論理療法の論駁のポイントの第二、「現実と一致しているか」について。
これは心の半分無自覚なところで巡っている理に合わない思い込みが、いろんな意味で現実と一致しているかを徹底的に追及する、反論の大きなポイントだと思う。
「そんなこと分かり切ってるじゃん」という気にもなろうというところだが、しかしそれは「言われてみればそうだ」というアタマの先のレベルの受動的な記憶にすぎず、現にそういう自動思考が巡って制御できないようになってしまうのを見れば、じつは本当にはわかっていない、つまり能動的記憶にまで深まっておらずハラにおさまっていないことが確認できる。
日常、いかに大部分の時間を、これまでの惰性のそんな自動化された思考で費やしていることだろう。
そういう非合理な思考は、子供の頃の現実検討の能力が未熟な時代に、大人の言うことなどを鵜呑みにしたりして取り入れてしまったものが、世を渡っていく上でのいわば心の自己防衛の型となって深く定着し、よく自覚されることのないまま今日までガンコにしがみついているものであるようだ。
それはひじょうにへたくそな自己防衛ということになるだろう。いずれ自己防衛なら、少しでもマシな、トクな、現実的なものにしていきたいものだ。
で、それを自覚したからといって魔法のようによくなるものではない、ひたすら持続的な内的実践による克服あるのみだと、論理療法は教えている。
そんな思い込みに振り回されて、落ち込みだとか怒りだとかに、与えられた貴重な人生の時間を使ってしまうのはあまりにも惜しい。
そういうわけで、無自覚にやってきたそんな思い込みに現実性がどれだけあるのか、しつこいくらい検討していきたいと思う。
論理療法では、一回のセッションで取り組む非合理的なビリーフ(信念)は一つに限るのだとのこと。あれもこれもと漫然とやるのではなく戦略的に重点を形成するというのは、いかにもアグレッシブなこの心理療法らしい。
自分にとって人生をうまくいかなくさせていると思われるビリーフがいくつかの方面であるのがなんとなくわかるが、とりあえず現状なんとかしたいのが、さきに取り上げた「急がなければならない!」だ。
バスがトラブったりするなど急な事態で電話が入ったりするとあわててしまい、ちょっとアタマがパニックになってしまうという感じで、これでは責任もって仕事をやっていく上でいろんなところで支障が出てきてしまうだろう。ぜひもうちょっと現実的に対処できるようになりたいのだ。
さて、「急がなければならない!さもないと大変なことになる!!」というのはどのくらい現実に即しているだろうか?
まず自分の期待は現実の問題に有効に対処できるようになりたいということなわけだが、では「急がなければならない!」というのはそういう意味で現実的だろうか?
いや、心理的に急がなければならない(しかもその度合いが設定されていないため「常に・最高に」になってしまいがち)と自分を焦らせることは現実的ではない。そんなふうに急ごうと心が焦ることで事態がよくなったためしがあっただろうか?
行動についてはともかく、心を急がせて焦らせることは、単に現実的な対応の幅を狭めるだけで、実は現実性がなかったのではないだろうか?
しかも、あたらしい配置についてひと月弱ほど、現状の自分の対応能力はとても限られているといわざるをえない。で、そんな状況で「急がねばならない」などというのは、責任を持って行動するに当たってどれほどの現実性があるだろう? 考えるヒマもないほど急ぐことが。急ぐと新しい知恵でも浮かんでくるのだろうか?
たしかに急いで対処できればそれに越したことはないが、仮にそうできなかったとして、それは君の無能力の証明になったりするのだろうか。それはごく一部の事柄を過度に一般化した見方ではないだろうか? すると、どうして「急がねばならない!」などということになるのだろう?
また環境的にも、急がねばならないことが求められているだろうか? だいたいまわりにもっと適切に対処できる先輩がいるんだから、いろいろガミガミいわれるけど当面彼らに適切な指示を求めればいいのではないか? それが今できる適切な対応じゃないだろうか? だいたい、周囲の誰が「急げ!」なんて言っただろう?
