さて、以上のような歴史研究の到達を踏まえ、著者は「庶民は富を、武士は権力を、朝廷は権威を、それぞれ分担して受け持ったのが江戸時代の社会であった」と端的に結論している。これまで「江戸時代の庶民は常に食うや食わずの貧窮状態に置かれていた」とされてきたのとは、文字通り正反対の評価である。そして、そのような「貧農史観=江戸時代暗黒史観」の文脈に沿って、飢えたる民衆の蜂起行動として長らく語られてきた象徴的テーマが農民一揆にほかならない。しかしこの点においても、現在の通説がかつての常識とまるで異なってきていることを本書は示している。前述のとおり、農業生産の向上に加え、プロト工業化の進行により、農民は兼業に励むことで富を獲得できた。一方、農本主義に立ち、非農業生産に対する有効な課税制度が確立できなかった領主側は、財政難を脱するため藩専売制などにより非農業生産に直接介入しようと図ったのであった。農民一揆の実態とは、そうした領主側の介入に対する、農民側の既得権の主張であったという実態を、近年の研究成果に基づいて明らかにしている。
農民一揆は、領主階級の「収奪」に対する死を賭した「階級闘争」という型通りの図式でかつて語られていたが、しかし近年の研究に基づき、一般的な農民一揆とはそれと全く異なり、次のような性質のものだったと、ここでほぼ断定されていることに注目したい。
個別に一揆の発生状況を詳しく分析した横山十四男氏は、実際には一揆は貧しさのゆえに起きるのではなく、むしろ米穀以外の商品作物を多く産出する条件を備えていた地域で、農民の既得権益に対する幕藩側の介入に反対して起こされたものが少なくなかったと指摘している。
全国的にみても、百姓一揆は十八世紀中期から増加するが、とくに天保期以後になると増加が著しい。このパターンは藩専売制度の実施藩数の増加と軌を一にしているのであり、自由な経済活動の保証を求めて、より高い所得と利潤の獲得を目指す行動が広がっていたことの反映であったとみるべきである。(二四三頁)
全国的にみても、百姓一揆は十八世紀中期から増加するが、とくに天保期以後になると増加が著しい。このパターンは藩専売制度の実施藩数の増加と軌を一にしているのであり、自由な経済活動の保証を求めて、より高い所得と利潤の獲得を目指す行動が広がっていたことの反映であったとみるべきである。(二四三頁)
これまで見てきたよう農村が生活の質を増進し、特に非農業生産の面で富を蓄積していたとすれば、農民一揆がそれに介入しようとする領主側との交渉・駆け引きという性格を色濃く帯びていたことは、むしろ自然であると見える。
こうして民間で進行する市場経済の浸透と経済社会化という地殻変動に対し、幕藩体制側がこれを抑制するか追認するかで右往左往してきた中で、本書は十八世紀後期に長期にわたり政権を担当した田沼意次を稀有の「近代の先駆者」として特筆し、こうした時代の変化の促進を試みた一貫性のある政策を、「市場経済を指向した経済・金融政策、非農業生産を重視した産業政策、貿易推進政策と土地開発計画に特徴を認める…その革新的な性格が評価されている」とする。しかし彼の失脚により、その諸政策は農本主義に立つ幕藩体制から直ちに覆されたのであった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます