学者(レヴィストロースのこと)にはこの公式化は、自身が温める説とは大違いでがっかりしてしまう。サルトルの著作に接する度に、持ち前の表現力を駆使し社会体験、それは今の世の事でもあるし昔の記録もある、それらを持ち前の手練れで弁証法に取り込んでしまう。しかし常にそれら体験は我々(西欧)内側の物でしかない。
続いて民族学の取り組み方をレヴィストロースがさらりと述べる。
先住民が住む場所に身を置き社会の観察とは、彼らの意図(intention)と原則(principe)を彼ら生活の律動(rythme)の中で見て取る…この一節の語り口は軽いけれど中味が重い。意図、原則、律動こそ生活の一次行動と規定して、前文のストライキなど2次と対比している。ストライキボクシングなどで発生するアンチテーゼ活動(革命活動)はあくまで2次、1次には律動がこもるから突発行動ではない。1次と2の差は律動の深みを抱くか突発か、前向きではない文句の「naif et bru」が効いている。
次の文にtotalisation統括が出る。
<l’exigence de totalisation soit une grande nouveauté>(幾人かの歴史家、社会学徒、心理学者には)統括化の考え方は新鮮に映っているはずだ。
Totalisationの語、その出現はこの文脈においては唐突ではない。意味を探るに前文の<apercevoir une époque ou une culture comme un ensemble signifiant.>と同期させて理解する。引用しないが以下の文が続く;(民族学者の全員が)文化とは「自身の基盤、時間的位置と自立の意味を知る集合体」として捉える。こうした集合体を解析する民族学の理論をtotalisationとする。それは「全ての民族学」で実践されていたとする。<pour les ethnologues , elle va de soi, depuit Malinowski qui la leur enseignee><民族学者は全員がその意味合いに気づいていた。マリノフスキーの学説が他学問分野に影響を与えていた頃から>統括化の概念を民族学はすでに取り入れていたのだ。


トロブリアンド島で現地調査中のマリノフスキー,1918年。写真はネットで採取。

機能民族学の創始者。風習、しきたりなどが文化の自立性を担保する説を広げた。


歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判8了(2021年4月7日)
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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判7

2021年04月05日 | 小説
(2021年4月5日)引用を続けます。<non sans insinuer que son être à l’humanité ne lui appartient pas en propre et qu’il est fonction de sa prise en charge par l’humanité historique : soit que, dans la situation coloniale , la première ait commence à interioriser l’histoire de la seconde….(296頁)
訳の前に;動詞insunier(ほのめかす)は原型を保つが主語はサルトル、前文のSartre se risigneを受ける。son être:その存在、「その」は前文のune humanite "rabougrie et difforme"を受ける(普通はuneの名詞は次文で受け継ぐ場合にはcelleになるが、son(sa)が引き継ぐ例も時に可能)。luiは前の句の名詞のhomme、次のilはson être.
訳:出来損ない社会が人間社会に属している事への不合理さに加え、歴史社会(文明)から負荷される役割を取り込む事で(その未開)社会が成立するのだと(サルトルは)あからさまにする。植民地化の過程では前者(歴史社会)は後者(未開社会)の歴史を取り込み….このあと未開社会は歴史社会から課せられたご加護(bénédiction)への道程をとらされるが続く。
この後人類学者らしきレヴィストロースの述懐が入る。
(それ=植民地化=によって)信条、信仰、風習の豊かさと多様性が失われた。人はもう忘れているが幾百、幾千もの社会が共存していた。それらは人がこの世界に出現して以来連綿と継続してきたのだ。
<en elle (apparition訳者) - fut-elle réduite à une petite bande nomade ou un hameau perdu au coeur des forêts – se condensent tout le sens et la dignité dont est susceptible la vie humaine.(297頁)
その現れの様は移動を続ける小さな集団(バンド)、あるいは森の奥深くに隠れる一つだけの村落にまで縮小されていたかもしれない。そこには生きる指針(sens)、そして人間として重要な尊厳(dignité)がすでに具わっていた(ここに至るための安定した精神性がすでに具現されていた、と前文にある)。
<que ce soit chez elles ou chez nous , il faut beacoup de naiveté pour croire que l’homme est tout entirer réfugié dans un seul des modes historiques ou géometriques de son être , alors que la verité de l’homme réside dans le systeme de leurs différence et de leurs communes propriétiés.(同)
森の奥深くであろうと我々(西欧)であろうと、人が己の存在を、色々あるはずの歴史的可能性、あるいは地理的候補地の中で、ただ一の選択肢に逃げ込んでいると考えるには、よほどの幼児的信じやすさ(naiveté)を持たなければならない。なぜなら人存在の真実とは人類全員が同質性向を持つに加え、(民族、習俗などの)違いを受け入れる体系にあるのだから。
訳注:歴史的可能性を一つにしてしまうとは、「弁証法」の進展のみが人の歴史と決めつける狭量に他ならない。地理的分布にしては、西欧という一地域のみが文明を誇るとする考えを指している。

