仙台市、青葉城跡にあります「護国神社」です。帰仙の度に立ち寄りますが、最近は女性の数が多くなっているようです。「戦国ブーム」と言われるところなのかもしれませんが、どうやら「伊達正宗」と「片倉小十郎」のコンビは絶大なる人気を誇り、どうやらその影響なのでしょう。カメラ片手の女性を目にします。
その青葉神社境内の脇に小さな展示館がありまして、そこに戦艦大和の模型等が展示されております。
以前、そこに祖父が遺品と共に展示されているというお話はいたしました。
大和の模型は「坊の岬沖海戦当時」のもの。お隣「矢矧」の模型も、二番主砲が取り外された後の模型です。大和と共に百分の一サイズ。
縮尺同一ながら、大和の大きさに驚かされます。
東日本では最大の模型となります。(尤も、展示されているところが、呉とここぐらいしかないものですから・・でも仙台にあるのが不思議です。)
その、大和ですが、鎮守府は呉です。戦没者名簿を紐解きますと「関西」「中国地方」御出身者の方が多いのです。ですが、レイテ後、「第二艦隊司令部」が大和へ移乗。
この「第二艦隊」(「くだまき」では「2F」と語ることが多いのですが)は、横須賀鎮守所属ですので、東北地方出身者が多いのでした。
厚生省援護局資料によりますと(能村次郎元大和副長手記「慟哭の海」巻末より)東北地方出身県別戦死者数は以下のようになります。
青森県 5名
岩手県 14名
秋田県 11名(内1名は「呉鎮守府所属」)
宮城県 17名
福島県 12名(内1名は「呉鎮守府所属」)
→山形県はおりません。
過去に「おせっかい焼き」様から貴重なコメントを頂いております。
まずは、再度ご紹介いたします。
私が持っている「特別攻撃隊全史」(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会、H20年発行)所載の「第二艦隊沖縄出撃時戦没者名簿」によれば、宮城県関係として、第二艦隊司令部関係者16名、「朝霜」関係者20名が記載されています。同書には「本書が収録した第二艦隊沖縄出撃時の戦没者の人数と氏名は、遺憾ながら不完全であることを認めざるを得ない」と記述されていますので、第二艦隊司令部関係者16名には、2名の脱漏があることになります。
古いノートを見ましたら、沖縄海上特攻で戦死した士官の進級辞令をメモしたものがありました(兵曹長から少尉に任用された人はメモしませんでした)。
進級辞令はいっぺんに出るのではなく、何回かに分けて載ります。本辞令は内容から横須賀鎮守府在籍者のみを対象にしたことが分かります。所属は1名だけ除いて全員2F司令部です。
海軍辞令公報甲第1990号 昭和20年11月24日
〇昭和20年4月7日
海軍大尉中村太門(ホ166)
同 村野金三(ホ705)
同 山形安吉(ホ717)
任海軍少佐
海軍中尉猪股慶蔵(ホ1761)
任海軍主計大尉
海軍少尉高橋仁子(ホ1923)
同 鈴木藤二郎(ホ2052)
同 三嶋正造(ホ2398ノ3)
同 山居善介(コ1286) *冬月で戦死
任海軍中尉
海軍主計少尉毎沢信寿(ホ4863)
任海軍主計中尉
(ホ166)などは各個人毎に割り当てられた電報符で、ホは現役者に、コは予備役編入後召集された者に付きます。
山形大尉は海軍乙事件(古賀GF長官らの遭難事件)で助かったGF司令部職員3名のうちの1名です(あとの2名は福留参謀長、山本作戦参謀)。山形大尉は乙事件当時GF司令部附(中尉)で、掌通信長でした。山本作戦参謀は2F首席参謀になった人です。
高橋少尉、鈴木少尉は高等科暗号術の出身、三嶋少尉の専修術科は手元に資料なく不明。
この中に御祖父がいらっしゃるのですね。
上記のとおり昭和20年11月24日の辞令公報に登載されたわけですが、戦死の認定が昭和20年11月までずれ込んだのか、単に公報への登載事務が遅れ、11月になってしまったのかは分かりません。
(2010年2月2日。「おせっかい焼き」様よりのコメントより抜粋)
上記、お名前の出てまいりました方々の出身県を見てみますと。
海軍大尉中村太門(ホ166) 長野県
同 村野金三(ホ705) 埼玉県
同 山形安吉(ホ717) 宮城県
任海軍少佐
海軍中尉猪股慶蔵(ホ1761)岩手県
