ご近所のTさん自慢のハス。毎年きれいな花が咲く。今年も咲いた。
咲いたのはいいが、ご本人は体調不良でご自宅にいらっしゃらないようだ。
ちょっと心配だが、こんな立派なハスの花を見ていたら、何だか大丈夫な気がする。
ご近所のTさん自慢のハス。毎年きれいな花が咲く。今年も咲いた。
咲いたのはいいが、ご本人は体調不良でご自宅にいらっしゃらないようだ。
ちょっと心配だが、こんな立派なハスの花を見ていたら、何だか大丈夫な気がする。
何と来年正月の谷川真理マラソンのエントリーが開始されていて、とりあえず申し込んでしまった。鬼が笑うにもほどがある。いっぱいになって走れなくなっても困るしなあ。
実は12月4日の八千代ニューリバーマラソンにも申し込んでいる。去年も申し込んだが、やむなく当日、西京極に行ってキャンセルした大会だ。
それにしても、ニューリバーマラソンが3,000円はいいとして、谷川真理ちゃんマラソンが5,000円というのは何だかなあ。年々高くなっているような気がする。
そういえば、北九州の本城スタジアムのアウェー席は900円だった。いくらマクロ経済学を極めたワシでも、いまだに財布から出る小銭の効用についてはクエスチョンである。
最近こういう輩が増えて困る。とくに品川、東京、新宿駅等。(本文と関係なし)
天気が良かったから、文句は言えないが、嵐山のあたりの暑さは尋常でない。熱風がゆらりと山から吹いてくる。
下は墓地の写真。こんなところにお墓がある。京都の町が一望できる。
思えば、東山なんてお墓だらけである。無名人、有名人問わず、京都人は死ぬと山の上に眠りたがる。
とにかく、暑い。
実は、朝、6時過ぎに起きて、ひとりで天龍寺に行き、蓮を見物して、渡月橋まで散歩したが、もう朝が限界である。朝でも少しく暑い。もう日中は人間の出歩く土地ではない。中東のようだ。
なのに、なぜ。京都人は夏になると墓地に先祖参りに行くのか。そこのおばあちゃん、気いつけんと死にまっせ。ほんま。真剣に心配になって、声をかけたら、返事が返ってきた。
「お父ちゃんのとこへ行けたら本望や。」
京都に来ている。四十九日である。早いもんだ。
家に来ると、変な感じで、違和感がある。あまりに急死だったから、何日たっても受け入れられていないところがあるのだ。
京都はいま、祇園祭の最中である。来月は五山の送り火と嵐山での燈籠流しもある。来月も京都に来るつもり。
しっかり、供養して、そろそろ区切りつけないといけないと思う。
早朝、天龍寺で蓮の花が満開でした。百日紅もぼちぼち。
否である。そもそもが国策事業で、しかも、算定不能なコストがかかることが先の震災で判明した原子力開発を、一私企業の予算で賄うことに無理がある。最初から間違っているのである。今からでも遅くない。ただちに各電力会社から事業を買い取るべきである。
歴代の経営陣が私財をなげうって補償にあてがうのもいいが、費用の規模が違い過ぎる。焼け石に水どころではない。面白おかしく電気料金値上げ反対論に結び付けるのは不謹慎でさえある。焼肉チェーンの食中毒事件やかつての銀行の公的資金注入と同列に経営責任を安っぽく論じさせるほうが都合がよいと裏でほくそ笑む人たちもいるのだろう。
私企業の予算でやり、安全対策は保安院の検査でやろうとしたところに重大な勘違いがある。私企業の予算で無理やりやらせ、といったほうが正しいだろう。むしろ国家予算でやって、厳重に民間が検査するべきだったのだ。
TEPCOの非常用電源の配備等、リスク管理に手落ちがあったとしても、元来、私企業の予算では限界がある。上場企業として利益還元という株主への経営責任がある。ヒストリカルにみて、政策のミスであることは明らか。最終的な責任は包括的に国がこれを負うべきである。
学生のころは電卓持ち込み禁止だったから、数学の問題を必死こいて筆算や暗算して答え出したものである。そんなに間違えなかったものだ。
ところが、社会人になって、間違えちゃいかんということで、電卓やエクセルを使い出したら、どんどん暗算能力が落ちてしまった。使わないと落ちる。
筋力、視力、脚力。いくら若いときに鍛えても、使わなければみるみる落ちる。当たり前だ。だから、たまには少しでもよいから使うべきだろう。