現実にはいったい何が求められているのか?
周囲の人を見てみよう。そんなふうに「急がなければならない!」なんていうふうに自分を焦らせているだろうか? とくに、適切に対処できる人ほど、そういう焦りとは無縁に、現実に取り組んでいるようにみえるのではないだろうか? また、それができないような人も、それで生存権が剥奪されているだろうか?
それから、物事の対処は急がなければならない、などという社会の掟がどこかにあっただろうか? そんな法律でもあるのか? たしかに急いで対処できないことで、場合によっては人に迷惑をかけることもあるかもしれないが、だからといって「急がなければならない」などという信念の根拠にはならない。それは有効性がほとんどないのだから。社会はどこまでも、自分になるべくすみやかに適切に対処するよう求めているだけではないか?
最後に、急がなければならない! などという宇宙法則でもあるのだろうか? そんな宇宙の声があるとして、一体だれが聞いたのだろうか? コスモスは急ぐことのできる人間にもできない人間にもその中間のだれにも、そんなことにかかわらず命を与えてくれているのではないだろうか? どっちのほうが宇宙の現実だろうか? 結局どんな人間にも死だけは厳密に平等にやってくるわけだが、そんな人生で一分一秒を急ごうとアクセクして、かえって大切な時間をただ通過してしまうことが、この世においてどれほどトクなのだろうか?
…と、あとの「さもないとたいへんなことになる!」をわすれていた!それはまた次回。急ぐ必要は、ないということで。
こうして時間をかけることのできる場面では上記のように考えることができるけれども、イザ急な事態、となったときにこれがどこまで自分の思考になりきっているか、それが課題なのだと思う。
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これは心の半分無自覚なところで巡っている理に合わない思い込みが、いろんな意味で現実と一致しているかを徹底的に追及する、反論の大きなポイントだと思う。
「そんなこと分かり切ってるじゃん」という気にもなろうというところだが、しかしそれは「言われてみればそうだ」というアタマの先のレベルの受動的な記憶にすぎず、現にそういう自動思考が巡って制御できないようになってしまうのを見れば、じつは本当にはわかっていない、つまり能動的記憶にまで深まっておらずハラにおさまっていないことが確認できる。
日常、いかに大部分の時間を、これまでの惰性のそんな自動化された思考で費やしていることだろう。
そういう非合理な思考は、子供の頃の現実検討の能力が未熟な時代に、大人の言うことなどを鵜呑みにしたりして取り入れてしまったものが、世を渡っていく上でのいわば心の自己防衛の型となって深く定着し、よく自覚されることのないまま今日までガンコにしがみついているものであるようだ。
それはひじょうにへたくそな自己防衛ということになるだろう。いずれ自己防衛なら、少しでもマシな、トクな、現実的なものにしていきたいものだ。
で、それを自覚したからといって魔法のようによくなるものではない、ひたすら持続的な内的実践による克服あるのみだと、論理療法は教えている。
そんな思い込みに振り回されて、落ち込みだとか怒りだとかに、与えられた貴重な人生の時間を使ってしまうのはあまりにも惜しい。
そういうわけで、無自覚にやってきたそんな思い込みに現実性がどれだけあるのか、しつこいくらい検討していきたいと思う。
論理療法では、一回のセッションで取り組む非合理的なビリーフ(信念)は一つに限るのだとのこと。あれもこれもと漫然とやるのではなく戦略的に重点を形成するというのは、いかにもアグレッシブなこの心理療法らしい。
自分にとって人生をうまくいかなくさせていると思われるビリーフがいくつかの方面であるのがなんとなくわかるが、とりあえず現状なんとかしたいのが、さきに取り上げた「急がなければならない!」だ。
バスがトラブったりするなど急な事態で電話が入ったりするとあわててしまい、ちょっとアタマがパニックになってしまうという感じで、これでは責任もって仕事をやっていく上でいろんなところで支障が出てきてしまうだろう。ぜひもうちょっと現実的に対処できるようになりたいのだ。
さて、「急がなければならない!さもないと大変なことになる!!」というのはどのくらい現実に即しているだろうか?
