壺碑 市川村多賀城に有
つぼの石ぶみは 高サ六尺余 横三尺計歟
苔を穿て文字幽也 四維国界之数里をしるす
この城 神亀元年 按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也
天平宝字六年 参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣■修道而
十二月朔日
とあり 聖武皇帝の御時に当れり
むかしよりよみおける歌枕 おほく語伝ふといへども
山崩 川流て 道あらたまり
石は埋て土にかくれ 木は老て若木にかはれば
時移り 代変じて 其跡たしかならぬ事のみを
爰に至りて疑なき千歳の記念 今眼前に古人の心を閲す
行脚の一徳 存命の悦び 羇旅の労をわすれて 泪も落るばかり也
泪も落るばかりなり・・・・。
壺の碑に触れた芭蕉は、涙流してその碑に触れた感動をこう表しております。
芭蕉の気持ちに触れて見ます。
「おくのほそ道」は歌枕を訪ね歩く旅。これは、冒頭でお話しいたしました。
その歌枕は、当時、諸藩が、名所として発掘、見つけたものを整理している。そんな時代背景です。
五街道が整備され、それぞれの宿場もしっかりしている。
旅、名所、旧跡を訪ねることも、文化として根付いて来つつある時代です。
はたして、みちのくとされる当地でも、それは、行っている。
しかし、後付されたものも少なくはなく、一体どこが本当のその場所であるのか。
今現在でも、特定できない名所というのが存在致します。
歌枕に戻ります。
今一度、歌枕の種類を分別してみます。(長谷川櫂氏によるところです)
一 実在する場所が特定されてできた歌枕 宮城野 塩竈 など
二 まず歌ありきで、その後場所が特定されできた歌枕 末の松山 など
三 歌に詠まれてもどこにあるか不明。どこにも存在しない歌枕 壺の碑
芭蕉は、この多賀城を訪れる間、その期待をことごとく打ちひしがれております。
その殆どが「山崩、川流て、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、・・」
しかして、眼前の「壺の碑」は、歌枕の通りそのままの形で存在している。
芭蕉が感動するのも無理はなかろう。
むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆる壺の碑そとの濱風 西行
陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬかきつくしてよつぼの石ぶみ 前右大将頼朝
これら、先人達が詠んだ「壺の碑」という歌枕については、「袖中抄」(しょうちゅうしょう)顕昭にこう記されております。
少しばかり袖中抄について。「顕昭(けんしょう)が編纂した、歌の解説書」とお話しすればお分かり頂けると思います。
万葉集以降の歌300を解説しております。
その袖中抄ではこうです。
一 いしぶみ いしぶみのはふのほそ布はつはつにあひみても猶あかぬけさかな 顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈許なるに文をゑり付たり。其所をつぼ云也。私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて、千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本中央にても待るにこそ。
上記のように記されております。
まず、壺の碑として問題になるのは二点であり、一つが、所在。そして、これが、多賀城碑と一致するか。こうなります。
最近まで、先の西行の歌「坪の石文外の浜風」などから青森県七戸町坪川原説が主張されていて、史実が対立していたりしております。
袖中抄の中身を素直に捉えるならば、これは伝承であって、史実を記してはないわけで、青森七戸町というのは、袖中抄ありきで後付で設定されてはいないか。こうした疑問は拭い切れません。
ですが、これだけでは、多賀城にあるものを肯定するには材料が乏しいわけです。
