ついに借りてしまいました。軍歌のBESTのCD。
といっても図書館で借りたからタダ。残念ながら先述の「出陣学徒を送る歌」「抜刀隊」は入っていなかったが、文句は言えません。
あ、自分、右翼じゃないですよ、ないつもり。
思うに、街宣車でガンガンやったりしている右翼っていうのは、ほんとうには祖国を愛していない、というか日本人であることに健全なアイデンティティを持つことができていないのではないかと思います。
だからこそ、虚勢を張って威嚇しているのだと思います。
それはあたかも自分を好きになれない、好きになる理由を見つけられない少年が、「俺は俺だ! 文句あるか!!」と居直っているのにどこか似ています。
でも悲しいかな、その理由が言えないと。
それはそうと軍歌、こうして曲としてしっかり聴くのはまったくはじめてなのですが、そういう感情的なねじれから離れた(つもりの)ところで聴くと、どうもそういう、一般にイメージされている好戦的で独善的な“ヤバい”感じとはかなりちがうようです。
よくはわからないのですが、印象では戦後の流行歌の流れにつながるものなのではないかという感じがします。
ちょっと違うかもしれませんが、みなさんご存知の「巨人の星」の主題歌、あれはまんま、これら軍歌のノリですね。
思えばあのアニメで(今からするとかなり笑えるエピソードとしてしか知らないけれども。ちゃぶ台のオヤジとか)描かれていた“ド根性”とは、たしかに戦前-戦中の価値観そのまんまです。
戦場が球場に変わっただけで、ノリは「血の汗流せ、涙を拭くな」ですから…。
だから、「ジャイアンツ」じゃなく、「巨人軍」でなければならなかったのでは。
そんなふうに、戦後のいわゆる「奇跡の経済成長」を遂げたぼくらの祖父母~両親の世代は、アタマの表面は自由と民主主義だよな、とか思っていながら、深い情念のところは戦前-戦中の国民的エートス(そしてそれは表現はどうあれ日本の歴史がずっと培ってきたはずのもの)のままで燃えていたからこそ、それを達成しえたのかもしれません。
そういう深層心理的-集合無意識的な部分(唯識でいうアーラヤ識・マナ識。ブックマーク「岡野守也の公開授業」、当該記事参照)というのは、ぼくらがなかなか自覚しがたいくらい、変えようと思っても変わらないようです。
戦争で負けたことの深い部分の精神的なダメージは、現にぼくらが国民的意識の崩壊として経験しているように、世代的にはかなり遅れて現れるもののように思われます。
それはできたらおいおい書いていきたいと思いますが、ともあれ紹介文を見る限り、これら「軍歌」の大部分は映画主題歌等、民間の商業ベースで作られ、民衆の間で流行ってよく歌われたもののようです。
たとえば“ベストヒット”十数本の内、はっきりと「官製」と言えるのは意外に少なく三曲だけ。
その一曲は有名な「海ゆかば」。美しい曲ですが、歌詞は大伴家持(!)だそうです。
(奈良時代の有名な武人・政治家で万葉集の撰者ではないかといわれているとのこと。なるほど…知りませんでした。)
で、残りはみんな流行歌として一般の人々に親しまれた曲のようです。
母に聞くと(戦前・昭和14年の生まれ)、当時の大人たちが歌っていたのを、忘れていたけど思い出したとのこと。祖父も浪曲と並んでそういう「軍歌」が好きだったようです。
「軍歌」とは当時の流行歌だったのですね。
歌というのはその時代の時代精神をある意味いちばんよく反映したものなのではないかと思います。
たとえば今はやりの曲も、やはり今の時代の感情が現れているのではないでしょうか。それらは陽気・元気な反面、内向きでどこかささくれ立っていて痛々しいような印象があります。
軍歌とは真逆ですね。善し悪しの問題ではなく。
流行歌とは、言い方を変えれば、当時を生きた人びとの思いの底流とはどんな調子のものだったかを、いわば共感的に知るよい史料なのではないかと思います(現行の文献至上・批判専門の歴史学は決して認めないでしょうが)。
そういう意味で、こういう一見ヤバそげなものにはまってみるのも、日本人としてのアイデンティティのこじれ・病気の部分をなんとかする、いい機会なのではないかと、書いていて思えてきました。
ま、半分言い訳ですね…
リンクタグ:お読みいただきありがとうございました
ご協力お願いします →人気blogランキングへ