任海軍主計大尉
海軍少尉高橋仁子(ホ1923) 岩手県
同 鈴木藤二郎(ホ2052)福島県
同 三嶋正造(ホ2398ノ3)宮城県
同 山居善介(コ1286) *冬月で戦死←冬月の名簿が手元になく解りかねます。
任海軍中尉
山居中尉ですが、冬月は第一次攻撃時。ロケット弾が命中いたします。不発だったものの、それが発令所内に飛込みます。冬月10名の戦死者のうち、そのロケット弾で6名の戦死者です。山居中尉は発令所配属。それが原因での戦死と推察いたします。
海軍主計少尉毎沢信寿(ホ4863)栃木県
任海軍主計中尉
山形安吉少佐は、通信のプロ。「海軍乙事件」は歴史の中に埋もれておりますが、この事件(暗号書がアメリカへ渡ってしまいます。また古賀GF長官が戦死されておられます。山形少佐は生還者三名のうちの一人。「おせっかい焼き様」が、ご解説されておいでですが、「山本主席参謀」はやはり、2F先任参謀として大和乗艦。戦死されておられます)からの生還者でございます。祖父の所属とは違いませんが、同郷ということで、何かしら繋がりはあったのかと推察いたしております。
岩手ご出身の「高橋仁子中尉」はこれは祖父と同じポジション。同じ階級でもあり、もしかしたら机を並べて、かもしれません。
「おせっかい焼き」様は、「祖父の術科不明」とされておいでです。
私も調べましたが、通信学校での経歴も不明で、祖父の碑文(後ほど詳細は掲載いたします)には「君は信号の特技に長じ成績常に抜群」としかございません。
「暗号室にいた」ことは、ご生還されました「渡辺光男元少尉」のお話からもはっきりしているところでございます。
暗号員は機関科員と同様。最期まで艦に残らなければならない運命です。
「総員最上甲板」と下令されても、「暗号室には施錠」しなくてはなりません。すべての機密がそこにあるからです。
「くだまき」では暗号室は第三波攻撃時(軍艦大和戦闘詳報による史実)の魚雷により暗号室、通信室が被雷し、それによる浸水で戦死と結論付けました。
暗号室からの生還者は皆無という状況は、上記のような理由であろうと推察いたしました。
写真です。出身市長村別記載です。
祖父を含めて横須賀鎮守府所属。横須賀鎮守府内では「宮城語」はまだ馴染があるのかと思いますが、大和とは関西文化の艦です。「宮城語」は大変珍しかったのかも。
「佐々木更三代議士(旧社会党議員)をテレビで見ると酔漢祖父さんを思い出します」
これは、「渡辺光男元少尉」の言葉でした。
「ずうずう弁の士官」これは祖父の呼び名だったそうです。
「東北出身者はすぐに解りましたが、大和艦内では珍しかった」とも言われておられます。
もしかしたら、それぞれの部署で皆様宮城語ままでお話されていたのでしょうか。
ところで、上記写真名簿と私の手元にございます名簿と違っております。
私の手元にはございます2名の方の名がないことに気づきました。
「佐藤健作上水」と「佐藤和男上水」のお二人です。
出身県の記載間違いか、後程の訂正か不明です。昭和四十一年の厚生省援護局からのもですが、このお二人とも出身市町村が記載されておらず、気になるところです。
戦艦大和会ではご一緒になられた宮城県のご遺族はおられません。世話人をお努めになられました「三笠逸男さん ←元大和副砲員」も「宮城県は酔漢さんご家族だけですね」とお話しになれておりました。
皆様どのような戦後をおくられましたのか。
前回の「くだまき」では「細谷宗蔵兵曹長」をご紹介いたしました。実家と同様「塩竈市」の御出身。2Fではどちらに所属されておられましたか。
今年の三月。この日はうららかな春の日差しがまぶしい日でした。
その日の朝に「父の余名が数か月」であることを母から電話で知らされました。
その瞬間「横須賀へ」足を運んだ自身です。
「祖父は毎日横須賀不入斗(いりやまず)から鎮守府(現アメリカ司令部)へ歩いて通勤した」と聞いておりましたので、バスを使わず歩いて向かいました。
当時、父の住んでいた住所は「横須賀市不入斗七二七番地」現在では「不入斗三丁目」に変わっております。ちょうど西来寺境内を正面に見て、右側の細い坂道の中腹にございました。(ここまでの手がかりしかございません)この日の詳細は後ほど語る事といたしますが、その西来寺正門の真向いに酒屋さんがありまして、そこで道を尋ねました。
