11月16日、京都市左京区にある永観堂に2年ぶりに紅葉を見に行ってきました。父は今まで永観堂を訪れたことがなく、美しい紅葉を眺めてみたいということで母の写真も持って行って家族みんなで晴天のお天気の京都を散策してきました。
午前9時過ぎに到着しました。
阿弥陀堂 みかえり阿弥陀像などが安置されていました。
11月16日、京都市左京区にある永観堂に2年ぶりに紅葉を見に行ってきました。父は今まで永観堂を訪れたことがなく、美しい紅葉を眺めてみたいということで母の写真も持って行って家族みんなで晴天のお天気の京都を散策してきました。
午前9時過ぎに到着しました。
阿弥陀堂 みかえり阿弥陀像などが安置されていました。
先週からしばらく仕事を休んでいました。この1週間は曜日感覚と時間感覚がなかったくらいいろいろあり過ぎた1週間になりました。先週初めに、入院していた母が旅立ち、今年の四月下旬から家族みんなで同じ空間で過ごしたことがことがなかったので、7か月ぶりに家族全員で、お通夜の日は、最後をともに過ごすことができました。病院の病室で母に2回ほど掛けていた椰子の実や早春賦、夏の思い出などの演奏だけの日本の抒情歌のCDを持ち寄ったら、ずっと流してくださいました。その優しいメロディーが、一晩中、聞こえていました。母の小さい頃から入院するまでの思い出の写真のスライドショーもこの音楽と一緒にずっと流してくださっていましたので、見てくれていたら嬉しいなあと思いながら、最後の夜は過ぎていきました。この日、父が、私に向かって、母がずっと私のことを好きでいてくれたこと、私のことを悪く言っているのを聞いたことがなかったことなどを丁寧に教えてくれました。母は私のことを誉めてくれることはほとんどなかったですし、私を好きでいてくれたということも母から直接言葉を介して聞いたことがありませんでした。でも、父のこの言葉を聞いてから、この言葉で、いつのまにか、心の奥深くまでぽっかり空いてしまっていた大きな穴を少し埋めてくれたような一抹の光をもらえた気がしました。日曜日に偶然見た「サザエさん」の中で、ワカメとカツオがマスオさんに向かって優しいマスオさんが好きと直接伝えているシーンがありました。少し前に観た映画「最高の人生の見つけ方」の映画の中では、死ぬまでにやりたいことリストの中に、好きな人に好きと伝えておくといったシーンも出てきていたのを思い出しました。私たち家族は母も父も私も言葉に出して、好きと確認しあったことが今まで一度もなかったことに気が付きました。好きと言えるうちに、思いを伝えておくのが遺された家族に取ったら、生きて行く力のひとつになるのではないのかなあとも思いました。どんなことをどれだけしても後悔は必ず残るものだと言われたことがありました。私も母にしたくてもできなかったことがたくさんあり過ぎてたくさんの後悔をしました。いろいろある後悔の中で、一番の後悔は母を私も好きだった事実を直接言葉では発しなかったことです。もちろん、言葉を介してなくても思いが伝わることも多々あったかと思いますが、思いを言葉にすることも大事だったと思いました。
でも、父からこの言葉を聞いてから、いつまでも落ち込んではいられないと、知らない間に、元気になれていた自分がいました。そのおかげかどうかわかりませんが、やらなければならないことを仕事を休んでいる間にたくさんできました。欠礼ハガキの作成や投函、香典返しの商品券を買いに行ったり、書類の申請や届出などしないといけないこともいくつか終えました。今日から、1週間ぶりに仕事です。明日からは、予定されている仕事をこなさないといけません。朝から気合を入れています。
11月18日、午前中の用事を終えてから、午後から天満橋付近まで別の用事で出かける途中、大阪城公園の中を通って紅葉状況を眺めてきました。
極楽橋付近
東外堀付近の桜も赤く色付いていました。
梅林から東外堀付近を撮影
JR森ノ宮駅の近くの公園の入口付近
噴水付近
音楽堂の近くの紅葉もだいぶん色付いていました。
東外堀付近の青屋門手前のコスモス
日中、晴れ間も見えていましたが、午後3時頃より厚い雲で覆われてきた空から雨が落ちてきました。
母がお世話になった病院では、いろいろな方にお世話になりました。昨年も2回同じ病院に入院し、そのときは元気でなって退院でき、退院時には母を迎えに行ったことを思い出しました。家に戻れる喜びで母は本当に嬉しそうでした。今回も無事に退院して、家に戻りたいという一心で、病院での辛い治療にも耐え、頑張ってリハビリもしていた母だったと思います。母の容態が急変した前の晩に仕事を終えてから母の病室に立ち寄ったとき、母の顔色などがその前の日と違っていたのがわかりました。いやな胸騒ぎがしていたのですが、その日は面会時間の1時間前まで病室に滞在し自宅に戻っていました。その日の真夜中の午前2時半ごろになぜか目が覚めていた数分後に、看護師さんより母の危篤状態の電話をいただきました。父と一緒に真夜中、病院に駆けつけ、一度帰宅した間に、母を一人で旅立たせてしまった結果になりました。2度目に母の病室に駆けつけたときに、母の最期を看取れなかったとわかった瞬間に声を上げてしばらく泣いてしまいました。なぜこんなに泣いてしまったのかというと、寂しがりやの母を7か月も病院に閉じ込めてしまって、最期も一人で寂しく逝かせてしまったことを母に詫びたかったからだと思います。この日、お世話になった看護師さんはまだ母が話をしていた4月から母の最期までよく知ってくださっていた方でした。半年以上も病院でお世話になったらほとんど毎日面会に行っていたので、看護師さんや介護士さんや守衛の方や事務の方々などほとんどの方と顔見知りでした。お世話になった看護師さんのお顔を見なくなったと思っていたら派遣の看護師さんが多かったようで派遣の方々は半年しかおれないということで、ほとんどの方々がお辞めになっていたことをこの日お世話になった正社員の看護師さんにお伺いしました。母の頑張りはほとんどの看護師さんや介護士さんからお伺いしていて、よくしていただいたことに感謝します。看護師さんや介護士さんから、優しいお心遣いと心のこもったお言葉をいただいたのでそれで私たち家族は少しだけ救われた気持ちになれました。でも、父のときは母と同じ病院だけは入れないで欲しいと父が寂しく言いました。私もそのつもりです。