〈私〉はどこにいるか?

私たちは宇宙にいる――それこそがほんとうの「リアル」のはずである。この世界には意味も秩序も希望もあるのだ。

書評『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄 著)

2016-02-11 | 書評(その他)
以下、『サングラハ』第145号(2016年1月25日発行)から転載します。
書きましたように、とても深くすばらしい本だと思いますので、認知症について関心のある方はもちろんのこと、むしろ今後を生きる若い人にこそ手にとってほしいものだと思いました。


【書評『呆けたカントに「理性」はあるか』(大井玄 著)】


本書は、看取りの臨床を実践されている著者の、認知症高齢者への慈しみに満ちた深い思索の書です。象徴的な書名になっていますが、むしろ本書の眼目は、近代的な理性の限界が端的に現れているのが認知症を巡る問題であることを見出し、その限界を超える新しくより妥当な人間観・生命観を提示しているところにあると思われます。
認知症とは、超高齢化社会の重要課題であり、また私たちの多くがやがて行く道として人生の大問題でもあります。言ってしまえば、本書の「認知症高齢者の意思は尊重されるべきか」という問いに対し、私たちのほとんどは自明のこととして「否」と答えざるを得ないのが現実ではないでしょうか。しかし、本書はその「自明の現実」なるものに、根本的な人間観の欠陥ないし不足が伏在していることを、冷静な科学的裏付けに基づき説得力をもって指摘します。
本書が全体を通じたテーマとして論じているのが、著者が行った意向調査における、大多数の認知症高齢者の胃ろう造設に対する拒否の意思表示についてです。そもそも寝たきり老人への医学的効果が確認されていないにもかかわらず、専ら医療従事者の構造的不足という日本的事情により、胃ろう造設が患者本人の意向を無視して行われる現実があり、そこには認知症高齢者に意思能力なしとする暗黙の前提があるのですが、しかし上述の調査における認知症高齢者の胃ろうの拒絶はほぼ一様で明快であり、かつ認知症のない「正常」群との同じ傾向が見出されていて、そこに生に関わる強い意思的判断が存することを伺わせます。
本書はそれを、デカルト―カント的な言語的理性に対して、適応と生存の能力であるヒューム的な生物的理性の働きとして基礎づけます。つまり、財産管理や契約行為などを遂行する言語的能力に基づく理性を失っても、より深いところで自分の生存にとって適切か否かを判断する情動的・生命的な理性は働いている、と。そして、本書は豊富な生物の観察や脳科学の知見などによって、それが単なる遺伝的な本能ではなく、唯識のマナ識・アーラヤ識の世界に相当するような、環境適応に即した無意識的かつ主体的な判断能力であることを明示します。まさに私たちにおいて、今現在そうした無意識的理性が働いていることを生き生きと垣間見せてくれるもので、認知症高齢者の意思表示に深い意味での正当性があることを実感的に把握できます。
にもかかわらず、私たちの社会はこのような深層の理性の存在をほぼ完全に無視するかたちで営まれており、ここに根源的な矛盾を生じているわけです。有り体に言えば「呆けたらおしまい」というこのような深い思い込みの背後にあるのは、人を動物から峻別し特権化する西洋の基底的なコスモロジーと、その極限として言語的な思考を絶対化しある種実体視するデカルト―カント的な理性であるとし、本書では比喩的に、生命三十八億年に一貫する「樹木の幹」すなわち生命的な深層の理性に対し、そうした言語による分別的な理性をその「ひとつの枝」のさらに先端にすぎないと表現しています。しかし理性絶対主義のもと病的に異常発達した枝は、今では生命の樹全体の倒壊をもたらすほどになってしまっている。大は戦争から地球気候の激変に至るまで、人類の未曾有の危機の根本に、近代的な理性の暴走すなわち際限なき言葉による分別の問題があるという指摘に、深く納得せざるを得ません。
最も重要と思われるのは、そうした言語的な理性自体が、身体―情動に支えられているばかりでなく、情動のコントロールなくして存在し得ず、さらにその根源は無意識的・情動的なものであるという本書の指摘する事実です。言語的理性は、確かに人間において初めて出現した進化の最先端の成果であり、生命史三十八億年の一瞬の光芒のごとく文明社会を実現していますが、それも現在に至る無数の進化の累積がなければ存在しません。いわば海上に現れた氷山は、海面下の見えざる大部分に支えられて初めて頂点でありうるというのに似ています。「頂点」として健全であるために、私たちは内面と外面にわたるこの断絶からぜひとも回復する必要があるということだと思われます。
言語的な(狭義の)理性を絶対化して、それを失った認知症高齢者にも現に働いている生命的な(広義の)理性を無視し、大変な不幸や社会的負担を惹き起こしている「延命治療」の問題とは、現代的矛盾の一つの焦点と言えます。本書の示すように、認知症高齢者の姿はまさに私たち自身の生存の危機への気づきを促すメッセージにほかならないと思えてきます。巻末に記された近代の大哲学者カントの、「純粋痴呆」に至り着いた最晩年の静かな姿は、このことを体現したかのように象徴的で深く印象に残ります。本書が示唆する「大往生」こそが、単に生を生きるのみならず、必然的に生を死ぬべく条件付けられた生命存在としての私たちの、根源的な願いであるのは間違いありません。
著者にとっての「ささやかな遺書」とされている本書は、コンパクトな新書であり、一般向けに平易に書かれていながら、その意味するところはこのように深く、認知症を巡る私たちの常識を覆すばかりか、私たち自身の生命観・人生観をも転回させ、大きな安心をもたらすものだと感じられます。認知症高齢者の関係者ばかりでなく、多くの若い世代にもぜひ手に取っていただきたいと思います。
(『呆けたカントに「理性」はあるか』大井玄著、新潮社、二〇一五年)

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