〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

偽善系、などて恐るることやある

2006-07-01 | Weblog
ちょっと変な話になりますが、
どうも人の「偽善」というやつが目につきます。
けっこう気になります。

もちろんあからさまに口に出すと
社会的にやばいしおっかないですから、表現はしませんが、
しかし心の中ではけっこう裁いています。それもかなりやってます。

で、裁くからには、自分なりの、
「何が“善”か」
とかいう基準があるわけです。いわば自分の“法律”ですね。

そして、人がそれに反していて、
しかしいい人であるかのような気になっているのを見ると、
「ダメなやつだ」「ただの偽善じゃん」と裁くわけです。

しかし、そこには、反面に「それに対しておれは正しい」
というような、自分をいい人だと思いたいという本音が付着しています。
人をダメだと貶めて、自分を正しいと確認したいという願望。

まあいずれ現状は平均人・凡夫なのだから、
自分に対してもそういう態度はとりあえず許容していいわけですが、
(そうしないと到るところに地雷があって何も出来なくなってしまう)
しかしいずれ偽善であることには変わりありません。

こういう、偽善を裁く偽善ということがあるような気がしてなりません。

そういうふうに「よい自分」「悪い他人」というふうに分けること自体、
そして較べて自己正当化すること自体、
本質的な意味での善ということから遠ざかってしまう態度だということは
これまでご紹介してきたとおりずっと学んできたことです。
しかし心の動きがどうしてもそうなってしまっています。

人のそういう面がよく見える(ように思う)のに、
自分の思いを規定しているのが何かということになかなか気づきにくいのは、
たとえば地球からはほかの銀河の構造がとても精密によく観察できるのに、
自分たちのいる銀河がどういう形をしているのか、実は内部からは
なかなかわからないというのに、少し似ているように思います。

かように自分のことは、いくら内省してみても、
ほかの人からズバリと指摘されるまで気づかなかったりします。

さて、そういうふうに、どういうのが偽善なのか、とかと考えると、
結局はどこまでも堂々巡りの無限後退のような混乱に陥ってしまいそうです。
もちろん、そういう答えの出ない議論をすることが善ではないのは明らかです。

まずは何が善なのかというさきの基準をはっきりさせること、
そしてそれが独善になっていないか、より正しいことは何かと問える柔軟性、
さらにオープンさが、たいせつなのだと思います。

そういう意味で、現代科学のコスモロジーから
何が善なのかという方向性を語れる時代にいる僕らは、
かなりアドバンテージがあるように思います。

その上で、“何が善なのか”について人との齟齬を見出したのなら、
「アイツはダメだ」などと裁くような非生産的態度ではなく、
そのおたがいの基準はすりあわせられるか、
さらにこちらが正しいと信じていることを共有することができるか、
それを試みることだと思います。

そして善とは頭の中で考えているだけの観念ではなく、
そういう観念の実現を目指して行動することです。
しかも実効性のある、“役立ち”の行動を。

たとえ偽善的に思えたとしても、
自分の心がそうなっていたとしても、
そういう行動ならば、なにもしないよりははるかにマシです。

そうして、ちょっとでも本質的な善に近づいて行くのだと思います。
というか、そうなれたらいいと思います。



5 コメント

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本質的な善 (HIRO)
2006-07-01 07:28:10
本質的な善に少しでも近づいていきたいですね。



まずは、本質的な“禅”からでしょうか(笑)



自分も「偽善」という言葉・感覚に敏感な時があります。



でも、“やらないより、(たとて偽善でも)やったほうがまし”ですよね。



偽善的に、環境問題に取り組んでいきましょうね!
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Unknown (まなべ)
2006-07-01 15:15:57
私も前は「偽善」にはすごぉ~くナーバスでしたね・・・。



私はクリスチャンですが、教会嫌いだし、宗教なんてなくなっちまえっ派(?)なのですが、それはそこにはびこる偽善的空気みたいなものがとにかくイヤだったんです・・・。



「ほんとにそれでいいと思ってんの?」

とか

「祈れば済む話なわけ?」

とか・・・



それらの言葉を私自身に向けた時に、「いいとは思っていないけど・・・」とか、「済むとは思っていないけど・・・」とか、ちゃんとした答えは何も持っていないのにね。

傲慢極まりない話です・・・(懺悔)



今思えば、「善」なるものとは何なのか、の明快な答えを得られない苛立ちが、人を裁くという方向へ向かっていたような気がします。

勝手極まりない話です・・・(再懺悔)



