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書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー) 13

2018-09-10 | 書評『徳川時代の宗教』(R・N・ベラー)
「政治的合理化」の経路による近代化

 この結果、普遍主義―遂行のパターンの「経済価値」が最優先される「経済的合理化」の経路によって近代化を成し遂げた、典型的には著者の母国・米国のような社会に対し(「経済価値」も同様に抽象化された、一般的な「経済」の意味を超えた概念であり重要だが、ここでは省く)、日本では徳川時代にはすでにそれとは別の価値領域である政治価値が支配的となっていた。日本における近代化は、そのように欧米で一般的だった経済原理主導の「経済的合理化」とは別の、政治権力の普遍化による「政治的合理化」という経路を辿ったとされている。

 タルコット・パーソンズは、最近、経済的合理化の過程に全く対比しうるような政治的合理化のそれが存することを指摘している。それで政治価値に対して高度の関心をもつ社会は、権力がしだいに普遍化し、相対的に伝統的な規範から解放されて、ただ合理的な規範によってのみ支配されるような状況を生みだすことになる。(四〇頁)

 本書では以下にそれが例証されていくのだが、事前に大まかに見ておくと、日本では、「忠誠と献身」の中心的な政治価値が各階級を通じて浸透・普遍化し、徳川時代までに国民倫理と化すという、いわば「特殊主義的関係の普遍化」ともいうべき状況において、それが欧米における普遍主義と機能的には同等の、経済・社会を合理化する力として働き、近代化の条件を整えていったということである。そして、その方向性を確立し強化したものこそ、本書が取り出している徳川時代の宗教倫理にほかならないとされている。
 つまり、集団目標を最重視する集合体―個人の特殊主義的関係が、徳川時代の強固な政治システムのもと、幕府や藩という枠にまで拡大し、さらに宗教による中心価値体系の強化と時代とともに昂揚する宗教的ナショナリズムによって、日本人の特殊主義的な忠誠心は、日本という「国体」にまで普遍化・昇華して、明治維新とその後の近代化に価値的に直結していった、とするのである。
 このように、徳川時代から連続する日本社会の近代化過程とは、「政治的合理化」のタイプの典型であった。

 私の意見では日本は、この政治的合理化の過程の特異な、またいきいきとした例証を示しており、このことを理解してはじめて、日本における特異な経済の発展が理解できると考えるのである。(四一頁)

 重要なことは、日本の歴史に一貫し、とりわけ徳川時代に顕著に昂揚して国民倫理と化するまでに至ったという、この政治価値に方向づけられた特殊主義―遂行の強力なパターンとは、単に支配体制の構造維持と強化を目的とするものにとどまらず、より高次の集合体の目標のために国民の自発的な忠誠心を動員し、旧態化した社会システムの構造自体をも破却し再創造していくという、動的な能力を持ったものだと本書が見ていることである。


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