(2021年4月12日)前回(第9回)では機能社会学に脱線したが、その理念はサルトルの弁証法とも重なるところがある点と、それをしてレヴィストロースがマリノフスキー機能論を「不足」と評した裏(思考とは何かの対立)を理解してほしい。サルトル批判に戻る;
<A force de faire la raison analytique une anticompréhension , Satre en vient souvent à lui refuser toute réalite comme partie intégrante de l’objet de compréhension. Ce paralogisme est dèja apparent dans sa facon d’invoquer une hisotoire dont on a du mal à decouvrir si cette histoire que font les hommes sans le savoir ; ou l’histoire des hommes telle que les historiens la font , en schant ; ou enfin l’interpretation , par le philosophe, ou de l’histore des historiens.(299頁)
>分析理性をして物事を理解出来ない思考とするに急ぐあまり、サルトルは理解対象物と現実をすっかり引き裂いてしまった。この誤謬推理(paralogisme)は歴史についての彼の語り口にもあからさまに聞こえる。それの言い分は全く理解し難いとなっている。それと気付かずに人々が創っている歴史なのか、承知しながら説明する歴史家の歴史なのか、歴史家の歴史を自己流に解釈する哲学者の歴史なのか、いずれかを判定するは困難である。

100歳の誕生日を祝うお孫さんとレヴィストロース(2008年、雑誌からデジカメ)

およそ哲学者で100歳の長寿を全うした例は彼以外にはいない。梅原猛が二人目の候補だったが96歳(2019年)で世を去った。哲学者は真理以上に100歳の壁に思索を阻まれている。
ここでは原点の1と2の理性と世界観、そしてそれら跛行を述べている。サルトルの弁証法理性を歴史に適用すると;ストライキ、バス停車場などでの直接行動が人々の弁証法理性の発露であるとする。しかしそれは<理解する対象物と現実をすっかり引き裂いている>に過ぎない。対象物とは地理的、経時的に独立している事柄(=anecdote挿話、前出)であり、それを理解するとは<意図(intention)と原則(principe)を生活の律動(rythme)=前出>の中で解釈しなければならない。
この対称物と現実を捻じ曲げている誤謬は、彼の世界観(歴史)でも見て取れる。その誤りの3通りを羅列するが、この記述の繰り回しの場合は、最後の言い分がその主因と読みたい。すなわち<歴史を自己流に解釈する哲学者(サルトル)の歴史>である。勝手解釈(誤謬)のサルトル流の歴史であると。
<Il croit que son effort de compréhension n’a de chance d’aboutir qu’à la condition d’être dialectique ; et il a tort que le rapport, a la pensée indigene, de la connaissance qu’il en a est celui d’une dialectique constituée à une dialectique constituante, reprenant ainsi à son compte, par un detour imprévu, toute les illusions des théoriciens de la mentalité primitive.(同)
彼(サルトル)は己の理解とは弁証法的でなければ進められないと気づいた。そして先住民の思考について、ありったけの知識を持って、構成されている弁証法と構成を担う弁証法という対比に思いついたが、それは先住民の思考方法を幻想しながら解釈する理論家の説を寄せ集めた物に過ぎない。
先住民社会とは単周回(ショートサイクル)の弁証法歴史しか持たない(=前出)の出どころを続く文章で明かしている。
<Que le sauvage possède des connaisances complexes et soit capable d’analyse et de démonstration lui parait moins supportable encore qu’à un Revy-Bruhl.
先住民には複雑思考を持ち、分析は達者で一端の説明もできるという事実は、彼(サルトル)にとって、あのレビブリュールとやらよりも受け入れがたかった。
レビブリュールはレヴィストロースよりも2世代ほど先の民族学者。白人至上主義の観点から「未開人」劣等説を唱えた。名前にun不定冠詞を被せるのは「軽蔑」の意味が含まれる。レヴィストロースがレビブリュールをいかに判定しているかを語る。
しかしその理論はサルトルの原典「Lacritique....」に引用され、「生半可な弁証法(dialectique constitue)しか展開できない」との結語に行き着く根拠になっている(小筆はサルトル原典を読まないから推測が混じる)
<Sartre affirme:il va de soi que cette construction n’est pas une pensée : c’est un travail manuel contrôlé par une connaissance synthetique qu’il n’exprime pas. (299頁)
訳の前に。前文でDeacon(民族誌学)のAmbrym族の報告を紹介している。彼の求めに応じた一先住民が砂の上に婚姻制度の仕組みを堂々と、淀みもなく書き上げた事情についてのサルトルの見解、
訳:(先住民の説明ぶりは)思考から発したものではないとは明確だ。彼はそれが何かを表出しないが、総合した一つの知識に統制された作業で、手仕事である。
レヴィストロースはその分析を否定する。
<Soit : mais alors , il faudra en dire autant du professeur à l’Ecole Polytechnique faisant une démonstration au tableau , car chaque ethnographe capable de compréhension dialectique est intimement perduadé que la situation est exactement la même dans les deux cas.>(299頁)
それならば理工科学院の教授の行動を持ち出さなければならない。黒板に向かって説明を滞りなく書き上げる。弁証法を大事とする民族誌学者にしても、両者(Ambym族民と教授)の行為は全く同じと心の内で思っている。
EcolePolitechniqueはフランス屈指の理工系教育機関。その教授の授業内容と先住民が砂に画く様の知的水準は同一であるとしている。何処が同一かとは両者ともに頭の思想を表現しているから。さらにその思想とは彼らが具体的に見ている「現実réalité」を理念化した表象に他ならない。
比較には説得力が強い、社会科学系文章に幾度か引用されている。
歴史と弁証法Histoire et Dialectiqueサルトル批判10了(最終回)(2021年4月12日)
本稿の終わりにあたり:本章(Histoire et dialectique)の全体(20頁)のおよそ半分の紹介でした。全文を取り上げない理由には「繰り返し」が読めるため。ただし文章表現での重複ではなく、思考の繰り返しです。その度に前の内容を深化させていくのですが、そこまで掘り下げない。出発点となる3の原点を理解すれば全文を理解できます。原点の原点とも言えるのが、サルトルの唯物弁証法への帰依となります。彼自身、あるいはその紹介者達はこの事実に触れませんが、彼が共産(暴力手段による)革命を達成したソ連、中国、キューバを訪問し、共産党体制を礼賛した事実は隠しようがありません。
共産主義を政治的、経済の立場から批判する陣論は多い。レヴィストロースは本文で理性論から批判した。「モノが思考を支配する」マルクス理論は誤りだと。この論調で実存主義をも葬り去った。サルトルが反論できなかった背景とは、ハリケーンに出会ってしまい、破壊された住処(思考)の「土台と建屋」の惨状を目の辺りにしたからかと推測します。
日本のサルトル紹介者の多くは「レヴィストロースは何も分かっていない」なる反論を展開した(らしい、ネット調べ)。この批判こそ、多くは文学系の彼らが哲学を知らない証です。哲学書を読むとは「理解」ではなく「解釈」です。書に盛られる語句、文言、言い回し、多重否定、関係詩のつながり(フランス語特有)、暗喩換喩の謎を解いて、修辞に隠れる思想をあばく。その解釈に辻褄が合えば文論を読み解いたことになる。サルトルは「こう言いたいはず」金科玉条は哲学書には似合いません。
追:今週には本稿をサイト(www.tribesman.net)に上梓して、書きかけの「親族の基本構造」を19日から取り上げます。春の陽気、皆様にご健勝を祈念します。