これら引用文の伝え掛けは前回(4月2日)投稿で引用した句l’homme une humanité ((rabougrie et difforme))及びl’homme et la nature(換喩)とも合わせ、原点2(歴史観)の内容そのものです。後追いですがそれらへの留意は;
歴史(弁証法)で動いている社会は、歴史特異点(共産社会)に日々歳々向かっているとされる。しかし、歴史が支配していない社会でも歴史をもつ。サルトルによればその歴史は短く幾度も繰り返す短い弁証法となる。弁証法の公理は人の理性をも支配するので(マルクス)、文明社会の人々が真実の弁証法理性を獲得しているに比べ、未開社会の原住民のそれは短い弁証法に支配されるので「出来損ない」から抜け出されない。
サルトルの人類学批判(レヴィストロースへの批判)の中身とは「人類学は共時性での事象の比較に徹し歴史公理」を無視しているからであろう(原点La critique de la…を読んでいないから推測)。レヴィストロースからの反論は以上のとおり。人類学は「共時の事象を調べ、歴史が事象を経時にまとめ」それらを貫く思想を明らかにするがその基盤となっている。

次の節で原点1(理性論)に入る。
原点1の趣旨は「実存主義で展開した理性獲得(=自由になる)をヘーゲル弁証法に移植した」とした。その部分を調べよう。
<Qui commence par s’installer dans les prétendues évidences du moi n’en sort plus(297頁)それが在る証明されたとする「自我」に安住する者はそこから抜け出せない。
<La connaissance des hommes semble parfois plus facile à ceux qui se laissent prendre au piège de l’identité personnelle. Mais ils se ferment ainsi la porte de la connaissance de l’homme : toute recherche ethnographique a son principe dans des ((confessions)) écrites ou inavouées. En fait Sartre devient captive de son Cogito.(同)
訳の前に:複数型の人hommesと単数の人としての個性identite personnelleが使い分けられる。複数は「人類」、単数(個性)を個人が理性を獲得する様態(サルトルの言う実存主義)と捉える。Confessionsは換喩、「訴えかけ」何事かを告知する内容、「メッセージ」と理解する。民族誌学であるから調査対象となる先住民達の「知恵」である。逐語訳を省略して思い切った意訳に挑戦すると:
人類を語る事は人各自が理性を獲得するという罠に落ち込んだ者には容易い、個人性を語って「人性」としているから。しかしその説明では人類を理解出来ない。民族誌学は人々の「訴えかけ」、文書に編集されていたり、あからさまになっていない場合をあるけれど、それらを伝えるという原則を持つ。一方(個性から出発している)サルトルは(人々を語らず、自身の理解を伝えるのみだから)cogitoの俘囚となりはてた。

cogitoの監獄と揶揄された居宅でくつろぐサルトル。ネットで採取。


Cogitoはデカルトの言葉「我考える」。我が宇宙に展開する仕組みをデカルトは持っていると後文で「釈明」して、サルトルの我はen sociologisant le Cogito Sartre change de prison. Cogitoを社会化しながら住処の牢獄を換えただけ-と辛辣な語を当てている。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判7了(2021年4月5日)

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歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判6