結果、そのこご主人が父と鶴久保尋常小学校の同級生だと分かったのですが。(ちなみに父の渾名は「さんぴん」だったそうです。父より叔父→父兄の方の記憶が鮮明でした)
「こりゃ、驚いた。偶然だねぇ。先週も仙台から家を尋ねてこられた、元海軍のご遺族がいたんだよ」と聞きました。
「このあたりの貸家には海軍さんが大勢いましたが、東北の方がほとんどでした。まぁみなさんうちのお得意様ばかりでした」
明治からあるその酒屋さんでした。祖母も買い物に来ていたとか。
「仙台からすか?」
「丁度、先週の土曜日。何でも、昔ここのあたりさ住んでたらしくて、そのお父さんが亡くなられたらしくて、息子さんが訪ねて来たんだ」
酔漢と同じ(尤も、まだ父は病床とはいえ)思いで横須賀を訪ねて来た人がいたのでした。
「名前とか残していかなかったのすか?」
「さぁ、名前まで聞いてなかったなぁ」
横須賀鎮守府。東北からの海軍志願者はほとんどここに集められます。
横須賀から宮城の山、海、多くの風景に思いを馳せておられた事でしょう。
再び、故郷の地を踏みしめたことのできた人は何人おられましたでしょう。
酔漢はそんな事を思いながら横須賀を後にしたのでした。
その青葉神社境内の脇に小さな展示館がありまして、そこに戦艦大和の模型等が展示されております。
以前、そこに祖父が遺品と共に展示されているというお話はいたしました。
大和の模型は「坊の岬沖海戦当時」のもの。お隣「矢矧」の模型も、二番主砲が取り外された後の模型です。大和と共に百分の一サイズ。
縮尺同一ながら、大和の大きさに驚かされます。
東日本では最大の模型となります。(尤も、展示されているところが、呉とここぐらいしかないものですから・・でも仙台にあるのが不思議です。)
その、大和ですが、鎮守府は呉です。戦没者名簿を紐解きますと「関西」「中国地方」御出身者の方が多いのです。ですが、レイテ後、「第二艦隊司令部」が大和へ移乗。
この「第二艦隊」(「くだまき」では「2F」と語ることが多いのですが)は、横須賀鎮守所属ですので、東北地方出身者が多いのでした。
厚生省援護局資料によりますと(能村次郎元大和副長手記「慟哭の海」巻末より)東北地方出身県別戦死者数は以下のようになります。
青森県 5名
岩手県 14名
秋田県 11名(内1名は「呉鎮守府所属」)
宮城県 17名
福島県 12名(内1名は「呉鎮守府所属」)
→山形県はおりません。
過去に「おせっかい焼き」様から貴重なコメントを頂いております。
まずは、再度ご紹介いたします。
私が持っている「特別攻撃隊全史」(特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会、H20年発行)所載の「第二艦隊沖縄出撃時戦没者名簿」によれば、宮城県関係として、第二艦隊司令部関係者16名、「朝霜」関係者20名が記載されています。同書には「本書が収録した第二艦隊沖縄出撃時の戦没者の人数と氏名は、遺憾ながら不完全であることを認めざるを得ない」と記述されていますので、第二艦隊司令部関係者16名には、2名の脱漏があることになります。
古いノートを見ましたら、沖縄海上特攻で戦死した士官の進級辞令をメモしたものがありました(兵曹長から少尉に任用された人はメモしませんでした)。
進級辞令はいっぺんに出るのではなく、何回かに分けて載ります。本辞令は内容から横須賀鎮守府在籍者のみを対象にしたことが分かります。所属は1名だけ除いて全員2F司令部です。
海軍辞令公報甲第1990号 昭和20年11月24日
〇昭和20年4月7日
海軍大尉中村太門(ホ166)
同 村野金三(ホ705)
同 山形安吉(ホ717)
任海軍少佐
海軍中尉猪股慶蔵(ホ1761)
任海軍主計大尉
海軍少尉高橋仁子(ホ1923)
同 鈴木藤二郎(ホ2052)
同 三嶋正造(ホ2398ノ3)
同 山居善介(コ1286) *冬月で戦死
任海軍中尉
海軍主計少尉毎沢信寿(ホ4863)
任海軍主計中尉
(ホ166)などは各個人毎に割り当てられた電報符で、ホは現役者に、コは予備役編入後召集された者に付きます。