でも、HIROさんもコメントされているように、偽善でも「善」は「善」なんですよね。

だから、ぐんそーの言うように、裁いているヒマがあったら、己が思う善に向けて四の五の言わずに己を動かせ、という事かなと、私も今は思っています。



もちろん、一人よがりにならない冷静さは不可欠ですけど・・・。



明快な答えなんて今も解らないし、死ぬまで解らないかもしれないけれど、冷静な自問を忘れず、軌道修正をしながら進めばいいのかなと思っています。
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あ、 (まなべ)
2006-07-02 06:54:35
ちなみに



>宗教なんてなくなっちまえっ派



と言うのは、いわゆるニヒリズム的な意味ではないです、念の為・・・。^^;



「宗教」という枠組みに囚われる事で、本質を見失う原因になるのなら、何のための宗教ぞと思う、という意味です。



「宗教」とは、真理への道筋であって、真理そのものではないと思う、という意味です。

登り易い道筋は人それぞれだと思うので、どれか一つの道筋しか認めない、というのは、真理そのものではないと思う・・・という意味で「なくなっちまえっ派」、です。
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Unknown (Sho)
2006-07-02 22:00:15
そうそう、まさにこれです!

「偽善を裁く偽善」

ずばっとココロの内を言い当てられた気分です。

私もどうしても、こういうことを考えてしまいます。



でもみなさんのおっしゃる通り、たとえ偽善でも「善」は「善」ですもんね。

迷わずいけよ、いけば分かるさー・・・みたいな!?(笑)頑張りましょう!
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Unknown (type1974)
2006-07-03 23:19:20
>HIRO先生



お忙しいようですね。天職とはいえ、おつかれさまです。

坐禅、やっておられるようですね。



たしかに、ある意味「どこまで行っても偽善」という

逃れがたい枠を超えるためには、結局坐禅等の瞑想で超えるしかないのかなと

思われてなりません。



そしてあとは行動ですね!

悪・偽善・善という(言葉の定義次第ですが)のはたぶん無限のグラデーション。

目標があってこそ、たゆたうことなく進む気になれる気がします。





>まなべさん



こんばんは。クリスチャンでいらっしゃったのですね。

なるほど、教会のなかにおられても、なかなか心中複雑なものが

どうしても湧いてきてしまうというのが、

なんだかよくわかるような気がしました。

あと、とてもするどい批判精神がおありなのだと思いました。



確かに信じる信じないはまったくの自由なわけですが、

それにしてもわからないのは、信者といわれる人たちが、

(たぶん)疑問を持つことなくそういう教団の教えを

信じてしまうことができていることです。



もちろん、本質的に言葉で生きている人間として、

世界観やコスモロジーといった信念体系が

健やかに生きていくうえでほとんど不可欠ということはわかります。

しかしそういう教義とか神話とかを、現代のぼくらが

根拠抜きに受け入れることは、もはやできないような気がします。



だから、こういうとそれこそごう慢かもしれませんが、

もはや根拠も意味も見いだせない物語・枠組みに囚われ、

だからこそがっちりとしがみつき、

自分のところこそは唯一究極だと絶対化し

そしてそれを押し付けるためになされる、

いわゆる宗教団体の行動(としてイメージされるもの)は、

言い方は悪いですが、

自分にもどうしても「偽善」に思えます。

そしてこれは、宗教団体にコミットしていない現代人の

共通感覚となっていると思います。



しかし一方で、おっしゃるように、そう批判するぼくらは、

立場はどうあれようするに「そんなの意味もクソもないじゃん」と

思いながら、そういっている自分の足元を見ることを

怠っていたように思います。

つまり、善悪の基準を見失っていたのですね。

他人の「偽善」を斜めに構えて斬りながら、

しかしそういう自分は何がよいことかわからず、

そしてけっきょく何も行動しないという

また別の「偽善」をやっていたように思います。



ああっと、脱線しました。

たしかに明快ばっちり究極の(それこそ神話が用意してくれたような)答えは

死ぬまでわからないかもしれません。

自分も、普通にやっていたらそこで終わってしまいそうな気がしています。

しかし何が正しいかという大まかな方向性は

確実に、根拠をもってあることを学んできました。



たしかに山はそこにある、ということですね。

タイプによって(血液型とか?)道筋はいろいろ、とのこと、

気合い入れてがんばりましょう!

(できれば楽なハイキングコースがいいのだけど…)



>Shoさん

どうもご無沙汰しております。

いや~、おたがい、裁いてしまいますね。

でも「お、それに気づけただけでも、おれってすごいじゃん」

とかいって、はげましてやることにしてます。(もしかしてただの自己愛?)



僕らが乗っている心という馬は、

鞭をくれてしかりつけたり、

「今日はメシ抜き!」とやったりするよりも、

なでてすかしてニンジンでつってやったほうが、

どうもよく働くようで…現金なものです。



そうそう、行けばわかる、ということで、

がんばりましょう!

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