すべからく使うには及ばないだろうが、全く使わないよりはるかに有効だ。たまには、筆算してみる。たまにはメガネやコンタクトを使わないで生活してみる。単なる気分転換のみならず、意外と大きな脳内効果があるような気がする。
ワシはちょっと前に胃腸を悪くして、あんまりたくさん食べれないのだが、夏は食欲旺盛である。水っぽい野菜や果物がとくに好きで、スイカ、トマト、さくらんぼ、きゅうり、茄子、とうもろこし。こんなものをけっこう食っている。
とくに風呂上りのスイカが大好きで、口の中で溶かして味わうように食う。スイカはご存知の通り、中心部が甘く、外に向かうにつれて甘くなくなる。
ワシはぜいたくに、真ん中のほうだけたべて、皮に近づくとあまり食わずに捨てる。仕事をしてる大人だけに許された大人食いと称している。小さいころは、最後まで食えと親に怒られたものであるのに、である。
この話を会社で雑談の中で若い人に言うと、一堂にスイカは種があって面倒くさくていやだという。これがよくわからない。種なんか食ってどうかなるわけではないのだから、逐一吐き出す必要なんぞないのである。
種に惑わされて、スイカという、日本人の夏にのみ許された、大いなる喜びと感動を逸するとしたら、随分もったいない話である。
そういう意味では、カットスイカはいまいちかも。
光が丘公園をランニングしていたら、強烈に懐かしい気分になった。くちなしの花の匂いが漂ってきたからだ。今の季節はこの匂いが、懐かしい匂いである。
他には、春先の沈丁花、秋口の金木犀。これらもそうだ。いずれも、子供のころ住んでいた家に植わっていた庭木の匂いである。
視覚は忘れてしまう。音、すなわち、聴覚もけっこうあやふやだったりする。ところが、臭覚だけは実にはっきり、くっきりしている。花の匂いはそれと認定できるものであるが、そうでなくて、なんだか懐かしい匂いというのもある。家特有の匂いとか。
うちの娘たちは、将来どんな匂いを懐かしいと思いだすだろうか。あんまりそういうものを提供してあげていないような申し訳なさがある。
お風呂、大好きである。子供のころから風呂好きだが、近年度を越している。40分くらいは平気で入る。のぼせ気味になるが、平気である。
ワシの風呂の入り方は、いたってオーソゾックスである。湯船に浸かって、体洗って、シャワー浴びてそんなところだが、体の洗い方が尋常でない。たわしでアカスリ風にこすりにこすって熱湯をかける。
最近はこれに加えて、東京ガスのミストサウナである。30分しっかりサウナで汗を流す。休日は運動して汗を流すからやらないが、平日は日中汗をかかないから、これをやらないと生きている気がしない。
仕上げに使っているのが、これ。ききまっせ。とにかく、こんだけ風呂に入ったら、もうその日は死んでもいいくらい。あとは寝るだけだ。
被災地の話題も、いつまでもマスコミが取り上げてくれるわけもなく、取り上げの頻度も徐々に減ってくる。取り上げの頻度が減ってくるとボランティアの参加者も減ってくる。しかも、これから暑くなる。暑くなると、ますますボランティアの数は減ってくる。だが、ボランティアの本番は夏だ。
いったんは秋になれば涼しくなるだろうが、東北地方のことである。涼しくなればあっというまに寒い冬がやってくる。そうなれば、いくらボランティアが来ても寒くて作業ははかどらない。物理的に条件が悪くなる。だから、暑くても今やらなければいけないと思うのだ。冬が来るまでに残された時間はあまりない。
また、夏がボランティアにとって好条件なのは、野宿しても大丈夫だからだ。確かに虫や蚊はいるかもしれないが、命に関わることはない。これが寒さだと、命に関わる。蚊取り線香か虫よけスプレーがあればOK。熱中症になったら大変だから、その辺の準備さえ怠らなければあとは大丈夫。
場所にもよるが、水はかなり復旧しているし、自動販売機もあちこち稼働している。飲食業の皆さんも営業している。募金もいいかもしれないが、なかなか被災者にいきわたらないようだ。肉体労働はゴム長靴とボランティア保険さえあれば何とかなる。適当に交通手段を確保して、老若男女がんがん東北に行くべし。