まず自分の期待は現実の問題に有効に対処できるようになりたいということなわけだが、では「急がなければならない!」というのはそういう意味で現実的だろうか?
いや、心理的に急がなければならない(しかもその度合いが設定されていないため「常に・最高に」になってしまいがち)と自分を焦らせることは現実的ではない。そんなふうに急ごうと心が焦ることで事態がよくなったためしがあっただろうか?
行動についてはともかく、心を急がせて焦らせることは、単に現実的な対応の幅を狭めるだけで、実は現実性がなかったのではないだろうか?
しかも、あたらしい配置についてひと月弱ほど、現状の自分の対応能力はとても限られているといわざるをえない。で、そんな状況で「急がねばならない」などというのは、責任を持って行動するに当たってどれほどの現実性があるだろう? 考えるヒマもないほど急ぐことが。急ぐと新しい知恵でも浮かんでくるのだろうか?
たしかに急いで対処できればそれに越したことはないが、仮にそうできなかったとして、それは君の無能力の証明になったりするのだろうか。それはごく一部の事柄を過度に一般化した見方ではないだろうか? すると、どうして「急がねばならない!」などということになるのだろう?
また環境的にも、急がねばならないことが求められているだろうか? だいたいまわりにもっと適切に対処できる先輩がいるんだから、いろいろガミガミいわれるけど当面彼らに適切な指示を求めればいいのではないか? それが今できる適切な対応じゃないだろうか? だいたい、周囲の誰が「急げ!」なんて言っただろう?
現実にはいったい何が求められているのか?
周囲の人を見てみよう。そんなふうに「急がなければならない!」なんていうふうに自分を焦らせているだろうか? とくに、適切に対処できる人ほど、そういう焦りとは無縁に、現実に取り組んでいるようにみえるのではないだろうか? また、それができないような人も、それで生存権が剥奪されているだろうか?
それから、物事の対処は急がなければならない、などという社会の掟がどこかにあっただろうか? そんな法律でもあるのか? たしかに急いで対処できないことで、場合によっては人に迷惑をかけることもあるかもしれないが、だからといって「急がなければならない」などという信念の根拠にはならない。それは有効性がほとんどないのだから。社会はどこまでも、自分になるべくすみやかに適切に対処するよう求めているだけではないか?
最後に、急がなければならない! などという宇宙法則でもあるのだろうか? そんな宇宙の声があるとして、一体だれが聞いたのだろうか? コスモスは急ぐことのできる人間にもできない人間にもその中間のだれにも、そんなことにかかわらず命を与えてくれているのではないだろうか? どっちのほうが宇宙の現実だろうか? 結局どんな人間にも死だけは厳密に平等にやってくるわけだが、そんな人生で一分一秒を急ごうとアクセクして、かえって大切な時間をただ通過してしまうことが、この世においてどれほどトクなのだろうか?
…と、あとの「さもないとたいへんなことになる!」をわすれていた!それはまた次回。急ぐ必要は、ないということで。
こうして時間をかけることのできる場面では上記のように考えることができるけれども、イザ急な事態、となったときにこれがどこまで自分の思考になりきっているか、それが課題なのだと思う。
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お疲れさま。第二段階もオーケーです。
「急がなければならない。さもないと大変なことになる」というのは柔軟性のない考え方ですね。
柔軟でポジティヴでラショナルな考え方は、「なるべく急いだほうがいい。そうしないと失敗が多くなるから」、さらに「適切な対処を、適切な時間内でやれるといい。そうすれば、事はうまくいく」といったところでしょうか。
問題に直面した時に、「おっ、来た。さて、このケースではどうしたら適切に対処できるだろう?」とセルフ・トークが自動的にできるよう反復練習してみてください。
大丈夫! きみならできる!