単に、「壺の碑」の位置に対しては、このような材料だけでは、理解できない、謎の歌枕なのです。
写真にある、芭蕉が涙したとされる碑「多賀城碑」は江戸時代に発見されたとされてます。これは史実です。
だが、それは芭蕉の信じていた「坪の碑」とは違っていた。
ここにおおきな矛盾が生じております。
「壺の碑」を簡単に整理してみます(いささか、複雑に語りました故)
歌枕の壺碑は、「陸奥七戸の北、壺(坪)村にあり、九世紀初に坂上田村麻呂が『日本中央』と書きつけた碑」。
上記までのくだまきは、これには多くの矛盾が生じた。こう語っているわけです。
話を元に戻します。
多賀城碑の問題点を整理した論文に「尾形仂 論 おくのほそ道 解釈と鑑賞」(昭和41年4月)にみることが出来ます。
現在の多賀城碑にみることの出来る碑文についての矛盾です。
〇碑文「神亀元年歳甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野東人」
碑面に録した官位は、神亀元年当時の官位相当しないだけでなく、その没時の官位としても「参議」を欠き、「従三位」を「従四位上」としている点で牴触する。
〇碑文「天平宝字歳次壬寅参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦」
「続日本記」によれば、朝獦は天平宝字六年十二月当時従四位以下で、碑文に「従四位上」とあるのはこれと牴触する。
これは、多賀城碑の謎であって、芭蕉とはまったく別な疑問点です。
この江戸時代に発見された。とされる多賀城碑ですが、芭蕉がこの碑を尋ねた頃は多賀城碑=壺の碑とする理解が一般的と考えるのが妥当です。
この碑文を解読した祖は、佐久間洞原ではないかと言われてます。(奥羽観蹟聞老志によります)
その洞原の写した碑文は公開されてませんが、書き写した部分に間違いがなかったとも言い切れません。
芭蕉にしてもそうで、判読しがたい部分多々の碑文においてはっきりしている部分でも八か所の判読誤りが指摘されております。
そして、例えばこの部分。
「所置」を「所里」と判読し、「朝獦」を「朝(けものへんに萬を当ててます)」と「おくのほそ道」では表記してます。
この誤判読は、大淀三千風と同じです。
芭蕉は、この碑の読み解く作業でも、三千風を頼りにしたことを物語っております。
ともあれです。
芭蕉は、多賀城碑を歌枕である「壺の碑」と信じ、天平を懐かしみ、感涙するわけです。
多賀城の栄華をしのぶ風景は全くなく、田圃の街道の中に荒廃した姿をみせているだけです。
その風景の中に突如して大きな碑を見つけ、走り寄る二人の姿を想像することは難しくありません。
多賀城のここでの印象は、壺碑に巡り合った感動で消されてはおりますが、この碑を見つける事がなかったら、芭蕉の気持ちは沈んだままであったのです。
平泉で詠んだ「夏草や・・」の句は、もしかしたら、多賀城でも詠んでいたかもしれません。
爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也
この芭蕉の気持ちに触れたとき、この碑の歴史や、謎は、問題ではないような気がいたします。
ここに来て、旅をしてきた労が一挙に労われた。
この顔を想像してしまいます。
芭蕉が多賀城を旅していた頃、時期的に菖蒲が咲いていたと考えられます。
今、多賀城の市の花となっております。
田園の道を歩いている芭蕉の姿を、道端の花達が見守っていたのですね。
つぼの石ぶみは 高サ六尺余 横三尺計歟
苔を穿て文字幽也 四維国界之数里をしるす
この城 神亀元年 按察使鎮守符将軍大野朝臣東人之所里也
天平宝字六年 参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣■修道而
十二月朔日
とあり 聖武皇帝の御時に当れり
むかしよりよみおける歌枕 おほく語伝ふといへども
山崩 川流て 道あらたまり
石は埋て土にかくれ 木は老て若木にかはれば
時移り 代変じて 其跡たしかならぬ事のみを
爰に至りて疑なき千歳の記念 今眼前に古人の心を閲す
行脚の一徳 存命の悦び 羇旅の労をわすれて 泪も落るばかり也
