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リーダーの倫理性の喪失ということ――日大アメフト問題、モリ・カケ問題に寄せて

2018-06-03 | Weblog
 日大アメフト部の問題が学校組織や経営の問題にまで波及して、こういう話題が好きな身にはテレビ報道が目が離せない。「他人の不幸は…」ということでよくない趣味だが、いずれ報道なるもののほとんどがそういう視聴者の趣向にあわせて成されているのも、まあ間違いないだろう。

 報道ではこれと森友・加計問題が同じ構図(知らん顔をする腹黒いトップ、その忖度・釈明に汲々とするサブリーダー、そして最大のわりを食う下っ端)が注目されている。確かにそのとおりだと思う。

 その原因はいろいろいわれており、その中で意外に見落されていると思うのが、日本文化ひいては日本語環境の特殊性であろう(これまもちろん欧米との関係での特殊性にすぎない)。
 日本語は分別の構造的に特に「上」を志向して忖度を強制される文法的な特徴(敬語体系、「省略」の文法)があるのは、後ほど『徳川時代の宗教』書評で論じていきたいと思う。書評からかなり離れる話題だが、日本の精神を論じる以上避けるわけにはいかない。言語的特徴は心の特徴を「強制」しているのである。

 外国の知人がいないし行ったこともないので報道からの判断に過ぎないが、不祥事が起きるとまずおじさんたちが「謝罪」し「頭を下げる」というのは、日本と(そしてたぶん韓国)にしか見られないと思うのだが、いかがだろうか。

 先日フェイスブックの個人情報漏洩問題でザッカーバーグCEOが米国議会で「謝罪」(これもよく使われているがおかしな日本語だ。「罪」を「謝る」というのだが、別に犯罪を犯したわけではないのだ)していたが、例の「頭を下げる儀式」など一切なく淡々としたものだった。日本ならば大炎上ものに違いない。

 それはともかく、これらの問題で共通しているのはリーダーの「言葉の軽さ」である。細かくは省くが、常識と異なり、言葉は単なる表現ではなく、人間は言葉で思考し行動している。

 そこからすれば、つまり彼らは自らの言葉すら信じていないのである。もちろん無自覚にであろうが。
 当然ながら倫理性などというものは彼らの中にはリアリティを持たない。「言葉は嘘」だからである。

 そして、その背後にあって作動している自覚されざる世界観=コスモロジーは「意味もクソもない」(by宮台真司、今となっては懐かしい)という近代科学主義コスモロジーである。
 それによる心の異常作動が、特にリーダー層に顕著になっていると言うことなのだと思う。

 結局「力」が全て、あとは何とでもなる、というのが、残念ながらトップはわが国首相から、小は某大学理事長までのホンネだろう。倫理観の低下もここまで行き着いたというわけである。

 こうした問題はさらに深刻化していき、やがてこの国は「国のかたち」を失い、溶解・崩壊することが予感されてしまう。
 私たちは人ごとではなく、ぜひ具体的に「言葉の力」を取り戻し、まっとうなコスモロジーを取り戻す必要がある。

 そしてその材料はすでに前世紀までの科学によって与えられている。
 再三となるが、ぜひサングラハ教育・心理研究所による現代科学的コスモロジーを参照いただきたいと思う。

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