山形大尉は海軍乙事件(古賀GF長官らの遭難事件)で助かったGF司令部職員3名のうちの1名です(あとの2名は福留参謀長、山本作戦参謀)。山形大尉は乙事件当時GF司令部附(中尉)で、掌通信長でした。山本作戦参謀は2F首席参謀になった人です。
高橋少尉、鈴木少尉は高等科暗号術の出身、三嶋少尉の専修術科は手元に資料なく不明。
この中に御祖父がいらっしゃるのですね。
上記のとおり昭和20年11月24日の辞令公報に登載されたわけですが、戦死の認定が昭和20年11月までずれ込んだのか、単に公報への登載事務が遅れ、11月になってしまったのかは分かりません。
(2010年2月2日。「おせっかい焼き」様よりのコメントより抜粋)
上記、お名前の出てまいりました方々の出身県を見てみますと。
海軍大尉中村太門(ホ166) 長野県
同 村野金三(ホ705) 埼玉県
同 山形安吉(ホ717) 宮城県
任海軍少佐
海軍中尉猪股慶蔵(ホ1761)岩手県
任海軍主計大尉
海軍少尉高橋仁子(ホ1923) 岩手県
同 鈴木藤二郎(ホ2052)福島県
同 三嶋正造(ホ2398ノ3)宮城県
同 山居善介(コ1286) *冬月で戦死←冬月の名簿が手元になく解りかねます。
任海軍中尉
山居中尉ですが、冬月は第一次攻撃時。ロケット弾が命中いたします。不発だったものの、それが発令所内に飛込みます。冬月10名の戦死者のうち、そのロケット弾で6名の戦死者です。山居中尉は発令所配属。それが原因での戦死と推察いたします。
海軍主計少尉毎沢信寿(ホ4863)栃木県
任海軍主計中尉
山形安吉少佐は、通信のプロ。「海軍乙事件」は歴史の中に埋もれておりますが、この事件(暗号書がアメリカへ渡ってしまいます。また古賀GF長官が戦死されておられます。山形少佐は生還者三名のうちの一人。「おせっかい焼き様」が、ご解説されておいでですが、「山本主席参謀」はやはり、2F先任参謀として大和乗艦。戦死されておられます)からの生還者でございます。祖父の所属とは違いませんが、同郷ということで、何かしら繋がりはあったのかと推察いたしております。
岩手ご出身の「高橋仁子中尉」はこれは祖父と同じポジション。同じ階級でもあり、もしかしたら机を並べて、かもしれません。
「おせっかい焼き」様は、「祖父の術科不明」とされておいでです。
私も調べましたが、通信学校での経歴も不明で、祖父の碑文(後ほど詳細は掲載いたします)には「君は信号の特技に長じ成績常に抜群」としかございません。
「暗号室にいた」ことは、ご生還されました「渡辺光男元少尉」のお話からもはっきりしているところでございます。
暗号員は機関科員と同様。最期まで艦に残らなければならない運命です。
「総員最上甲板」と下令されても、「暗号室には施錠」しなくてはなりません。すべての機密がそこにあるからです。
「くだまき」では暗号室は第三波攻撃時(軍艦大和戦闘詳報による史実)の魚雷により暗号室、通信室が被雷し、それによる浸水で戦死と結論付けました。
暗号室からの生還者は皆無という状況は、上記のような理由であろうと推察いたしました。
写真です。出身市長村別記載です。
祖父を含めて横須賀鎮守府所属。横須賀鎮守府内では「宮城語」はまだ馴染があるのかと思いますが、大和とは関西文化の艦です。「宮城語」は大変珍しかったのかも。
「佐々木更三代議士(旧社会党議員)をテレビで見ると酔漢祖父さんを思い出します」
これは、「渡辺光男元少尉」の言葉でした。
「ずうずう弁の士官」これは祖父の呼び名だったそうです。
「東北出身者はすぐに解りましたが、大和艦内では珍しかった」とも言われておられます。
もしかしたら、それぞれの部署で皆様宮城語ままでお話されていたのでしょうか。
ところで、上記写真名簿と私の手元にございます名簿と違っております。
私の手元にはございます2名の方の名がないことに気づきました。
「佐藤健作上水」と「佐藤和男上水」のお二人です。
出身県の記載間違いか、後程の訂正か不明です。昭和四十一年の厚生省援護局からのもですが、このお二人とも出身市町村が記載されておらず、気になるところです。
戦艦大和会ではご一緒になられた宮城県のご遺族はおられません。世話人をお努めになられました「三笠逸男さん ←元大和副砲員」も「宮城県は酔漢さんご家族だけですね」とお話しになれておりました。
