昭和20年3月29日。三田尻沖へと出港した大和そして矢矧以下第二水雷戦隊です。
おそらく、各艦の中では、出撃の緊張感が高まっていたのかと思います。
祖父のもとには多くの暗号電文が入電していたと推察します。
しかし、この日、多くの人達の運命を決定される事件が起こります。
今回は「くだまき」とは行きませんでした。 . . . 本文を読む
1945年3月27日:米艦艇の沖縄本島南部への艦砲射撃。艦載機が沖縄本島500機、奄美300機来襲。九州には昼夜B-29約200機が来襲,関門海峡に機雷投下。
(東海大学 鳥飼研究室史料 抜粋)
大和通信室には、沖縄からの戦況とGFからの入電など情報が錯綜しております。
事態は急変。艦内の慌しさが最高潮となっています。(ですが、それも序章です)
3月28日 GFより入電。出港命令です。
「酔漢祖父 . . . 本文を読む
酔漢が塩竈へ帰りましたのが昨年5月の事。新緑がまぶしい、そしてまだ山には雪が残っておりました。栗原市から県境を通って山形へ入り少しばかりドライブをいたしました。
蕎麦好きな父でございます。山形、宮城の蕎麦を食べ歩くのが趣味となっております。
以前はかなり呑んでおりました。晩酌は欠かせません。ウィスキー派です。
帰省中は親父と晩酌しております。
不思議に思われるかもしれませんが、父と酒を呑むことが楽 . . . 本文を読む
数々のご指摘を頂戴いたしました。
本当に感謝いたします。改めて御礼申し上げる次第でございます。
「おせっかい焼き様」ありがとうございます。
(写真は昭和52年4月7日、靖国神社で行われました慰霊祭のパンフレットの一部です。
多くの方からお話を聞くことができました。詳細は別として今後語ります。
清水芳人さん 当時 大和副砲長 から頭をなでられました。)
本日、ここで、酔漢がこの時期何故「大和を . . . 本文を読む
大和通信室へは、GFからの命令、戦況、多々情報が逐一入電してきます。24時間、稼動し、勤務は交代性(当宿直4交代)。沖縄の戦況は、GF本部とほぼ同時に把握できております。
この時期、海軍本部より2F司令部の方が戦争の顛末を冷静に分析していたのではないか。そう考えております。
この章、酔漢の史観を含めて私見を語ります . . . 本文を読む
大和が沖縄へ向う、その背景を少しばかり語らなくてはならないと考えました。
硫黄島、沖縄。この昭和20年初頭は、歴史の転換点として大きな意味を持っております。
大和通信室へは、刻々と戦況が報告されております。
祖父はどんな思いで平文にしていたのでしょうか。 . . . 本文を読む
前回、昭和20年正月の様子をご紹介いたしました。以前、大和艦上での写真を合わせてご覧頂きましたが、この写真が昭和20年1月7日と推察いたしております。海軍はレイテの敗戦を境に、海上部隊はほぼ作戦不能となっております。
空母は新鋭の信濃のみ。(沈没の経緯は語りました)
航空作戦を主とする「天號作戦」が開始されます。 . . . 本文を読む