泪も落るばかりなり・・・・。
壺の碑に触れた芭蕉は、涙流してその碑に触れた感動をこう表しております。
芭蕉の気持ちに触れて見ます。
「おくのほそ道」は歌枕を訪ね歩く旅。これは、冒頭でお話しいたしました。
その歌枕は、当時、諸藩が、名所として発掘、見つけたものを整理している。そんな時代背景です。
五街道が整備され、それぞれの宿場もしっかりしている。
旅、名所、旧跡を訪ねることも、文化として根付いて来つつある時代です。
はたして、みちのくとされる当地でも、それは、行っている。
しかし、後付されたものも少なくはなく、一体どこが本当のその場所であるのか。
今現在でも、特定できない名所というのが存在致します。
歌枕に戻ります。
今一度、歌枕の種類を分別してみます。(長谷川櫂氏によるところです)
一 実在する場所が特定されてできた歌枕 宮城野 塩竈 など
二 まず歌ありきで、その後場所が特定されできた歌枕 末の松山 など
三 歌に詠まれてもどこにあるか不明。どこにも存在しない歌枕 壺の碑
芭蕉は、この多賀城を訪れる間、その期待をことごとく打ちひしがれております。
その殆どが「山崩、川流て、道あらたまり、石は埋もれて土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、・・」
しかして、眼前の「壺の碑」は、歌枕の通りそのままの形で存在している。
芭蕉が感動するのも無理はなかろう。
むつのくのおくゆかしくぞ思ほゆる壺の碑そとの濱風 西行
陸奥のいはでしのぶはえぞしらぬかきつくしてよつぼの石ぶみ 前右大将頼朝
これら、先人達が詠んだ「壺の碑」という歌枕については、「袖中抄」(しょうちゅうしょう)顕昭にこう記されております。
少しばかり袖中抄について。「顕昭(けんしょう)が編纂した、歌の解説書」とお話しすればお分かり頂けると思います。
万葉集以降の歌300を解説しております。
その袖中抄ではこうです。
一 いしぶみ いしぶみのはふのほそ布はつはつにあひみても猶あかぬけさかな 顕昭云、いしぶみとは陸奥のおくにつぼのいしぶみ有。日本の東のはてと云り。但田村の将軍征夷の時弓のはずにて石の面に日本中央のよし書付たれば石文と云と云り。信家の侍従の申しは、石の面ながさ四五丈許なるに文をゑり付たり。其所をつぼ云也。私云、みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて、千嶋とも云ば、陸地をいはんに日本中央にても待るにこそ。
上記のように記されております。
まず、壺の碑として問題になるのは二点であり、一つが、所在。そして、これが、多賀城碑と一致するか。こうなります。
最近まで、先の西行の歌「坪の石文外の浜風」などから青森県七戸町坪川原説が主張されていて、史実が対立していたりしております。
袖中抄の中身を素直に捉えるならば、これは伝承であって、史実を記してはないわけで、青森七戸町というのは、袖中抄ありきで後付で設定されてはいないか。こうした疑問は拭い切れません。
ですが、これだけでは、多賀城にあるものを肯定するには材料が乏しいわけです。
単に、「壺の碑」の位置に対しては、このような材料だけでは、理解できない、謎の歌枕なのです。
写真にある、芭蕉が涙したとされる碑「多賀城碑」は江戸時代に発見されたとされてます。これは史実です。
だが、それは芭蕉の信じていた「坪の碑」とは違っていた。
ここにおおきな矛盾が生じております。
「壺の碑」を簡単に整理してみます(いささか、複雑に語りました故)
歌枕の壺碑は、「陸奥七戸の北、壺(坪)村にあり、九世紀初に坂上田村麻呂が『日本中央』と書きつけた碑」。
上記までのくだまきは、これには多くの矛盾が生じた。こう語っているわけです。
話を元に戻します。
多賀城碑の問題点を整理した論文に「尾形仂 論 おくのほそ道 解釈と鑑賞」(昭和41年4月)にみることが出来ます。
現在の多賀城碑にみることの出来る碑文についての矛盾です。
〇碑文「神亀元年歳甲子按察使兼鎮守将軍従四位上勲四等大野東人」
碑面に録した官位は、神亀元年当時の官位相当しないだけでなく、その没時の官位としても「参議」を欠き、「従三位」を「従四位上」としている点で牴触する。