2021年04月02日 | 小説
(2021年4月2日)<Dans notre perspective , le moi ne s’oppse pas plus à l’autre, que l’homme ne s’oppose au monde : les vérités apprises à travers l’homme sont ((du monde )), et elles sont importantes de ce fait ! On comprend donc que nous trouvions dans l’ethnologie le principe de toute recherche, alors que pour Sartre elle soulève un problème…>(295頁)
人が世界に対立するまでもなく「私」は他者と対立していない、それが我々(人類学者)の見方である。別の言い方では人を通して獲得された真実は世界であり、それら真実が重要なのはその事を持ってするのである。故に民族学の中にすべての研究の原理を見つけられるとしても、人々の同意を得る事が出来るであろう。しかしサルトルには民族学こそが問題である….
引用文はhomme人をして全人類に当てはめる。研究対象は多くが「先住民」ではあるも、民族学者は彼らを「未開人」、文明人とは別種の劣った人種、を研究対象にしていると思うことはない。先住民を通して得た真実、しきたり、社会機構、制度などが「世界」の究明に役立つと信じている。この世界も全人類共通の世界です。
これが人と他者、世界の関連であるが、その事実をサルトルは認めない。人類学を認めないサルトルの問題とは;
<En effet, peut-on faire des peoples ((sans histoires)), quand on a definit l’homme par la dialectique et la dialectique par l’histoire?(296頁)
(サルトルの進め方は)人を弁証法で定義づけ、弁証法は歴史の中で動くと決めつけている。この場合、歴史を持たない人間をどのように規定できるのか。
文は反語になっていてサルトルにとり歴史のない民族は劣る人類、すなわち文明人とは別種と規定するしかない。この文にある弁証法は人の理性を形成する世界観の弁証法(原点の2)です。マルクスの唯物史観。歴史を持たなければ人は理性を持てないとつながるから、歴史のない社会の民族は劣等….の結論に導かれる。

<Satre semble (ayant) tenté de distinguer deux dialectiques : la ((vraie)) qui serait celle des sociétés historiques, et une dialectique répétitive et à court terme, qu’il concède aux sociétés dites primitives tout en la mettant très près de la biologie ;
サルトルは弁証法を2の種に分類しているようだ。1は真の弁証法で歴史を持つ社会に当て、短周期で(同じ様態を)繰り返す一種の弁証法を、いわゆる未開社会、文明とはほど遠い生物学的世界に当てはめている。=文中の(ayant)は訳者が追加した。分詞法の過去となりayant(avoir)を付加しても、しなくても良しとされる。原文では見えないがtenteにアクサンが載せられるから過去と分かる=
ここで初めの引用文の重みが理解できる。民族学者(レヴィストロース自身)は人と世界(歴史のあり方)を一元で解釈し、サルトルは文明と未開に分けた。分けた理由は弁証法歴史を経験していないから、頭の中が(我々と異なり)弁証法化(文明化)していないとの独断である。


アレキサンドル3世橋上のサルトル(1947年)手前はJeanPouillon(後のL'Homme編集長)


<il expose ainsi tout son systeme, =中略=le pont demoli avec tant d’acharnement entre l’homme et la nature se trouverait subreptiment rétabli.>(296頁)
訳を試みる前に;
Acharnementとは執拗な攻撃。人と自然の間にそれが起こって、橋が壊された。これらの用語は換喩(métonymie)です。複雑事象を一語で言い換える使われ方となります。それら喩えが何を換えているのか「見当」付けから始めないと先に進まない。=中略=の部分を抄訳すると「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」が入る。すると換喩は民族誌、さらに前文にある弁証法的社会と短周期社会とも関連があるとで推察する。
弁証法を持つ文明側をhommeとしてnatureは未開社会としよう。攻撃とは文明と未開の衝突。すると訳は;
この一文がサルトルの中味をすっかりさらけ出した。=中略「民族誌学、それは真摯に人と社会を究明する学であるが、その成果を斜めに(par le biais)読み取って」=人(すなわち文明)と自然(すなわち未開)の間に繰り広げられた攻撃、結果の崩れ落ちた橋を、こっそり修繕していたのだ。
サルトルが読み込んだ「民族誌」は何か?原文に当たらないから不明である。そうした民族誌も真摯な人類研究なのだがサルトルが曲解したと読む前提がある。そして;
<Sartre se resigne à ranger du côté à l’homme une humanité ((rabougrie et difforme)サルトルは人の脇に一種の((出来損ないのカタワ)) の人社会を配列するを甘受する。

歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判6了(2021年4月2日)
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