〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

新しい物語

2005-11-15 | Weblog
さいきんほとんどテレビも新聞も読まなくなりつつあるが、それでも話題の事件は昼の食堂のテレビなどでちょっと見聞きする。

なんだか心の底の方から冷え冷えとしてくる事件が続発しているようだ。母親の毒殺、一方的な怨恨での女子高生殺人、等々…。ごく若い世代による、理解しかねるような犯罪。これはいったいどうしたことなのだろう。

共感も同情も入り込む余地のない、しかしたんに衝動的といってしまうには済まされないような何かが、そこにあるような気がしてならない。
これは社会病理のますますの進行が、まさに若い世代において先鋭的に顕わになってきているということではないかと感じる。

しかもそういった異常な事件が、単に自分とは別のどこかで起きた犯罪というだけでは済まされないような感じが、いまの社会の雰囲気にはあるように思う。
とりわけ道行く中高生たちや、さらには小学校の高学年くらいだろうか、すごく荒んだ表情や雰囲気を見せている子を、最近ますます見かけるようになってはいないだろうか。

いろいろな意見がありうると思うが、これはようするにそういう若い世代に、何か大切なことが決定的に伝わっていない、というか伝えることに社会・大人が失敗してしまっている、その結果なのではないか。

その大切な何かとは、よくこういう事件が起こるたびに言われている、いわゆる「命のたいせつさ」「心の教育」という言葉で表されることにほかならないのだろう。しかしよく耳にするそういう言葉の、何と空疎に聞こえることだろうか。

そもそもそういうことをわけ知り顔に語っている人たちすら、それはきれいな建前にすぎず現実にはそんなことできっこない、と心底では思っているのが見え見えのような気がするのだ。これは全くの印象批評であり主観にすぎないが。

しかし、そういうきれいごとの言葉を唱えている人たちが、じゃあ実際にそういう“心の教育”のプログラムとはどういうもので、どういう有効性があって、なぜ有効なのか、ということを具体的に我が身のこととして語っているのをまず見かけることがないのを見ると、その嘘くささが必ずしも自分の主観のみではないことを示しているのではないかと思う。

「命を大切にしよう」ということを、生徒に関わる殺人事件が起こるたびに報道向けに校長先生が語ってているのをテレビでよく見かけるが、容易に予想できるように、そんな空疎な言葉はまず子供の心に入らないだろう。

なぜならばそれらの言葉には根拠にもとづいた説得力がないからだ。そして実際には、そう語っておられる大人たちも、そんな言葉を信じることがむずかしい、というか信じてはいないのではないか。それはやむを得ない事情があるにしても、自分でも信じていないようなきれいなだけの言葉を語り聴かせるというのは、正確な意味で“偽善”といわざるをえないだろう。

つまり、必要なのは子供たちがほんとうに「いのちを大切にしよう」「人を殺してはいけないのだ」「自分はかけがえのない存在なのだ」と自発的に思い実感することのできる、その根拠に違いない。そういう言葉を単に口先で言うのは簡単だが、問題はそれを語る人間、聴く人間が共有するそれらの言葉の根拠なのだと思う。

表現された「いのちは大切だ」という言葉の背後にある体系的な説得力、それこそが教育が本来伝えるべきメッセージであるはずなのだが、ぼくらが通過した学校で見聞きしてきたとおり、そしていまの惨状を見て多くの人が危機感を抱いているとおり、明らかに学校はそれを子供たちに伝えることに失敗している、というか決定的に怠っているといっていいと思う。

どころか、そんな建前さえも取っ払って、むき出しの競争主義だとか受験知識の注入に堕落している、というのが現状のレベルなのではないだろうか。いわゆるIT教育だとか、小学生からの英語教育だとか、そんなことの前にもっとやることはあるはずだ。子供の心に触れない教育など、そもそも教育と呼ぶのに値するのだろうか。この社会はいったいどんな子供を育てたいのだろうか。

そしてもちろん、ことは学校だけ・親だけ・子供だけの個別責任にして済むような問題ではないだろう。それらを全部含む、この社会全体のいわば内面・心である文化が、病み崩壊しつつあるのを強く感じざるをえないのだ。

つまり、この社会全体の常識的な雰囲気というか、流れている情報の最大公約数が、暗に「世の中意味もクソもない」「善も悪も単なる好き嫌いにすぎない」「生きるも死ぬも個人の勝手」というところまでレベル低下をきたしている、つまり最低限の倫理の底を割ってしまっている、ということなのだろうと思わざるをえない。そういう最後の歯止めが失われたところで起こるべくして起きたのが、冒頭で挙げたような最近続発している事件なのではないだろうか。

