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書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 1

2018-04-24 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
(サングラハ教育・心理研究所会報『サングラハ』から、ブログ筆者による書評記事を転載します。)

 本書は、前近代日本の宗教が生み出し、日本の近代化の主たる推進力となった精神的核心を究明する、現代を代表する宗教社会学者による著作である。これは単なる日本論という枠にとどまらない、人類史的視点による近代化論の記念碑的業績といって過言ではない。当の研究対象となっているわが国でこれまで一般に顧みられることのなかった本書は、それが描き出した精神的伝統を捨て去りこれまで顧みてこなかった不肖の末裔たる私たちにとって、今こそ読まれ評価されるべき真の名著である。

著者について

 著者であるロバート・N・ベラー(Robert Neelly Bellah)は一九二七年に生まれ、二〇一三年七月に物故した「20世紀後半のアメリカを代表する宗教社会学者」であり(『現代社会学事典』弘文堂、二〇一二年)、後年の仕事である『心の習慣』(一九八五年)や『善い社会』(二〇〇〇年)において「現代の米国社会が抱える極端な個人主義化の問題を指摘し」「その処方箋として…善き伝統のモーレス(習慣化された規範・規律)」を提示した(『社会学事典』丸善、二〇一〇年)、現在の米国の状況を予見し、代案を究明した学者だったようである。本誌読者には、K・ウィルバーがかつてベラーの仕事を詳細に評していたことを記憶されているかもしれない。改めて見れば、それは本書にも通じる評ともなっている。
本書『徳川時代の宗教』(原題"Tokugawa Religion: The Cultural Roots of Modern Japan")は今を去る六十余年前、一九五五年提出の学位論文を発展させ、五七年に米国で刊行された、著者の若き時代の著作である。一読して印象的なのは、現代の学問の世界ではまず見られないであろう、書き手の実存的な問いから発する、価値の問題を全面に打ち出した論述が展開されていることである。そこには単なる学問の枠を超えた問題意識を読み取ることができ、晩年まで「よき社会」を追求したという著者の出発点が、徳川時代の精神を研究したこの本にあったことをうかがわせる。


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