〇碑文「天平宝字歳次壬寅参議東海東山節度使従四位上仁部省卿兼按察使鎮守将軍藤原恵美朝臣朝獦」
「続日本記」によれば、朝獦は天平宝字六年十二月当時従四位以下で、碑文に「従四位上」とあるのはこれと牴触する。
これは、多賀城碑の謎であって、芭蕉とはまったく別な疑問点です。
この江戸時代に発見された。とされる多賀城碑ですが、芭蕉がこの碑を尋ねた頃は多賀城碑=壺の碑とする理解が一般的と考えるのが妥当です。
この碑文を解読した祖は、佐久間洞原ではないかと言われてます。(奥羽観蹟聞老志によります)
その洞原の写した碑文は公開されてませんが、書き写した部分に間違いがなかったとも言い切れません。
芭蕉にしてもそうで、判読しがたい部分多々の碑文においてはっきりしている部分でも八か所の判読誤りが指摘されております。
そして、例えばこの部分。
「所置」を「所里」と判読し、「朝獦」を「朝(けものへんに萬を当ててます)」と「おくのほそ道」では表記してます。
この誤判読は、大淀三千風と同じです。
芭蕉は、この碑の読み解く作業でも、三千風を頼りにしたことを物語っております。
ともあれです。
芭蕉は、多賀城碑を歌枕である「壺の碑」と信じ、天平を懐かしみ、感涙するわけです。
多賀城の栄華をしのぶ風景は全くなく、田圃の街道の中に荒廃した姿をみせているだけです。
その風景の中に突如して大きな碑を見つけ、走り寄る二人の姿を想像することは難しくありません。
多賀城のここでの印象は、壺碑に巡り合った感動で消されてはおりますが、この碑を見つける事がなかったら、芭蕉の気持ちは沈んだままであったのです。
平泉で詠んだ「夏草や・・」の句は、もしかしたら、多賀城でも詠んでいたかもしれません。
爰に至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳、存命の悦び、羈旅の労をわすれて泪も落るばかり也
この芭蕉の気持ちに触れたとき、この碑の歴史や、謎は、問題ではないような気がいたします。
ここに来て、旅をしてきた労が一挙に労われた。
この顔を想像してしまいます。
芭蕉が多賀城を旅していた頃、時期的に菖蒲が咲いていたと考えられます。
今、多賀城の市の花となっております。
田園の道を歩いている芭蕉の姿を、道端の花達が見守っていたのですね。
これを芭蕉が目にした時の感激の度合いは「泪もおつるばかりなり」に集約されていますね。
ほかのところで散々な目に合った芭蕉ならではの感想でしょう。
時の流れの無常を嫌と言うほど見せつけられた後では抱きつきたいほどの感慨を持ったのではないかと思いますし、私が芭蕉の立場ならきっと大泣きしながら抱きついているでしょうw。
しかしいろいろな疑問点があればあったもので、これこそ歴史ロマンなのでしょう。
菖蒲、美しい紫色が大好きです。
偽書「東日流外三郡誌」の正体3
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/516f8f5eb1ecdd4e7aa6a4fee8e5a9d7
末の松山の記事にも書いていたと思うのですが、仰る通り実際に来て書いたわけではありませんね、それ以前に似たような詩があり、その意味に合わせて、作者が新しく歌を詠んだということですね。
ところで、11月23日だったかに東北歴史博物館で多賀城碑の説明会みたいなものがあるので、用事が無ければ行こうかな?なんて考えてますが、まだ決めていません。仕事優先になるかも?
「そんなもんなんだよなぁ・・」と考えております(^_^;)。
歴史的なロマン一杯な土地だった!と気づいたのも最近なんですよ。時間をかけて調べてみたいと思ってます。
このひーさんの記事は以前拝読させていただきましたが、内容が面白くて、歴史の視点より、その事実の方に興味がいきました。
今にして思えば、「そうだったんだぁ」と改めて思った次第です。
多賀城碑の説明会ですか・・興味ありますね。
親父の多賀城の史料は全部みてないから、今後の取り組むテーマなのかも・・。時間かけてやってみる価値はありそうですね。