これではこの社会はさきゆきほんとうに危うい。少子高齢化ということが問題視されているが、そういう社会の、ただでさえ今後数少なくなる担い手であり主役である若者たちが、根本的に生きる意味感覚に迷い、人と関係を築く元気を喪失し、この社会をよりよく建設していこうというビジョンを剥奪されているのだから。

しかし希望があると思うのは、そういう生きる意味感覚の根拠となる言葉とは、怪しい宗教的信仰だとか硬直的なイデオロギーといったようなもの、つまりぼくらがちょっと見聞きしただけでアレルギー反応を起こしてしまうようなものとはまったく別に、得ることができる時代にすでにあるということだ。

それは現代科学からする新しい人間観、世界観、宇宙観であり、それらをセットとしたものの見方の枠組みである“コスモロジー”にほかならない。そういう意味では、ぼくらが学校で教わってきたような19世紀型の世界観からはるかに遠い地点に、現代科学は来てしまっているようなのだ。

突き詰めれば「意味もクソもない」となってしまうような、学校でアクビをもって聴き流していた、しかし聴く気はなくとも耳に入ってきたモノトーンの知識の集積は、現代科学の枠組みで見直すとじつに新しい色と活気と物語を帯びてくる。

たとえば、宇宙はほぼ正確に137億年前、時間と空間のない無の状態から始まった、宇宙には進化というまぎれもない一貫した方向性がある、人間はその宇宙そのものとして(宇宙でない部分など論理的に言っても存在するはずがない)進化の最先端の驚くべき“成果”である…と、そんなことが、徹頭徹尾クールかつリアルに思考する最先端の科学者が大まじめに語っているのだという。

さきにもこのブログで紹介し、これから自分が心の弱腰を矯正するための第一のテキストとしようと思っている、『生きる自信の心理学――コスモス・セラピー入門』(岡野守也著、PHP新書)の後半部分、「生きる自信が湧いてくる宇宙観」にまさにそのことが書いてあって、これはぜひ自分でも徹底的に腹におさめ、親しい人にも伝えていきたいと思わされた。

単に個人的な落ち込みにケリをつけて自信を得たいくらいの動機しかなかった当初の自分には、なんで心理療法の本で宇宙の話が出てくるのか正直実感できなかったのだが、読むたびにこれは世の中すごいことになりつつあるのだと思わされるのだ。

おそらく、いまの子供たちが決定的に剥奪され、大人が伝えることに決定的に失敗している、自他を“かけがえのない命”と思うことのできる現代における根拠が、まさにこれなのではないかと感じるのである。

かつて、たとえば日本人であれば神・仏・天・自然への畏敬とその神話が与えてくれたであろう人生の根拠・意味感覚、それらをはるかに凌駕するスケールと妥当性をもって、現代科学が再発見しつつあるといっていいのではないかと思う。

そういうわけで、個人的な自身に加えて、ぜひこの本にあるような世界観的自信というのを身につけたいものである。思うに、ひどく退屈だけどすごくクールでそれこそ“真理”に聞こえた、「すべて正しいものなど存在しない」といった価値相対主義に、ぼくらはほぼ生来どっぷりつかって育ってきたのだ。そんなぼくらの世代は、個人意識を支えるベースとなる自然観、世界観、人間観の部分が決定的に「腰砕け」で「弱腰」になっているのではないかと思う。

だから、リッチに世界中を旅行できるようになりながら、溢れんばかりのモノに満たされながら、居ながらにして瞬時に世界中の情報にアクセスできながら、個人的な好き嫌い・幸福不幸を行ったり来たりして、ぼくらの世代はつねに満たされないものをかかえてしまってきたのではないだろうか?

それはほんとうに欲しいと思うものが与えられていないという欠乏感、見た目ばかりが派手で味も栄養も乏しい砂を噛むような代替品をあてがわれてきた不満感だったような気がする。

それはそうと、そうした現代科学の新しいコスモロジー、宇宙の大きな物語について、さきのテキストの著者、岡野守也氏が現在進行形で個人ブログで健闘されているので、心の弱腰を矯正せんとするすべての人(ま、これを読んでくれている人ということ!)は、そちらを見てみてほしい。

とはいえ、リンクの貼り方がまだわからないので、検索ワード「岡野守也の公開授業」にて。

先に述べたような社会病理をモロに反映しているような、あの“人気ブログ”のメンタルヘルス部門の面子のなかで、それこそ暗闇の星のようにかっこよく輝いていると思った。

自分にとって心の弱腰矯正は、当面論理療法と何よりこのコスモス・セラピー、あと坐禅と、ちょっとカッコつけてケン・ウィルバーの統合思想、ということで行きたいと思う。

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