〈私〉はどこにいるか?

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怒りは「原初の自然な感情」か

2017-11-29 | Weblog
 よく「怒りは根源的で自然な感情だ」「人間を突き動かすのは怒りなどの衝動だ」と言われるのを聞く。

 ごく当たり前に子どもの頃から聞いていて、たしか親や学校の先生からすら聞いていたような気がする。
 自然「怒りというのは人間にとってごく自然なものなのだ」「怒りは適度に発散するのが精神衛生上よいのだ」「怒りを抑えるのは不自然で危険だ」などと考えてきて気にも留めていなかった。そうして人間は競争に勝つことができるのだ、と。

 これまで書いてきているサングラハ教育・心理研究所での心理学・唯識学の講座では、怒りが実は仏教のいう「無明」「根本煩悩」なのだと頭では学んできて、なるほどその通りだと思ってはきたのだが、実感としてはどこかで「怒りというのはごく自然なものなんじゃないか」と感じて(=考えて)いたような気がする。

 しかし、現在3か月になる赤ん坊を育てていて見ていると、まだ「怒り」という感情はないことに気付く。生まれた当初は快・不快だけ。
 そして最初に、1か月くらいして単なる虫笑いではなくてニコッと笑うのが始まった。まったく濁りのない純粋な笑いそのものという感じで、大変かわいい。

 そしてずいぶん笑うようになったけれど、怒りはまだ見られない。
 これは発達心理学などでは当たり前なのかもし知れないが、個人的には新鮮な発見で、「笑いは、人間にとって怒りよりずっと根源的な感情なのだ!」と実感的に気づかされた。

 考えてみれば、動物も瞬間的に怒るようには見えるものの、それが一定時間持続するのは人間だけだ。
 これまで複数飼ってきた猫も犬も、「怒り」というよりも、「目の前の対象に向けられた興奮状態」という感じだった。しかし笑いはないものの、親しみの感情はどちらも共通していたことを思い出す。
 
 原初的であることが自然であるとすれば、怒りというのは決して自然な感情ではなく、不快感情が言葉の分別で強く歪められた、ある種「後付けの感情」なのではないか。なるほど、怒りとは実際「無明」であり「三毒」なのだろう。

 「人間的な怒り」は、果たしてどこのあたりから生じるのか。実際に言葉が始まるころからか。もっと前か、または後なのだろうか。
 子どもにはぜひ自然な感情が伸びていってほしいと思う。

 怒りをどのように考えるか、その考え方自体、人間観自体が感情に影響するというのが、人間のあり方なのだと思う。そうして、怒りの感情は増幅して世の中に満ちている。
 いわば観察的事実として、ひたすら泣いて笑うだけの赤ちゃんが教えてくれるシンプルだが見失われている真実――人間は怒りに突き動かされるような存在ではなく、まず笑うために存在しているのだ。


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