皆様どのような戦後をおくられましたのか。
前回の「くだまき」では「細谷宗蔵兵曹長」をご紹介いたしました。実家と同様「塩竈市」の御出身。2Fではどちらに所属されておられましたか。
今年の三月。この日はうららかな春の日差しがまぶしい日でした。
その日の朝に「父の余名が数か月」であることを母から電話で知らされました。
その瞬間「横須賀へ」足を運んだ自身です。
「祖父は毎日横須賀不入斗(いりやまず)から鎮守府(現アメリカ司令部)へ歩いて通勤した」と聞いておりましたので、バスを使わず歩いて向かいました。
当時、父の住んでいた住所は「横須賀市不入斗七二七番地」現在では「不入斗三丁目」に変わっております。ちょうど西来寺境内を正面に見て、右側の細い坂道の中腹にございました。(ここまでの手がかりしかございません)この日の詳細は後ほど語る事といたしますが、その西来寺正門の真向いに酒屋さんがありまして、そこで道を尋ねました。
結果、そのこご主人が父と鶴久保尋常小学校の同級生だと分かったのですが。(ちなみに父の渾名は「さんぴん」だったそうです。父より叔父→父兄の方の記憶が鮮明でした)
「こりゃ、驚いた。偶然だねぇ。先週も仙台から家を尋ねてこられた、元海軍のご遺族がいたんだよ」と聞きました。
「このあたりの貸家には海軍さんが大勢いましたが、東北の方がほとんどでした。まぁみなさんうちのお得意様ばかりでした」
明治からあるその酒屋さんでした。祖母も買い物に来ていたとか。
「仙台からすか?」
「丁度、先週の土曜日。何でも、昔ここのあたりさ住んでたらしくて、そのお父さんが亡くなられたらしくて、息子さんが訪ねて来たんだ」
酔漢と同じ(尤も、まだ父は病床とはいえ)思いで横須賀を訪ねて来た人がいたのでした。
「名前とか残していかなかったのすか?」
「さぁ、名前まで聞いてなかったなぁ」
横須賀鎮守府。東北からの海軍志願者はほとんどここに集められます。
横須賀から宮城の山、海、多くの風景に思いを馳せておられた事でしょう。
再び、故郷の地を踏みしめたことのできた人は何人おられましたでしょう。
酔漢はそんな事を思いながら横須賀を後にしたのでした。
8月に上京する用事ができましたので、ついでに目黒にある防衛研究所図書館に行って、三島少尉や大高少尉などのことを調べてこようと計画していました。飛行機、ホテルの予約も済ましたのですが、土壇場になって都合が悪くなり中止になりました。非常に残念でした。
数々のご教授。感謝に堪えません。
防衛研究所図書館の存在は、海自OB(元潜水艦艦長)の親戚から聞きましたが、尋ねる度胸もなく今日まで過ごしておりました。
「是非お尋ねなさい」と言われ数年が過ぎました。近くに住んでいながら恥ずかしいです。
大高さんの奥様はご存命でいらっしゃいますが、お体がすぐれず、お尋ねするのを控えております。
叔父が連絡を取っておりますので、何か解りましたら、ここに掲載しようと考えております。
また、今後ともご指導、ご鞭撻のほど、何卒お願い申し上げます。宜しくお願い申し上げます。
入館する前に、防衛研究所正門のところにある守衛所で用紙に所定事項を書いて入館証をもらいます。身分証明はいりません。けっこうな人が来ています。
参考になる資料として、「現役海軍特務士官及准士官名簿」や「在郷海軍特務士官及准士官名簿」などがあります。
ぜひ一度行ってみて下さい。
ホームページもあります。
仕事柄、年末年始は多忙ですので、年明け、連休を取って出かけます。
HPも拝見いたしました。
おしらせありがとうございます。
大和の乗組員でしょうか。
宮城出身方が 17名もいて 遺族の方が出てこないのは、何故なのでしょう。
もし、若くて子供がいなければ 父を訪ねる子孫がいないわけですから 、年が過ぎれば 親も老いそして、諦めの方が 強くて名のりでない、いや戦後そんな余裕すら無かったのではと思います。
下手すれば、夫も子も同時に亡くし生きるのがやっと・・と言う人もいたかも知れません。
また、思い出したくない・・・という方もいるでしょうね。
それぞれの遺族の歴史がそこにあるのでしょう。
ひー様のおっしゃる通りだと思います。