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書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著) 11

2017-09-04 | 書評『文明としての江戸システム』(鬼頭宏著)

 こうして「文明としての江戸システム」は、いわゆる「文明開化」で単に滅び去ったのでなく、その後の歴史の展開に連続し、近代国家成立を可能ならしめた遺産でもあったことが、ますます明らかになりつつあるとしている。

 数百年にわたって浸透し、江戸時代後半の百五十年に緊密に全国を結合し、高度に洗練された市場経済のシステムは、それまで現実の変化を抑制していた種々の規制を撤廃することによって、短期間の内に資本主義への転換を可能にした。
 〔明治初期に施行されたそれらの幾多の規制撤廃は〕多かれ少なかれ、江戸時代のうちに既成事実となっていたことを追認し、法的にそれを制度化したに過ぎない……近代日本はその始まりにおいて、明らかに江戸システムと連続するものとして形成されたのである。(三一四頁)


 こうして社会の成熟と生態学的な持続可能性を両立していた江戸文明の在り方が、未曽有の環境崩壊に突入した現代文明への、一つの具体的な代案となりうるのではないかとの強い期待とともに、本書は締め括られている。
 このように、本書は江戸時代の経済社会的側面の達成=江戸システムを明らかにした、多くの日本人に知られるべき業績である。その骨格と思われる部分に焦点を当ててきたが、全体像はぜひ本書に当たっていただきたい。
 改めて、同じ時代がこれまで「収奪と貧窮の暗黒時代」とされてきたことは、もはや不可解というほかない。本書は言及していないが、そうした「進歩的」歴史教育に洗脳されてきた者からすれば、日本歴史への大誤解をあえて行ってきた過去の歴史学界に対し、憤りすら覚えてしまう。この明白な誤読は、私たちの集団的アイデンティティに対する字義通りの「過ち」であり、日本人の心理に今なお深くわだかまっているからである。これこそ、ある時代の正義が次の時代の厄介な重荷になるという典型であろう。本書は「文明としての江戸時代」という理解が学問的な共通認識となっているとするが、それが一般に意識されていない大きな原因が、往年の歴史的歪曲がいまだ克服されていないことにあるのは明らかである。歴史ブームと言われるが、その関心はいつも戦乱・動乱の時代にあり、江戸文明の調和と達成は、長きにわたる負の意味付けが心理的障壁となって、今も忘れ去られている。これは日本人にとって大変な損失に違いない。かかる悲喜劇的誤読に何か意味を見出すとすれば、それは唯一、歴史観が歴史をいかようにも描き出すという事実を教えてくれることにあるだろう。

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