といっても図書館で借りたからタダ。残念ながら先述の「出陣学徒を送る歌」「抜刀隊」は入っていなかったが、文句は言えません。
あ、自分、右翼じゃないですよ、ないつもり。
思うに、街宣車でガンガンやったりしている右翼っていうのは、ほんとうには祖国を愛していない、というか日本人であることに健全なアイデンティティを持つことができていないのではないかと思います。
だからこそ、虚勢を張って威嚇しているのだと思います。
それはあたかも自分を好きになれない、好きになる理由を見つけられない少年が、「俺は俺だ! 文句あるか!!」と居直っているのにどこか似ています。
でも悲しいかな、その理由が言えないと。
それはそうと軍歌、こうして曲としてしっかり聴くのはまったくはじめてなのですが、そういう感情的なねじれから離れた(つもりの)ところで聴くと、どうもそういう、一般にイメージされている好戦的で独善的な“ヤバい”感じとはかなりちがうようです。
よくはわからないのですが、印象では戦後の流行歌の流れにつながるものなのではないかという感じがします。
ちょっと違うかもしれませんが、みなさんご存知の「巨人の星」の主題歌、あれはまんま、これら軍歌のノリですね。
思えばあのアニメで(今からするとかなり笑えるエピソードとしてしか知らないけれども。ちゃぶ台のオヤジとか)描かれていた“ド根性”とは、たしかに戦前-戦中の価値観そのまんまです。
戦場が球場に変わっただけで、ノリは「血の汗流せ、涙を拭くな」ですから…。
だから、「ジャイアンツ」じゃなく、「巨人軍」でなければならなかったのでは。
そんなふうに、戦後のいわゆる「奇跡の経済成長」を遂げたぼくらの祖父母~両親の世代は、アタマの表面は自由と民主主義だよな、とか思っていながら、深い情念のところは戦前-戦中の国民的エートス(そしてそれは表現はどうあれ日本の歴史がずっと培ってきたはずのもの)のままで燃えていたからこそ、それを達成しえたのかもしれません。
そういう深層心理的-集合無意識的な部分(唯識でいうアーラヤ識・マナ識。ブックマーク「岡野守也の公開授業」、当該記事参照)というのは、ぼくらがなかなか自覚しがたいくらい、変えようと思っても変わらないようです。
戦争で負けたことの深い部分の精神的なダメージは、現にぼくらが国民的意識の崩壊として経験しているように、世代的にはかなり遅れて現れるもののように思われます。
それはできたらおいおい書いていきたいと思いますが、ともあれ紹介文を見る限り、これら「軍歌」の大部分は映画主題歌等、民間の商業ベースで作られ、民衆の間で流行ってよく歌われたもののようです。
たとえば“ベストヒット”十数本の内、はっきりと「官製」と言えるのは意外に少なく三曲だけ。
その一曲は有名な「海ゆかば」。美しい曲ですが、歌詞は大伴家持(!)だそうです。
(奈良時代の有名な武人・政治家で万葉集の撰者ではないかといわれているとのこと。なるほど…知りませんでした。)
で、残りはみんな流行歌として一般の人々に親しまれた曲のようです。
母に聞くと(戦前・昭和14年の生まれ)、当時の大人たちが歌っていたのを、忘れていたけど思い出したとのこと。祖父も浪曲と並んでそういう「軍歌」が好きだったようです。
「軍歌」とは当時の流行歌だったのですね。
歌というのはその時代の時代精神をある意味いちばんよく反映したものなのではないかと思います。
たとえば今はやりの曲も、やはり今の時代の感情が現れているのではないでしょうか。それらは陽気・元気な反面、内向きでどこかささくれ立っていて痛々しいような印象があります。
軍歌とは真逆ですね。善し悪しの問題ではなく。
流行歌とは、言い方を変えれば、当時を生きた人びとの思いの底流とはどんな調子のものだったかを、いわば共感的に知るよい史料なのではないかと思います(現行の文献至上・批判専門の歴史学は決して認めないでしょうが)。
そういう意味で、こういう一見ヤバそげなものにはまってみるのも、日本人としてのアイデンティティのこじれ・病気の部分をなんとかする、いい機会なのではないかと、書いていて思えてきました。
ま、半分言い訳ですね…
リンクタグ:お読みいただきありがとうございました
ご協力お願いします →人気blogランキングへ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます